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15.カノン(三重奏)

 七森亮凱旋コンサートから、二年の時が流れた。








 中心街にあるケンミン文化センターのステージ袖で、玲はステージの前に広がる客席を見回し、ほどよい緊張感を楽しんでいた。

 二年前、七森と二人でポツダム交響楽団with岩井割哉のコンサートを聴いた会場──もっとも、その過去は変わってしまったが──あの日満席だった五〇〇あまり座席は、今日は半分にも満たない。

 まあそれも仕方がない。

 今日は世界的に有名な音楽団とピアニストのコンサートではなく、アマチュアのピアノコンクールだ。

 半分程度とはいえ観客が集まるというだけで異例である。


 新日本ピアノコンペティション──約三万人が参加する日本最大のピアノコンクールだ。

 未就学の幼児から音大生まで年齢に応じてA級からG級まで細かくクラス分けされているが、玲が挑戦するのは年齢制限のない特級だ。

 国内最大のピアノコンクールにおける最上位のクラスで、岩井割哉をはじめとする現在の日本を代表するピアニストたちの登竜門となっているコンクールである。

 今日はその地方予選だ。

 ここから、玲の夢への挑戦が、再び始まる。


 二年前、七森とHARUのミニコンサートを聴き、夢への情熱を取り戻した玲は、それから猛特訓を繰り返した。

 仕事が終わるとレッスン、休日もレッスン、さらに仕事の後レッスン──ただし、月に二・三度は音楽のことは忘れて理央と食事──と、仕事以外の多くの時間をピアノに費やした。

