第1話 婚約破棄と経営診断
第1話 婚約破棄と経営診断
胸の奥が、驚くほど静かだった。
卒業記念夜会へ向かう馬車の中で、エルザ・ヴァン・ディールは窓の外を流れる王都の夜景を眺めながら、自分でも不思議な気持ちになっていた。
本来なら楽しみな日だったはずだ。
王立学園を卒業する日。
婚約者のジュリアンと共に未来を語り合う日。
けれどここ数か月、彼は露骨に彼女を避けていた。
手紙の返事も減った。
面会の約束も断られるようになった。
胸騒ぎがしないと言えば嘘になる。
それでもエルザは、感情だけで結論を出したくなかった。
「お嬢様、お綺麗です」
向かいに座る侍女のリナが微笑む。
エルザは淡い青色のドレスの裾を見下ろした。
母が仕立て直してくれたものだ。
高価な絹ではない。
だが丁寧に刺繍された銀糸が月明かりを受けてきらめいている。
「ありがとう」
「きっとジュリアン様も喜ばれます」
エルザは曖昧に笑った。
そうだといい。
そう思った。
だがその願いは、一時間後に粉々に砕け散ることになる。
王宮の大広間は光で満ちていた。
巨大なシャンデリア。
磨き上げられた大理石の床。
香水と花の香り。
楽団が奏でる優雅な音楽。
貴族たちの笑い声。
華やかな世界だった。
しかし、その空気を切り裂くような声が響く。
「エルザ・ヴァン・ディール!」
会場中の視線が集まった。
赤い礼装を着たジュリアンが中央へ進み出る。
その隣には、見知らぬ女性が立っていた。
金色の巻き髪。
豪華な宝石。
勝ち誇った笑み。
嫌な予感が背筋を走る。
「ジュリアン様?」
エルザが声を掛けると、彼は冷たく言った。
「本日をもって、お前との婚約を破棄する!」
会場がざわめいた。
だがエルザは叫ばなかった。
泣かなかった。
ただ彼の顔を見つめた。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「理由だと?」
ジュリアンは鼻で笑う。
「没落寸前の男爵家に未来などないからだ」
その言葉に周囲から失笑が漏れる。
エルザの胸は痛んだ。
だが怒りより先に疑問が浮かぶ。
どうして今なのだろう。
なぜこんな公衆の面前で。
「紹介しよう。こちらが私の新しい婚約者、マリア・ローズだ」
金髪の令嬢が優雅に会釈する。
「はじめまして、エルザ様」
その声音には明らかな優越感があった。
「ジュリアン様は私を選んでくださったのです」
「そうですか」
エルザは短く答えた。
マリアは拍子抜けしたような顔をする。
もっと取り乱すと思っていたのだろう。
ジュリアンがさらに声を張り上げる。
「それだけではない!」
再び会場が静まり返る。
「本日をもってボロア伯爵家はディール男爵家との全取引を停止する!」
今度こそ会場がどよめいた。
エルザの顔色が変わる。
婚約破棄より深刻だった。
ディール男爵家の主要取引先はボロア伯爵家だ。
物流。
販売網。
資材調達。
その多くが伯爵家経由だった。
切られれば大打撃になる。
ジュリアンは満足そうに笑った。
「終わりだな」
その言葉を聞いて、エルザはようやく理解した。
彼は婚約だけではなく、実家そのものを潰そうとしているのだ。
父と母の顔が脳裏に浮かぶ。
領民たちの顔も浮かぶ。
不安が胸を締め付けた。
だが同時に、妙な冷静さも生まれていた。
今ここで泣いたところで何も変わらない。
「分かりました」
静かな返答に、ジュリアンが眉をひそめる。
「それだけか?」
「はい」
「悔しくないのか?」
「悔しいですよ」
エルザは微笑んだ。
「ですが、現実は感情で変わりませんから」
ジュリアンは言葉を失った。
会場の空気も妙にざわつく。
そのままエルザは優雅に一礼し、大広間を後にした。
夜風が冷たかった。
王宮を出た瞬間、ようやく手が震えていることに気付く。
怖かった。
苦しかった。
涙も出そうだった。
それでも彼女は前を向いて馬車へ乗り込んだ。
屋敷へ帰る頃には夜も更けていた。
食堂には父と母が待っていた。
テーブルには夕食の残りが並んでいる。
野菜のスープ。
黒パン。
燻製肉。
冷めていたが、どれも家庭的な香りがした。
「エルザ……」
父ベルンハルトの顔は青ざめている。
「聞いたのか?」
「はい」
母クララは今にも泣きそうだった。
「ごめんなさいね」
「どうしてお母様が謝るのですか」
エルザは椅子に腰掛けた。
そして冷めたスープを一口飲む。
少し塩気が強かった。
けれど温かさが身体に染みる。
「お父様」
「な、なんだ」
「帳簿を見せてください」
父は目を瞬かせた。
「帳簿?」
「全部です」
「今からか?」
「はい」
エルザは真っ直ぐ父を見る。
「泣くのは後にしましょう」
父も母も呆然としていた。
「まず現実を確認します」
そう言って彼女は帳簿を開いた。
羊皮紙の匂い。
インクの染み。
数字の列。
収入。
支出。
借入金。
取引先。
次々に目を通していく。
やがてエルザは小さく息を吐いた。
「なるほど」
「な、何が分かったんだ?」
父が恐る恐る尋ねる。
エルザは静かに答えた。
「思ったより悪くありません」
「え?」
「もちろん危険です。でも致命傷ではありません」
父も母も目を見開く。
「問題は取引停止そのものではありません」
「では何だ?」
「私たちが現状を正確に把握していなかったことです」
エルザの瞳が静かに輝く。
「どこで利益が出ているのか」
「どこで損失が出ているのか」
「誰が本当にお客様なのか」
「何が求められているのか」
「それを調べましょう」
父はぽかんとしていた。
つい数時間前に婚約破棄された娘とは思えない。
だがエルザは本気だった。
悔しさはある。
悲しさもある。
それでも前へ進むしかない。
数字は嘘をつかない。
現実も嘘をつかない。
ならば見るべきものは決まっている。
彼女は帳簿の最初の頁をめくった。
「さあ、お父様」
「ディール男爵家の経営診断を始めましょう」
こうして没落令嬢の反撃は、復讐ではなく、一冊の帳簿から始まったのだった。
泣き崩れ 嘆く間もなく 紐解かん
数字のなかの 明日への活路




