逃亡、あるいは邂逅
前話に服に関する描写の訂正をしております。
訂正:シャツ→ジャンパー
「ブヒィーッ」
「ぎゃあーっ!」
みきは再び走り出した。老木から急いで離れて草原を全力で駆ける。猪がその姿を見据えて、力強く駆けだして追いかける。
「いやっ、どうして!?」
みきは今までに殺気など感じたことはなかったし、ましては向けられたこともなかった。追いかけられた経験は何度もあるがそれは鬼ごっこの話であって、こんな必死な思いをして逃げたことはなかった。しかしあの猪に追いつかれれば間違いなく死ぬとみきの本能が告げていた。
たとい死なずに済んだとしてもどこかしら大怪我は負うはず。みきは自分と同等の、あるいは自分より高身長の動物などは動物園かテレビでしか見たことがない。自分と同等の身長というだけでこんなにも恐怖感が付きまとうのだ。それが赤い眼光を鋭く光らせて追ってくる。息を切らせて走りながら最大限の力を振り絞って叫んだ。
「誰か助けて――ッ!」
果たして助けを呼んだところで誰か来てくれるものだろうか、みきはそう思いつつもそう叫ばざるを得なかった。辺りを見渡しても人も小屋もないのだ。緑だけが広がっている。
あのコウモリは足音からきっとこの魔獣なのだと察したのだろう。それならばそうと早く言ってくれればよかったのに。みきは人面コウモリを内心恨みつつも、この状況からどうやって逃げられるかを考えていた。
*
草原の中を一人と一匹が駆けている。走っても走ってもひたすらに草原が続く。
みきはちょっとひらめいて、走りながら着ているジャンパーのファスナーを開く。少し手間取ったものの、ジジジと音を開いたそれを急いで脱いで、振り向き様に猪に向かって投げた。ちょっとした目隠しくらいにはなると思ったのだ。
投げ出されたジャンパーは見事に猪の顔面へ飛んでいき猪の目元を覆った。しかし怒りに唸った猪がそれを頭を振ることでジャンパーを目元から払い、ジャンパーを乱雑に噛み、しまいには大きな牙がジャンパーの膨らみのある布を貫通した。少しばかり間隔の空いた距離がまた詰められようとしている。払い落されたそれが無残な姿になったのを見て、みきは悲鳴をあげた。
みきはそれでもたまに見かける木や岩などの障害物を使ってなんとか妨害しようとした。狭い木の間を通ってみたり、岩を踏み越えて距離を稼いだり。
それらはあまりうまくいかなかったが、それでもみきがなんとか逃げおおせているのは、彼女の自慢の体力と脚力に、猪自身が足に怪我を負っていたおかげであった。もし猪が足に怪我を負っていなければ、きっと10秒はもっていなかったに違いない。
走り続けてふとみきが前を向くと遠くの方に高地にそびえたつ建造物が見えた。ここからでも見ることができるほどの高い古い塔のようだ。あれはなんだろう。一瞬気を取られて、みきは足元の何かに足を取られて転んでしまった。
「ぎゃっ」
姿勢が崩れて、せめて手をつこうとするが間に合わず勢いよく額が地べたに追突する。じんわりと額に痛みが走った。一体自分は何で転んだのか。足元を振り返るとそこには折れた長い草があった。駆けている際に片方の足で草を踏んでしまって、そのときにそれが小さな輪を作ってしまったのだろう。そして足を引っかけてしまったようだ。
急いで立ち上がろうと手をついて起きようとしたところで全てが遅いことをみきは悟っていた。目の前には大きな岩がある。横に逸れて逃げることも不可能ではない。しかし。
足音が間近に近づいてくる。――もう追い付かれてしまう。恐怖で心臓が跳ねているように感じた。
あの迫りくる大きな体がみきに体当たりして、それからどうなるのだろうか。嫌な考えがふと頭をよぎった。猪の頭が背中に当たって背骨が折れて弾き飛ばされるのか、あるいはあの大きな牙がみきの体を抉るのかもしれない。あたしは動けなくなってそして、――食べられてしまうかもしれない。
(そんなの嫌……!)
みきは体を必死に丸めた。せめて頭を手で抱えるようにして守る。
猪の荒い鼻息と雄叫びが再び聞こえた。
(お母さん!)
みきは心の中で叫んで目をギュッと強く閉じた。―ああ、死んでしまう……!
