第6章 私はハズレ魔女
培養を待つ時間、フィオナは冷たい窓辺の椅子に座り、ぼんやりと外の風景を見つめた。しんしんと降る雪が積もっていくのを眺めながら、彼女の心は過去の記憶に引き戻されていた。
フィオナは15歳で「標識」の異能を見出された。その異能が前例のないものであると判明するや否や、彼女は一部の人々の注目を浴びるようになった。そして、その中にはとても危険な存在も含まれていた。
彼女を目に付けたのは、身分の高い戦闘狂の魔法使いだった。彼の興味はただひとつ、フィオナの能力を戦闘にどう活かせるかを試すことだった。権力を持つ彼に対して、師匠や周囲の誰も抗うことができなかった。そしてフィオナは、まるで物のように彼に貸し出されることになった。
「君の異能がどれほどのものか、試してみよう。」
彼の冷たい声は、今でも耳に残っている。
その実験は、あまりにも非人道的なものだった。彼はフィオナを手負の猛獣の檻の中に放り込んだ。鋭い牙と爪を持つ獰猛な獣が、咆哮を上げながらフィオナを睨んでいた。
「さあ、標識を使ってみろ。敵と見なしたものを破壊できる能力があるのだろう?」
魔法使いは檻の外から冷ややかな視線を送りながらそう言った。
彼の仮説はこうだった。フィオナが「敵」として標識した対象を破壊する能力を持っているのではないか、と。しかし彼の仮説は間違っていた。
フィオナの異能は、「敵」や「味方」といった曖昧な概念を許さなかった。そして、彼女には何かを破壊するような力もなかった。
猛獣が動き出し、フィオナに襲いかかる。彼女は必死に魔法使いに助けを求め、逃げようとしたが、檻の中では逃げ場が限られていた。獲物をついに追い詰めた獣の、鋭い爪が彼女の肩をかすめ、大きな傷を作った。そして、フィオナの命を奪わんと、最後の一撃が、獣から放たれようとした、その瞬間だった。
彼の魔法使いが手をパンパンと叩く音が響いた。死を覚悟して瞑っていた目を恐る恐る開けたフィオナが見たものは、バラバラになった猛獣の亡骸だった。
「期待外れだな。」
その言葉とともに、彼女はおざなりに治癒魔法を施され、再び師匠のもとへ返された。
その出来事以来、フィオナは「つまらない能力のハズレ魔女」と呼ばれるようになった。しかし、彼女自身はそれで満足していたし、積極的にそれを肯定した。
(誰にも興味を持たれないほうがいい。興味を持たれれば、またあのような目に遭うかもしれないから。)
彼女にとって、そのレッテルは自分を守るための鎧だった。
(私はつまらない能力のつまらない魔女。それでいい。それが安全だから。)
フィオナはそう自分に言い聞かせながら、心の中で傷を隠し続けてきた。
薄暗い実験室の中、フィオナとレオンは黙々と培養槽の準備をしていた。静けさの中、液体が跳ねる微かな音が響き、フィオナは手慣れた動作で試薬を混ぜ合わせている。
「フィオナさん、どうして実力を隠しているんですか?」
突然の問いに、フィオナの手が止まった。振り返ると、レオンは真剣な表情でこちらを見ていた。
「どうして、だなんて……。能力で判断されるつらさを、君はわかっていると思っていたけど。」
フィオナの声には、微かな疲労と落ち込みが混じっていた。その様子に、レオンは慌てて言葉を続けた。
「そうではなくて……!あなたの研究に対する姿勢のことを言っているんです。」
フィオナは驚いたように目を見開いた。レオンは熱のこもった声で続ける。
「粘り強く、勉強して、仮説を立てて、実験して検証する。あなたが僕に教えてくれたことです。それを実践することは本当に難しい。でも、あなたはそれを通じて、僕と、多くの兵士を救ってくれたじゃないですか。あなたのような人が、こんな辺境でハズレ魔女と言われているなんて、僕は......悔しいんです。」
フィオナは言葉を失った。彼女の胸の奥で、何かが静かにほどけていくような感覚がした。
「……私の異能じゃなくて、そこを褒めてくれる人は、これまでいなかったかな。」
そう呟いた言葉は、自分の耳にも新鮮に響いた。それがどれだけ嬉しく響くか、フィオナは初めて体感した。
