幽霊屋敷の女に婚約者を奪われたので一言言ってやろうと乗り込んだら、最終的に口をふさがれてしまいました
苦し紛れに生み出したお話です。よろしくお願いします。
「ベル、僕との婚約を取り消してほしいんだ!」
幼馴染にして婚約関係にあったレニーは店に飛び込んでくるなり、私に高らかに告げた。
私の家は仕立て屋を営んでいる。店の扉からレニーが入って来たということからもわかるように店は開いている。つまりそこには私だけではなく、私の両親や他のお客さんもいるわけで――。
なんなら今そこで目を丸くしているのは、領主様の使いの方だ。
女好きで有名な領主様はこれまで何着も服を仕立ててくれている我が家のお得意様だ。領主様の恋人か誰かが私のデザインした服を気に入ってくださったのか、提案したものはほぼそのまま注文してくれる。
(なんてタイミングの悪さ……。婚約を取り消したいだなんて言われる女がデザインしているって領主様に知られて、もう発注されなくなったらどうするのよ!)
驚きに声を失っている両親と、気まずそうなお客さんの様子を気にしながら私はレニーにこっそり囁いた。
「レニー、そういう大切な話なら場所を変えて話さない?」
しかしレニーの頭の中は自分の思いを告げたい気持ちでいっぱいだったらしい。
私の誘いに首を横に振り、レニーはさらに興奮気味に話し続けた。
「ベルが僕との結婚を望む気持ちはわかるよ。でもすまない。僕には好きな人ができたんだ。君はデザインの仕事があるから一人でも生きていけるけど、彼女は僕が側にいてあげないといけないんだよ」
すっかり自分の話に酔っているレニーの顔を見ながら、私は深呼吸を一つしてから至極冷静に問い返した。そうでなければ色んな感情が溢れて声が震えてしまいそうだったから。
「あなたの言い分はわかったわ、レニー。で、その人はどこの誰?」
「そ、それは教えられないよ……」
ごく普通の質問にも関わらずレニーは目を泳がせ、曖昧な返事をした。その様子に訝しく思いながらも、私は幼い頃とかわらないレニーの困り顔を見つめ、早めに話を収めるべくにっこり笑って答えた。
「わかったわ……。あなたの家族には自分で伝えてちょうだい? 私の方は……いえ、あなたの家族にもあえて伝える必要はなさそうだけど……」
ちらっと両親の様子を見ると、顔を真っ赤にしながらも飛び出してくるのを抑えている父と、お客さんに何か告げ、今にも外に飛び出そうとしている母の姿が目に入った。きっと隣に住むレニーの家に行くのだろう。
だがレニーは私の笑顔をどう捉えたのか、それまでの緊張した面持ちがみるみるいつもの笑顔に変わっていった。
「わかった! ごめんね、ベル。小さい頃から君にはいつも甘えっぱなしだ。しっかり者の君ならすぐいい人がみつかるよ」
「……そうね。きっとその人とは私より話が合うでしょうから、どうぞお幸せにね」
言い返したい気持ちを抑え、私は平気な顔をして答えた。昔から私が悲しむとレニーはさらに悲しんでみせるのだ。しまいには私が原因で悲しいと言い出すから、だからどんな時も平気な顔をしていたのに……。
(しっかり者ね……。「しっかり者でいよう」と頑張っていたのを、レニーは最後までわかってくれなかったのね)
そう言いたい気持ちを堪えた私に、レニーはすっかり友人関係に戻ったかのように嬉々として話し始めた。
「ありがとう! 実はまだ彼女とは会ったことも、話したこともないんだ。何度か窓越しに手を振っているんだけど、どうも恥ずかしがっているようで返してくれないんだよね。桃色の服が良く似合っているから僕は『桃色の天使』って呼んでるんだけど」
「はあっ?! あ、会ったことも話したこともない……?」
レニーから飛び出したのは予想だにしない告白だった。
「声をきいてみたいなぁ……。あ、そうだ! 今度彼女の家に行くとき、ベルも一緒に来てくれないかな? 家は町はずれの屋敷なんだよ。女の子同士ならきっと心を開いて会ってくれるかもしれないじゃないか! 名案だ――」
レニーの言葉を最後まで聞くことは出来なかった。
