繰り返す婚約破棄の呪いを解くのは王子というよりも
時計の針がいつもの時刻を指し、鐘が鳴ったあとだった。
「今宵、僕はウラニアと婚約破棄をすることを宣言する! 真実の愛のために!」
夜会が盛り上がっている最中、ボールルームの中央で私の姉・ウラニアの婚約者であるネストルは踊りを中断して、いきなりそう大きく宣言した。
その傍らには、婚約破棄の原因とされるものの、姉の美しさには到底かなわない令嬢が立っている。
そして、彼らの周りにいる貴婦人たちは扇子をゆらゆらと揺らして囁くようにして笑い、男たちも姉がどう反応するかと期待をしていることを隠さない仕草をしていた。
一方で、私はその様子を忌々しく見つめていた。
だが───
企みを成功させようと笑みを浮かべるネストルの視線の先に、婚約破棄を宣言されるはずの姉の姿はなかった。
それに気づいたネストルに続き、周りの者たちもどういうことだとどよめき始めた。
すると父の家臣が「大変でございます!」と叫びながら、夜会の最中であるにもかかわらずボールルームへ飛び込んできた。
彼は国王である我が父に向かって、突然城がいばらで覆われて外に出られなくなっていると説明した。
彼の言っていることに驚いた招待客たちは次々に窓の外を見た。
手入れされているはずの庭園は、鋭い棘がついた太い茎のいばらに埋め尽くされていた。
「なんなんだこれは!」
「我々は幻でも見ているのか!」
皆が騒ぎ立てるなか、私だけは何もせずその場に佇んでいた。もはや私にとって、彼らの反応も含めて見慣れた光景だった。
これで何回目、いや何十回目、いや何百回目だろうか。
私はそんな慌てふためく彼らを尻目に見つつボールルームを抜け出ると、いつものように人の通りがない廊下に向かった。
そして、これまでしていたように、壁につけられた無数の傷の中に新たな傷を仲間入りさせた。
事の始まり。それはネストルによる婚約破棄宣言からだった。
その瞬間、彼の目の前にいた私の姉であるウラニアは、大きくショックを受けてその場に崩れた。
侍女が呼びかけたり、気付け薬を使っても彼女は全く動かないため、召使たちに抱きかかえられながら寝室へと運び込まれた。
一方のネストルは、自分がやらかしたことにもかかわらず、まるで他人事といった様子を見せていた。
「おいおい。倒れるなんて、いくら何でもやりすぎだ……」
周りにいる仲間とそう言って笑いあっている彼を、私は思い切り睨みつけた。
さらに彼は悪びれた様子もなく、何かを話しかけに父の方へ向かい、宴は続行されることになった。
すると───
「大変でございます!」
家臣が無礼を承知で宴に突然乱入してくると、突然いばらが城を覆ったと皆に向かって必死に説明し始めた。
しかも、姉を寝室の寝台に寝かせて扉を閉めた途端に、いばらの蔦が城内まで侵入してきて扉を見事に塞いでしまったということも。
「陛下、これは呪いではなのではないでしょうか……」
そう呟いたのは、父の家臣のうちの誰かだった。
「恐れながら、これはきっとあの時の聖女が言っていたことに違いありません!」
父はそんなはずはない。もう悪魔や魔女といった信仰はとっくに廃れているはずだ! と彼に向かって叫んだ。
私たちは当然、混乱状態に陥った。
幸い武器庫は蔦で覆われていなかったため、男たちは皆武装していばらを取り除こうとした。
しかし、いばらを切り刻んだと思った瞬間、血のように赤い樹液が流れ出たと思うと、たちまち元に戻ってしまった。
また、切ることができないのであれば火をつけてみろと、度数の高い酒を浴びせるようにかけ、松明の火を蔦に当ててもその部分が焦げ付くだけで焼き払うことはできなかった。
この状況では、呪いなんて信じたくなくても、私たちは信じざるを得なかった。
「どうか父上、お話しください。一体何があったのですか? お話してくだされば、もしかしたら誰かが呪いを解く方法を知っているかもしれません!」
長兄がそう父に尋ねると、父はしぶしぶ口を開いた。
姉が誕生した際、初めての女子だと父は大いに喜んだ。
そして彼女が将来幸せになれることを願い、伝統に倣って国中から聖女たちを呼びその祝福を授けようとした。
ところが。
一人の聖女だけは様子が異なった。彼女は姉を見た途端に、顔を青ざめさせて呪いがかかっていると父に報告した。
「心から愛する人を失ったと絶望したとき、彼女には大いなる呪いが降りかかることとなるでしょう」
魔術にも精通している自分であれば解くことができるが、それを解くには悪魔と交渉する必要があるため、それなりの対価が必要だと金銀や宝石を要求した。
しかし、他の聖女たちはそんな呪いは自分たちは見えないと、彼女の言うことを否定。
他の聖女たちの言うことを信じ、金目当ての詐欺だと疑った父は、彼女が聖女であることも疑わしいと永久国外追放に処したのだ。
父が話し終えたあと、私も含めてその場はしんと静まり返った。
「だれか、解く方法がわかるものはいないか!」
宰相がそう叫んでみたものの、誰も答えるものはいない。
「ネストルは付き合いも古く、ウラニアを深く愛していると誓っていたから、信用して婚約を許したというのに……」
自身への後悔からだろうか。父は力なくそう漏らした。
窓の外はいつの間にか明るくなり始めていたが、その場にいたものは皆、疲れ切って座り込んでいた。
「ここから出られないなんていやよ!」
「このまま年老いて、この城の中で死んでいくというのか!」
「誰か助けてくれ……」
泣き叫ぶものも、怒り狂うもの。
自身の思いをそれぞれ口にしていたが、次第にあることが皆の中で生まれているようだった。
絶望。
そんな言葉がふと頭をよぎった瞬間、誰かがこんな言葉を漏らした。
「彼のせいだ!」
それを誰が言ったのかはわからない。
だが、その人物の言葉を皮切りに、この混乱の現況になったネストルに向かって群衆が彼を殴ろうと襲い掛かった。
貴婦人たちからは悲鳴があがり、ネストルの仲間たちが彼を庇おうとする。
そして窓からは、昇った日が混乱極まるボールルームを照らし出そうとしていた。
まぶしい───
気が付けば、私はボールルームの中にいた。
周りを見渡すと、貴婦人たちは楽しそうにお喋りをし、中央では宮廷楽団の演奏を背に男女が踊っている。
これは一体? 先ほどの出来事は? 私は夢でも見ていたのだろうか?