観念してそのまま固くうずくまっていたしかし次の瞬間、後ろからごっと何か鈍い音と、猪から大きく悲痛な声が上がるのを聞いた。
一瞬間をおいて、どさりと重量のある何かが乱暴に落下する。
みきはその音に少し呆気にとられて、えっと思わず漏らし、それから後ろを恐る恐る振り返った。
視界の左側に横倒れになってどうにか立ち上がろうともがく猪に、それをじっと注視している誰かがいる。黒い髪のみきより少し背の高い男の子。真っ黒な丈の長い、とてもみきの暮らす現代とはかけ離れた中世的な衣服を纏っていた。彼は腰に下げた鞘から剣の柄を握って、わずかにそれを引き抜く最中で止めていた。男の子は静かに猪の様子をうかがう。
猪は弱弱しく鳴きながら四肢をばたばたと動かしもがいて慌ただしく起き上がり、それからポカンと口を開けたみきと男の子を一瞥して慌てて逃げるように走り去って行ってしまった。姿が見えなくなったのを確認して、男の子が剣を鞘に戻した。カチンと小さく金属音が鳴る。男の子がみきを振り返った。
「大丈夫か」
男の子はチュニックにふっくらと膨らんだ袖のついた黒のサーコートのようなもの――裾が膝下くらいまで伸びた、体の線がはっきりとわかるぴったりした上着――を身に着けている。そこには質のよさが垣間見えるシンプルで、しかし上品な刺繍が施されている。腰にはベルトを巻いていて、そこに剣帯が絡みついて鞘を支えていた。
男の子の顔はみきがよく見るような――正確には学校にいるみきのクラスメートにいるような――アジア人の顔立ちであった。黒髪を綺麗に後ろに結っていて、前髪が右目に少しだけかかって目を若干隠している。その黒曜のような双眸。
――日本人だよね?みきがその姿に呆気にとられていると、それは無言の肯定と受け取ったらしい。男の子は深く問わず猪が去っていった方角を見つめながら言った。
「子どもの魔獣だったようだ。今回は蹴りで済んだが……」
それからみきに視線をうつす。さきほどのコウモリのようにみきの顔と服装を気にしているのだろう。みきの顔と衣服を交互に眺めて不思議そうに小首をかしげた。
「見慣れない服を着ているな。――立てるか」
男の子が屈んでみきに手を差し出す。みきはこの助けてくれたこの男の子に対して胸の高鳴りを感じた。もっともそれは恋などではなく、男の子の立ち振る舞いのかっこよさに対するものであったが。
みきはその骨ばってしっかりした手を取って、ゆっくりと立ち上がる。足を立てようとして、しかしびりりと膝に小さな痛みが走る。
「痛っ」
思わず声が漏れて手を患部に当てる。――どうも擦りむいてしまったらしい。皮膚の擦れたのを男の子は見た。少女がイテテと言いながら手を傷に軽くさすっている。
「立てないようなら手を貸すが」
「あっ、違うの」みきは慌てて答えた。
「いま立ち上がるから」
みきは立ち上がった。衣服についた土埃や草を払って、それから男の子に目線を合わせる。彼はみきよりも少し背が高かった。
「助けてくれてありがとう」
手を握りながら微笑むみきに対して男の子の反応は少し冷たかった。
「いや……」男の子はみきから手を離す。それから彼女に対して話しかけた。
「どうしてここに?」
「ええっと……」
少し戸惑うみき。
「実はあたしもわかんなくて…」
「うん?」
「家の庭のガレージから来たのよ。床に穴が空いてて、穴の先がどうなっているのか気になってちょっと入ってみたら、ここに……」
怪訝な顔で聞く男の子にみきは困ったように笑って、それから辺りを見渡す。
「まさかガレージの下がこうなっているとは思わなかったけれど」
「がれーじ……、穴……」
男の子はみきの言っていることをあまり理解できていないようであった。彼はふむ、と少しだけ俯いて、それからふと思い出したように顔を上げた。彼が魔獣と称した猪の逃げていった先。そこを警戒するように睨みつける。男の子が口を開いた。
「とにかく、ここは危ない。移動しよう」
こっちだ、男の子が草原の中を歩いていく。柔らかい風になびいて彼のサーコートがわずかに揺れて髪がそよぐ。その様になる姿を見て、みきは小さく感嘆の声をもらした。
「クラスの男子よりかっこいいかも……」
次話11/21 10時投稿予定