穴の先
前半の虫の描写にご注意ください。
2022/11/17 服に関しての描写を訂正
「――ぶっ!」
みきは頭から転がるようなかたちで地面に追突してそのまま突っ伏した状態で倒れた。幸い、石のない柔らかな地面で当たり所がよかったようだ。ぶつかったときの頭の痛みだけで済んだ。
突っ伏した地面から濡れた土の匂いがする。ざあざあと木々を揺らす風の音。聞きなれない鳥の鳴き声。
(………?)
不思議に思ってみきは顔をあげた。そこにはさきほどまでいた庭とは打って変わって人工物の一つもない、自然が広がっていた。辺りには常緑樹がそびえたって大きな日陰を作り、地面にはその瑞々しい木の葉が散乱している。木々が風で揺れて木漏れ日がときに差し込んでは消えて、水色の小さな鳥がぴぴぴとさえずり枝から枝へと伝って飛んで行く様が見えた。木々の奥に、風になびく草原が見えた。
「ガレージの下ってこうなっていたんだ……?」
みきはわけも分からず呟いて、立ち上がり空を見上げた。落ちる前と似たような色の濃い青が広がっている。
これは夢ではないか……、そう思って自分の頬のつねるが、肉が挟まれる痛みを感じてこれが夢でないことを悟った。
小さな森の中にいま自分はいるんだ。みきはそう思って、不思議な思いやら、感動やら、嬉しい気持ちでいっぱいになった。まるで今の自分は不思議の国のアリスのよう。ガレージに穴があって、しかもこんなに綺麗な風景が広がっているところにつながっているなんて思いもしなかった。良い秘密基地になりそう。
(ママとパパに言ったらびっくりするだろうな)
空を数秒見つめながらみきは衣服についた土や木の葉を落とそうと、手で雑に衣服を払った。キャップにジャンパー、ズボン、と続けて、何かがぬるりと手を伝って這う気配がした。
一瞬思考が止まる。それはなにか小さな足が複数あるようで、奇妙なうねうねとした動きをしている触感がある。あとでかい。みきは実際このような動きをする虫に実際にお目にかかったことはないのだが、なんとなくその動きがみきの知っている虫に似ている気がして、みきは視線を手の平にうつした。
たくさんの足を使って必死に這うそれは、みきが知っているものとは微妙に違いがあったものの、その特徴は十分にみきの苦手なものの特徴に合致した。
それは6cmほどの大きな青いムカデがみきの手の平から腕へと移動するところであった。
「きゃあああっ!」
認めるが否や、みきは腕を振り回して反対の手ではたき落とした。ぼとりとムカデが腕から離れるが、次にはみきの紐靴に落ちた。
「あああああ!!」
それを蹴って、ムカデが宙に飛ぶ姿を目にも留めず走り出した。この小さな森の先、光が降り注いでいる草原に向かって。
*
「びっくりした……」
みきは森の出口に辿りついて、近くにあった木に寄りかかって大きく息を吐いた。腕と足、それからシャツも見回して念入りにさきほどのムカデが張り付いていないかを何度も確認した。全力疾走のせいで暑い。みきはジャンパーを少しだけくつろげた。疲れた肺に酸素を取り込んで、吐いて息を整えると、彼女は今寄りかかっている木を見上げた。
みきが腕を広げて回してみたとしても余程余ってしまう大きさ。樫の木のようなそれは辺りに心地よい日陰をつくっていた。年季の入ったこの老木はところどころ味のある歪みや瘤に、ちょっとした空洞があった。手をついたところがすっと冷たい。走って火照った体には心地よかった。ぴとりと頬を幹にあてる。
(気持ちいい)
一筋柔らかい風がみきの頬を撫で、ポニーテールを揺らした。そういえば一度ガレージに戻った方が良いのではないか、風がそよいでいるのを心地よく感じながらふと彼女はそう思った。そもそも今日は近くの公園に寄って、ちょっとブランコで遊んでからバスに乗って、友だちのきぃちゃんの家に行って、みんなで鬼ごっこやゲームをして遊ぶ……、それがみきの本来の予定であった。急がなければブランコに乗る時間に過ぎてしまうのではないか。
あの穴に戻らなくては。みきはさきほど抜け出た森を振り返った。しかしそこでみきは小さな何かがすぐ後ろにいたことに気づいた。
「あら」
「えっ?」
30cm近くの大きな小豆色のコウモリが羽をバタつかせながらこちらを窺っていた。みきはコウモリを実際に見たのはこれが初めてのことだったのだが、それでもそれが普通のコウモリでないことは一目でわかった。そのコウモリは人の言葉を喋ったことはおろか、人間の女のような顔をしていたのである。
コウモリは不思議そうにみきの顔をじろじろと見たあと、
「悲鳴があったから見に来たと思えば……、見ない顔ね」
みきはそのコウモリに呆気にとられて目を見開いたままちょっと固まったが、それからすぐにはっと気を取り戻して、
「わ――っ!?」
「きゃーっ!?」
間がおいて人面のコウモリに驚いたみきが叫び、その叫び声にコウモリもびっくりして二人分の高い悲鳴があがった。みきがじりじりと後ずさって大木を背につける。コウモリはすぐさま自身の背後を振り返って、何事もないことを確認すると、この不思議な服装をした少女に訝し気に向き直った。みきの目は依然見開かれている。
「コ、コウモリが。人面のコウモリが喋って……!?」
「失礼ね、コウモリだって喋れるわよ」
「喋れるんだ……」
みきは目をぱちぱちと瞬きして、このコウモリをじっと見つめた。コウモリは不服そうに眉を寄せて、今度はみきの服装に視線を行き渡らせる。
「その言い草にその服装……、あなた、まさか異郷の人?」
「イキョウ?」
イキョウとはなんだろうか、みきはこの大きなコウモリに恐る恐る尋ねようと口を開く。
「ねえ、イキョウって―――」
その時。二人は草の不自然に揺れる音を聞いた。みきがさきほどまでいた森の方から、ガサガサと草や木の葉の擦れる音。犬か猫か、もしくはそれより大きな動物の足音。
「あっ」
足音を聞いて、途端にコウモリは慌てた様子で小刻みに羽ばたかせはじめた。みきの顔に合わせるように維持していた高さから一気に飛び上がって、急いでみきの傍にたたずむ大木を超えてゆく。
「えっ、ちょっと……!?」
「逃げて!」
それだけ言って、コウモリの姿は見えなくなってしまった。風の音と迫る動物の足音だけがあとに残る。
「に、逃げてって言ったって」
困惑するみきをよそに、それは森の方から草地をかき分けてみきの前に姿を現した。
12歳のみきとほぼ同じサイズの猪のような体。口元から大きくはみ出した牙。真っ黒な体毛に、頭には赤黒い鬣がそそり立つ。その体のいたる場所には赤い不思議な文様が浮かび上がっている。赤く鋭い眼光が殺気を備えてみきを捉えていた。
「……へっ?」
迫りくる恐怖に対して、みきの口から出たのはすっとんきょうな一言であった。そして、静かだった平坦な地に、猪の咆哮が響き渡った。
次話2022/11/18 17時投稿予定