第四章 ドールの想い出
二月最初の土曜日。
空には、三日月が浮かんでいたが、街灯で明るく照らされている商店街を行き交う人々も、まだ、大勢いた。
ドールのドアに付けられたベルが鳴り、客が来たことを知らせた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
カウンターの奥で立ち上がったマスターは、少し意外そうな顔をした。
「あれっ、レナちゃん。どうしたのかな?」
「客で来たのに、どうしたのかなって」
レナは、いつものシニカルな笑みを浮かべながら、カウンター席の一番奥に座った。
「誰もいないんだ。マスター、お店、大丈夫なの?」
客はレナ以外誰もいない店内に流れる軽快なフォービートが、かえって寂しい雰囲気を醸し出していた。
「ははははは、まあ、今に始まったことじゃないからね。紅茶で良いかな?」
「うん」
レナは、コーヒーより紅茶が好きで、当然、マスターもそのことを知っていた。
レナは、カウンターに頬杖を付いて、手際よく紅茶を淹れるマスターの動きをじっと見つめた。
薬罐を火に掛けると同時に、ティーポットとティーカップに魔法瓶からお湯を入れて、ほどよく暖まった頃合いに、そのお湯を捨て、紅茶缶から茶葉をティーポットに入れた。
程なく沸騰した薬罐のお湯を、ゆっくりとティーポットに注ぐと、上品な紅茶の香りが店内に広がった。
レナは、この香りが好きだった。
間もなく、レナの前に、レモンスライスが添えられたソーサーに乗せられて、紅茶が出てきた。
「ありがとう、マスター。うちで紅茶を淹れても、こんなに良い香りはしないのよね。やっぱり、プロは違うわね」
「はははは、お褒めいただいて恐悦至極だね」
「ふふふふ」
レナは、カップを両手で持って、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。
「うん、美味しい」
「……レナちゃん。話は何かな?」
「……そうだね。ちょっと、聞いてもらおうかな?」
「そのつもりで来たんでしょ?」
「うん」
丁度、BGMがピアノバラードに変わった。
「今日ね、マコトとデートして来た」
「楽しかったかい?」
「うん」
レナの表情には、楽しさが表れていなかった。
「……マスター」
「うん?」
「私ね、マコトと、恋人として、つき合い始めたの」
「そう」
「少なくとも、今日は、そう意識して、ずっと一緒にいたの。でもね、……今までと、全然変わらなかった」
「昔から二人は仲良しだったもんね」
「……マスター」
「うん?」
「マスターは、カズホとナオちゃんを最初から見てたよね?」
「そうだね」
「二人は、いつから恋人になったと思う?」
「カズホとナオちゃんは、最初から恋人同士に見えたよ」
「えっ? ナオちゃんが三つ編みだった頃から?」
「そうだよ」
「でも、ナオちゃんが金髪になる前は、お互いの気持ちは分かってなかったはずよ」
「口に出して言わなくても、二人がお互いに好き合ってるのが分かったよ。もっとも、ナオちゃんはそのことを考えないようにしてたみたいだけどね」
「……マスター」
「うん?」
「私とマコトは、恋人同士に見える?」
「残念ながら見えないね」
「やっぱり」
「マコトは、レナちゃんのことが好きなんだろうね。でも、レナちゃんの気持ちがよく分からないんだ」
「私の気持ち?」
「そうだよ。レナちゃんは、いつもベールを被って、自分の本心を見せないようにしてるでしょ?」
「えっ?」
「それは、マコトに対してだけじゃなくて、みんなに対してだけどね」
「……」
「レナちゃんは、いつも演技をしている気がするよ。自分の本心を晒すことがそんなに怖いのかな?」
「……演技をしてるって意識は無いけど?」
「無意識なのかもしれないね。でも、僕には、自分の弱い部分を見られるのが恥ずかしいから、ずっと強い自分を演じているような気がするんだよ。強いレナちゃんは、それはそれで魅力的ではあるけどね」