私が独り言を漏らすと、突然時計の鐘が鳴った。すると踊りの輪から抜け出したネストルが、その場で姉と婚約破棄すると大きく叫んだ。
私は先ほどと全く同じ光景に、いや、この場に姉がいないという違いこそあれ、それ以外は全く変わらないことに驚きを隠せなかった。
いばらの蔦が城を覆っていることを伝える家臣、窓からそれを確認する人々、呪いだと呟くもの、いばらを取り除こうとする男たち、そして姉のことを話す父。
全て先ほどと同じ。
だが、姉がいない事を除いて異なるのは、私が先ほどの記憶を持っていること。
「だれか、解く方法をわかるものはいないか!」
宰相が叫んだ瞬間、私はとっさに大きな声をあげた。
「繰り返しています!」
一斉に視線が私に向かって集まった。
「みなさん、いばらだけではありません! この呪いは同じことを繰り返しているようです! どなたか私以外にわかりませんか!? 私と同じ人は!」
私は必死にその場で叫んだが、皆首を横に振り、誰も私に同調してくれる人はいなかった。
「彼のせいだ!」
同調するどころか、再びネストルを非難する声が上がった。そして彼に襲い掛かろうとする群衆。悲鳴。彼らを止めようとする怒号。
そんな混乱を見せる中で、やっと誰かがこう声をあげた。
「そうだ。同じだ……まったく先ほどと」
その声を聞き、その場にいた皆は目を瞬かせたり、顔を歪め、次々と記憶を取り戻していった。
「同じ、同じだ……! 同じ晩の出来事を繰り返している!」
人々が口々に囁き合う中、窓から差し込む明るい陽射しが、再び私たちを包み込もうとしていた。
その瞬間、再び私はボールルームにいた。
そして今日も私は夜会を抜け出ると、ある場所に向かっていた。
私が向かっていた先は、この国の始祖の時代からある古めかしい書物から、最近の書物まで並べられている大きな図書室だ。
テーブルの上に火を灯した燭台を置き、いつものように書架の一角から、埃まみれの魔術伝承に関する本を取り出し、辞典を使いながら解読しようとするものの、それらしい答えは今日も見つからなかった。
私は大きくため息を吐き、テーブルの上で両手を組んだ。
「むしろ呪いなんて解けないほうが良いのかもしれない……」
次第に私は、この世界に囚われたままでいる方が、実は幸せなのではないかと思い始めていた。
それというのも、私は姉のウラニアとは全く血がつながっていない。
正確に言えば、若くして未亡人となった自分の母が、今の父である国王の後妻として選ばれたのだ。
父には二人の男子がすでにいた。
しかしそれでも安泰ではないと判断した父は、まだ男子を出産出来る可能性と他国への影響を考えて、私の母を妻として迎えることにした。
つまり私は母の連れ子。
父は兄たち同様に、私も自分の子のように育てると迎えてくれた。しかし、兄たちはそれに猛反発した。
私の本当の父は、信頼の厚い将軍職に就いておりながらも、この国の純粋な貴族ではなく異国の血を引いていた。
それゆえ、この国一の学者と評されるが純血主義者であるアーサー卿に師事して育った兄たちは、当然のように私のことを気に入らなかった。
「お前の父は異国の血ゆえに武勇に優れていたそうだが、王家である我々にはそのようなものは不要だ」
「我が国が発展したのは、優れた血統による団結力によるもの。ルーツが同じだからこそ信頼がおける」
自分の子のようにとはいうものの、明らかに父は私のことを兄たちよりも可愛がってくれた。
それに嫉妬を覚えた彼らは、私の中の半分はこの国の人間たちと変わりがないのに、私をまるで汚れている物のように扱った。
けれども、アーサー卿ではなく博愛主義のレディ・リネットに育てられた姉だけは違った。
兄たちに「お前はこの国の貴族が誇る黒髪じゃない」とからかわれて泣いていた私に対して、姉は私の長く波打つ髪を光り輝くように美しいと褒めてくれた。
王室の行事や神事で兄たちが私が同席するのを嫌がったり無視する時も、彼女だけは近くに来るようにと必ず手招いてくれた。
そんな優しかった姉が、数多くの求婚者がいる中で、どうして彼なんかを選んでしまったのだろう。
「レミー、あなたの笑顔を見ていると私は幸せよ」
かつてそう言ってくれた、美しく優しかった、私の姉さま。
