第8章 私の子犬
レオンが王都に帰ってから、フィオナはまた自分の興味ある研究に没頭する毎日に戻った。ハズレ魔女としての肩書きに甘んじながら、辺境で気ままに勉強と実験に没頭する日々。フィオナの新たな監視役となったラウルは、彼女の生活には干渉せず、適度な距離感を保っていた。
「嫁さんが妊娠してな。」
ある日そんなことをフィオナに告げたラウルは、徐々にフィオナの家に来ないことも多くなった。もちろん、フィオナは見て見ぬふりをする。二人は何も言わなくても、お互いの性格をよくわかっていた。
充実した研究の日々。しかし、レオンのことが気にならないわけではなかった。手放したフィオナの可愛い子犬は、元気に、幸せにしてるだろうか......。異能のことを揶揄われて、また涙目になったりしていないかしら?そんなことが気になってしまうフィオナは、時折、彼の無事を確認するため、こっそりと使い魔を飛ばし、様子を見ていた。移動の魔女、タリアも時々、様子を見てくれているらしい。
「彼、同期に揶揄されることもあるみたいだけど、全然相手にしていないわ。面白いくらいよ。」
タリアや使い魔を通してレオンの様子を聞くたびに、フィオナは安心し、胸を撫でおろした。彼は彼のお兄さんの率いる部隊に配属され、慣れない環境に慣れようと頑張っているようだ。
「発酵の異能だって、あれだけの実績を残せば、現場の誰も馬鹿にできないでしょ。」
フィオナはそう自分に言い聞かせた。しかし、心の中には薄暗い不安が漂っていた。騎士として前線に勤めるということは、すなわち、命をかけるということなのだから。
「彼のいる南方はそこまでの激戦地帯ではないはず……。とにかく彼が無事であればそれでいい。」
平穏を破ったのは、タリアから知らされた南方の状況だった。冬が明けて、温かい熱帯雨林から、半動物的な性質を持つ植物型の新しい魔物が現れた。トキシリーフと命名されたその魔物は、茎や枝の先端が長い棘や矢の形状になっており、その矢に当たってしまった場合、射たれた箇所から体全体に麻痺が広がり、じわじわと呼吸ができなくなり、死に至るという恐ろしい魔物だった。
「これまで出たことのない魔物らしくて、治療魔法が効かない、解毒剤もないって、現場は大騒ぎよ。南方が一気に最前線になりそうな勢いがある。あなたの子犬ちゃん、ちょっと心配ね。」
フィオナには、心当たりがあった。植物が分泌する毒で、筋弛緩作用を持つ。かつて地球でクラーレと言われた矢毒の可能性だ。彼女はタリアに依頼し、使われた魔物の毒のサンプルをごく少量、手に入れた。フィオナの知らないものには、標識の異能は発動しない。祈るような気持ちで発動させた標識の異能は、幸か不幸か、その未知の毒物にクラーレの標識をつけた。これで毒の正体はわかった。メカニズムと地球でのどう治療されていたかも覚えている。フィオナの力を工夫して使えばあるいは...助けることができるかもしれない。
そんなことを考えつつも、どこかでレオンが負傷するはずがないと、たかを括っていた日々のことだった、フィオナの使い魔が慌ただしく戻ってきたのは。緊急を知らせる使い魔からの映像が彼女の脳裏に流れ込んだ瞬間、自分の血の気が引くのを感じた。
(レオン……!)
使い魔が捉えた映像の中で、レオンが兄を庇って肩にトキシリーフの矢を受けるのが見えた。なんとか魔物を退け、治癒魔法で外傷は治療されたものの、毒は徐々に身体中に広がり、動けなくなった彼の顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
「このままでは……!」
フィオナは愕然とし、震える手で棚の上の鈴を掴んだ。冷静になろうとしても、手元がふらつく。それほどの恐怖が彼女を襲っていた。その鈴はタリアと魔法で繋がっており、緊急時に彼女に連絡を取ることができた。フィオナは、その鈴を落とすように乱暴に鳴らした。空間が歪み、一瞬で姿を現したタリアに、フィオナは焦った顔で願う。
「タリア......、レオンを助けないと。力を......貸してください。」
「んー?なにやら面白そうなことになってるわね。」
一瞬で使い魔からこれまでの情報を引き出したタリアは軽い調子で答えたが、その表情には真剣さが宿っていた。
「ああ、賢いフィオナ、あなたもう解毒方法の当てもつけているのね......。でもこの方法は、あなたには結構な魔力消費になるでしょ?フィオナ、足りるの?」
「分かってます。多分ギリギリ......足りません。多分昏倒するので帰りもお願いします。」
フィオナの決意に満ちた声に、タリアはクスリと笑った。
「分かったわ。連れて行って帰ってあげる。ちゃんと目を覚ますのよ。」
タリアの魔法で一瞬にして南方の前線に運ばれたフィオナは、目の前の光景に息を呑んだ。
倒れた兵士たちがあちこちに散らばり、血の匂いと毒々しい植物の臭いが混ざり合う異様な空間。遠くで聞こえる戦いの音が、まるで彼女を追い詰めるかのようだった。
「レオンはどこ!?」
「レオン・ファーウッド」に標識を当てるとすぐに、後方で仲間の兵士に取り囲まれ、瀕死の状態で横たわるレオンを見つけた。その肩には夥しい出血の跡。顔は青白く、呼吸が浅く、苦悶様の表情を浮かべている。
「レオン!」
駆け寄ると、フィオナは膝をついて彼の顔を覗き込んだ。
「レオン……しっかり!」
フィオナは取り囲む兵士をかき分け、彼の顔に触れた。すぐに魔力を集中させ、彼の体内の毒を標識する作業を始めた。取り押さえようとする兵士たちを、タリアが抑えてくれている。
「なんでもする......だから、死なないで!私の……レオン!」
フィオナの声は震えていた。しかし、彼女の手は決して止まらなかった。フィオナはレオンの全身のクラーレを正確に捉え、それぞれを大量のアセチルコリン分子で標識した。
クラーレは、神経と筋肉の情報伝達を行うアセチルコリンという物質と競い合うことで筋肉の働きを奪い、呼吸を行わせないことで毒性を発揮する。それならば、大量のアセチルコリンで標識してしまえば、筋肉の動きを取り戻すことができるはずだった。
(あと少し……!)
フィオナは体内の魔力を振り絞り、全てのクラーレに大量のアセチルコリンを標識した。その効果が出るまで、彼の呼吸を補助してやらねばならない。彼女はふらつく体を叱り飛ばし、意を決して、彼の唇に自分の唇をあて、大きく息を吹き込んだ。一生にも思える数分間、その作業を繰り返し、何回目かの人工呼吸を行なったとき、彼が大きく咳こんだ。時間と共にクラーレが筋肉から代謝され、呼吸のための筋力が帰ってきたのだ。それを理解した瞬間、限界を超えていた彼女の視界がぼやけ、力が抜けていく。
「これでもう……大丈夫……。」
フィオナは安堵の息を漏らし、そのまま意識を深い闇に沈めた。