「……そうなのかな」
「気に障ったかい?」
「ううん、そんなことないよ。……でも、マスターって、いつもカウンターの中で、ぼーっとしてるようにしか見えないけど、本当は、みんなをじっと観察してるのね」
「ははは、いつも、ぼーっとしてるように見えるかい?」
「うん」
「まあ、ぼーっとしてるけどね」
「ふふふふふ。……でも、マスターの観察眼って鋭いよね。私なんか、全然、敵わない」
「少なくとも、レナちゃんよりは何年も大人をしてるからね」
「……そうだった。つきあいが長いから、タメで話してたけど、人生の大先輩だったね」
「はははは、僕は、若い人からタメで話し掛けられると嬉しいんだよ」
「……ねえ、マスター?」
「うん」
「このお店は、いつから、やってるの? 少なくとも、私が物心付いた頃にはあったよね?」
「どうしたの、突然?」
「マスターが大人だって分かったから、マスターの昔のことに、ちょっと興味が湧いたの」
「はははは、僕の昔のことなんて、何にも面白いことは無いよ」
「でも、聞いてみたい」
「そうかい。そうだな、……この店がオープンしてからは、二十年くらい経つかな?」
「そんなに前からやってたんだ」
「この商店街には、代々続いているようなお店がいっぱいあるからね。立花楽器店さんとか、うちとかは新参者の方だよ」
「そっか。……『ドール』という店名は、やっぱり、この人形達から?」
レナは、店内に飾られている、アンティークドール達を眺めた。
「そうだよ。みんな、可愛いだろう?」
「うん。マスターの趣味なの?」
「僕の奥さんの趣味だよ」
「そうなんだ。マスターの奥様には、まだ、お会いしたことないよね?」
「残念ながら、天国にいるから、会わせることはできないんだよ」
「えっ! ……そう。ごめんなさい」
「はははは。みんな、不思議と僕の奥さんの話はしなかったし、僕も積極的に話さなかったからね」
「奥様は、いつ?」
「この店を開く前だよ。と言うか、奥さんがいなくなってしまったから、この店を開いたんだけどね」
「そうなんだ」
「うん。僕は、ずっと、音響機器メーカーで働いていて、趣味でバンドをしたり、ジャズをずっと聴いていたんだけど、奥さんが病気でいなくなってしまうと、子供もいなかったし、がむしゃらに働くことが馬鹿らしくなってね。定年後にはやろうと思っていたジャズ喫茶を始めたんだ」
「それで、ここに?」
「そうだよ。ここにいるドール達は、奥さんのコレクションだったんだよ。この子達を見てると、いつも、奥さんが一緒にいてくれるような気になるんだ」
「そうなんだ。……悲しいけど、素敵な話ね」
「そうかい? でも、実際の経営は、さっき、レナちゃんが心配してくれたみたいに、いつも汲々としてるんだけどね」
「ふふふふ。…………マスター、ありがとう」
「うん?」
「私の話を聞いてくれて。それと、素敵な話を聞かせてくれて」
「なぜ、マコトとレナちゃんが恋人同士に見えないのかという疑問には、何も答えていない気がするけど?」
「ううん。良いの。だって、答えを見つけなきゃいけないのは、私自身なんだから。今日は、ただ、話を聞いてほしかっただけ」
「それであれば、お安いご用だよ」
「うん。…………マスター、この曲は?」
「これは、アリス・クレイトンというピアニストの『マーメイド・ドロップス』という曲だよ」
「……人魚の涙か」
「ナオちゃんの大好きな曲だね」
「ナオちゃんが?」
「カズホとナオちゃんには、忘れられない曲だと思うよ」
「そうなんだ。私にも、そんな曲ができるかな?」
「できるよ。きっと」
「うん、……こほん」
レナが可愛く咳をした。
「おや、風邪かな?」
「ううん。昨日くらいから、喉の調子が少しおかしくて。熱は出ないから、風邪じゃないと思うけど」
「レナちゃんの素敵な歌をまた聴きたいから、大事にしてね」
「うん。ありがとう。マスター」