せめてあの瞬間、私が彼女を抱きしめて寝室へ連れていくことができたのならば。
けれども、何かのはずみでこの呪いが解かれた瞬間、私たちは一体どうなるのだろう。
姉さまは裏切ったネストルに見切りをつけるのだろうか。自分を愛してくれない者など不要だと、王女たる凛とした振る舞いで。
それとも彼と和解し、彼もまた一時の気の迷いだったと婚約破棄をなかったことにするのだろうか。
私に婚約が決まったと告げたあの日のように、姉さまは静かにまた彼の愛を受け入れようとするのだろうか。
もしそうなれば、姉さまはネストルと共に遠くに行ってしまう……私を置いて。
そんな終わりを迎えることにふと恐怖を感じた私は、これ以上解決方法を探すことを今宵はやめることにした。
図書室を出て、ボールルームに再び向かう。
外廊下から時計塔の時刻を確認すれば、きっとまだ皆がいばらの蔦と格闘しているころ合いだろう。
そう思いながら、私はその中に戻っていったのだが……
その時の空気は、普段と妙に違うような気配を私は感じとった。
ボールルームの中央では、自分たちが元凶であるのに何もせずに談笑しているネストルが相変わらずいる。
私は彼のことを自然と睨みつけるようにして見つめた。
すると、ネストルの友人の一人である男が、駆け足でボールルームの方へ戻って来た。
「やっぱりそうだ! 繰り返しているんだ!」
彼は声を張り上げ、その場で大声を上げた。
当然、私は彼に驚いた。私以外に夜が明ける前にこの呪いの真実に気づくものがいるなんて。
彼は外の方向を指差して、あの廊下の壁をみろ! 傷が増えているとさらに叫んだ。
その先には、ずっと私がつけていた傷があった。
「ルーデンス。落ち着けよ。何言ってるんだ」
いつもの様子と違う友人の姿に、ネストルは呆れるようにして笑った。
私はこの瞬間、何かが変わる予感がして凍りついた。
「お前のくだらない企みに乗るんじゃなかった! お前のせいで我々も呪われたんだ!」
男は他の仲間からも宥められつつ、気でも狂ったかと笑われた。
「なあ、謝るから。きっとそのうち出られる……」
ネストルがそう言った瞬間だった。
「うるさい! 黙れ!」
男は隠し持っていた短剣を鞘から引き抜き、ネストルに向かって突進した。
うめき声と共に、ネストルはその身を屈ませた。
彼の周りにいた他の仲間が男を取り押さえるも、ネストルの膝下には赤い雫がポタポタと落ちている。
私も含め、取り押さえた以外の人間は唖然としていた。
しかし、苦しむ彼がその場に膝をついた途端、私の頭の中にある不安が湧き上がった。
彼が死んだら、この城はどうなってしまうのだろう。彼と共に私たちも消えてしまうのだろうか。
そう思った瞬間、私は彼に向かって駆け寄っていた。
「誰か手を貸してください!」
私は彼の友人たちに向かってそう叫び、彼を長椅子まで運んでくれる人を求めた。
彼を長椅子に寝かせ、止血するために彼の上着を割いて傷口に充てる。だが、傷はかなり深く、止めようとしても生温かい血が流れ出るばかりだった。
「死にたくない……」
顔が次第に青くなりつつあるネストルは、私に向かって小さく呟いた。
「こんなの呪いのはずがないんだ……」
彼の言葉に、止血し続けていた私の手は止まった。
「呪いじゃない……呪いじゃないって、どういう事ですか?!」
私は彼に向かって叫ぶように聞いた。
ネストルは深く深呼吸すると、なんとか気力を絞り出すようにして、そんなはずがないんだと呟いた。
「呪いのはずがない……ウラニアは知っていたんだ……知っていた……これはいたずら……彼女が絶望するはずなんて……ない……」
突然、彼はそう言ったまま天を見つめて動かなくなった。
私は必死に彼の名前を呼び、揺った。しかし、彼の胸に耳を充てれば心音は次第に弱まり、ついに聞こえなくなった。
私はその場で呆然と立ち尽くした。
ネストルが死んだ。
「おい、ネストルは? ネストルはどうしたんだよ!」
ネストルの友人たちは私を突き飛ばすようにすると、すでに事切れている彼に起きろよ! と言って叫んだ。
しかし、無反応なネストルに彼らは啜り泣き始めた。
一方の私は彼の残した言葉を頭の中で反芻した。
いたずら……絶望するはずがない?
どういう事だろうか。
呪いは絶望して起こるはずなのに。姉さまは絶望していなかった……?
