第三章 初めての喧嘩(3)
翌朝。
ナオは、目が覚めると、すぐに枕元にあった携帯を持ち、「おはよう」と打ち込み、送信ボタンを押そうとして、昨日、カズホと喧嘩をしていたことを思い出した。
まるで夢を見ていたみたいだった。夢だと思いたかった。
その日、ナオは、「おはよう」メールをしなかった。カズホからもメールはなかった。
カズホと付き合い始めてから初めて、憂鬱な気分で学校に向かった。
ナオが駅を出ると、改札の前でレナが待っていた。
「おはよう。ナオちゃん」
「お、おはよう、レナちゃん。どうしたの?」
「久しぶりにナオちゃんと一緒に登校したくなってさ」
「う、うん」
「迷惑?」
「と、とんでもない! う、嬉しいよ」
ナオは、本当に嬉しかった。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
軽音楽部の活動以外では、「クイーン」と「ドール」のツーショットもなかなか拝める訳ではない男子生徒達の注目の眼差しの中、二人は学校に向けて歩き出した。
「レナちゃん。昨日は、練習を休んで、ごめんなさい」
「カズホは体調不良だって言っていたけど、元気そうで何よりだよ」
「じ、実は、体調不良なんかじゃなくて……、その……」
「体と言うより、心が不良なんでしょ?」
「えっ?」
「昨日の練習中、カズホもすごく落ち込んでいたのが分かったよ。あのマコトだって分かったくらいだからね」
「そ、そうなの?」
「そもそも、噂にならない訳が無いじゃない。金髪で目立ちまくっている二人が大声で言い争いをすればね」
「……」
「ふふふふ」
「わ、笑わないでよ。レナちゃん」
「ごめん。馬鹿にしている訳じゃないの。ナオちゃんが、昔のナオちゃんと完全にさよならしたのかもしれないって、喧嘩で分かったことが、何か面白くてさ」
「えっ?」
「カズホと、って言うより、男の子と喧嘩するナオちゃんを、ナオちゃん自身が想像できた?」
「あっ!」
イメチェン前は、男の子との接触をできるだけ避けていて、そもそも男の子と話をすることも満足にできなかったから、当然、男の子と言い争いをすることはなかった。
よく考えてみれば、ナオは、女の子とも喧嘩をしたことがなかった。それは、誰からも嫌われることを恐れて、自分の言いたいことも言わない、偽りの自分を演じ続けていたからだった。
カズホとつきあい始めてからも、カズホに嫌われることが怖くて、カズホの顔色をいつもうかがっていた。もっとも、ナオの嫌なことをカズホがすることがなかったから、ナオがカズホに意見するようなこともなかった。
「ナオちゃんが、物言わぬお飾り人形じゃなくて、自分の意見を、自分の言葉で、ちゃんとカズホに言えるようになったと言うことでしょ」
「……」
「喧嘩するほど仲が良いって言うくらいだから、ひょっとしたら、カズホともっと仲良くなれたのかもね」
「そ、そうなのかな?」
「きっと、そうだよ」
「だとすると、レナちゃんに少しだけ近づくことができたのかも」
「私に?」
「うん。私、レナちゃんみたいになりたいって思っているの。言いたいことが言えて、やりたいことがやれて」
「ふふふ。私もナオちゃんに出会うまで、言いたいこともやりたいこともできない時期があったけどね」
「その時だけでしょ?」
「まあ、そうね」
「……レナちゃん、喧嘩の原因って聞いてる?」
「何となく」
「私、……間違っているのかな?」
「ナオちゃんは、どう思っているの?」
「私は、……間違ってないって思ってる」
「じゃあ、それで良いじゃない。どっちが間違っているかとか、そんな話じゃなくて、分かり合えるかどうかでしょ?」
「……そうだね」
「二人で話し合うしかないような気がするな」
「……うん」
ナオは、いつも、レナのアドバイスに助けられていた。
