神と怪獣としての世界 10
*
家に着くと部屋には誰も居なくて、ストーブだけはついていた。
押入れが四分の一くらい開いている。
中は薄暗く、よく見えない。泉さんの気配は感じなかった。けれど、ストーブもついているし、居ない感じはしない。
何となく冷える。部屋に冷気が流れ込んでいる。
押入れからのように感じた。
「泉さん?」
返事はない。僕はもう一度呼び、しばらく待ったあと、押入れに近付いてみた。
中は布団が折り畳まれていて、ほかに物はない。
奥のベニヤ板が四角に刳り抜かれ、穴ができていた。
大きな穴だ。四十センチ四方はある。僕は穴をあけた覚えはない。穴の向こうは暗く、がたがたと音がする。
僕は失礼して、押入れの中に入り、窮屈な穴をくぐった。ベニヤ板だけじゃなく、隣の部屋との仕切り壁まで、きれいに刳り抜かれていた。
泉さんはいつのまに、こんな連絡通路を作ってたんだろう。
隣の部屋は暗かった。
大きい木製テーブルの下に出た。
前も言ったように、この部屋は家全体の余り物が詰め込まれた物置となっている。
もちろんこの部屋も泉さんの探し物の対象とされた。一度は物があらかた廊下に出されていた。今は元通りの雑然としたガラクタ置き場となっている。泉さんにとって、片付ける行為は、物の配置を完全に元の位置に戻すことを意味しているらしい。
おかげで、部屋は暗かったが、全体の構造線は何となく想起できた。
テーブルをくぐり抜けると、部屋の中央に細長いスペースが作られていた。
入り口寄りには壊れかけの木製椅子が置かれ、泉さんが座っていた。
泉さんはゴーグルを嵌め、映画らしきものを見ている。
椅子の傍にプロジェクターが置かれ、部屋の奥に吊るされたスクリーンに、映像が投影されている。家の中に即席の映画館を自作したような格好だ。
その時、僕は理由は分からないけど、無性に胸騒ぎを覚えた。
「『……うるさかった?』」
泉さんは僕に気付いて、プロジェクターの再生を停止した。映像は消え、ホワイトスクリーンに変わった。
うるさくはない。泉さんは音量を絞って鑑賞していた。たぶん外で流れてるPPMよりも静かだったほどだ。
「『当部屋を暖める目的上、もう一つ造るのが最適だった。正面のドアを閉めたまま暖気を誘導できる。不都合ならば陳謝し修繕する』」
意味が分かるのに時間が掛かった。ドア以外に連絡通路を造ったことを言っているらしい。僕は別に不都合はないし、怒りもなかった。押入れ自体、ふだんは物置みたいなものだ。押入れとガラクタ部屋をつなぐ穴があったからといって、気に障ることもない。
「ストーブの暖気を引くためだけに穴を造ったの? 大変だったろ」
「『鑢がけ込みで一時間でできた。けっこう楽しかった』」
今日の泉さんは、コンセプトを感じさせる服装だった。
ユニホームとスカート、という組み合わせだ。
「H」という文字が立体刺繍されたえび茶色の野球帽をかぶり、淡いクリーム色を基調にしたユニホームを着ていた。ユニホームの胸には「H」を崩した大きなマークが入っている。野球は詳しくないけど、いまの日本では、こんなユニホームのチームはない。全体に鋭角的で鮮やかめな意匠は、二〇一〇年代的と言おうか、とてもレトロな感じがした。小柄の泉さんには、帽子もユニフォームもひどくブカブカだ。
「見たことないけど、どこのチーム?」
「『マガタ・ハイランズ。二〇二〇年代半ばまで存在した職業野球チーム』」
へぇ。麻形市に住んでいながら、初めて知った。
「そういう年代物の服って高そうだね」
「『古着屋で十五円。チーム黎明期のオルタネイトユニホーム』」
意外と安いんだな。古すぎるとかで店の人が価値を見落とした可能性を感じる。胸と背中の番号は11。名前の刺繍は無かった。
泉さんのファッションは、一言でいうと、良く分からなかった。
もちろん、流行の服を着回すわけじゃないし、何系という括りにも入らない。とらえどころがなかった。
いや、とらえかねる感じ、だろうか?