ふと、そんな考えが浮かび上がった。
私はネストルが婚約破棄する以前、何か姉さまにおかしなところはなかったかと思いを巡らした。
しかし、何も思い出すことはできなかった。
そのまま、ネストルの死を嘆き悲しむ彼の友人たちをただ見ていたが、あるものがこう大きく叫んだ。
「ほんのいたずらごっこなだけだったじゃないか! 誰も不幸になんてなるはずはなかった! ネストルはウラニアをちゃんと愛していたのに!」
私は耳を疑った。
そしてとっさに、叫んだ者の両腕を掴んでいた。
「彼が姉さまを愛していた? どういうことですか?! 彼は姉さまの目の前で婚約破棄を宣言したではないですか!」
男は目を赤くしながらこう言った。
「だからそれはいたずらだったんだ! 本当は婚約破棄なんてするつもりは根っからなかった。ただ、
彼女の反応が見たかっただけなんだ!」
私は目を瞬き、自身に震えが起きるのを感じた。
彼らはただ、姉さまを揶揄うだけのつもりだったなんて。
可哀想な姉さま。いたずらとはいえ、どれほど傷ついたのだろう。
「あなたたちは最低です……!」
私は彼を突き飛ばすように離して、その場を離れた。
ボールルームを飛び出し、私は暗い城内をあてもなく彷徨った。
単なる彼らの子供めいたことのために、私の愛する姉さまは深く傷ついたなんて。
本当にネストルはしょうもない男だった。どうしてあんな男のために……
私は悔しさのために、いつの間にか涙を流していた。
だが、無意識のうちに姉さまを求めていたのだろうか。
そんな風に思考を巡らすうちに、気がつけば彼女の寝室の前まで足を運んでいた。
扉にはびっしりと細かい蔦が絡まり、さらにそれを庇うようにして太い蔦が絡まり合っていた。
すでに召使たちの姿はなかったが、寝室の扉を開けようとしていたのか、大斧やナタが扉の前の床には置きっぱなしになっている。
私は先ほどの男の言葉を思い出した。
ネストルは姉さまを愛していた。
先ほど彼は死んだ。しかし、また朝がやってきたら?
全てはまた振り出しに戻り、彼もまた生き返るのだろうか?
私はそう思った途端、恐怖に震えた。
もし、彼が蘇り、呪いも解ければ姉さまはきっと彼を許してしまうだろう。姉さまもまた彼を愛しているのだから。
私は再び頬に涙が伝わるのを感じた。あの男に大事な姉さまを渡したくない。
でも私にはどうすることもできないのだ。
自分の無力さに再び怒りを覚えた私は、床に残されていた大斧を両手で握った。
ああ、忌々しい棘の生えた蔦よ。
私はそれの一番太い部分に狙いを定め、ネストルの首に見立てて思い切り振り下ろした。
水分を含んだ繊維が切れる音。続いて話に聞いていた通り、赤い樹液が流れ出た。
私はそれをただ見つめていた。
どうせすぐにでも再生してしまう。それなら、再び斧を振り下ろし、自分の力が尽きるまで何度もやってやろうと思っていた。
しかし、不思議な事に蔦が再び生えてくる様子は全く感じられなかった。
なぜ……と思ったが、私はあることに気がついた。
私は元に戻ってしまうたびに、廊下の壁を傷つけている。
けれども、どうして壁の傷はそのまま残っているのだろう。
思わず私は息を呑んだ。
そして、自分の服や肌が傷つくのも躊躇わず、夢中で太い蔦を切り裂いていき、とうとう寝室の扉を露出させるまでに至った。
この扉を破れば、その先には姉さまがいる。
私の中ではネストルのことはすっかり抜け落ち、最後の力を振り絞って扉の錠を叩き壊した。
とうとう扉が開いた。
私は斧を手にしたまま慎重に扉を開けると、部屋の中は姉さまが好んでよく使っていた香水の香りが漂っていた。
額から流れた汗をシャツの袖で拭い、恐る恐る姉さまの寝ている寝台へと近づいた。
両手を上半身の上で組み、長いまつ毛に縁取られた目を閉じたままの姉さま。
私の中の記憶とはなんの変わりのない姉さま。
陶器のような肌、薔薇色のほほに、小ぶりで上品な唇。
久しぶりにみた彼女の美しさに、私はしばらく見惚れていた。
しかし、ふと視線を横にずらせば、見慣れた分厚いノートが机の上に置きっぱなしであることに気づいた。
あれは確か……姉さまの日記。
以前、庭先のテーブルに座っている姉さまに声をかけた時、ちょうど彼女はそれに何かを記していたのだ。
いつもどんな事を書いているの? と尋ねたが、内緒と結局は教えてくれなかった。
姉さまは一体どんな事を考えていたのだろう。
そう思った私は、読んでみたいという衝動に駆られ、すぐさまパラパラとそれをめくった。
目を通したものの、中身は取り止めもないことしか書かれていなかった。
「人に知られたくないものは、日記にも書かないほうがいいのよ」
そう言えば、昔そのように姉さまは言っていた。
