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第5章 君が成し遂げたこと

ここは、魔王軍との戦いの最前線。その中で最も過酷と言われる東方の国境付近だった。乾燥した冷たい風が、ただ立っているだけで味方の体力を奪う。そしてそこには今、錆びた鉄の匂いと、何かが腐敗する匂いが充満していた。


寒さをものともしない獣型の魔物が東方の前線に押し寄せ、兵士たちは必死に応戦していた。獣の方向と、金属の立てる音がそこかしこに響いている。鋭い爪と牙を持つ魔物は、一撃で甲冑を切り裂き、兵士たちに深い傷を負わせた。その傷はどんなに小さくとも、早急に治癒魔法を受けなければ、熱を持ち、創部が腫れ上がり、命を落とす可能性が高いと言われていた。


治癒魔法使いの手が足りない中、ヴィクター・ファーウッド率いる一部隊も例外ではなかった。兵士たちの多くが傷を負い、戦列を離れざるを得なかった。ヴィクター自身の左腕にも2日前に負った深い切り傷がある。そこはじわじわと赤みを増し、痛みが広がっていた。なんとか戦いを続けているものの、心なしか、体温も上昇してきているようだった。


(このままでは……叔父と同じように切断が必要になるのか?)


ヴィクターは焦りを隠せずにいた。彼の叔父は細菌感染により腕を失い、それがもとで二度と戦場には立つ事ができなかった。思い出したその記憶が彼の心に重くのしかかる。


「副隊長、このままでは全滅します!治癒魔法が遅すぎました!」


部下の叫びに、ヴィクターは歯を食いしばった。撤退を命じるべきか――そんな迷いが彼の頭をよぎったそのときだった。


「伝令です!新しい薬が王都より届きました!」


ひとりの伝令が駆け込んできた。その手には、奇妙な色をした液体が入った小瓶が握られている。


「薬……?」


伝令の言葉に、ヴィクターは眉をひそめた。


「これは新たに開発された傷の病を治す薬です。開発者は……レオン・ファーウッド。副隊長の弟さんです。」


「レオンが……?」


一瞬耳を疑った。あのレオン――15歳の異能検査で「発酵」と判明し、落胆してビィビィ泣いていた弟。あの弟が、この薬を?


半信半疑のまま、ヴィクターはその小瓶を受け取った。


「これをどう使うんだ?」


「衛生兵!こちらへ。大きな筋肉に注射してください。じきに効果が現れます。」


伝令の説明に従い、衛生兵がヴィクターの大腿に薬を注射する。鋭く太い針が筋肉を刺す痛みが走った。




それから1日後。


ヴィクターの左腕の腫れは引き、赤みもほとんど消えていた。痛みも大幅に軽減され、指を動かすたびに感じていた鈍い痛みは完全になくなっている。


「これは……本当に効いている……!」


同じように薬を使った部下たちも次々に回復し始めていた。彼らの表情は明らかに明るさを取り戻し、士気は一気に顕揚した。


「レオンがこんなものを作るなんて……あの弟が……。」


ヴィクターは驚きと誇りを胸に抱きながら呟いた。

見上げた空は、重たい曇り空が裂けるように、光芒が帯のように何本も差し込んできていた。




翌日、意気軒昂となった部隊は再び魔物の大群に立ち向かった。


「あの薬がある!傷を恐れることはない!」


ヴィクターの声に応じて、兵士たちは一丸となって獣型の魔物に立ち向かった。これまでの戦闘では後退を余儀なくされていたが、この日は違った。兵士たちの動きには迷いがなく、団結した攻撃で魔物を次々と倒していった。


「いけるぞ……!押し返せ!」


その日の戦闘で、部隊は魔物の群れを完全に殲滅することに成功した。伝令として駆け回る兵士たちの口からは、薬の効果が広がっているという報告が次々にもたらされた。


ヴィクターはふと遠くを見つめ、心の中でつぶやいた。


(ありがとう、レオン……お前の作った薬が、俺たちを、王国を救っている。)




ペニシリンGの有用性は軍上層部によってすぐに認められた。前線において、治癒魔法を使える魔女や魔法使いは極めて限られている。その中で、多少治癒魔法の行使が遅れても命を救えるこの薬の登場は、戦場で命を繋ぎとめる革命的な手段として歓迎された。


以前はごく小さな傷でも命を落としていた兵士たちが、治療を受けることで再び前線に戻れるようになった。この発明は、兵士たちの士気を大いに高めると同時に、戦場での継続的な戦力確保を可能にした。


しかし、それは同時に別の問題を生み出していた。兵士たちは、多少の怪我では前線を外れることが許されなくなり、結果として長期にわたり戦い続けることを余儀なくされた。




ペニシリンGとそのレポートを軍に提出し、騎士の認定を再申請したあと、王都の実家に待機していたレオンは、しばらくして軍上層部からペニシリンGの増産を命じられた。彼の中には、自分の異能が認められ戦いに貢献できているという誇らしさとともに、その期待に押しつぶされそうな不安があった。


レオンは自分の手のひらをじっと見つめ、心の中でつぶやく。


(僕の力でたくさんの人が助かる。それは嬉しいけど……ちゃんとできるのか?)