レオンはなおも真剣な表情を崩さずに言った。
「あなたが僕に教えてくれたことは、僕の人生を変えました。僕がここまで来られたのは、フィオナさんのおかげです。」
フィオナはぼんやりと思った。少し声変わりしたレオンの低く響く声が、どこか眩しく感じられた。
(あの子犬がこんなことを言うようになるなんてね……。)
しかしその思いと同時に、彼女の胸には別の感情が浮かんでいた。
(でも、レオンは夢を叶えるためにまた王都に戻る。きっと夢が叶ったら、私たちはもう二度と会うことはない。)
それでも、フィオナの心には温かなものが残っていた。
(それでも私の可愛い子犬がこんなふうに言ってくれたことを、生涯忘れることはないわ。)
フィオナは柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、レオン。」
その言葉は静かに、しかし深い感謝を込めて紡がれた。
ペニシリンGの増産と、フィオナの異能を使わない抽出技術の開発に追われる日々。二人は相変わらず、忙しいながらも充実した時間を過ごしていた。
そんなある日、窓から嘴に手紙を加えた小鳥がフィオナのもとに舞い降りてきた。鳥が手紙を落とすと、フィオナはそれを拾い上げて開いて中を確認する。しばらく目を走らせた後、彼女は目を伏せて大きなため息をついた。
「このくそ寒い時に、魔女集会だって……めんどくさ。」
「魔女集会?」
レオンは培地を作る手を止めて尋ねた。
「数年に一度、同じ師匠のもとで修行した魔女が集まるの。今年がその年だったのを、すっかり忘れてた。前回は師匠の家にいたからおもてなしをすれば済んだけど、今回はちゃんと客として正装して来いって書いてある。」
フィオナは手紙を持ったまま椅子に腰掛け、眉間にしわを寄せた。
「正装なんて久しくしてない。……めんどうだよ。」
「行かなくてもいいんじゃないですか?」
「それが、行かないと後々うるさいんだよ。」
フィオナはそう言うと、椅子から立ち上がり、手紙をテーブルの隅に置いた。
「まあ、再来週の夜、留守にする。レオンはそれだけ覚えておいてくれればいいから。」
「分かりました。」
レオンは素直に頷き、そのまま作業に戻った。
その日は夕方に作業を終えたフィオナが、珍しく洗面所にこもった。レオンは集会のことをすっかり忘れかけて、テーブルでレポートを作っていたが、洗面所の部屋の扉が開き、フィオナが姿を現した瞬間、息を飲んだ。
彼女はいつものヨレヨレ白衣ではなく、黒いドレスを纏っていた。黒い髪は結い上げられ、顔には薄く化粧が施されている。小柄な体にぴったりと合ったドレスは、デコルテや背中、そして華奢なうなじを露出させており、歩くたびに魔女らしい、蠱惑的な香りが漂ってきた。
「レオン、まだ部屋に戻ってなかったの?」
フィオナは少し不機嫌そうに自分の姿を見下ろしながら言った。
「はー。これで文句は言われないはずだけど、やっぱりこういうのは苦手だわ。」
レオンはペンを空中に浮かせたまま、返事ができなかった。目の前の光景が信じられないほど新鮮で、彼女の普段との差に圧倒されていたのだ。
「フィ、フィオナさん……。」
レオンは言葉に詰まる。何をどう表現すればいいのか分からない。ただ、自分の胸の鼓動が早かった。
「何よ、その顔。言われなくても似合ってないのはわかってるわよ。」
フィオナは照れ隠しなのか、少し耳を赤くして言う。その様子に、ますますレオンは何も言えなくなった。
「ああ、めんどうだった。じゃあ行ってくるね。雪降ってなくてよかったー。」
フィオナはコートを羽織ると箒を掴み、ひらりと横座りでまたがると、ふわりと宙に浮いた。その白い足が月明かりに照らされ、まるで輝いて見える。
レオンは窓辺に駆け寄って、彼女が飛び去っていく姿を見送った。やがて彼女が視界から消えると、壁にもたれかかるようにして座り込み、頭を抱えた。
(フィオナさん……。)
体がじんわりと熱くなる。これが何の感情なのか、彼はまだ完全には理解していなかったが、彼女への思いが確実に変わり......強くなったことを感じていた。