どこか秘密主義的であることも、私が姉さまに惹かれてしまった理由なのだろう。
そう思った矢先だった。
私はあるページを見た瞬間、呼吸が止まるような感覚に襲われた。
そのページにはこう書かれていた。
『今度の夜会が終われば、私はネストルとの婚礼のためにこの城を経つことになる。私は本当に幸せになれるのだろうか。私は全てを忘れて、彼の元に行けるのだろうか』
『今日はレミーに、姉さまの花嫁姿はとても綺麗なんだろうねと言われた。どうしてそんなことをあなたは平気で私に言えるの?』
『今日はレミーにも婚約者の選定をと、父と母が嬉しそうに話しているのを聞いてしまった』
『逃げたい、逃げたい、逃げたい……だって私が本当に愛している人は……レミーだけなのに』
読み終えた私は呆然とした。
ゆっくりと顔を上げてみれば、窓の外が次第に赤みを帯びている。
もう少し経てば、夜は明けてしまうだろう。
私は再び姉さまの顔を見つめて、寝台の上に腰を下ろした。
「姉さまも私のことを……本当に愛していてくれていた?」
囁くように私はそう問うたが、彼女からは何も返ってこなかった。
「よく私の顔を綺麗と褒めてくれたけど、あなたの方が完璧で私よりもずっと、ずっと美しいのに」
私はそっと彼女の頬に手を寄せた。
自分とは違う柔らかな頬。本人は気にしていたが、子供の頃から変わらない丸みのある形を私は可愛らしく思っていた。
「あなたが私の髪色に似合うと選んでくれた様々な色のリボン。私のお気に入りはグレー。今思えば、それはあなたの瞳の色だった」
それは今でも変わらない。グレーのベルベットのリボンが、今まさに私の髪を束ねている。
「そして、いつから私たちは手を繋がなくなってしまったのだろう」
ほっそりとした女性特有の白い手に、私は自分の手を重ねた。
かつては自分よりも大きかった姉の手は、今の私の手よりもすっかり小さくなっていた。けれども柔らかさはあの頃と全く変わらないままだ。
「……私もあなたと同じ。あなたのことを愛してる」
私が幼い頃に姉がそうしてくれたように、私は彼女の額を指でそっと撫でた。
そして彼女は、よく眠れる魔法のおまじないと言って、額にキスをしてくれた。
いつだったか、私は彼女に対してどうして唇にはしてくれないのかと冗談めかして問うた。
「それは好きな人との初めてにとっておきなさい」
姉さまは叱るように言いつつも、笑みを浮かべてそう返した。
私は彼女の唇に親指をそっと這わした。
「私はあなた以外にしたいとは思わなかった。どんなに美しい人が目の前に現れても」
もし、姉さまが起きていたらなんというだろう。思い切り私に平手打ちを喰らわしただろうか? 泣いただろうか?
それとも……
私は自身の顔を近づけて影を落とした。
初めて重ねる姉の唇。私の知らなかった柔らかさ。温もり。甘み。瑞々しさ。
すると───
足元で布がこすれた音がするような気がした。続いて小さなうめき声。
私が彼女から顔を離した瞬間、その瞼がひくひくと動き、見開くようにして瞳が開いた。
「姉さま!」
思わず私は彼女に呼びかけ、腕を回して抱きしめた。
「レミー……」
囁くようにして彼女が私の名前を呼び、細長い手で私の身体を抱きしめてくれるのを感じた。
朝焼けが広がる窓から、白い太陽の光が差し込む。その光に包まれながら、私たちはそっと目を閉じた。
◆◆◆
聞き覚えのある音が聴覚を刺激する。何度も聞いたヴァイオリンの旋律。深みを与えるチェロの低音。
転調すると思った瞬間、遠くから鐘の音が鳴り響いた。
すると、一組の男女が突然踊りから抜け出し、ボールルームの中央で立ち止った。
彼は皆の注目を集めてさも愉快だというような仕草をしたあと、声を大きく張り上げた。
「今宵、僕はウラニアと婚約破棄をすることを宣言する! 真実の愛のために!」
笑っている彼の視線の先には、一人の黒髪の女性が佇んでいた。
彼女はその言葉を聞いた瞬間、顔から一切の表情が消え去った。
周りにいた大半のものは驚きを隠せないでいたが、何か事情を知っているらしきものは堪え笑いをしている様子だ。
「さあ、ウラニア。君はどうする?」
男が挑発めいた言葉をさらに漏らすと、彼女はドレスを掴んだままその場で固まった。
泣いてしまうのだろうか? 怒りだすのだろうか? それとも気が狂ったように笑いだす?
彼女の反応を待ち望んでいる男たちからは、そんな声が漏れているような気がした。
「ネストル。私は……」
彼女がそう言いかけた瞬間だった。
「姉さま。あちらへ行こう!」
私は話し終える前の彼女の手首を掴み、強引にその場を離れさせた。
その行動を見たものたちは、呆気に取られたり、互いに顔を見合わせたり、目を瞬かせたりしていた。
これは予想していなかった! まさかあの方が出てくるとは!
