13.ソステヌート(音を保持して)
「……さん……木崎さん……木崎さん!」
名を呼ばれ、玲ははっとして辺りを見回した。
陽が沈んで間もない楽器店の屋上だ。
ついさっき、ツブヤイターでHARUへメッセージを送ったところだ。玲はスマホの画面を見る。
「……え?」
スマホには、【このアカウントは存在しません】と表示されていた。
屋上でこの画面が表示されるのは初めてだ。
HARUは数日中にアカウントを削除すると言っていた。
本当に削除したのだろうか。
さっきのメッセージは彼女に届いたのだろうか。それを確認する手段は無い。
「木崎さん! 何してるの!」
屋上の出入口から女性スタッフが現れた。
玲が働くフロアのアルバイトリーダー的存在で、玲たち若いスタッフからは、陰で『お局さん』と呼ばれている人だ。
「こんなところでサボってないで、早く手伝って、忙しいんだから!」
お局さんはそう言うと、時間が惜しいとばかりにすぐに踵を返して仕事場へ戻ろうとする。
「え? でも、あたし、今日の勤務、六時までなんですけど……」
玲は戸惑いながらそう答えた。
すでにタイムカードは切ってある。
今日は売り上げ目標を達成できなかったが、だからと言って今の時代サービス残業を強要するのはいかがなものかと思う。
お局さんは振り返り、「なに言ってるの!」と声を上げた。
「今日は特別な日だから、店長から残業頼まれて、木崎さんもOKしたでしょ!?」
「ええ!?」
声を上げる玲。
何のことか判らなかった。
店長に残業を頼まれた覚えはない。
とは言え、今日は朝から七森にHARUの手紙を渡すことで頭がいっぱいで、仕事はほとんど手につかなかった。
上の空で適当に返事をしてしまった可能性は否定できない。
だが、特別な日、とは、なんのことだろう?
今日は特にイベントやセールも無ければ、閉店後に売り場の大幅なレイアウト変更や棚卸しも無いはずだ。
「とにかく、早く来て!」
お局さんは一分一秒でも惜しいとばかりに言うので、訳が判らなかったが玲は後について行った。
そのまま一階の売り場に戻るのかと思いきや、お局さんは五階の音楽サロンへ向かう。
ミニコンサートや各種イベントに使える小さな会場である。
イベントの日に人手が足りない場合は玲たちが手伝うこともあるが、今日イベントがあるなんて、玲は聞いていない。
サロン内では大勢のスタッフがせわしなく動き回っていた。
出入口付近で受付カウンターの準備をする人、会場内に椅子を並べる人、ステージ上でマイクやスピーカーをチェックする人、玲と同じフロアの人もいれば、別のフロアの人もいる。
店舗スタッフの制服ではない人もいるので、支社の方からも人が来ているのかもしれない。
そうなると、かなり大きなイベントである。
「えっと、今日、誰かのコンサートがあるんですか?」
玲はお局さんに訊いた。
「さっきからなに言ってるの! しっかりしてよ!」
お局さんは、ボケてしまった姑に注意するような口調で言う。
「七森君! 七森亮の凱旋コンサートよ!」
「え?」
意味が判らなかった。
七森は、さっき音楽そのものがイヤになったと言って、この店から去った。
それが、なぜコンサートを開催するのだろう?
