〈幻獣領域〉
俺の本当の切り札、〈戦闘続行〉の最後の一回を使って復活する頃には、ゴブリン君の姿が少し変わっていた。
「やはり、お前はまだ切り札を残していたんだな」
復活した俺を睥睨して、彼は冷静さを取り戻した口調で兜を外す。
四つに増えていた腕は二本消えており、目の数も二つに戻っている。
しかし、兜の下は以前見たゴブリンの顔とはかなり異なり、ほとんど人間と遜色ないものへと変わっていた。
口元だけは裂けて鋭い牙が鬼のように覗いており、人に近い分、少し神聖ささえも感じる顔立ちだった。
それを見て、俺は確信する。彼は、進化したのだと。
けれど、この強さはそれだけじゃない。鎧にも、きっと秘密がある。
「まぁ、死ぬまで殺せばいいだけだ」
氷のように冷たくそう言って、ゴブリン君は拳を振り上げる。
それを見た瞬間、俺は彼の足に縋りついていた。
「ま、待ってっ!!こ、殺さないで…!」
無意識だった。
何も出来ず、こんなにも一方的に蹂躙された経験は俺にはない。
抗いようのない暴力を味わってしまった今、この胸中にはもう恐怖しかなかった。
「…アレックス、お前…」
無感情な彼の瞳に見下ろされても、屈辱なんてもはや感じない。
「た、頼むよっ…!同じ異世界人だろ…?この世界で数少ない、同じ境遇の人間じゃないか…!」
「……」
「ほ、本当に死んじゃうんだよ、次殺されたら!ぼ、僕は……その、ただの遊びっていうか、ゲームみたいなものでさ…!あ、謝るよ、今までのこと、全部!何でもする、あげられるものだったら何でもあげる…!だから……!」
恥も外聞も捨てて、あまりに情けない。
自分で自分が嫌になる。それでも、身体は、心は、無意識のまま彼に乞う。
「お願いだよ……こ、殺さないで……!」
神様にお願いするように、しがみ付いた彼の足首に頭を下げて、僕は命乞いをしていた。
けれど。
「駄目だ。殺す」
一顧だにしない、無常な言葉が降り注いだ。
ゆっくりと顔を上げる。
彼と、目が合う。
変わらず無感情なその瞳に見下ろされて、恐怖が倍増していく。
「お前には、感謝しているんだ、アレックス」
「……ぇ?」
「この世界に来たばかりの俺は、弱かったけれど、心は強かった。一人で必死に生きて行こうって、胸だけは張っていられた。けど、アウラや、街の人達と出会って、俺は弱くなった」
「……」
「守るものが増える度に、俺は弱くなる。自分のためだけに、生きてはいけなくなるから。そんな俺を、お前が解き放ったんだ、アレックス」
「ぼ、僕が……?」
「あぁ。お前が、お前達が俺から全てを奪った。また、昔の俺に戻した。俺はまた、俺のためだけに生きていける。でも、今の俺には殺意しか残ってない。だからさ、お前が俺をこうしたんだ」
何を言っているのか、よくわからなかった。
そこにはただ、冷たい虚構しか映っていなくて。
「俺はこれから、お前を殺す。そして、オリィを殺す。邪魔をする奴は全員殺す。人間が邪魔だというのなら、人間も全部殺す。勇者が人間を守るというのなら、勇者も全部殺す。それが、これからの俺が、生きて行く理由だ」
機械的に、ただそうあるだけの存在。
自らをそう断じて、彼は冷たい殺意に薄く笑う。
「だから、殺す。〈幻獣領域〉」
それを呟いても、特段大きな変化は起きなかった。
しかし、ふと振り落ちる冷たさに顔を上げると、空から雪が降り始めていた。
しんしんと降り注ぐそれは一つ一つの粒が大きく、あっという間に積もっていく。
雪の結晶が鎧を完全に破壊された僕の肌に触れると、ちくりと棘に刺さったような痛みが走った。
「……?」
雪に触れた腕を見ると、わずかに赤い線が刻まれている。
「この雪は、一つ一つに俺の〈徒手の葉脈〉が込められている。微々たる浸蝕だが、次第にお前の心を呪具に変えていくだろう。お前のように身体が頑丈なら、多分、先に心が支配されるだろうな」
「ひっ…!」
僕は身体についた雪を振り払い、走り出していた。
背中を向けて、駆り立てられるウサギのように。
けれど、雪に触れた身体は言う事を聞かず、何度も転んでしまう。
異常な速度で積もった雪に身体を埋めながら、その度に身体が赤く染まる。
心を支配されるというのは、ただ殺されるよりもずっと怖くて、恐ろしくて。
今まで何度も、自分は拷問やら暗殺やら、非道な方法で人を殺してきたというのに、いざ自分がその立場になってやっと、僕はそれがどれだけ苦しい事なのか理解した。
同時に、悔悛した。
悔い改めた。
自分の行いを、反省した。
もし来世があるなら、きっと善行を積むって約束する。もうこんな事はしない。僕が全部悪かった。
だから、死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「死にたくなぁい…!」
「お前が殺したエルフも、みんなそう思っていたよ」
残酷な声に振り返ると、彼は雪に足を突っ込み、そこから何かを足で拾い上げていた。
棒切れのようなそれを掴み、槍投げのように構える。
違う、棒切れじゃない。
あれは、多分……杖だ。
誰のだろう。見覚えがあるような……
僕がそれを思い出すことは、結局できなかった。
ただ、彼が思い切り投げた杖が背中から心臓を貫き、激痛が走って。
目の前が何度も暗転し、吐血し、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになって。
「うっ…ぁ……」
即死も出来ないまま。
足音を聞く。
雪を踏みしめる、確かな音を。
視界に映った足を辿り、彼の目と合う。
最後まで、何の感情も映さないその瞳に見守られながら、僕の視界は光を失った。
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