群衆からそんな声も上がっても、私は立ち止まることなく人混みをかき分けるようにしながら、姉さまをボールルームから連れ出した。
気がつけば、私は再びまたあの時間のあの場所に元に戻っていた。
だが、唯一違う点は姉さまも戻っていたことだ。
そして私の方は、自分が置かれた状況を冷静に考えることよりも、怒りや何度も、いや何百回と感じた後悔の方が勝っていた。
大切な姉さまが笑われるのにも耐えられなかったが、それよりも彼女の手を放したくなかったのだ。
傷一つない壁の廊下を超え、向かった先は私の部屋だった。
私の部屋に入った途端、姉さまは両手で顔を覆い激しく泣き出してしまった。
「姉さま。どうか落ち着いて」
彼女の背をさすりながら、私は優しく声を掛けたが彼女は首を横に振るだけだった。
しばらく待っていても、彼女が泣き止む様子は全く変わらなかった。
私は意を決して、彼女に打ち明けることを決めた。
「姉さま。どうか驚かないで聞いて欲しい……」
彼女に果たして信じてもらえるか疑心暗鬼になりつつも、自身が経験したことを話した。
ネストルの婚約破棄宣言がきっかけで、姉さまは眠りにつき、皆は城に閉じ込められて何度も同じことをくり返すという呪いのことを。
そして呪いのきっかけは、姉さまが愛する人と結ばれないと絶望した時によるものだと。
姉さまはその話に驚きつつも、私の目をまっすぐ見つめた。
「レミーが私に嘘を吐くはずはないわね。でも、あなたがネストルのせいだと思っているなら、それなら違うわ……」
さらに首を横に振ってこう言った。
「ネストルがいたずらであんな事をすると、私は最初から知っていたの」
彼女によれば、もちろん当初は何も知らなかった。
けれども偶然、ネストルと彼の仲間がこの計画をしていると知ってしまう。そして自分の反応が賭けの対象になっていたということも。
「だから、驚くとか、悲しむとか、怒るとかでもなんでもいい。君が好きなようにやってくれ」
ネストルは本当に愛しているのは君だけだと言って、姉さまが反応した後、すぐにいたずらだったと白状することを約束したそうだ。
私はその事実に目を瞬かせた。
「それじゃあ、姉さまのあの様子はわざとだったということ?」
姉さまも一人の女性だ。あのような場であのようなことをされたのなら、多かれ少なかれショックを受けるのはおかしくない。
でもそれは何も知らなかった場合だ。
実際は姉さまは知っていたのだ。彼のやったことはただのいたずらだったという真実を。
それなのに、私にはあのようなふるまい方はどうしても演技には見えなかった。
「それは……」
姉さまはそう小さく呟くと顔を伏せた。
私たちの間に少しの沈黙が降りた。
すると、姉さまは何を思ったのか部屋の扉の前まで行くと、締めてなかった閂を掛けた。
そして私の方に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。
「そうじゃない。もう逃げられないと思ったからよ」
「逃げられない?」
「ええ」
頷いてそう返した姉さまはこちらの近くまで寄ると、突然腕を伸ばして私の腰に巻きつけた。
「彼の婚約破棄が本当だったらどんなに良かったことか……! でも結局あれは彼のただのお芝居。茶番劇。そう思ったら、もう私は逃げられない思ったの。私は彼と結婚しなければならないって……」
姉さまは再び涙声になり、私の名前を呼んだ。
「レミー……本当のことを言うと、私は彼ではなくてあなたのことが好きだった。あなたのずっと側にいたいのに」
さらに姉さまからは、信じられない言葉が続いた。
「お願いレミー。今夜、私と一晩を過ごして……」
思わず息を呑んだ。
それが何を意味するのか、無垢な乙女でもないのだから当然私もわかっていた。
「私を今夜、あの人から奪って! あなたとの一夜を思い出に、私は修道院に入るから!」
姉さまはそう言うと、踵を伸ばして私の顔に手を触れさせ唇を押し付けた。
これは現実なのだろうか?
一方の私は目を開いたまま、その場で立ち尽くしていた。彼女は少し震えた様子で唇を離した。
「だめ……?」
悲しみを帯びた声。
彼女からその言葉を聞いた私は少し身を屈めた。
すると、彼女は再び私に唇を重ね、むさぼるようにして何度も何度も口づけを繰り返し、私もそれに応戦するかのように舌を入れてやり返した。
私たちはもつれ合うようにして寝台に倒れ込んだ。
いつのまにか、私はネストルからもらったという姉さまのネックレスを引きちぎり、反対に姉さまは私の髪を留めていたリボンを外し、それが肩に流れていくのを私は感じた。
共に半狂乱といった状態に近かったのかもしれない。気がつけば私は彼女を組み敷いていた。
それからその勢いに任せて、自分の刺繍が入った分厚い生地の上着を取り払って放り投げた。すると何かに当たったのか、一緒に硬い木の床へ落ちる音が聞こえた。
私が彼女の両手を押さえつけるようにして、荒々しく稚拙に白い肌に唇を滑らせているなかで、突然ゆっくりと優しい金属音が流れ始める。
それは私が昔、姉さまから貰ったオルゴールだった。懐かしい、穢れなど何も知らない子供だったあの頃の。
音に囚われて急に私が動きを止めると、彼女はやめないでと言って、苦痛に近いほど膨れ上がった欲望に手を伸ばそうとした。
しかし、我に返った私は彼女のか細い手首を掴んだ。
「やっぱりいけない……これ以上は」
「どうして?」
姉さまは胸を上下させ、結い上げた髪は少し振りほどけており、それがより一層蠱惑的に魅せていた。
一方の私は、まるで理性を嘲笑うかのような、自分の中のもっと奥から暴れ出ようとする欲望を抑えるのに必死だった。
欲しかった人は今すぐ目の前にいるのというのだから……
なんとか落ち着かせようと、私は喘ぐようにして息を整えた。
あなたのことは愛している。けれども、穢したくない。罪を負わせたくない。
それが言いたかった。でも言えなかった。
答えられずにいると、姉さまの顔は次第に曇っていった。
「やっぱり、あなたに私は受け入れてもらえないのね」
再び姉さまの目が潤み始めていた。
そんな最中だった。
突然、大勢の足音と共に部屋の扉が激しく叩かれ始めた。私は驚き、とっさに姉さまを庇うようにして片手で抱き寄せた。
反省したネストルの友人達が追いかけて来たのだろうか?
それとも、まさか彼女と私のことに誰かが気づいたのだろうか?
