第二章 二人だけの夜(2)
ナオとカズホは、玄関が見える部屋の窓から走り去っていく二台の車のテールランプを見つめていた。
「行っちゃったね」
「ああ。でも、マコトのことだ。すぐに迎えに来てくれるさ」
「そうだね」
その時、ナオは、耳ではなく身体で感じるような地響きのような音を感じた。
「カズホ。……何だろう?」
カズホもその異常な音を感じていたようだ。
「さあな」
突然、何かが滑り落ちるような大きな音がした。その音は二人に向かって来ているような気がした。そして、それと同時に建物が大きく揺れた。
「きゃー!」
思わず、ナオは頭を抱えて座り込んでしまった。
「ナオ!」
カズホはしゃがみ込んでいるナオを守るように、背中側から肩を抱きしめて、注意深く周りを見渡した。
大きな音はすぐに止み、建物の揺れも収まった。
「……カズホ。今のは?」
ナオは怯えながら、カズホを見た。
「何だろうな。地震のようだったけど……」
カズホが立ち上がり、窓から外を見てみると、宿泊施設の入り口付近に立っていた街灯が一つ斜めになっているのが見えた。まだ灯りが点いていたその街灯の下三分の二は土砂に埋まっていた。
ナオも立ち上がって、その光景を見た。
「カ、カズホ。これって……」
「ああ、どうやら裏山が崩れてきたみたいだな。この建物までは届かなかったみたいだが」
「どうしよう、カズホ」
「どうしようも無い。この建物にも土砂崩れが襲って来ないことを祈るだけだな」
突然、部屋の灯りが消えた。カズホ達が居る部屋だけではなく、どうやら建物全体が停電になったようだった。土砂に半分以上埋もれていた街灯の明かりも消え、窓の外も真っ黒になった。
「きゃっ!」
短く悲鳴を上げたナオの両肩をカズホが抱いて揺らした。
「ナオ。しっかりしろ! 大丈夫だよ。俺はちゃんとここにいるから、心配するな!」
「カズホ。……ごめんなさい。もう大丈夫」
大きく息を吐いたナオは、黒い輪郭しか見えないカズホに向かって言った。
「とにかく、真っ黒で何も見えない。ちょっと、待っててくれ」
「カ、カズホ。どこに行くの?」
「どこにも行かないって。合宿用品の中に、花火の時に使ったマッチと蝋燭が入っていたと思ってさ」
カズホは暗闇の中で、合宿用品を入れた箱を見つけ出し、手探りでマッチと蝋燭を取り出して、蝋燭に火を灯した。蝋燭の炎で部屋はほんのり明るくなった。
カズホは、蝋燭をちゃぶ台のような小さなテーブルに立てて、そのテーブルの前に胡座をかいて座った。自然、ナオもその前に座った。
「ナオ、怖いか?」
「う、ううん。カズホが一緒にいてくれるから大丈夫だよ」
そう言いながらも、ナオは震えていた。カズホも気づいたはずだ。
「こうやって向かい合って座っているのは、ドールと一緒だな」
「そ、そうだね」
「俺、ドールでナオと話している時は、時間があっという間に経ってしまうんだよ。ナオはどうだ?」
「私も。もっと一緒にいたいのに、気がつくとカズホがバイトに行く時間になっているの」
「だろっ。だから、今も同じだよ。あっという間に時間が経って、マコト達が迎えに来てくれるよ」
「う、うん」
「ナオ」
「はい」
「しかし、お前、ちっちゃな身体でよく食うな」
「な、何を突然、言っているんですか?」
「昨日は、バーベキューをたんまり食った上に、ボリボリお菓子も食ってたじゃないか。今日だって、カレーをお代わりしていただろう。それで縦にも横にも伸びないのは不思議だな」
「背が伸びるんであれば、もっと食べてやるです」
「まだ、食えたのか?」
「余裕ですよ。特にお菓子は別腹ですから」
「お前の胃袋って限界が無いんだな」
「そ、そんな、私のお腹は四次元ポケットですか~」
「これからは『歩く胃袋』って呼んでやろう」
「う、嬉しくないです!」