なぜなら私の握りしめた右手が彼の頬にめり込んだからだ。ちなみにお客さんは見てはいけないものを見たような顔をしてそそくさと帰って行った。
◇
「私も相当馬鹿だったみたいね。長い間知っているから、このままレニーと結婚出来ると思いこんじゃって! まあ結婚する前にわかって良かったけど!」
幼い頃を思い返しながら、私は自分の考えの甘さを嘆いた。長年一緒に過ごして来たのだから、このまま結婚するものだろうと思い込んでいたのだ。
あの後、私の一撃ですっかり伸びてしまったレニーは母が呼んで来た彼の両親に回収されて行った。
「おじさんもおばさんも申し訳なさそうに頭を下げてたけど、そんなに謝る前に息子の事をしっかり叱ってほしいもんだわ!」
レニーの両親は彼に甘かった。二人で悪戯をしたときも叱られるのはいつも私のほうだった。
それでも眉を下げ、捨てられた子犬のような目をしたレニーに「ごめんね」と言われると、私もつい許してしまっていたのだ。きっと私の態度に甘えてしまっていた部分もあるのだろう。
「何よ! それじゃあ私が自分でまいた種ってわけ? デザインを勉強して、少しでも役に立つ女になろうとしたのがいけなかったの?」
私は自分に向けた独り言にショックを受けながらも乱暴に目を拭い、手の中の十字架をきつく握りしめた。
「とはいえだわ! その女に一言、文句を言ってやらないと気が済まないわよ!」
私は大きな屋敷の門を見上げていった。黄昏時の光に照らされた屋敷はまるで血に塗られたように赤い。
ここはレニーが言っていた「桃色の天使」が住むという、町はずれの屋敷だ。
外門に手をかけると、錆びついた音もせず軽い力で容易く開いた。庭にはたくさんの庭木が植えられているが、みな元気に葉を茂らせ、香り良い花をつけている。
だが実はこの屋敷、町の住人からは「幽霊屋敷」と呼ばれている。この屋敷は長らく空き家になっているにも関わらず、夜になると窓から明かりが見えるというのだ。地を這うような呻き声も聞こえるという噂もある。
(こうやって見るとさすがに立派ね……。ここに誰かが越して来たって噂は聞かないけど、きっと誰かが使っているからこうやって手入れされているのよね)
私は庭の薔薇を一輪手にとった。桃色の薔薇からは強い香りが立ち上っている。
ちなみにこの町の子どもたちは「幽霊屋敷に近づいてはいけない」と大人たちから耳にタコが出来る程聞かされる。私はさすがに幽霊を信じている歳ではないが、やけに大きな独り言を口にするほどに恐怖心は残っている。
「い、行くわよ……」
玄関前に立ち、ノックをするも返事がない。すぐに心は折れそうになったが、私は気持ちを奮い立たせた。
「すみません……ど、どなたかいらっしゃいますか?」
外門同様に施錠されていないドアを勝手に開き、私は隙間から屋敷内を見渡した。屋敷内は人気が無く暗いが、窓から赤い光が差し込み、舞い上がる埃がキラキラと反射している。
「おじゃましまーす……」
マナー違反とは思いながら私は一歩、屋敷に踏み込んだ。鼓動が高鳴り、外に聞こえていないか心配なほどだ。ここまで来るともう好奇心に後押しされているような状況だった。
私の声に返事は聞こえない。しかしエントランスホール正面から延びる階段の途中にその姿があった。遠目にもはっきりとわかる長い金色の髪、しなやかな手足、そして――桃色の服を身に纏っている。
(間違いない、あの人が『桃色の天使』だわ。でもあの服って……)
もう少し近くで確認しようと、私は室内に一歩踏み込んだ。――途端、フカッと毛足の長いじゅうたんに足を取られ、思わずよろめいてしまった。
「――っきゃ!」
だがバランスを崩した私の身体は床に倒れることはなかった。
「おっと、大丈夫か?」
初めて聞く声とともに、たくましい腕が私の身体を支えてくれた。同時に薔薇の香りがふわりと鼻先をくすぐった。だがそこで私の緊張の糸はあえなくプツリと切れた。
「――っ、うぎゃあああぁぁぁーーっ!!」
「うわああああーーっ!?」