外では必死に開けてください! 開けてください! と大きな声が張り叫ばれている。
しかし、私は妙な違和感を覚えた。
その叫び声は謝罪をしようとする必死さや、私たちの悲劇を予感して、必死に止めようとする金切り声や、怒号といったものではなかった。
むしろ歓喜に湧いたような、祝福をしているような、そんな賑やかしさのある声だった。
私は姉さまを寝台に残して降り、上着を羽織って扉の前に立った。
「何事ですか!」
私が扉越しに叫ぶと、宰相の声が聞こえた。
「殿下。どうかこの扉をお開けください。あなたにお伝えしなければならない事がございます。どうか、今すぐにこの扉を……!」
彼の声に続くようにして、どうかお願いしますと父と近い家臣たちが懇願する声を上げた。
私は寝台の方に振り返り、姉さまにそこから離れるように仕草を送ると、閂を外して扉を開けた。
開いた扉の向こうには、宰相の他、様々な家臣たち、そしてそれ以外の様々な貴族たちがおり、私と目があった瞬間、一斉に彼らは膝をついたりお辞儀をした。
私のことをあれほどまでに嫌っていた、不仲な兄たちでさえも。
「殿下……いいえ、陛下。どうか今すぐに出発のご準備を」
宰相は私になぜか嬉しそうな顔でそう語りかけた。
「出発? 出発って一体どこへ……」
「驚かないで下さい。ついに、ヴァルディウス帝国のフィリッポス四世が崩御なされました」
その言葉のあと、その場にいた皆が、私に向かって皇帝御即位おめでとうございます、ジェレミー様万歳と大きな声を上げた。
私は一瞬聞き間違えたかと思った。しかし、教皇からの正式な書とその他の書類を従えたものが、私にそれを見せた。
「本当に私が……? フィリッポス四世はこの世を去るにしてはまだ若いはず……」
「ええ。元からお身体は強くありませんでしたが、流行り病にかかり回復せずに……そして、序列第一位の例の老公爵は、年齢と体力の問題から引き継ぐことを拒否しました。また本来であれば、次はあなたのお父上であったレオン様に渡る予定でしたがすでに故人。ですから、あなたなのです。男系男子であるあなたが皇帝陛下に」
まさかこのタイミングでこの話が降ってきたことに、私は運命を感じざるを得なかった。
ヴァルディウス帝国。
それは豊富な資源と圧倒的な知性を持ち、他国の追随を許さない大国だ。
そしてフィリッポス四世は幼帝として即位したものの、生まれつき体が弱く、成長してもなおそれは変わらないゆえか異常に権力に執着した。
本来であれば、次代の皇帝は諸国のものにより選挙で選ばれるものだった。
だが、彼は自分の身体を理由にいつかクーデターを起こされるのではないかと疑心暗鬼になり、無理やり継承は男系男子に継がせると制定した。
そして、正妃の他に多数の側妃を迎えたものの、待望の男子はなかなか生まれない上に、自分の体質を受け継いだのか、僅かに生まれた男子は皆成人を待たずに神の元へ戻った。
その話を私の現在の父は、迎えてすぐの頃に話してくれた。
自分はフィリッポス四世の子供が継げるとは到底思えない。そして老公爵はまったく政治に興味はなく、芸術品の収集にしか熱心ではない。
そんな状況下だ。もし何もしないでいれば、彼に何かあった場合は自分こそが皇帝に相応しいと自ら名乗り出るものがいたり、あるいは選挙の復活を求めて不要な争いが起こるかもしれない。
だから時期皇帝を見据えて、私をただの侯爵家の残された一人息子として放っておくのではなく、自分が責任をもって将来の皇帝として教育しようと決意した、と。母も熱心な説得により、父との再婚を決意した。
まあ、今思えば父は聖人のような思想や使命感というよりも、この国が有利になるようにと政治的な面が強かったのもあるだろうが。
そういう訳で、兄たちはいつか私よりも下の存在になる可能性があることを知り、子供じみた嫉妬により私を嫌っていた。
「さあ、どうか。陛下。聖地にて今すぐ皇帝即位の宣誓をなさってください。いくら教皇の許可や老公爵の放棄があるとはいえ、諸国が黙っているとは到底ませんから」
宰相は召使に、私が長旅に出るための長靴や手袋などを持って来させた。
私は後ろを振り返った。そこには、私に向かってお辞儀を静かにする姉さまがいた。
「おめでとうございます。陛下。どうか良い旅を……」
彼女はそう言って私を送り出そうとした。
もう彼女は私のことを諦めると決意したのだろうか? その代わりにネストルとの婚姻を選ぶと。
ふと、そんな考えが私の中に広がった。
彼女は再び絶望を感じ始めている?