一貫性がないのが一貫性、なんていう安直な説明もできるけど、もっと積極的な、こだわりのようなものも見え隠れするような。
「ところで、何してたの?」
「『ホームシアターごっこ』」
泉さんは立ち上がり、指差して説明する。
「『VHSという古い映像ソフト。それ用の再生装置。映像を投影するプロジェクター。吊下型100インチスクリーン。一式、この部屋にあった』」
「へえ」
泉さんが家で探し物以外をしてるのを初めて見た。
同時に、懐かしさが込み上げた。
僕は昔、この部屋で、同じ設備で、映画を見たものだ。
設備は父さんが揃えた。映画館の臨場感を出すため、とか言って。そう、ちょうど今みたいに、部屋を暗くして。
その頃はまだ、部屋は父さんが使っていて、今みたいに雑然としていなかった。
父さんとよく見た映画があった。それは、怪獣映画だった。
――怪獣映画?
すらすらと記憶を呼び起こし、なにげなく出た言葉に、僕は動悸を覚えた。
……怪獣?
なぜ、怪獣なんだろう。偶然だろうか。
……偶然?
……何の?
父さんが骨董店で買って来たVHSが、偶然、怪獣映画だった。
だから僕は怪獣映画を見た。繰り返し、何回も見た。父さんが居ない時、一人で見ることもあった。
いや、その偶然じゃない。
明神町に怪獣が出現したこと。
この部屋に怪獣映画があったこと。
それが変な偶然だと感じた。
変な偶然というか……嫌な違和感があった。夢から覚めたと思うと、別の夢に接続されるふうな感覚だった。
それも、あまり良くない夢へと。
「泉さん、今日は、探し物はしないの?」
「『言ったはず。さがしものは一周目は終わったと』」
そう言われた記憶はある。だからX山に行ったんだ。
「えと、父さんは……?」
「『睡眠薬を飲んで寝ている』」
僕は、気が散っていた。
でも、集中しようともしていなかった。
まるで、見たくない景色が先にあることを知っているみたいに。もちろん、僕は知らない。けれど、吐き気のような胸騒ぎがしている。なぜだろうか。
ふと、泉さんは映画の続きを再生させた。冷たい灰色の光がプロジェクターから広がり、スクリーンに映像を映し出した。
「『一緒に見る? ならば椅子を空ける』」
「あ、いや、僕はここでいい」
パッ。怪獣が画面に登場した。
黒色の怪獣が咆哮を上げるカットが仰角で撮られていた。
ゆっくりと歩く、怪獣。
進路上に存在する人工物は、徹底して壊された。工場、タワー、原子力発電所、何も怪獣の歩みを妨げるものはなかった。そして怪獣は、市街地に到着する。腕を軽くあおぐだけで、ビルは簡単に崩壊した。ガレキとなって崩れ、煙を上げ、積もった。夜の闇に怪獣が破壊を尽くし、蹂躙する。市街への配備を終えた「自衛隊」が、怪獣を迎撃する。銃火器、戦車、独自兵器による派手な戦闘が始まる。
この映画は着ぐるみとセットを使って、CGではなく実写で撮っているのだ。
市街地のセットを破壊するのには簡単な起爆装置を使っている。破壊されたビルの残骸は石膏でできている。
映画の役者たちは当時よりも更に古臭く感じた。髪形もファッションも、いかにも時代がかっている。宇宙人や未来人という最初から妙な格好をしている人物は、当時と印象が変わらなかった。
僕は、子供の時とは違い、そういう細部まで観察しながら、改めて映像を見ていた。映画全体の造り物っぽさを、昔よりも強く感じた。けれどその分、至る所が良く造られてるな、という点にも気付いた。
前時代の遺物とは思えない、怪獣の造形の完成度。怪獣の巨大感を演出する技巧的カメラワーク。恐怖感を漂わせる殺伐としたセット。役者が設定をさりげなく解説する、無駄のないセリフ回し。怪獣に立ち向かう「自衛隊」の命令系統や兵器のリアリティ。全体を盛り立てる濃密な劇伴。どれも、職人芸と言って良かった。今改めて見ても、単純な懐かしさだけには収まらないものを感じる。良質な娯楽作品としても充分鑑賞できる、と思った。スクリーンを見ながら、自分の顔面の筋肉が緩むのを感じていた。
泉さんは無表情で映画を見続けていた。『名言集』は片手に持ってるけれど、それから目を離させるくらいの映画ではあるみたいだ。僕は何となく、嬉しい。
ふと、現実の思考に返る。
明神町の怪獣も、映画の怪獣のような外見だろうか? それとも、全然別の姿だろうか? 映画よりも、大きいだろうか、小さいだろうか?
