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月が忘れ去られた夜  作者: 夜空
祝福の試練
1/9

終章を綴る者

 

 この世界には、遥か昔から存在する謎の遺跡――ダンジョンが点在している。


 誰が、何のために築いたのかは分かっていない。だが内部には複雑な地下空間が広がり、ゴブリンをはじめとした数多の魔物が巣食っていることだけは確かだった。


 人々はそれを恐れながらも、同時に恵みの源として扱ってきた。


 ダンジョンには、魔物の素材や希少な鉱石、そして時に財宝や失われた魔法具が眠っている。それらを持ち帰ることで生計を立てる者たち――彼らは冒険者と呼ばれる存在だ。


 命を賭して地下へ潜り、剣と魔法で魔物を退け、富と名誉を手にする。


 そんな生き方に憧れを抱く者もいれば、やむを得ず足を踏み入れる者もいる。冒険者とは、この世界において希望と危険の両方を象徴する存在だった。


 そして、その冒険者たちの運命を見守るかのように――


 赤き月が、夜空に浮かぶ。


 この世界において、赤き月は幸運の兆しとされてきた。


 その由来は古く、勇者が〈深淵ダンジョン〉を攻略し、世界を滅びから救った夜、空に浮かんでいた月が赤く染まっていた――という伝承に基づく。


 以降、人々は赤き月を希望の象徴として語り継いだ。


 戦の前夜に、旅立ちの日に、あるいは祈りを捧げるときに。


 赤き月は、前に進む者の背を押す存在とされた。


 一方で、青き月は災いを呼ぶものとされてきた。


 その理由は、いかなる書にも明確には記されていない。


 ただ、古い年代記や口承は、揃って同じ言葉を残している。


 ――青き月が現れし夜、世界は均衡を失う。


 真偽は定かではない。


 だが人々は、青き月を恐れ、忌み、語ることを避けてきた。


 そして今宵、空に浮かぶのは赤き月である。



***

 


 湿った岩壁に、ランプの灯が淡く揺れていた。

 地上へ戻る前の休憩地点。岩に囲まれた狭い空間に、俺たち五人の影が揺れている。冷たい空気が肌にまとわりつき、焚き火だけがかろうじて生命の証のように赤く灯っていた。


 俺は、その焚き火の上で舞う火の粉をただ見つめていた。

 仲間たちの視線が俺に向けられているのを、痛いほど感じる。何かを言われるとわかっていた。心の底では、その内容まで理解していた。


「アルス」


 その低い声が、空気を震わせた。リーダーのカイだ。

 二十を少し越えたばかりで、短く刈られた黒髪と落ち着いた瞳を持つ。噂では軍にいたらしく、冷静で、無駄な言葉を嫌う。〈白の鳥〉が生き残り続けてきた理由は、半分以上この男の判断力にある。


「お前を〈白の鳥〉から外す」


 焚き火が、ぱち、と乾いた音を立てた。

 その瞬間、俺の耳は妙に遠くなり、カイの言葉が岩壁に反響しているだけのように聞こえた。


「……どういう意味ですか」


「そのままの意味だ」

 カイは迷いなく答えた。


「これから先は、浅層の探索じゃ済まない。深層に潜る」


「深層……」


 思わずつぶやいた俺の声に、場の空気がわずかに緊張を帯びた。

 いつも岩に寄りかかっているジークさんが、煙草を咥えたまま薄く笑う。


「そりゃあ、ガキには無理だろ。深層は危険だぜ」


 腕に刻まれた無数の傷。荒っぽい言葉。だが生き残る嗅覚は鋭い。


「死ぬ覚悟なら、できてます」


 気づけば立ち上がっていた。

 俺の声には、恐怖より焦りがにじんでいた。


「俺だって……もう十分、覚悟を――」


「違う」


 カイの声が、焚き火の音をかき消した。


「必要なのは“死ぬ覚悟”じゃない。“生きて帰る自信”だ」


 その言葉が、胸の奥に突き刺さる。

 ノアさんが目を伏せ、ミナさんは唇を引き結んでいた。普段明るい二人が、今日は一言も発さない。


 焚き火の炎のはぜる音だけが、ダンジョンの広間に乾いたリズムを刻んでいる。


「ここにいる冒険者は誰一人、“死んでもいい”なんて思ってない」

 カイは俺をまっすぐに見た。

「お前のそういうところが、怖いんだ」


 返す言葉が見つからなかった。


「……俺は、ただ……」


「わかってる。だからこそだ」


 カイはゆっくりと立ち上がり、革鎧の肩を鳴らした。

 

「アルス、お前には死んでほしくない。だから他の道を探してくれ」


 そう言って、彼はダンジョンの奥――深層へ続く闇を見つめた。

 底知れない黒の裂け目が、まるで生き物のようにうごめいている気がした。


 ジークさんが立ち上がり、肩をすくめる。


「ま、仕方ねぇさ。俺もガキが死ぬのは見たくねぇんだ」


 焚き火の光に照らされたジークの笑みは薄汚れていて、しかしどこか楽しげですらあった。


「深層は俺らも命を張るんだ。足手まといは困るんだよ」


 俺の拳が震えた。

 だが、反論は出てこない。


 俺が弱いことを、一番よく知っていたのは、他でもない俺自身だからだ。


 焦って突っ込み、足を滑らせ、仲間に助けられた場面が何度もある。

 その度に情けなさと憤りを感じたが、それでも変われなかった。


「……わかりました」


 かすれた声でそう言った。

 荷をまとめ、背を向ける。

 誰も止めなかった。止める言葉をかける者もいなかった。


 焚き火の温もりが、遠ざかっていく。

 俺の影だけが岩に揺れ、心も同じように揺らいでいた。


 ダンジョンの出口に向かう途中、ふいに足が止まる。

 振り返ると、四人の影が揺れていた。

 カイは無表情。

 ノアさんは不安げに胸元を握りしめ。

 ミナさんは目をそらしながらも唇を結び。

 ジークさんだけが薄く笑っている。

 胸が焼けるように痛んだ。

 何か言わなきゃ、と喉が動く。だが、言葉にならない。


(……俺は、こんなにも弱いのか)


 ダンジョンの外に出ると、冷たい夜風がぶつかった。

 星明かりが木々の隙間からこぼれ、森は静寂の支配下にあった。

 

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