……でもそれなら、どうしてこの世界は再びいばらに包まれないのだろう。
それに気がついた瞬間、私のほうこそ諦められないという意思に支配された。
恥? 外聞? 前代未聞? そんなものはどうでもいい。
この先の自分にとって不可欠かそうではないか。単純にそれだけだ。
私は早足で彼女の元に近寄ると、耳元であることを囁き、再び宰相の元へ戻った。
「わかりました。直ちに向かいます」
私が旅立ちに同意すると、一仕事を終えたというような安堵した表情で、宰相は他のものたちに声を掛けようとした。
けれども、私が言いたいのはもちろんそれだけではなかった。
「ただし、行くのは私だけではありません」
その言葉に宰相や他のものたちは動きを止めた。
「彼女を。姉さま……いや、ウラニアの分の準備も行なってください」
すると彼らは、眉間に皺を寄せて目を瞬かせた。
「陛下、無礼を承知で申し上げます。いくらウラニア様といえど、お一人だけでお連れさせることはできません。どうしても必要であるならば、婚約者であるネストル殿もご一緒に行かせねばなりません。なにぶん、ウラニア様は未婚の女性なのですから……」
そう言って、宰相は後方にいたネストルの方へ視線を向けた。
何を思ったのだろうか。
彼は背筋を伸ばすと、両手を後ろで手を組み、新皇帝から同伴の命を受けるのを心待ちにしている、と言ったようか表情を浮かべていた。
けれども、それは私にとって一切要らなかった。
「その心配は不要です。彼女は……私の妻として同伴させますから」
その場にいた者たちは、一斉に息を呑むような音を立てた。
「陛下。何をおっしゃっているのです。ご冗談はよしてください……」
「いいえ、私は冗談など言ってません」
「そんな……ウラニア様はご婚約なさっているのですよ!? それに、血はつながってはいないと言えど、あなたの姉上……」
宰相も含め、他の人間たちもそれは駄目だと首を横に振った。
「では皇帝として命令する。私はウラニアを妻とすることに決めた。だから今すぐ、旅支度をするように!」
その場にいた者たちは、再びざわめきたった。
なんてことだ、信じられない、陛下は正気なのか……など。
だが、それを破るようにして大きな笑い声が起こった。声の主はネストルだった。
「ああ、陛下。先ほどの真実を知っていらっしゃるのですね。私を驚かそうとしないでください。ご存じの通りあれはただの冗談です。どうかお許しください」
そう言ってネストルは、私に向かって笑いながら頭を下げた。
「陛下も幼い頃は我々に混じって、ウラニアを驚かそうとしていたではありませんか。あの時となんら変わりない───」
しかし、それを許さないものがいた。
「いいえ。あのような場であのような振る舞いをしたのです。それに私たちはもう子供ではありません。それ相応の責任を持ってください」
凛とした女性の声。
「あなたは私の幼馴染で、気心しれた仲かもしれません。でも少なくとも私はこの国の王女。それを賭けの対象にするなど無礼千万。これは王室に対する侮辱です」
私の後ろから、ウラニアは扉の方へ近づいてネストルに向かってはっきりと述べた。
「あなたがたは冗談だったかもしれません。でも、私個人としても到底許せるものではありません。お望みどおり、婚約は解消いたしましょう。ただし、長年親しくしていた情けとして、あなたもそれに関わったものたちも罪には一切問いません」
人というのは自分の想像よりも上のことが起きると、笑いが止まらなくなるらしい。
ウラニアから言われたことを現実として受け入れられないのか、ネストルはいやきっとこれも冗談だ、何かの罠だなどと言って、平静を保とうとしていた。
いつもは穏やかな彼女が怒っている様子に、群衆はどうやら本気だと信じ始めたようだ。
また、その中には父と母も混じっているようだった。一体どうしてこうなったという顔をしている。
「陛下。どうか私にご命令を」
そんな周りの人間を無視して、ウラニアは私に向かって再びお辞儀をした。
黙って彼女を連れて行くことも、今の私ならば可能だった。
けれどもそうなれば、私の両親が無理やり同盟強化のために姉を押し付けた、などと諸国から難癖をつけられるかもしれない。
真実は私が最も望んでいる形だというのに。そして彼女もそれを望んでいる。
それのどこが問題だというのだろう。
他者にどうこう言われる筋合いなどありはしない。いや言わせるつもりはない。
「ウラニア。私の妻として、いや私の正妃として旅に同行するように」
混乱しているのか、母は顔に両手を当て大きく悲鳴を上げた。
父に至っては……石像のように動かないでいるようだった。
しかし、それにもウラニアは動じず、仰せのままにと再び頭を垂らし、私は彼女の手を取って廊下を歩み出した。
大急ぎで荷物が馬車に詰め込まれ、目的地へ向けて私たちは旅立った。
宰相が変に気を利かせてくれたのか、あるいはヤケになっているのか、それとも父の差金なのか、彼らは別の馬車に乗り込み、この車内には私とウラニアしか乗っていない状態だ。
私たちは、手を繋ぎ、笑い合い、何度も何度も口付けをした。
だがここで、ウラニアは何かに気がついた。
「ねえ、レミー。私、そう言えばちゃんと聞いてなかったわ」
膝の上に乗せた彼女へ口付けに夢中になっている私に向かって、そう尋ねた。
「何を?」
「あなたから、愛してるって言葉」
それを聞いた途端、私はこちらを見おろしている彼女から唇と目を離した。
「姉さま……いや、ウラニアは欲が深い」
私がそう言うと、彼女は小さく、えっ……という言葉を漏らした。
それが日常茶飯になっていたせいか、彼女にとってはもはや空気と変わりなかったのかもしれない。
私は小さくため息をついたあと、こう言った。
「ずっと昔から言っていたのに。『大好きって』」
今度はあっ……という言葉が聞こえた。だが、間髪を入れずに私は彼女の唇を再び塞いだ。
外を見れば、辺りはまだ夜の暗闇に包まれている。
それにくわえて、この辺は道が悪いのか馬車の揺れが酷い。御者もしばらくこんな道が続くと言った。
休憩も取ったばかり。よほどのことがない限り馬車が止まることはないだろう。
つまり車内で何が起きているのかは外からはわからない。
「でも欲深いのは私も同じ。我慢していたけどやっぱりあなたが欲しい」
そう言って私は、寝台でしたように最愛の女性であるウラニアを組み敷いた。