それも凱旋とは、いったい何のことだ。
準備スタッフの一人が受付カウンターの横にイーゼルを置き、ポスターが入ったパネルを立て掛けた。
『七森亮バイオリンコンサート』と書かれたそのポスターは、燕尾服姿でバイオリンを奏でる七森の写真がメインになっている。
さらには『イザベラ王妃国際音楽コンクール・バイオリン部門優勝の七森亮が、故郷の町に凱旋!!』とある。
「えええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
玲は、サロンの防音壁を突き破らんばかりの大声を上げた。
お局さんの話によると。
七森亮は、七年前までこの店の楽器売り場でアルバイトをしていたという。
プロのバイオリニストを目指して多くのコンクールを受け、五年前の新日本弦楽器コンクールで優勝したのをきっかけにプロデビュー。
その後、国内で開催される多くのコンクールやコンテストを総なめにした七森は、満を持して海外へ進出。
ベルギーに拠点を置き、世界的なコンクールにも挑戦し続け、先月、世界三大音楽コンクールのひとつであるイザベラ王妃国際音楽コンクールのバイオリン部門で見事優勝したのである。
これは、九十年近い歴史を持つこのコンクールで日本人初の快挙であった。
そんな七森が、故郷への凱旋コンサートを行うことになり、その会場として選んだのが、かつてお世話になったこの店の音楽サロンだったのだ。
「今やケンミン文化センターもいっぱいにできるほどの七森君がこんな小さな音楽サロンでコンサートを開いてくれるなんて、夢のようだわぁ」
お局さんはまるで恋する乙女のようにうっとりとした表情で言った。
話を聞いた玲は。
──過去が、変わったんだ。
そう確信する。
お局さんの話だけでは詳細は判らない。
ただ、七森が夢を叶えたことだけは確かだ。
元々プロになるのはほぼ間違いないとされていた彼だったが、まさか国際コンクールで優勝するほどのバイオリニストになるなんて。
だが、そうなると──。
「七森さんが来られました!」
スタッフの一人がサロンに入ってきて、そう告げた。
「店長はいま手が離せないそうです!」
サロン内にいた別のスタッフが応える。
そして、玲を見て、
「とりあえず、木崎さんが控室まで案内してくれと言ってます」
と伝えた。
「え? あたしですか?」
突然指名されて驚く玲。
今や国際的に活躍するバイオリニストになった七森を迎えるのが、なぜバイトの身である自分なのだろう。
身に余るどころではない大役を任せられた気がするが、「とにかく早く!」とのことなので、玲は一階へ降りた。
正面の出入口から外へ出ると、大通りには海外の国賓を乗せるような黒塗りの大きな車が停まり、そばには運転手と思われる人が立っていた。
歩道はファンややじ馬で溢れており、警備員が整列させているが、プレゼントを渡したりサインを貰ったりしようと身を乗り出す人たちを抑えるので精いっぱいだ。
車道も何事かと速度を緩める車が多く、かなり渋滞している。
このままでは警察が出動する事態になりかねない。
早く七森を控室まで案内しなければ。
玲が車のそばへ行くと、運転手がドアを開けた。
ポスターと同じ燕尾服姿の男性が車から降りた。
途端に、集まったファンから悲鳴にも似た歓声が上がる。
男性は軽く手を挙げて応えた。見慣れぬ格好であったが、それはまぎれもなく七森だった。
「七森さん──」
ついさっき、音楽そのものがイヤになったと言い残し、全てを投げ出して玲の元に去った七森が、今はかつての夢を叶えて──いや、それ以上の偉業を成し遂げて、玲の前にいる。
それが嬉しくて、玲は泣きだしそうな笑みを浮かべる。
七森も、いつものように爽やかに笑った。
しかし。
「初めまして」
七森のその言葉が、玲の胸に刺さった。
初めまして──彼からそう言われたのは一度だけだ。
六年前、玲がこの店でバイトを始め、彼と初めて出会った時の言葉。
一度聞けば、同じ人から二度聞くことはないはずの言葉だ。
笑顔が凍りついたかのような玲と、いつものように笑う七森。
その二人の間に、「失礼」と、知らない男性が割って入った。
「七森のマネージャーをしております」
と言って、玲に名刺を差し出す。
玲も慌てていつも接客時に使っている名刺を取り出し、マネージャーと交換した。
当然ながら、玲の名刺に役職は書かれていない。
玲から受け取った名刺を見て、マネージャーはあからさまに表情を歪めた。
「店長はどちらに?」
マネージャーは視線を名刺から店の中へ移した。
まるで玲など眼中にないと言わんばかりだ。
「申し訳ありません。いま手が離せないとのことで、代わりにあたしがご案内を申し付かりました」
「そうですか」