「レナちゃんって、どうして、そんなに大人なの?」
「大人? 私が?」
「だって、私は、いつもレナちゃんに助けられているけど、レナちゃんは、人の助けなんて必要としない人なのかなって思ってしまうの」
「……素直じゃないだけなのかも。人に弱みを見せることが恥ずかしいというか、何か嫌なのよ」
「レナちゃん。もし、必要とするんだったら、私をいつでも使ってね」
「ふふふふ。ありがと、ナオちゃん。じゃあ、その時には、そうさせてもらうね」
「うん」
二人が、いつもナオとカズホが待ち合わせをしている場所まで来ると、カズホが立って待っていた。
「あれぇ、残念。学校までナオちゃんと一緒に行けるかと思ったけど、予想どおり、待ち伏せしてたね」
「ま、待ち伏せとはどういう意味だよ?」
カズホがレナに対して怒ったように言った。
「深い意味は無いって。それじゃ、後は、二人で殴り合いでも蹴飛ばし合いでもやってちょうだい。それじゃあ、お先に」
レナは二人に手を振ると、早足で去って行った。
残されたナオとカズホは、横目で相手の姿をちらちらと見ながら、何か喋ることを探しあぐねているように立ち尽くしていた。
「お、おはよう」
やっと、ナオが声を絞り出すようにカズホに声を掛けた。
「おはよう」
二人は目を合わせることなく挨拶を交わした。
カズホがゆっくりと歩き出すと、まるで条件反射のようにナオがその隣を歩き出した。
いつもより、ほんの数センチ距離が離れているような気がしたが、ナオは、いつもの登校風景と変わらない気持ちになってきた。
「……景品作りは終わったのか?」
「う、うん」
「そうか」
また、無言になって二人は歩いた。カズホを嫌いになった訳ではないのに、すぐ隣を歩いているのに、話ができないことに、ナオが先に耐えられなくなった。
「カ、カズホ!」
「んっ?」
「昨日は、練習を休んで、ごめんなさい」
「……いや、ナオは俺に謝らなければいけないようなことはしてないよ」
「えっ?」
「俺は、きっと、ナオに謝らなければいけないことをしている」
そう言うと、カズホは立ち止まって、ナオの方を向いた。
ナオも立ち止まり、カズホの方に向くと、カズホが少し頭を下げた。
「昨日は言い過ぎた。俺が全面的に悪かった」
「カ、カズホ」
「ライブのことで頭が一杯で、ちょっと冷静になれなかったんだ。ごめん、ナオ」
ナオの目から涙が溢れてきた。
「ううん。カズホが悪いんじゃないよ。カズホの気持ちは痛いほど分かっていたから。私の方こそ、ごめんなさい。馬鹿だなんて言っちゃって」
「いや、本当に馬鹿だったよ。昨日、一人でドールで飯を食って、そのままバイトに行って、家に帰って、……ずっと嫌な気分だった。朝、メールをしようかとも思ったけど、ちゃんと顔を見ながら、謝ろうと思ったんだ」
「カズホ。もう頭を上げて。さっき、レナちゃんにも言われて、気がついた。どっちが悪いって言うんじゃなくて、二人がちゃんと分かり合おうとしなかったことがいけなかったんだって」
「……ナオ」
「昨日、もっと早くカズホに伝えたら良かったのかもしれない。だったら、二人とも軽音楽部の練習時間まで話し合う時間もあったと思うけど、私が直前まで言わなかったから」
「それじゃあ、俺を許してくれるのか?」
「……昨日のことは、きっと夢だったんだよ。二人とも寝ぼけて同じ夢を見てたんだよ。だから、カズホは謝らなくて良いし、私も許すとか許さないとか、そんなことは考える必要はないの」
カズホは頭を上げて、ナオを見つめた。
「ナオ」
「カズホ」
ナオは、右手でカズホの左手を取って握った。二人の笑顔が交差すると、本当に昨日のことは夢のように思えてきた。
「行こう! 学校、遅れちゃうよ」
二人は、初めて手を繋いだまま、学校まで歩いた。




