第二章 動き始めた運命の歯車
薄い雲の隙間から、丸い月が青白い光を惜しみなく注いでくれているが、時折、風が電線を切る音が鳴る他には、遠くで犬の遠吠えが聞こえるくらいで、人通りのない住宅街の街灯も寂しげだった。
立花楽器店のバイトを終えたカズホは、歩いて自宅に帰っていた。
小さな路地を入った所にある、それほど新しくはないアパートの鉄製の外階段を、カンカンと音を立てながら登り、一番手前のドアの鍵を開けた。
ドアを引いて、玄関に入ると、いつも点いている灯りが点いてなかった。
生命保険会社の外交員をしているカズホの母親は、営業所でも抜群の成績を上げていて、定時で退社することは珍しかったが、それでも、カズホがバイトを終えて帰る前には、家に帰っていたから、今日、帰りが遅くなるという話を聞いていなかったカズホは、少し不安になって、玄関からそのまま続く、真っ暗なリビングダイニングに向かって声を掛けた。
「お袋?」
返事はなかった。
カズホは、玄関ドアのすぐ横にある電灯のスイッチを入れた。
明るくなったリビングダイニングのテーブルに、母親が虚ろな目をして座っていた。電灯が点いても、そのことに気がついていないようだった。
「どうしたんだよ、電気も点けないで?」
カズホが靴を脱ぎながら声を掛けると、やっと気がついたみたいで、カズホの方に振り向いた。
「あっ、……おかえり」
「何か、あったのか?」
カズホは、母親が目を指でこすったのに気がついた。
「お袋?」
「カズホ。……お父さんが死んだって」
「誰の?」
「お前のお父さんだよ」
「……」
「今日、夕方、お父さんの会社の顧問弁護士って人から電話が掛かってきてね」
「まだ、生きていたのかよ! とっくに死んでいるって、思ってたけどな!」
カズホは母親の言葉を遮るように言い放った。
「カズホ」
「俺には関係ないね! 物心ついてから一度も会ったことのない男が死んだって言われてもピンと来ねえよ!」
「……そうだね」
カズホの母親は、カズホの父親と結婚することなくカズホを産んでいた。
カズホの父親は、カズホの母親よりも二十歳も年上で、しかも、妻子がおり、カズホの母親とは不倫の関係であった。しかし、カズホの母親と父親は、愛情をもって結ばれており、父親もカズホが生まれると、すぐに認知をした。
カズホの父親は、本妻と離婚したかったようだが叶わずに、結局、カズホの母親は、女手一つでカズホを育てた。父親から養育費の申出もあったようだが、本妻への遠慮のためか、断ったようだ。
そんな父親をカズホが嫌っていたことから、母親も父親の話はまったくしなかった。しかし、カズホの父親に対する母親の愛情は変わっていなかったようだ。
「明日、通夜で、明後日、告別式だって」
母親は寂しそうだった。
「俺は行かないけど、お袋は行ってくれば?」
「良いのかい?」
「俺が駄目だなんて言える訳ないよ。……でも、相手の家族と会うのは嫌じゃないのか?」
「行って、そっと手を合わせてくるだけだよ」
(お袋らしいな)
中学生の時には反抗したこともあったが、家計を支えるため一生懸命働いて、いつも明るく家事もこなしていた母親は、カズホの大切な、唯一の家族だった。
同じ頃。
ナオの家では、父親が今日も遅い帰宅をしていた。
上場企業の課長職で、早くても午後九時くらいにならないと帰宅することはなかった。
「おかえりなさい」
玄関に迎えに行った母親と一緒にリビングに入って来た父親に、リビングのテーブルで勉強をしていたナオが声を掛けた。
「ただいま」
ナオは、父親が少し苛ついているような気がした。
「香織。喪服を用意しておいてくれるか?」
「お葬式ですか?」
「会長が急にお亡くなりになったんだ」
「まあ! 会長さんが」
「明日が通夜で、明後日が告別式だ。明日の通夜から出席しなければならない」
「明日の朝には喪服を持って行くんですか?」
「いや、明日夕方に一旦、帰ってから通夜に行く」
「分かりました。それまでに準備をしておきます」
「しかし、これで会社はどうなるか……」
ナオの父親が心配しているのは、会社の派閥争いの行く末、そして、自分の将来だった。
強烈な個性を持った創業者の会長には、後継者として、現在、社長に就いている長男と、副社長の次男の二人の息子がおり、それぞれに派閥といえる勢力があった。一応、年功序列として、会長の鶴の一声で長男が社長となっており、これまでは社長派が幅を利かせていたが、会長の死により、その勢力が均衡している両勢力の派閥争いが激烈化することは必至だった。
ナオの父親は社長派に属しており、主流派のエリートとして、トントン拍子に出世してきていた。
しかし、副社長派が実権を握れば、ナオの父親の将来も大きく下方修正される恐れがあった。