「はははは」
ナオは、ナオの不安を払い除いてくれるために、カズホが普段どおり、ナオを弄くっていることが分かっていた。
そんなカズホのお陰で、少し落ち着きを取り戻したナオに、違う意味での緊張感が湧き上がってきた。
(誰もいない薄暗い部屋でカズホと二人きり……)
ふと気づくと、カズホはナオの顔を見つめているようだったが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「カ、カズホ?」
「んっ、どうした?」
カズホも考え事をしていたようで、少し戸惑いの表情を見せて、ナオを見た。
「あ、あの、カ、カズホも男の子だから、……その、女の子の、……あの、何て言うか……」
「何だよ。何が言いたいんだよ?」
「あの、その、こんな二人っきりの時って、やっぱり、……女の子は好きな男の子に、全部、……その、あ、あげちゃうもの……なのかな?」
ナオはモジモジしながらやっと言葉を絞り出した。一方、カズホは真剣な顔つきをして、ナオを見つめた。
「ナオ」
「は、はい」
「お前は、どうなんだ?」
「えっ?」
「俺も男だから、ナオが欲しいって思うことがある」
「……そ、そうなんだ」
「だけど、俺は、ナオを悲しませることだけは絶対しないって心に決めているんだ」
「……カズホ?」
「だから、お前が今、ちょっとでも怖いっていうのなら……しない」
「ず、ずるいよ。カズホ。女の子から、……そ、そんなこと、……言える訳無いじゃない」
「じゃあ、良いのか?」
「えっ!」
すくっと立ち上がったカズホは、座っているナオの後ろに回り、ナオを後ろから抱きかかえるように座った。
思わずナオは首をすくめて目を閉じ、両足を両手で抱え込んだ。
ナオは震えていた。ナオの目には涙が一杯溜まっていた。
やっぱり、ナオはまだ怖かった。
「……やっぱり止めた」
「……!」
ナオがゆっくりと振り返ると、カズホはナオの後ろに座ったまま、自分の両手を後ろにやって、身体を後ろに反らしながら、ナオに優しい笑顔を見せていた。
「今の俺は、ナオを抱くことはできない」
「こ、こんな私は、嫌いになっちゃった?」
「違うよ。……ナオは、俺が初めて自分から好きになった女の子だから、俺の宝物なんだ」
「……カ、カズホ」
「だから、ナオを傷付けたくないんだ」
「傷って……」
カズホは、腰を後ろに引きずるようにして、少し、ナオから離れると、胡座をかいて、真剣な顔つきでナオを見た。ナオは振り向いたままの格好でその視線を受け止めた。
「ナオが自分から俺のことが欲しいと思うことが出来ないのに、無理にナオを抱くことは、ナオを傷付けることになると思う」
「……」
「それは、嫌なんだ」
「う、うん」
ナオの目から涙が溢れてきた。その涙を見られるのが恥ずかしくて、ナオは、前に向き直って、立てた膝の間に顔を埋めた。
すぐ後ろにカズホが近づいて来る気配がした。そして両肩が優しく抱かれた。
「だって、ナオは、ずっと男の子を避けてきてたんだもんな。ちょっとずつ慣らしていかないとな」
顔を上げたナオは、両肩に置かれたカズホの手を自分の手で握って、ゆっくりと首の前まで引っ張っていった。カズホは優しくナオを後ろから抱きしめた。
「カズホ」
前を向いたまま、ナオは呼び掛けた。
「んっ?」
「しばらく、……このままでいてくれる?」
「ああ」
ナオは、後ろから回されたカズホの右腕に頭を乗せて、蝋燭の炎でほのかに明るい部屋をぼんやりと見つめた。カズホの体温とともに伝わってくる優しさに包まれている気がした。
この部屋だけ時間が止まっていた。さっきまでの緊迫した空気も居場所が無いと悟ったのかどこかに消え去っていた。暴風雨が窓を叩いていたが、その音は二人には届いていないようだった。