最初に感じた胸騒ぎは、なんだったのだろう?
気のせいだったのかな……?
泉さんが音もなく移動し、机の上から、何かを持って来る。
「『これを発見した』」
そう言って僕に一冊のノートを渡した。
僕はその、古びたノートを手に取った。
見覚えはない物だった。
けれど、ページを開けた時、記憶が戻って来た。
このノートは、僕が昔、自分で使った物だ。
ノートに横書きでずらっと書き込まれた鉛筆の字は、まちがいなく僕の筆跡だった。それを見た瞬間、当時の思い出が、むくむくと頭をもたげた。
これは、僕が書いた「怪獣物語」だった。
××年×月×日、大地震が起こり、たくさんの鳥や魚が海岸に打ち上げられた。陸地の建物はたくさん壊れ、人々は逃げまどった。しかし、それはこれから起こる脅威の前触れだったのだ。三日後の×月×日。日本の南の海上に怪獣が出現した。人々は驚いた。首相かんていは、自衛攻げき軍に、げいげき命令を出した。しかし、怪獣を攻撃しに行った海上自衛攻げき軍の部隊は行方不明になった。怪獣は時速20ノットのペースで北に向かっていた。このままでは、三日後に、東京湾に到着するであろう。ひそかに怪獣を研究していた、科学者の「工藤翔馬」は、「日本が襲われることは何年も前から俺は分かっていた。だから用意をしろと政府に言っていたのに、あの石頭どもは俺の独自の怪獣研究を誰も理解しなかった。」と言った。彼は科学者だった。昔、内閣かんぼうの、極秘研究所で研究していた。
こんなふうに、物語は怪獣の出現からいきなり始まる。舞台はVHSの怪獣映画の世界とはパラレルワールドで、初めて出現する怪獣を日本が迎え撃つという設定だった。……と思う。どういう展開で、どういう結末だったか、欠片も憶えていない。
ぱらっ。ぱらっ。僕は歪んだノートのページをめくっていく。
これを書いた頃は小学校4年か5年あたりだった。怪獣映画を熱心に見ていた時期だ。夢中になるうち、僕はVHSの怪獣映画の新しい脚本を書くことを思い立った。
子供だから、もちろん、映画化される素晴らしいストーリーがすぐに書けると思った。母さんが家計簿に使う予定だった新品のノートを一冊もらって書き始めた。当時は「大学ノート」なんていう言葉も知らなかった。まっしろの「じゆうちょう」ではなく、薄い罫線が入ったノートを使うと、いいストーリーが書ける予感がした。――かさついたノートの感触や、自分の字の羅列から、思い出が訴え掛ける。まるで、分離された脳が元の位置に収まるように、当時のエピソードが色々と湧き出した。
今見ると、最初のページの半分だけを読んでも、矛盾点だけを継ぎ接ぎして作ったような物語だと思った。
物心もついてない頃だったし、事実、僕は物語を書いたことも、ノートの存在さえも、記憶から消えてたほどだ。泉さんに読まれて恥ずかしくなるような物でもなかった。むしろ、タイムカプセルみたいに、過去のちょっとした記念品が出て来て微笑むような気持ちだった。
「これかあ。懐かしいな。どこにあったの?」
「『映像設備と同じケースの中』」
同じ「怪獣」関係で父さんが保管してたんだろうか。当時の僕が仕舞った確率もある。
物語は、ノートを糸で閉じているページの直前まで書かれていた。一冊の半分近くを埋めたことになる。今の僕は、原稿用紙一枚の作文を書くのもめんどうなくらいだ。小学生にしては大した努力だなと思った。
