第9章 もう子犬ではない
目が覚めると、見慣れない天井が目に入った。
(ここは……病院?)
意識がぼんやりとしながらも、フィオナは状況を理解しようと周囲を見回した。清潔で整然とした病室。窓からは整然とした街並みがのぞき、柔らかな陽光が差し込んでいる。
(魔女が魔力を使い果たしてなお魔法を行使すると、代償として眠ることは知っていたけれど、さて、どのくらい寝ていたのかな?)
そんなことを考えながらゆっくりと手をついて体を起こす。今のところ、運動機能に異常は出ていないようだ。そのまま通りかかった看護師に手を振って声をかけると、彼女は驚きの表情を浮かべ、慌てて部屋を出て行った。程なくして複数の治癒魔法師や看護師が駆けつけ、彼女に様々な検査を施し始めた。
「特に問題はありませんでした。さすが魔女ですね。」
一通りの検査を終えた治癒魔法師の言葉に安堵したものの、フィオナは次に看護師から聞かされた事実に驚愕した。
「七年も眠っていた……?」
彼女は自嘲気味に苦笑した。
(私、魔力が少なすぎる……そして根が貧弱……。)
検査が一段落すると、フィオナは病院の図書館から借りた最新の医学書を手に取り、ページをめくり始めた。その集中力は七年前と何も変わらない。
(さあ、私がいない間に科学界にどんな新しい知見がでてきたのか、知っておかなくちゃ。)
フィオナが医学書に熱中していると、部屋の扉が静かにノックされ、ゆっくりと開いた。背の高い金髪の男性が入ってくる。彼は少し不安そうにしながら、フィオナに「お久しぶりです」と言って、ベッドの横に立った。
「......お部屋をお間違えでは?」
フィオナが男性を見上げて訝しげに尋ねると、男性は柔らかな声で答えた。
「いいえ、合っていますよ。……私......僕は、レオン・ファーウッドです。」
その言葉に、フィオナは目を丸くした。
「……レオン?」
その声は小さく、思わず漏れたものだった。目の前に立つ彼は、かつての子犬のような少年ではなかった。長身で堂々とした佇まい、金色の髪が柔らかく光を反射し、穏やかだが確固たる意志を感じさせる瞳。思わず胸が詰まり、言葉が出てこない。
(これが本当にあのレオンなの……?)
フィオナの記憶にあるのは、あのどこか頼りなげで、けれども一生懸命だった少年の姿。しかし今、目の前の青年は、その面影を残しながらも、すっかり別人になっていた。
7年は、フィオナの可愛い子犬を立派な青年に変えるのに十分だったらしい。
レオンはベッドサイドの椅子に優雅に腰掛けると、手を組んでフィオナに優しい声で話しかけた。
「毒から回復した後、私は騎士として勤めながら真菌増殖の力を研究し続けました。そして、傷口を腐らせて戦闘不能にする技術を磨き、今は副騎士団長として働いています。」
レオンは穏やかな表情でそう語った。
それを聞いたフィオナは感慨深げに微笑んだ。
「それは……立派な騎士になれたんだね。良かった。」
その言葉に、しばらく黙った後、レオンは真剣な眼差しをフィオナに向けた。
「いいえ……私は、大きな過ちを犯していました。あなたが私を治療したせいで倒れて目覚めないと聞いたとき……それが分かった。私は本当は、あなたを守れる騎士でなければならなかったと気付きました。」
レオンは組んでいた両手をはなすと、左手でフィオナの左手をそっと持ち上げ、その細い腕にポケットからとり出した小さな腕輪をはめた。それは、この世界における求婚の仕草だった。
「この7年、目覚めたあなたになんと言うべきか、散々考えました。でも、考えれば考えるほどに、私の気持ちは言葉では到底伝えきれないとわかりました。だから私は『なんでもする』と言ったあなたに、責任を取っていただくことにしました。」
フィオナは一瞬固まったあと、すぐに反論した。
「ちょ、ちょっと待って!私はあなたのことを子犬……じゃない、弟みたいに思っていたのよ!いきなり求婚されても、その、困ります……」
しかし、レオンは彼女の左手を引いてそっと自分の方に引き寄せ、その逃げ道を完全に塞いだ。
「7年前、私は子供で、あなたにいただいてばかりでした。でも、これからは、あなたに受け取っていただきたいものがたくさんあります。......あなたが15歳の頃に上層部にされたようなことは、今後禁止される法を作ってもらいました。これからあなたは評判を気にせずに思う存分、研究できます。」
彼の真摯な声に、フィオナは返す言葉を失った。
「私の家には、立派な実験施設を準備してありますよ。」
耳元に低い声で囁かれた一言に、彼女の顔が赤く染まる。
(完璧に弱点をわかってる……!)
フィオナは自分に訪れた急な展開に途方に暮れた。文句を言おうと、困った顔で目の前の青年に変わったレオンを見つめた。すると、余裕そうに見える彼の瞳が、不安そうに実験の結果を待っていた子犬の時のレオンと同じだと言うことに気が付く。彼も、不安なのだ。彼も、精一杯の努力をして、この時を迎えているのだと言うことが、瞳から伝わってきた。
(ああ、きっと、レオンの本質は変わっていない。私が寝ている間も、ずっと努力を怠らなかったのでしょう。ーーーそんなレオンと未来を作っていくのは、悪くないかもしれない。)
そう覚悟を決めたフィオナは、レオンにこんな返事をすることに決める。
「分かりました。まずはその立派な実験施設、見せてもらおうじゃないの。」
体を離した彼女がそう言って小さく笑うと、レオンの顔に喜びが広がった。そこにはやっぱりまだ少し子犬の面影があって、フィオナも釣られて笑みが溢れてしまう。二人で歩み出すその背中には、希望に満ちた未来が感じられた。