 特にこの半年間は、アルバイトであること、店長と親友であることの強みを活かし、出勤日や勤務時間をできる限り減らして、その分をレッスンに費やした。

 おかげで、予選前の書類選考すら通過しなかった玲も、日本最大のピアノコンクールの予選に挑戦できるまでになった。

 もちろん、ここで終わるつもりはない。

 玲の目標は、まだまだ先にある。


「エントリーナンバー1・木崎玲さん」


 アナウンスが玲の名を呼んだ。

 今日の玲の演奏順は、なんと一番だ。

 はい、と返事をし、ステージへ一歩踏み出す。

 玲がステージに登場しても、客席から拍手は鳴らない。


 まあ仕方がない。

 いくら日本最大のピアノコンクールとはいえ、今日は地方予選。

 わざわざ会場に足を運ぶのは出演者の関係者ばかりだ。

 みんなそれぞれ応援する人は決まっている。

 こんな地方予選のトップに演奏させられる(・・・・・・・)玲に誰も興味は無いだろう。

 年末の漫才ショーレースと違いトップだから不利ということはないだろうが、演奏順は主催者側が決めるため、やはりそこには演奏者への期待感が込められているはずである。

 すでにいくつかのコンクールで結果を残すなどしている人は後半へ回すはずだ。

 一番に演奏させられる玲は、言わば前座である。


 玲が思った通り、客席の中央三列目に座る審査員は、ステージ上には全く興味が無いかのごとく手元の書類ばかり見ている。

 その心の声が聞こえてくるようだ。


『木崎玲……知らないな』

『二十七歳で受賞歴は中三の県大会で銀賞……よくこのコンクールに出られたな』

『いい加減プロになる夢は諦めろよ』

 …………。


 同じ心の声は、演奏前の控室でも聞こえるようだった。

 参加者の多くが現役音大生や院生で、高校生も少なくない。

 玲だけが二十代後半。

 二十歳前後がピアニストのピークと言われる中、玲一人だけが明らかに浮いていた。


 でも、それがなんだ。


 七森は今の玲と同じ二十七歳でコンクールに優勝してプロへの扉を開いた。

 HARUは三十歳だ。

 なら、自分だって。


 ステージ中央に置かれたグランドピアノ。

 玲はその前に座り、椅子の高さを調整する。

 そして鍵盤に指を添えた。

 だが、まだ弾かない、目を閉じ、今からピアノを奏でる自分をイメージする。

 あの夕焼けの屋上で見た七森のように、誰かの心を揺さぶる演奏をする自分の姿。

 それを、たっぷりと時間をかけてイメージした後、玲は最初の一音を弾いた。


 今回の大会では、演奏する曲は参加者が自由に選んで良いものとなっている。

 クラシック曲はもちろん、ジャズやポップスタイル、アニソン、ゲーム音楽まで、ピアノで演奏するならなんでもありだ。

 玲がこの日の演奏に選んだ曲は『パッヘルベルのカノン』だった。

 夢への再挑戦は、絶対にこの曲で始めたいと思っていた。


 演奏が始まると、元々期待してなかった観客や審査員たちが、さらに落胆するような気配を感じた。

 当然であろう。『パッヘルベルのカノン』は、どちらかといえば初心者向けの曲だ。

 ミスなく演奏できれば初級から中級へステップアップできる──そんな曲である。

 二年前、帰宅ラッシュでにぎわう地下広場のストリートピアノで演奏しても、誰も足を止めず、気にも留めなかった曲。

 それを、日本最大のコンクールで演奏する──そんな者など、まずいないであろう。


 だがこれは、玲が理央と二人で考えた作戦のひとつだった。


 今回のコンクールでは、無名の玲に注目している人など皆無だ。

 誰も注目していない人が、期待できない曲を奏でる。

 でも、そこから大逆転の演奏ができれば、より強い衝撃と感動を残すことができるはずだ。


 始まりの二小節を左手で一音ずつ、ゆっくりと奏でる。本当に初歩の初歩みたいな演奏だ。

 続いて三小節から四小節、左手は同じ音を奏でながら。

 右手は少し音階を下げたメロディーを奏でる。

 音が重なり、一・二小節の時には無かった響きが生まれる。

 もっとも、それはまだハーモニーと呼べるほどのものではない。


 次のパートに進むと、曲調は若干テンポアップする。

 ここから、玲は一音一音の間で鍵盤を軽く連打する。

 初歩的なメロディーに、少し変化が生まれる。

 もちろん、まだその程度では観客も審査員も興味を示さない。

 さらにパートが進む。

 玲の指は、準備運動を終えたかのように、少しずつ軽くなってゆく。

 軽めのランニングから、突如ダッシュするかのように、鍵盤の上を駆け抜けた。

 それを期に、指は少しずつその動きを早くする。

 鍵盤が押され、ハンマーが跳ねあがり、弦が叩かれ、そこから生み出された音がステージから客席を駆け抜けていく。

 玲が生み出した音が、会場を満たしてゆく。

 客席の何人かは気付き始めただろう。

 これは通常のカノンとは違う──だが、玲にはもう、観客も、審査員も、他の演奏者たちも、誰も目に入らなかった。

 目の前のピアノとだけ向き合う、ただそれだけである。


 曲はさらに次のパートへ進む。

 この曲で最も有名なパート。

 玲は、ここまで秘めていた情熱を解き放つかのように、さらに鍵盤の上で指を走らせた。

 通常のカノンではありえない旋律が、玲の指先から生まれ、会場内を駆け巡る。


 カノンは、比較的初心者向けの曲だ。

 ゆえにアレンジを施しやすく、上級者向けに変更されて演奏されることも多い。

 特に、近年海外のロックバンドがこのカノンをハードロック調にアレンジして話題となり、それをさらにピアノ用にアレンジして演奏する人が現れたことで、密かに注目を集めている。

 ハードロック調のアレンジだけあって、速弾きや連打などの上級テクニックが各所で要求される難曲だ。


 玲が演奏しているのは、このロックテイストのカノンを、いま自分が演奏できる最高のレベルまで引き上げたものだ。

 アレンジしたのは玲ではなく理央だ。

 彼女は現在ネットの動画サイトで『ハイパー・デジタルミュージック・クリエイター』という肩書きで活動しており、百万人のチャンネル登録者がいるというインフルエンサーなのだそうだ。

『カノンロックReiちゃんバージョン5.66』と名付けられたこの曲は、テンポ自体は通常のカノンとほとんど変わらない。

 しかし、十本の指を極限まで酷使して最大限生み出される音が、初心者向けのカノンとは全く異なる壮大なメロディーを生み出す。


 メインと言えるパートの演奏が終わった。

 ここから、曲は激しい演奏で乱れた息を整えるように静かなものに変わる……と見せかけて、玲は再び、メインのパートを弾き直す。

 今度は、速さ、音域、リズムを変えて演奏する。

 言わば、『カノン変奏曲』。

 一奏目とは全く異なる姿に変わったカノンが、もう一度、会場を駆け抜ける。

 それが終わっても、もう一度変奏する。

 今度はあえて不協和を入れることで、寂しさを表現した。

 さらにもう一度。

 今度はゆっくりと、静かに。

 それが終わっても、何度も変奏を繰り返す。

 観客の視線が、審査員の関心が、玲に向けられる。

 だが、玲は気にしない。

 玲が見ているのは、観客でも、審査員でもない。


 いま玲が演奏しているカノンは、三重奏ではなく、一台のピアノで演奏できるようにアレンジしたものだ。

 追いかけてくる人も、追いかける人もいない、玲一人の演奏。


 しかし。


 彼女が見据えるその先には、二人の演奏者がいる。

 玲よりもはるか先を行く二人。いまから追いかけても、決して追いつけないかもしれない。


 でも、追いかけ続けていれば、きっといつか、壮大なハーモニーになる。

 そう信じている。




 ──待っててね、HARUちゃん。




 玲は、自分自身のカノンを、奏でる。




     ☆




 演奏が終わった。


 この時、会場内は地方予選の一人目の演奏とは思えないほどの拍手と歓声に包まれ、審査員も目の色を変えて身を乗り出していたそうだが、玲はあまり覚えていない。


 玲は、ただステージの前の方を見ていた。




 ──やったね、玲ちゃん。




 そこにHARUと七森の姿を見た気がして、玲は会心の笑みを浮かべた。








(彼女は永遠に彼に追いつけない 終わり)









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