第一章 見えない視線(8)
ドールに着いたカズホとナオがドアを引いて中に入ると、二人にとっては忘れることのできないバラード曲が流れていた。
「カズホ。……これって」
「ああ、そうだな」
二人はドールの入り口で思わず顔を見合わせた。
「いらっしゃい」
マスターは、いつもどおりニコニコしながら二人を出迎えてくれた。
「ちわー」
「こんにちわ。マスター、この曲って……」
「ああ、アリス・クレイトンの『マーメイド・ドロップス』だね」
「マスター、ひょっとして俺達のために?」
「えっ、……あははは。残念ながら、そんな気の利いたことをする暇は無いよ。たまたまだろう」
「そうなのか。……まあ、そうだろうな」
「はははは。二人ともいつものやつで良いかい?」
「ああ」
「はい、お願いします」
いつもの席に座ったカズホとナオは、しばらく「マーメイド・ドロップス」に聴き入っていた。
ナオは、アリス・クレイトンのライブの日のことを思い出していた。あの日、ナオは生まれ変わった。正確に言うと、小学校四年生の時から身に纏っていた醜い殻を脱ぎ捨てて、その中に閉じ籠もったまま美しく成長していた本来の自分に脱皮することができた。それは、カズホがいてくれたからだった。そのカズホと初めて話をすることができたのも、アリス・クレイトンの曲がきっかけだった。そして、それは、ここ、ドールでの出来事だった。
マスターは、二人が初めて出会った時から、ずっと二人を見続けていた。金髪に変身したナオを最初に見た時も驚くことなく、「お似合いだね」と声を掛けてくれた。そうなることが最初から分かっていたようだった。
曲が終わった。しばらく余韻を楽しんだ沈黙の後、カズホが話し掛けてきた。
「やっぱり良い曲だな」
「うん。大好き」
「ナオは『マーメイド・ドロップス』を弾けるのか?」
「一応、譜面どおりには弾けるけど、私が弾いても『マーメイド・ドロップス』にはならないの」
「そうだな。一流のアーティスト達の演奏には、譜面では表すことのできない何かがブレンドされているんだろうな。俺も早く『佐々木一穂』のベースだって、誰が聴いても分かるようなベースを弾けるようになりたいよ」
「カズホなら絶対なれるよ。私が保証します」
「ナオの保証か……」
「あ~、何かな、その反応は~」
「はははは。……でも、ナオ」
「はい」
「前にも言ったけど、俺は、将来もずっと音楽を続けたいと思っている。ナオはどうするつもりなんだ?」
「う、うん。……正直言って、まだ、そんな先のことまで考えてない。でも、カズホとはずっと一緒にいたいから、自分が音楽を続けているかどうかにかかわらず、カズホの側で、ずっとカズホの応援はするつもり」
「ナオ」
「カズホ」
二人はテーブルを挟んでじっと見つめ合った。このテーブルだけ時間が止まっているようだった。
ナオがふと気づくと、マスターがカズホの夕食とナオのカフェオレを持って、テーブルの近くで立ち尽くしていた。
「そろそろ置いても良いかな?」
さすがにカズホも照れたようだ。
「マスター! 変な気は回さなくて良いから」
「はははは。何だか割り込みにくくてね」
ナオも顔を真っ赤にして俯いてしまった。