そういえば、寝床でノートを開き、読書灯をつけ、夜明けまで書き続けたこともあった。当時は家族で川の字に寝ていて、その日は僕がいちばん最後まで起きてた。
熱中してたんだろうな。
当時の僕は、ノートに文字を書くだけの事が、映画を作ることと同等にも感じてたんだと思う。
ところで、字の汚さは当時から完成されていたようだ。僕は苦笑し、読みづらいノートから目を離した。
泉さんはゴーグルを鎖骨の付近に落とし、僕をじっと見ていた。
「『読ませてもらった』」
「あ、読まれたんだ」
忘れていたとは言え、自分が書いた物だ。つまり、このノートの文には、たしかに昔の僕の一部が入っていて、それを知られたことはちょっと気恥ずかしかった。
でも、外見的にも内容的にも粗雑な物語を、よく読めたなと感嘆する。
「『物語として成立しているとは言えない。しかし、初期衝動はある』」
泉さんは感想を述べた。
いや、まじめに論評されると、すごく恥ずかしかった。
「『続きは?』」
泉さんはくるりと体を向け、訊く。
続き……? 言われて、ノートを見る。たしかに、物語は途中で切れているように見えた。
たぶんそこに、深い意味はない。いい展開が思い付かず、悩んで鉛筆を止めたわけではない。
僕は昔から、悩んだことはない。
たぶん、飽きてしまったのだ。急に熱が冷めたか、別の何かに興味が移ったりして、ぱったりと書くのをやめたんだと思う。それからはノートのことを忘れてしまい、物置の肥やしになっていた。
僕は何かが長続きしたことは殆ど無かった。すぐに飽きてしまうらしい。
熱中してたはずなのに、突然飽きて、やらなくなる。最初から無かったもののような扱いになってしまう。いつもそうだった。自分のことながら不思議だった。けれど、不思議だったことも飽きて忘れてしまうから、深く考えもしなかった。このノートも、そんな断片の一個だった。昔の僕は、色々なことをやっては飽きた。サッカーもそうだし、塾もそうだった。
夏休みの宿題だけは、すごく得意だった。あれは色々な種類が出されるから、飽きたら別のを次々に回していけばよかった。反対に冬休みの書道は嫌いだった。同じ文字を何度も書かなきゃならないからだ。
でも、今の僕は、ふつうの生活を恙なく送っている。
昔の飽きっぽさは、だから、改善したんだと思う。子供の頃は誰だって未熟なものだ。
「続きなんて、思い付かないよ……。どんな話を書いたか、自分でも忘れちゃったしな」
僕は、笑って答えた。正直なところ、話を覚えていたとしても、続きが書ける気はしなかった。考えるのがめんどうだし、創造的なアイディアが出る予感なんて全く無い。小学校の自分には書けても、今の僕には無理だと思う。
泉さんの細い指が、つい、とノートをつまんだ。
「『ロマンに寛容なのがわたしの弱点。タイトルしか発表されていないニューアルバム。一軍で一球も投げていない「大器」の投手。まだ無い続きが存在する物語』」
『名言集』を片手に、泉さんは呟く。一度で理解できない言い回しが、名言らしく思わせる。ただ、二、三度と聞いても理解できる気はしなかったけれど。「まだ無い続き」というのは、「存在」しているとは言わないんじゃないか?