私の悲鳴と腕の主の悲鳴がからっぽの屋敷に響き渡った。この時の悲鳴が後に「幽霊屋敷では黄昏時に地獄の扉が開く」と噂されるようになったのはまた別の話だ。
◇
「申し訳ありませんでした。まさか腰を抜かしてしまうとは……。悪さをしようと思っていたわけではないのです」
「見ればわかるよ。悪党は十字架を掲げたりしない」
項垂れる私に苦笑いを向けるのはがっしりとした体格の男性だ。美しい緑色の瞳が細められる。
男性に驚き腰を抜かした私は、そのたくましい腕に抱え上げられ応接室に運び込まれていた。しゅんとしながら私は男性に来訪の目的を告げた。
「実は階段にいた彼女――『桃色の天使』さんに、一言文句を言おうと思って」
「『桃色の天使』? ああ、きっと彼女のことだ。ということは、君が仕立て屋の……」
「はい……」
どうやら『桃色の天使』に婚約者を奪われた私の話はかなり広まっているらしい。胸の奥にツキンと痛みを覚えながら、私は男性に案内されるまま別室に移動した。
(レニーも馬鹿よ。素敵な人には大抵もう相手がいるんだから……)
前を行く男性のたくましい背中を見ながら、私は思った。上質な生地に真っ直ぐな縫製、美しいラインを描く上着は男性がしっかりした身分であることを意味している。
(庶民には到底かなわないわよ。馬鹿なレニー)
どんどん沈んでいく私の心に反して、嬉しそうな彼の声が再び意識を引き戻した。
「はい、お目当ての相手はこちらかな?」
彼がノックもせずにドアを開けるも、中から返事はない。だがそこには確かに階段で見かけた『桃色の天使』がいた。私とほぼ背丈の変わらない彼女は微動だにしない。それどころか瞬き一つせずに、薄く微笑んだままそこに佇んでいる。
私はその姿にしばらく呆気に取られていたが、ようやくの思いで口を動かした。
「こ、れ……、人形? それにこのデザイン、やっぱり……」
そう、『桃色の天使』の正体は人形だった。
天使のような微笑みをたたえた美しい等身大の人形だ。
そしてこの服は私がデザインしたものに間違いない。
「あ、あの……ど、どういうこと?」
「さあ、これでいいかな? 今度は君がこの屋敷に忍び込んできた理由を教えてもらえるかな? とは言っても使いの者から婚約者との一件を聞いて、ある程度見当はついているんだけどね」
そう言って男性はにっこりと笑った。私の混乱する頭の中で情報の欠片が結びついていく。
(レニーとの話を聞いた領主様の使いの方、そして私のデザインした服がここにある、ということは……)
「も、もしかして……領主様?」
私の言葉に男性はさらに笑みを濃くした。それが全ての答えだった。
「なるほど……」
私の話を聞き、領主のユーグ様は深刻そうな表情を浮かべている。しかし口元はふよふよと緩んでいて、どうも笑みが隠しきれないらしい。私の怪訝な視線に気づいたユーグ様は何かを確信したようにうなずいた。
「いや、君には申し訳ないが私にとっては願ってもない話だな」
そして何度もうなずきながら立ち上がったユーグ様は、おもむろに私の足元にひざまずいた。
「えっ、な、何を!」
「よし、君の不法侵入を許そう」
突然の行動に驚き、腰を浮かせた私を留ませるようにユーグ様は私の肩をガシっとつかんだ。わりと力強く。
「ひえっ、許してくれるんじゃ……」
「許すさ。でも、交換条件があるんだ」
そこで提示されたユーグ様からの条件に、私は目が飛び出るほど驚くこととなった。
◇
「まさかユーグ様が絵を描かれるとは。女好きの噂はここから来ていたのですね」
「ベル、喋ってもいいけど動かないでもらえるかな。それに私は女性は好きだが、一途な人間だ」
ユーグ様に注意された私は姿勢を正した。立ち仕事には慣れているが、同じ姿勢で立ちっぱなしでいるのはまた違ったつらさがある。
私たちの町の領主ユーグ様の趣味は絵画だった。普段暮らしている屋敷には置ききれないので、町はずれの幽霊屋敷を倉庫兼アトリエとして使っていたらしい。
(夜に見える明かりもユーグ様が持つランプ。呻き声も絵の具をぶちまけた時のユーグ様のものだったなんて、正体がわかればただ面白いだけだね……)
