妄執
記憶を頼りに森を歩く事、二時間。
俺は再び小川に辿り着いていた。
狼から逃げていた時はこの何倍もの時間、森を走っていたはずだ。
しかし、得てして生物とは目印となるものがないと直線に進むことが出来ない。
恐らく俺はかなり迂回しながら逃げていたのだろう。
そのせいである一定の地点で小川の下流に沿う様に逃走してしまい、川との直線距離でいえば歩いて二時間程度の距離しか離れていなかったのだ。
無論、川は随分大きくなっているので、狼から襲われた地点からはかなり離れているはずだ。
などと考えながら川の縁を歩いていると、ふと昨日の事が頭を過る。
「アプッ…」
ウジ虫の味や触感が鮮明に思い出され、一瞬沸き起こる吐き気をすぐに抑え込んだ。
当然のように腹は下しており、もはや垂れ流しの様相を呈している。
ここまで極限状態に陥ると不思議なもので、あまり恥や体裁は気にならなくなった。
だってもう俺、ゴブリンだし。
人間の価値観とか、もはや邪魔じゃね?
呑気な事を考えながら川の前に膝をついて杖を置き、水を汲んで口に運ぶ。
それを、一口飲んだ時だった。
「──見つけた」
バッと顔を上げると、左斜め前、川の反対側には女が立っていた。
見覚えのある顔だ。
そう、俺がこの世界に来てから、初めて見た顔。
そして、悲鳴を上げた女。
しかし、あの時とは明らかに様子が違う。
魔女のような三角帽子に、白いローブ。
手には煌びやかな宝石が装飾された長い杖。
そして、瞳孔が開いて覚悟が決まったような目。
「アプァ…」
「っ…!なんて気持ちの悪い声…醜悪な顔……見間違えるはずがないわ。先日のゴブリン…!」
「アギィ!」
凄まじい形相で睨まれて、俺は堪らず汲んだ水を放って杖を掴む。
そのまま踵を返して走り出そうとした。
そうしていなければ、死んでいただろう。
「〈フレイム・ライトニング〉!」
杖の先端が一瞬燃え上がり、それが雷のように空中を走り抜けて一秒前の俺がいた場所を爆破させた。
「アッッギィ!?」
背中が焼けるように痛い。
爆発の余波だけで俺の身体は吹き飛ばされ、河原を転がった。
なんだ今のは!?
魔法か!?
そんなものまであるのかよ!?
「待ちなさいっ!」
必死に走り出す俺を女が何事かを言って制止するが、待つわけないだろう。
やばい。あの女マジでやばい。
ガチで殺される。
「〈バーニング・スラッシュ〉!」
今度は杖から炎の斬撃が横向きに飛ばされて、俺の頭上を通り抜けて木々を粉砕した。
「アッグゥ!!」
あぁ、ここまでかも。
死の予感に涙を流しながら、杖を抱えて必死に走り始めた。