泉さんはノートを僕から引き上げて、片手で器用に最後のページを見る。伏し目がちな角度。首に下がっているゴーグル。その容貌。……泥に埋もれたガラス片のように、何かが、記憶の底で光った。
ノートを見てる泉さんを見てる僕は、思い出す。
ある、光景。
*
嵌め殺しの窮屈な窓に囲われた、狭い教室。
今にもヒビ割れそうな蛍光灯が、じじじじ、と天井で光っていた。
そこは塾の教室だった。
外は夕暮れだった。窓からオレンジ色の光が差し込み、僕は物悲しい気分を感じた。暗くなるのは嫌いだった。僕にしてはめずらしく、夕方まで塾に残っていたらしい。
教室には女の子一人だけ、座っていた。十五個ぐらい椅子があったけれど、残っているのは、僕とその子だけだった。僕はその子の机の前に立っていて、何かを熱心に喋っていた。メガネをかけている小柄な女の子は、どこかおずおずとして、視線をさまよわせて、僕を見ていた。
この子はいつも引っ込み思案で、緊張が周りに伝わるような子だった。だから、目立たないはずなのに、塾に来てる日はすぐに分かった。
僕はその子とは接点がなかった。いつも僕は塾に来たらすぐに帰っていたし、逆にその子は塾に来ることがレアだった。同じ時間帯に塾に居ても、その子の縮こまった固い雰囲気が僕には合わないものに感じた。その子とは、話す理由すらも、感じたこともない。
でもその日は、たまたま喋った。怪獣物語を書くのに熱中していた時期だった。ちょうど夜明けまでノートに取り組んだ日だったような気がする。僕はいつもと違う気分だった。たくさんの人に怪獣物語を教えたかった。自分の熱中を誰かに言いたくてたまらなかった。
だから、教室に残っていたその子に、怪獣の話をした。
最初はおどおどして何も喋ってくれなかった。でも、僕が一方的に喋り続けるうち、その子は少しずつ反応を返してくれた。
「僕は怪獣映画が好きなんだよ」
「そうですか」
「怪獣映画見たことある?」
「ありません。初めて聞きました」
「怪獣はいいよ。なんでも壊すのがきもちいいんだ」
「そうですね。わたしも、そんな力があったらなあって、思います。わたしは、弱いから」
「そんなことないよ。弱くないよ。強くなれる。怪獣みたいなすごい力を身に付けられるよ」
僕は、無邪気なのか脳天気なのか、そんなことを言って励ましたりしている。
その子は僕を見て、茫然とした顔を、しばらく続けていた。呆れていたのかもしれない。
でも、僕はそんなことは気にしない。自分の手提げかばんを取って来て、ノートを取り出した。続きが思いついたらすぐに書けるよう、肌身離さず持ち歩いていたんだ。
「これ、読んでみて?」
僕はその子に、怪獣物語を差し出した。
*
その場面を思い出したのは一瞬だったがとても鮮やかだった。
だけど、イメージが再生されたのは、ジェットコースターが急降下するような一瞬の出来事だった。はたと気付いた時は、跡形も無く消えた。
そこには、泉さんが居た。静かにノートを閉じた。
まさか。
泉さんが身に着けてるゴーグル。それがふいに、あの少女のメガネに重なった。根拠はない。けれど僕は、泉さんから目が離せなかった。記憶は、あてにできない。時間が経ってるし、むかしの正確なイメージである保証もない。目の前の実像とは比較できない。……それなのに、僕はどうして、目を離せないでいる?
泉さんは机に歩いて行き、ノートを上に寝かせた。そのときやっと、僕が見ていることに気付き、
「『……なに?』」
訊ねる。
しかし、訊き返したのは、僕のほうだった。
「塾に、居た?」
もし塾に居なかったら、意味不明の質問だったろう。
しかし、泉さんには、その一言で充分のようだった。
どこか頷くようにも見える仕草で、机に片手を預けて、答えた。
「『自発的に想起されるのを待っていた。外部からの喚起には記憶障害を引き起こす危険が伴う。健常な想起を阻害するおそれがあった』」
どういうこと? 泉さんが何を言ってるのか分からない。僕は動揺している。
泉さんは僕の目をまっすぐに見て言った。
「『思い出した? 「塾」の記憶』」
す、と『名言集』を口元に持っていった。泉さんの目は、いつもどおりに静かだった。でもその内側は、いつもよりもつややかに光っているような気がする。