と言って、マネージャーは不快感を隠さない顔で玲の名刺をしまった。
「判っていらっしゃるとは思いますが、七森がこの店で働いていたとはいえ、それは昔のことです。今はイザベラ王妃国際音楽コンクール・バイオリン部門優勝の七森亮。そのことをわきまえ、節度ある対応をお願いします」
キッパリと言うマネージャー。
要するに、昔の知り合いだからといって、いい加減な対応や馴れ馴れしい態度で接するな、ということだろう。
「やれやれ」
と、七森が肩をすくめた。そして、玲に向かって言う。
「申し訳ないです。私としては、そこまで厳しくしなくてもよいと思うのですが」
優しく気遣うような言葉だが、それは玲と七森の間に見えない壁があることを感じさせた。
玲が知る七森ならば、きっと
「ゴメンね。僕としては、そこまで厳しくしなくてもいいと思うんだけど」
と、親しい口調で言ってくれただろう。
それが、今はどこか他人行儀な態度だ。
だが、それも当然だ。他人なのだ、二人は。
七森は七年前にこの店をやめた。玲がこの店で働き始めたのはその一年後だ。
過去が変わり、二人が出会うことはなかった。
彼は、今日ここで、初めて玲に会ったのだ。
「まあここではなんですので、早く案内をしてください」
マネージャーに言われ、
「あ、はい、スミマセン」
と、玲は謝る。
理不尽なクレーマーの対応をするよりずっと悲しい気持ちだった。
店内に入り、エレベーターを使って五階まで行くと、サロンの前を通って控室まで案内した。
「ありがとうございます」
と、七森は言ってくれたが、やはりそれは今日初めて会った他人への口調だった。
「どうも」
マネージャーも冷たい口調で言って、ドアを閉めようとした。
思わず、玲は閉まるドアを手で遮った。
「ちょっと、あなた、なにをするのです、離しなさい」
マネージャーは戸惑いながらドアを引っ張って締めようとする。
玲は手を離さない。このドアが閉まると、もう二度と開かないような気がした。
「七森さん!」
マネージャーを無視して、七森を呼んだ。
七森も戸惑っている。笑顔を浮かべてはいるが、やはりそれは、他人に対して向ける笑顔だ。
それでも玲は。
「あたし、七森さんのバイオリン、大好きです。初めて聴いた時から、ずっと大好きでした」
彼に伝えたかった想いを──少しだけ言葉を変えて、伝えた。
そして。
「これからも──ずっと応援しています」
最後に、今の玲にできる精一杯の気持ちを、伝えた。
七森の表情は変わらない。
「ありがとう」
戸惑った笑顔のまま、そう応えただけだった。
玲はドアから手を離し、深く頭を下げた。
ばたん、と、強くドアが閉められた。
「まったく……この店の教育はどうなっているのやら……」
マネージャーが憤る声がドア越しに聞こえた。
七森の声は、もう聞こえなかった。
──結局、なんにもなくなっちゃった。
顔を上げ、悲しみから滲み出た笑みを浮かべる。
彼はあたしのことを知らない。
彼はもう手の届かないところへ行ってしまった。
それに比べ、あたしはまだこのお店でアルバイトをしている。
そこは、何も変わっていない。
ピアニストになる夢を胸に抱いて音大へ通い、卒業後も諦めきれずここまで続けてきたが、心はもう折れかけている。
夢への情熱は失われ、きっともう叶わないであろう。過去は変わったが、結局、恋も、そして夢も、失った。
──ううん、そうじゃない。
自分に言い聞かす。
彼は夢を叶えた。それが唯一の救いだ。それだけで充分じゃないか。
だから大丈夫、大丈夫……。
玲は、泣きそうになる自分を懸命に押さえつける。
それが、かえって悲しく思えてくる。
自分で自分を押し潰そうとしているかのようだ。
玲が立ちつくしていると、廊下の向こうから、女性が一人、歩いてきた。
知らない人だ。制服を着ていないから、コンサートの関係者だろう。
玲は会釈をして、その女性とすれ違った。
これからどうしよう、と、玲は考える。
コンサートを聴く気にはなれなかった。
彼の音楽を聴くと、また悲しい気持ちになってしまいそうだ。
あるいは、彼や音楽への未練があふれてくるかもしれない。
これ以上未練を残さないためにも聴くべきではない、そう思った。
そして、できるだけ早く、この店も辞めようと決意する。
恋も夢も失った今、もうここに残っていても意味がない。
辞めた後どうするかは判らない。
ここまで、ピアノだけに奉げたような人生だった。
それを失った後の人生など想像もつかないが、それでも、いつかまた歩き出せると信じて生きていくしかない。
恋も夢も失くし、空っぽのまま生きる──それがどんなに暗い道でも、歩いていくしかない。
それはとても悲しいことだけれど、そうするしかない。
玲は、暗く悲しい一歩を、踏み出そうとした。
