迷宮最下層《愚者の関門》
夢でも見ているような規模だった。
しかし、それはサキュバスの幻惑とは確実に異なる、圧倒的な質量と魔力がある。
「何なんだ、あいつは…!?」
現れたムカデは、見上げるほど高い天井にうねる身体をぶつけながら神殿を蠢き、特撮映画の怪獣さながらである。
真っ黒な身体に無数の黄色い足、巨大な牙。
明らかにもう、倒すとか、倒されるとか、そういう前提にいない。
蟻と像では、戦いにすら発展しないのと同じだ。
多分、触れれば、死ぬ。
その歩にわずかに掠れば、それだけで俺は死ぬだろう。
それでも、俺は咄嗟に〈鑑定〉を使った。
しかし、何も見えない。
すぐに、隣に居るアウラへ疾呼する。
「アウラ、鑑定を使ってくれ!俺では何も見えない…!」
アウラの方を見ている余裕などなかった。
故に、声だけ、その返事だけを待っていたのに。
今に迫ってくるムカデを前に、アウラの返事はいつまでも帰らず。
「アウラ…!」
俺は我慢できずに彼女の方を見た。
すると、その目を見開き、口を震わせながら全身を縮こませていた。
「どうした…!?」
「……無理だよ……勝てるわけない……」
「え……?」
「……〈百足の竜王〉…レベル…117……」
「は……?」
レベル117だって?なんだそれ。レベルって100超えるのかよ!
それに、ドラゴンだと?
「あれの、どこが竜だって…!?」
どう見たってアホみたいにデカいムカデじゃないか!
「特性だよ…!竜属性の特性を持っているんだ…!竜っていうのは、非常食が〈アンデット〉の名を種族に持っているのと同じように、それ自体が特性なんだ…!けど、ドラゴンロードなんて……神話の怪物だよ!?」
「なら、逃げるぞッ!!」
俺は即座に、撤退の判断を下す。
ここまで来てもったいない、とかそんなサンクコストに犯された考えはなかった。
俺の中の危機感知が、さっきからうるさくて敵わない。
あれは、絶対に戦ってはいけない。
この感覚は、小川を歩いているときに見た、火を噴く巨大な鳥を発見した時と同じ。
故にこそ、俺はアウラにネックレスを使うよう指示を出したのだが…
「やってる!!」
返ってきたのは、焦燥に駆られた、アウラの叫ぶような声だった。
「え?」
「さっきからずっと、使ってるんだよ!!けど、〈転移〉が発動しないっ!!」
アウラのさきほどの驚愕と震えは、ムカデの強さに驚いたからではなかった。
その強さを理解し、独断でネックレスを使おうとしたが、使えなかった。それが故の、恐懼。
「どういうことだ!?」
「わかんない!絶対に、使えるはずなのに…!何かに阻まれて、後一歩のところで拒絶されちゃう!」
「そんな、まさか…!?」
俺は、この神殿に踏み入った時の違和感を思い出す。
入った瞬間だった。
何かしらの術式が起動したのは確実であったが、その効果は全くわからなかった。
けど、何の効果もない術式が発動するはずがない。
「〈転移〉を妨害する術式…?そんな事も可能なのか…!?」
踏み入った〈愚者〉を、決して逃がさない。
それが、この最下層の命題であると、知る由もなく。
俺は〈風除けの加護〉によって強大な魔力の発動を検知した。
こちらへ進むムカデの口に光の玉が集約していき、それは瞬きも許さぬ刹那。
より一層光った、と認識した時にはビームが迸り、アウラへと駆け抜けた。
「アウラッ!!」
「えっ?」
俺は咄嗟に、彼女を突き飛ばした。
その瞬間、全身が四散した。




