第四章 恋人と家族を天秤に掛ける悪戯(1)
十二月に入ったある日。
ナオの父親の会社で大きな動きがあった。
社長解任! そして、副社長が社長に就任!
取締役会で突然、社長の解任動議がされ、可決されてしまったのだ!
後任の代表取締役社長には、次男の副社長が座った。直ちに元社長派に対する粛正が始まった。
夕食が終わって、ナオが妹と一緒にリビングのソファに座りテレビを見ていると、父親が珍しく早く帰って来た。しかし、その顔には、今まで、ナオが見たことがない影が差していた。
台所で洗い物をしていた母親に向かって掛けた声は、明らかに機嫌が悪かった。
「香織! 大変だ。転勤予告をされた!」
「転勤? 福岡から帰って来て、まだ一年も経っていないのに?」
「サウジアラビアの現地子会社の専務取締役だそうだ」
「サウジアラビア!」
「ああ、肩書きだけから見れば昇進だが、実質、左遷だよ」
「そ、そんな……」
「向こうに行けば、三年は帰って来られないな。それに、福岡の時みたいに、再々、実家に帰って来ることもできないだろう」
「やっと一緒に暮らせるようになったのに……」
「香織はどうする? 今度はついて来てくれるか?」
「私は一緒に行きたいです。でも、子供達のことを考えると……」
母親は、妹の沙耶と並んで座っていたナオを見つめた。
「まあ、向こうには日本人も結構住んでいて、日本人学校もあるらしいからな。ナオと沙耶も一緒に行くか?」
考えもしていなかった事態に、ナオも思考停止状態になっていたが、父親からの問いにはすぐに答えが出た。
「私は嫌だ! せっかく友達も一杯できたのに!」
もちろん、ナオの頭の中には、カズホの顔が浮かび、そして、二年生バンドのメンバーの顔が浮かんでいた。
父親も少し残念そうな顔をしたが、帰宅するまでに覚悟はできていたのか、ナオを説得するようなことはしなかった。
「それじゃあ、今度は、本当に単身赴任かな」
ナオは、母親の顔を見た。
本当は、家族みんなで福岡に行く計画だったことを、最近、父親がぽろっと話した。しかし、ナオのために、父親と母親は別れて暮らすことを決めたのだ。また、自分のことで父親と母親が別れて暮らすことになることは心苦しかった。
「お母さんがお父さんについていってあげたい気持ちは分かるよ。だから、お母さんはお父さんと一緒に行ってあげて」
「奈緒子ちゃん」
「奈緒子はどうするんだ?」
「私はもう一人で大丈夫。いざとなったら、ショーコちゃんにも相談させてもらう」
「う~む」
「お父さん、お母さん、それに沙耶と別れて暮らすのは寂しいけど、今の学校の友達と別れることはもっと辛いの」
明るく生き生きと変身したナオが、自分を変えてくれた友達と別れることは辛いだろうと、父親も母親も当然理解していた。
「あなた、行くとしたら何時までに行くことになるんですか?」
「私が承諾すれば、年明けには辞令が出るはずだ。家族が一緒にいられるのも年内一杯になるな」
その頃。
母親から今日は大事な話があるから早く帰るように言われていたカズホは、バイトを休んで家に帰っていた。
「もう、そろそろ来るはずだよ」
カズホは、リビングダイニングのテーブルに、母親と向かい合って座っていた。
「誰だよ、その大事な話をしに来る奴って?」
「カズホのお父さんのことを話しに来るんだよ」
「えっ?」
丁度その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
母親が玄関ドアを開けると、背広姿の生真面目そうな男性が立っていた。
「夜分にどうも申し訳ありません」
「どうぞ」
母親に促されて、男性はカズホが座っているテーブルの対面に座った。
母親がお茶を淹れている間、男性は一言も話さず、また、カズホと視線を合わせようともせず、目だけを動かして部屋の中を見渡していた。
母親がお茶を男性の前に置き、カズホの隣に座ると、スイッチが入ったように男性が名刺を差し出しながら話し出した。
「弁護士の近藤良和と言います。五十嵐弘樹氏の代理人をしております」
母親が軽く頭を下げたが、五十嵐弘樹なる人物を知らなかったカズホは近藤弁護士を睨むように見続けた。そんなカズホの表情を見て、近藤弁護士は母親に話し掛けた。
「息子さんにお話は?」
「申し訳ありません。私の方からは言いづらくて……」
「そうですか」
