第10章:最後の一口と、王太子の涙
『レティーナ』が王国全土で成功を収め、私の名前が「食の革命家」として知られるようになった頃。王都店の片隅の席に、フードを目深にかぶった一人の男性客が座っていた。他の客がステーキの登場に沸き、家族や仲間と談笑する中、彼だけが一人、俯いてテーブルを見つめている。
私はその客の姿を一目見て、すぐに誰だか分かった。変装しているつもりだろうが、その身にまとう雰囲気や、時折見える金の髪は隠しようもない。
アルフォンス・フォン・エルマイヤー。かつて私を断罪し、追放した王太子、その人だった。
私はあえて気づかないふりをして、一人のウェイトレスとして彼の注文を取りに行った。
「ご注文は、お決まりでしょうか」
彼は私の顔を見ず、メニューを指差して小さな声で言った。
「……サーロインの、ミディアE……いや、よく焼いてくれ。ウェルダンで」
まだ、私の言葉を素直に受け入れられないらしい。プライドが邪魔をして、「ミディアムレア」と注文できないのだろう。微笑ましいことですわ。
私は厨房に戻ると、最高級のサーロインを一枚、鉄板に乗せた。ただし、焼き方はウェルダンではなく、完璧なミディアムレアで。これが、私の最後の意地悪であり、優しさだ。
ステーキを彼の前に運ぶ。彼はフォークとナイフを手に取り、無言で肉を切り分けた。そして、その美しいロゼ色の断面を見て、ハッと顔を上げた。その瞬間、彼の瞳が私を捉え、大きく見開かれた。
「……この味……この焼き加減……レティシア、なのか……?」
彼の声は、震えていた。私は何も答えず、ただ静かに一礼してその場を離れた。
アルフォンス殿下は、しばらく呆然と肉を見つめていたが、やがて意を決したように一口、また一口と食べ始めた。その表情は、驚きから感嘆へ、そして深い悔恨へと変わっていくのが遠目にも分かった。
サラダバーの野菜の新鮮さに、ドリンクバーの目新しさに、そして何より、ステーキの圧倒的な美味しさに、彼は打ちのめされている。自分が「庶民を見下す悪女」と断罪した女が、今やこの国の民から最も愛され、食文化の頂点に立っているという事実を、その舌で思い知らされているのだ。
彼は最後の一口をゆっくりと口に運び、長く、長く味わっていた。そして、ナイフとフォークを皿の上に静かに置くと、俯いたまま、その肩を震わせ始めた。静かな、嗚咽が聞こえる。
「……すまなかった……。私は、お前のことを見ていなかった……。何も、分かっていなかったんだ……」
それは、誰に向けた言葉だったのか。私か、あるいは彼自身の愚かさにか。
涙の理由は、私にはもうどうでもよかった。ただ、私のステーキが、一人の凝り固まった男の心を溶かした。その事実だけで、十分だった。
翌日、王宮から正式な謝罪と、王都への帰還を求める使者が来たけれど、私は丁重にお断りした。
私の居場所は、もうあの窮屈な王城にはないのだから。




