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社会の窓

作者: 網笠せい

 仕事から帰ってきた夫のズボンのチャック……いわゆる社会の窓が開いていることに、ユリは気が付いた。


「ねぇ、ズボンのチャック、開いてる」

「……それを伝えるのは、お前の責任だろうが! お前が伝えないから恥をかいた!」


 夫はズボンのチャックを確認すると、火がついたように怒り出した。仕事で疲れてぐったりとしていた夫が急に感情を露わにしたことに、ユリは戸惑った。


 ──今朝確認したときは閉じていたのに。


 ユリは自分が叱られる理由がわからず、「でも職場でトイレに行ったんじゃ?」とたずねた。


「お前はすぐそうやって、他人のせいにする!」


***


 ユリの住む家は、駅から少し離れている。バスの座席に座っていると、目の前に男性客が立った。

 バスに揺られながら、ユリはふと、男性のズボンのチャックを気にしてしまう自分に気が付いた。吊り革につかまってスマホを見ている男性は、スーツを着ている。その股間に一瞬視線が向いてしまった自分を不快に思いながら、あわてて目を逸らした。

 社会の窓が開いていることを夫に責められるようになって以来、ユリはあらゆる人のズボンのチャックが気になるようになってしまった。男性でも女性でも同じだ。特にスーツを着ている人に対して、その傾向が強く出る。社会の窓が開いたまま出社したら、困るのではないか──怒る夫の姿が目に浮かんでしまう。

 これでは変質者か痴女ではないか。ユリは自己嫌悪に陥った。自覚していても、自己嫌悪に陥っていても、視線が向いてしまう。ユリはひっそりとため息をついて、目を閉じた。


***

 

 ユリはパートタイマーとして、小さな倉庫で働いている。子供が小学4年生になったときに、教育費の足しにと働きはじめた。

 子供が小さいうちは、何かあったとき、すぐ迎えに行けるように、近場で働け──。

 夫はそもそもユリが働くことを嫌がったが、近場でパートとして働くのならという条件で許可が出た。


「おはようございます」


 倉庫の扉を開けると、スーツ姿の上司が紙の束を運んでいるところだった。ユリは上司のズボンのチャックに目が行かないように、必死に視線を上に向けた。

 倉庫内で軽作業をしていると、上司が隣で仕事をすることがある。チラリと視線をズボンのチャックに向けてしまったことに気が付いて、ユリは再び自己嫌悪に陥った。

 上司は同僚たちと和気あいあいと話をしながら作業を進めている。


「好きなんじゃないの?」

「結婚してるのに? 不倫?」


 突如として、上司がズボンのベルトに手をかけた。自分の話をされていることに気が付かなかったユリは、驚いて顔を背けた。


「見たいのか! そんなに見たいのなら、見せてやる!」

「おい、やめろって」


 どうしてこんなことになってしまったのだろう──社会の窓が開いていたら、注意しなくてはならない……そんなことが強迫観念のように、ユリの頭にこびりついている。

 不倫願望など、一切ない。上司に対して、恋愛感情さえない。会社で話しやすい上司ではあるけれど、たまに世間話をするだけの関係だ。

 ユリはそそくさと、紙の束が積んであるコンテナに向かった。雨避けのビニールを引き裂いて、ユリは何事もなかったかのように、仕事をつづけた。


***


「ママー! 虫歯見つかった!」


 パートから帰宅して、晩ご飯の支度をしていると、小学4年生の子供が歯科検診の紙を渡してきた。


「あら。歯医者行かないとね」


 休日だった夫が、その話を聞いて目くじらを立てる。


「なに!? 虫歯!」


 夫の剣幕に、ユリは首をすくめた。


「子供の虫歯は親の責任だ! どうして仕上げ磨きをしないんだ!」

「えっ、小学4年生ですよ。自分で磨くでしょう」

「俺は大人になるまで虫歯は一本もなかった! 子供のうちは、虫歯に対して親が責任を持つべきだ」

「中学生になっても?」

「そう。中学生になっても、自分で磨けないのなら、親が仕上げ磨きをするのが普通だ」


 ユリは夫のいう普通が、すっかりわからなくなってしまった。

 ユリの実家では小学生にあがったら自分で歯を磨くものだったし、中学生になっても親が仕上げ磨きをしなくてはならないというのには、全く賛同できない。

 中学生の子供が膝の上に頭を乗せて、口をあんぐりと開ける──その様子を想像して、ユリはぞっとした。


「まったく、お前はすぐ他人のせいにする!」


 ──それは、あなたでは?


 ユリは社会の窓のことを思い出したが、反論を飲み込んだ。夫に反論したところで「俺の母ちゃんは違った」と言うだけだろう。

 夫は、なんでも他人のせいにする自分をユリに投影して、怒鳴っているだけではないか。

 そうしておけば、楽なんだろうな……とユリはうんざりして口をつぐんだ。

 指摘しても悪びれることはないだろうし、自分が間違っていると夫が認めたところで「冗談じゃないか」とごまかしにかかるのだろう。

 今日の職場の上司も、ユリが怒ったら「冗談じゃないか」とごまかしたのだろうか──。

 ユリの胸の内で、男性への不信感が強くなっていった。


***


「スカートのチャック、開いてますよ」


 終業後、トイレで手を洗っていた同僚に、ユリはおずおずと声をかけた。


「えっ! ありがとう!」


 思ってもみなかった同僚の返事に、ユリはきょとんと目を丸くした。まさか感謝されるとは──。そう思ってしまう自分の異常さに、ユリはハッとした。

 夫にズボンのチャックが開いていることを「なぜ教えないのか」と責められる前は、それが普通だったではないか。


「たまにやっちゃうんですよね。教えてくれてありがとう」


 同僚の女性は、自分の失敗を照れくさそうに笑った。失敗を照れ臭く思う人もいれば、怒りでごまかす人もいる。夫は怒りでごまかす方なのだろう。そういうとき、その怒りは、自分より立場が弱い者に向けられるのではないか──。

 そのことに思い至って、ユリは夫にうんざりした。

 自転車に乗って帰宅する。食事の支度をしたり子供の宿題を見たりしていると、夫が帰ってきた。

 夫のズボンのチャックから、シャツの端が見えている。


 また、開いてる──。


 ユリはもう何も言わなかった。

 自分で開けるんだから、閉めればいいのに。


【おわり】

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