近藤弁護士は鞄の中から分厚い書類を出すと、パラパラとめくって、家系図のような図が書かれているページを広げると、それをカズホの方に差し出した。
「あなたの父親は、五十嵐忠夫氏と言います。ご存じですよね?」
「名前だけは」
カズホは無愛想に答えた。
「この図で言うと、ここに書かれている人です。忠夫氏には、妻の晴美氏、長男の拓郎氏、二男の弘樹氏、長女の良子氏のご家族の他に……」
近藤弁護士は、一つ横に飛び出るように線が引かれている先に記載されている、カズホの母親「佐々木雅美」とその下に書かれた「佐々木一穂」という文字を指差しながら話を続けた。
「忠夫氏に認知されているあなたの、五人の相続人がいます」
大事な話かもしれないが、カズホには、まったく興味がない話だった。
「忠夫氏は、一代で、総合商社である五十嵐商事を上場企業にまで成長させた人物で、その総資産は五百億円を下らないと言われております。もっとも、その資産の大部分は五十嵐商事やその関連会社の株式ですから、経営の継続性保持のためには、それを各相続人に分散させることは得策ではありません。そこで、相続財産のほとんどは、今般、五十嵐商事の後継者となった二男の弘樹氏が取得する遺産分割をすることにして、後の相続人の方々には、その判つき料として、相応の金銭を支払うこととしました。他の相続人の方々はそれで納得をされております」
「あの~」
母親が遠慮がちに声を掛けた。
「何でしょうか?」
「拓郎さんと弘樹さんとの間でいざこざがあったと聞いていますが、……拓郎さんもその遺産分割案には納得されているのですか?」
生命保険会社に勤めている母親は、相続関係の話にはある程度の知識はあった。
「はい。今の経営陣は、独断専行が激しかった拓郎氏に、はっきりとノーを突き付けたのです。拓郎氏も今後、経営者に返り咲くことは不可能だと悟ったのでしょう。こちらの案をすんなりと飲みましたよ」
「そうですか。まあ、私達も無関係な争いごとには巻き込まれたくはないですから」
「その点はご心配には及びません」
近藤弁護士は再び、カズホの方を向いた。
「しかし、カズホさんは非嫡出子、……つまり、両親が結婚されていない子供ですから、他の子供さんとは自ずと差を付けることになることはご了承いただきたい」
「……」
「判つき料として一千万円、プラスこれからの養育料として二千万円、合計三千万円でいかがでしょうか?」
五百億円の資産を持つ被相続人の遺産分割の判つき料としては相当に低い金額で、足元を見られていると言っても良かったが、カズホはもとより、母親も金銭的な執着心は持ち合わせていなかった。
「カズホ、どうする?」
「えっ、俺が決めるのか?」
「お父さんからカズホへのプレゼントみたいなもんだよ」
「……そんなもんならいらねえよ」
「カズホ」
「俺だって色々と欲しい物はあるし、お袋に楽をさせてやりたいから、お金は欲しいって思う。……だけど、クソ親父からの金なんてビタ一文もらう気はねえ!」
「……」
黙りこくった母親を尻目に近藤弁護士が話し掛けてきた。
「こちらとしては、遺産分割協議書に判子を、カズホさんは未成年なので実際に押していただくのは雅美さんになりますが、判子を押してさえいただければ、それで良いのです」
「……カズホ。良いのかい?」
「お袋は金が欲しいのか?」
「お金なんか欲しくはないよ。そんな大金が一度に入ったら、怠け癖が付いてしまいそうだからさ。ただ……」
「ただ?」
母親は、近藤弁護士に向かって、はっきりとした口調で言った。
「あの人のお墓参りを自由にさせてほしいのです。それと……」
「それと?」
近藤弁護士が用心深く訊いた。理不尽な要求をしてくるのではないかと身構えたようだ。
「あの人が身近で使っていた物を一ついただきたいのです。私には何も残っていません。私があの人のことを想い出すことができる物を一つだけで良いのです」
「……お袋」
父親に対する、今も変わらない母親の愛情を見たカズホは、父親に対してきつく当たってきた自分の言動に、母親が密かに心を痛めていたのではないかと気づいて、胸が苦しくなった。
「分かりました。墓参の件と遺品の交付要求については、持ち帰りまして、依頼人と相談してみます。おそらく大丈夫だと思いますが、後日、正式にご返事させていただきます。そちら様もこちらの提示額についてご検討をお願いします」
近藤弁護士は、最後まで事務的な口調のまま話を終えて、帰って行った。