「──れいちゃん」
後ろから、声をかけられた。
この店で玲ちゃんと呼ぶのは理央だけだ。だが、明らかに理央の声ではない。
振り返った。
さっきすれ違った女の人が、玲を見ていた。
玲よりも少しだけ背が高く、少しだけ年上と思われる女性だった。
桜色と空色のストライプシャツと、若葉色のワイドパンツ、控え目に染めたショートボブの髪型、シンプルで派手過ぎない姿だが、それでも「綺麗」という印象が、いつまでも残りそうな人。
しかし、改めて見ても、やはり知らない人だ。
それでも。
「れいちゃんだよね?」
久しぶりに友人と再会したような笑顔で、女性は玲の名を呼ぶ。
「やっと逢えたね」
その言葉で、玲も気付いた。
それは、玲と同じ音大に通い、同じ職場で働いて、同じ夢を見て、同じ人を好きになった人。
七年という時の隔たりの先にいて、ずっと会えなかった人。
会えると思ったら、時の流れの無い世界へ旅立ってしまった人。
決して、逢えないと思っていた人──。
「──HARUちゃん」
女性は、答える代わりに笑みを深めた。
何度もツブヤイターでやりとりをした中で、玲が想像していた通りの笑顔が、そこにあった。
その笑顔が、どこか意味ありげなものに変わる。
「もうHARUじゃないけどね」
おどけたように言って、その視線が、コンサートの受付そばに立てられてあるイーゼルのポスターに向いた。
玲もポスターを見る。七森亮バイオリンコンサートとして、彼の写真が大きく掲載されている。
その左下に、小さな丸い枠に囲われたHARUの写真があった。
『Duo.七森香』とも書かれている。
「七森香……って……ええぇぇ!!」
玲はまた大声を上げる。
葉月香の名字が、七森になっている。
「それって、けっ、けっ、けっ、けっ……」
控室からさっきのマネージャーが顔を出した。
「あ、香さん、こちらです」
「いま行きます」
HARUはマネージャーにそう応えた後、もう一度玲を見た。
「コンサート、絶対聴いてね」
ぱち、と、ごく自然にウインクをして、HARUは控室へ向かう。
コンサートは聴かないと決めた。
彼への未練を、音楽への未練を、この心に残さないために。
玲は。
「──うん! 絶対聴く! 絶対絶対聴くから!!」
約束するように言うと、HARUはもう一度ほほ笑んで、控室に入った。
──HARUちゃんが、生きてる。
その場に立ち尽くす玲。
どくん、どくん、と、胸が高鳴る。
停まっていた心臓がまた動き出した、そんな気持ちだ。
うええぇぇん、と、子供のような泣き声が廊下に響いた。
玲ではない。
いつの間にか隣に理央がいて、
「葉月さんだぁ、葉月さんだよぉ。いまは七森さんだよおおぉぉ」
と、涙と鼻水とよだれをだらだら垂らしながら号泣していた。
「うお、理央ちゃん、いたんだ」
玲は軽く驚く。
理央はハンカチを取り出して顔を拭うと、ケロッとした顔で玲を見た。
「こら。玲ちゃん、じゃなかった、木崎さん。いくら親友でも、お仕事中は店長と呼びなさいって、いつも言ってるでしょ」
腰に手を当て、まるで幼稚園児を叱るような口調の理央。
「店長って、理央ちゃん何を言って──」
呆れた顔の玲の目が、理央の胸の名札に釘付けになった。
そこには『店長・大村』とある。
「理央ちゃん店長になったのおおぉぉ!?」
七森が世界的バイオリニストになったと聞いた時よりも、HARUの名字が七森になっているのを見た時よりも、さらに大きな声で玲は叫んだ。
「今さらなに言ってるの? 系列店最年少女性店長って、めっちゃ注目されてるんだから」
えへん、とばかりに理央は胸を張る。
「でも、漫画家になる夢は、どうなったの?」
「漫画家? なんの話?」
理央は眉根を寄せた。
「え? あ、いや、なんでもない」
「変なの」
理央は首を傾けた。
いやそれはこっちの台詞だ、と、玲は内心思った。
空白の七年間、理央に何があったのか、謎だ。
理央は、
「おっと、こうしちゃいられない」
と、手をパンと叩いた。
「お二人にご挨拶しなきゃ。玲ちゃんも行く?」
「ううん、あたしは、もう挨拶したから」
「そう。じゃあ行って来る。店長として、失礼のないように、きちんとご挨拶してくるね」
出兵する兵士のように胸を張って敬礼すると、理央は控室のドアをノックした。
返事があり、「失礼します」と礼をして中に入る。
だが、礼儀正しいのはそこまでだった。
すぐに中から「葉月さーん!」とテンション高い声が聞こえてくる。
HARUも「理央ちゃーん!」と、同じテンションで返す。
さらに「七森さんも、おひさしぶりでーす!」と続く。
そして、マネージャーが咎めるのも聞かず、三人は親しげな声で話す。
それを少しうらやましく思いつつ、玲はコンサートの準備へ戻った。