確かなことがある。泉さんは塾生だった。そして、僕を知っていた。僕が塾のエピソードを思い出すのを待っていた。
自分から言わなかったのは、『健常な想起を阻害するおそれがあった』から。つまり、正しく自分のことを思い出してもらうため。
そして僕は、やっと思い出した。
ほとんどもう、疑いは無い気がした。
僕が怪獣物語を見せた相手は、泉さんだ。
「『わたしはあの塾の卒塾者。すなわち、神』」
泉さんは身分を打ち明けた。
僕がやめた塾を、この子はきちんと卒業した。
神になって、戻って来た。
「『あなたに言っておく。わたしの、能力は――』」
「ま、まって。ストップ。言わないで。ごめん」
僕は両手を差し出し、口を開いた泉さんを、思い留まらせた。瞬時にそうしてた。
塾に一時期だけ居た僕でも、神がどんなふうなものか、何となく知っている。いや、海馬に残っている記憶が加速的に引き出されている。昔のエピソードを思い出した副作用なのか。うろ覚えだけれど、塾頭がしていた説明が、脳内で再生される。
「神の能力が具現化する形態は、そのとき生徒の心を占めているモチーフに強く影響される」
……だから、もしかして。
いや間違いない。
あの時、僕が見せた怪獣物語のモチーフが、泉さんに影響したんだ。
当時は、お互い、子供どうしだ。何が影響するか分からない。むしろ、子供だからこそ、与えられたものを素直に受け入れてしまうことだってある。僕は胸に痛みを覚えた。それは、鈍いのに鮮烈な痛みだった。昔の痛みを、今味わう、二倍の苦しさだった。
決まっているじゃないか。
泉さんの能力は、怪獣を操る能力。それしかない。
だけど、僕は聞きたくない。泉さんの口からされる告白を、聞きたくなかった。羽前さんがやって来て、泉さんは殺される。そうじゃなくても、羽前さんのほうが死ぬ。神同士の戦闘は避けられない。
……でも。
どうしてだろう?
どうして泉さんは、僕のところに来たのだろう? そして滞在することにしたのだろう? 僕が塾のエピソードを思い出すのを待っていたんだろう? 振り返ってみると、その意図が分からなかった。
いや、しかしすぐに、僕は予測できてしまった。
復讐という、意図。
泉さんは僕のせいで、怪獣なんていう、奇怪で巨大で醜悪な能力を持ってしまった。その張本人に、昔の行為を思い出させ、噛み締めさせるつもりかもしれなかった。殺したいだけなら、家に来る必要は無い。怪獣に襲わせれば、僕は簡単に死ぬ。最初に家に落ちてきた車が怪獣のせいかは知らないけど、あれが部屋に落ちていたら、僕はここには居ない。
「僕は、殺されるの?」
まいったな。いつか死ぬのは分かってる。人間だからね。けれど、今、殺されて死ぬのは、ちょっと頭になかった。少しでいいから、時間がほしかった。考える時間。死ぬ前に何を考えたらいいかを、考えたいと思う。
「『……殺す?』」
「だって、僕を恨んでる、だろ? 僕のせいで、泉さんの能力は、……。だから、思い出させて、反省させてから、殺すつもりなんだろ?」
「『いや、それは違います』」
泉さんは片手をぱたぱたと往復させる。え? 違う?
「……じゃあ、なんできみは、うちに来たの? 恨んでるわけじゃ、ないの?」
「『ひとつずつ、答える。まずここに来た理由は、さがしものがあるから』」
泉さんは、最初から変わっていない動機を述べる。
「探し物って……。僕が塾のことを思い出すこと、とかじゃなかったの?」
「『ちがう。塾の記憶といった抽象的なものではない。ちゃんと具体的なもの。しかし、怪獣映画のビデオではないし、あなたが怪獣の話を書いたノートでもない。まだ見付かっていない』」
とすると、塾のエピソードや、怪獣の能力のことは、探し物とは直接は関係ないらしい。別の話っていうことだ。
泉さんの意図は、あくまで、まだ見付かっていないという探し物にある。僕は焦って短絡的な勘違いをしたらしい。
「『つぎに、あなたを恨んでいるかという一つ目の質問に答える。これは二つ目の質問にも同時に答えることになる』」
泉さんは近付いて来て、僕を見上げた。
塾でのメガネをかけた女の子と、今の泉さんとが重なって見えるような、何とも不思議な感覚。
「『あなたが好きなの』」
僕は驚いて、
直後に怪獣がスクリーンで吼えてまた驚いた。