そんなふうに不安に負けそうになった時、レオンはフィオナと過ごした実験漬けの日々を思い出すことにしている。


(勉強、仮説、実験、検証――フィオナさんの言葉どおりに、一つずつやれば、きっとできるはずだ。)


自分を奮い立たせるように両手を握り、レオンは心の中でつぶやいた。


だがその一方で、彼の頭の片隅には全く別の平和な心配もまた浮かんでいた。


(フィオナさん、ちゃんと食事を取っているのかな……。)


レオンは思わず苦笑する。


(あんなに自分のことには無頓着な人だからな。僕がいない間、無理していないといいけど……。)


その考えが、いつしかレオンに別の感情を呼び起こしていた。


(もし、僕が騎士になれたら……フィオナさんにはもう会えなくなるのかな。)


その思いは、寂しさを超えて胸を締めつけるような感覚だった。何となく居ても立ってもいられなくなったレオンは、増産の相談を理由に辺境の魔女の家へ一度戻ることを決め、それを家族に告げるために部屋の扉をあけた。




レオンが一度辺境に戻ることを告げると、レオンの家族は強く彼を引き止めた。


「レオン、なぜまたあの......魔女のところへ行くんだ?王都の設備で対応できないのか?軍の施設が使えるんじゃないか。」


「そうだけど、必要な設備が全部揃っているのはあそこなんだ。そもそも菌も持ってこないといけないし……」


レオンは下を向いてそう答える。別の大きな理由は、家族には告げられなかった。




再び辺境の街に到着し、静かに降り積もる雪の中、レオンはフィオナの家へと足を進めていた。周囲は白く染まり、街は深い静寂に包まれている。雪を踏みしめる音が微かに響き、その下で凍てついた大地が僅かに軋む感触が伝わる。


フィオナの家が見えると、レオンは自分の吐く白い息を見ながら、小走りで玄関に向かった。煙突には煙が出ておらず、灯りも物音もない。フィオナは留守のようだった。


扉を開けて家に入り、暖炉に火を入れる。見渡した室内は荒れに荒れていた。空になったビンや散乱する紙束、埃を被った食器が散らばっている――レオンは予想通りの展開に、腰に手を当ててプリプリと怒り出した。


「予想通り、僕がいないとこんなに荒れ放題!」


フィオナの帰りを待つ間、荒れた家を片付け、必要な買い出しを行かなければ。そう奮起して買い物に行く中で、顔馴染みの街の人に出会い、驚いたように声をかけられた。


「あらレオンくん、帰ってたの?魔女様はなんかの実験ですっからかんになったとかで、一日中バリバリ働いてるわよ〜、ちゃんとご飯食べてるのかしら?」


レオンはそれを聞いて思わず立ち止まり、その人をじっと見つめた。すっからかん?


(そうだ......魔女だって無料で実験できるわけじゃない。フィオナさんは……お金に困っていた?一言もそんなこと言わなかった……。)


レオンの胸に、フィオナへ申し訳なさが押し寄せる。街の人はそんなことは梅雨知らず、「レオン君が帰ってきたなら安心ね〜」と言ってニコニコとどこかへ去っていった。


(フィオナさん、ごめんなさい。今からでも僕......僕からあなたに、何かしてあげられることはないのだろうか……。)




夕方、フィオナは金策のための仕事を終え、くたくたになりながら家に帰り着いた。ため息をつきながら肩の雪を払って扉を開けると、部屋の中から聞き覚えのある声が響いてきた。


「おかえりなさい、フィオナさん。」


その声に、フィオナは一瞬立ち止まった。目をこすりながら部屋を覗き込むと、そこには懐かしい子犬が立っていた。


「……レオン?」


疲労が吹き飛ぶような驚きが、フィオナの顔に浮かんだ。


「はい、僕です。」


レオンは彼女の反応を見て、少し申し訳なさそうに頭をかいた。


「急に帰ってきて驚かせてしまってすみません。帰ることを知らせる手紙の一つも出していなかったことに、たった今気が付きました……。」


そう言いつつも、彼の表情は明るく、どこか楽しげだった。何より久しぶりに見るフィオナの姿が嬉しくて、レオンは自然と笑みがこぼれていた。


「それはいい。どうして帰ってきたの?」


フィオナがコートを脱ぎながら問いかけると、レオンは大きく頷いて答えた。


「ペニシリンGは王都で高く評価されました。それで、今、僕の騎士資格は再審査されることになったんです!それで……その、相談ができたのと......あとは......ちゃんと食べているか心配で。」


レオンの瞳が真っ直ぐフィオナを見つめている。その後ろには、まるで大きな犬の尻尾がブンブンと揺れているようなイメージが浮かび、フィオナは思わず疲れた体の口元に笑みを浮かべた。


「そっか。それは……おめでとう。」


フィオナの声は少し疲れていたが、心からの祝福が込められていた。レオンはその言葉にさらに笑顔を広げた。


「フィオナさん、本当に、ありがとうございます。」


レオンの熱意あふれる言葉に、フィオナは少し照れたように肩をすくめた。


「まあ、君が頑張ったおかげよ。私なんて大したことはしてないわ。」


そんな謙遜の言葉を口にしながらも、彼女の目にはどこか嬉しそうな光が宿っていた。




その夜、暖炉に暖められたダイニングでレオンが作った簡単な夕食を食べながら、彼は申し訳なさそうにペニシリンGの増産について切出した。


「フィオナさん、ペニシリンGを……その……もっと増産するように言われているんです。あっ、……その費用はもちろん国から出ます。あと……今後国に事業を譲ることになるんですが、最終的な抽出をあなたの異能なしで行う方法に心当たりはありませんか?」


「そうだね……。」


フィオナは深く頷き、手を顎に置いて思案を巡らせた。


「ペニシリンは水溶性で酸性だから……アルカリで溶かして抽出する方法がいいかも。それを元に、国が継続できるシステムを構築して......」


彼女の言葉には、やはりどこか慎重な響きがあった。


(やっぱり……フィオナさんは、自分がこの事業に関与した痕跡を完全に消すつもりなんだ。)


レオンはそれに対するモヤモヤとした思いを胸に秘めながら、彼女と協力して増産計画を練り上げるのだった。

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