私は熱心に筆を動かすユーグ様を見つめた。真剣な顔をしていると迫力があるが、普段のユーグ様は気さくで親しみやすい人柄だ。
(ユーグ様は知れば知るほど面白いし、本当に素敵な方。なのにやることは少し人とずれていて……。そこがまた魅力なのかもしれないけど)
不法侵入を見逃す代わりの条件、それは「絵のモデル」になることだ。『桃色の天使』の人形はなんと絵のモデル代わりに使っていたそうだ。
私の家に服を注文していたのも女性へのプレゼントではなく、描く題材に合わせて人形に着せるためだったらしい。思わず「贅沢な趣味ですね」とこぼしたら、ユーグ様に渋い顔をされたのは記憶に新しい。
(とはいえ、よ。私なんかがモデルになっていいのかしら)
私がユーグ様の絵のモデルになっていることは家族以外には秘密にしている。
事情を知った家族は「女好きと噂の領主様に騙されているのでは」とか「お前に務まるのか」とか言っていたものの、服の注文が継続されるとわかると二つ返事で承諾していた……。商売人は現金なものである。
私は視線をちらっと動かし、窓ガラスに映る自分の姿を見た。今着ているのは桃色のワンピースだ。「ぜひこれを着て欲しい」と、自分のデザインした服をユーグ様に渡されたのがだ……。
(「お前に務まるのか」は自分でもそう思うわ。だって、今着ているワンピースだって、『桃色の天使』の方がよほど似合っているもの……)
あくまでも人形とは言え、『桃色の天使』はレニーが姿を見かけただけで心奪われるほどの美しさだったのだ。ユーグ様も本当は不満を感じているのではないだろうか。
(それに婚約は無事に取り消されたけど、あれからレニーに会っていないわ。一体どこで、どう過ごしているのかしら……)
知らず知らずのうちに表情が曇っていたのだろう。私が気がつくとユーグ様が筆を止め、こちらを見つめていた。
「どうした。疲れたなら休憩するが?」
「あっ、いえ、大丈夫です。少し考え事をしてしまって……」
だがユーグ様は筆を置き、慌てる私の元に静かに近づいて来た。
「元婚約者のことだろうか?」
なかば図星を突かれた問いかけに、私は正直に頷いた。するとユーグ様はきゅっと眉を寄せ、怒りを抑えた声で私に告げた。
「そうか。でも君が気を悪くしたら申し訳ないが、その彼はかなり見る目がなかったと思う。君のように素敵な女性を自ら手放すなんて、私には考えられない」
「え……?」
思いもよらぬユーグ様の言葉に私が答えられずにいると、ユーグ様は初めて会ったときにそうしてくれたように私の足元に跪いた。
あの時と違うのは私の手を取るユーグ様の手が、優しくも微かに震えていることだ。
「ずっと言いたかったんだ。私は君が彼と結ばれなくて良かったと思っている」
「え、えっと……」
「この言葉の意味、君はわかってくれるはずだ」
澄んだ緑色の瞳が私を見上げる。返す言葉が見つからないまま、頭の中が大混乱の私はユーグ様の瞳に縫い留められたように見つめ合うばかりだった。突然のユーグ様からの告白に私の心臓は口から飛び出そうなほど激しく騒ぎ立てている。
そうしているうちにユーグ様は覚悟を決めたような表情になる。ゆっくり開くユーグ様の唇を見ながら、私も思わず息を止めて次の言葉を待った。
「この際だから告白させてもらうよ。気味悪がられるかもしれないが、あの人形のモデルは――」
「ちょっと待ったあーっ!」
その時だ。激しい音と共に勢いよく開かれ、騒々しい来訪者が訪れた。
「レニーっ?!」
「ベル?! どうして君がここに!」
そこにいたのはレニーだった。あとから聞いた話では『桃色の天使』目当てで屋敷を訪れたレニーは、その前に私を探していたらしい。
どうも私と一緒に幽霊屋敷を訪れる計画は彼の中では潰えていなかったようだ。
サッと私の前に立つユーグ様と青ざめる私の姿を交互に見たレニーは、勝手に何か納得したようだった。ビシッとユーグ様を指差して大声を上げた。
「貴様ッ! 『桃色の天使』だけじゃなくベルまでそそのかすとは! 領主様に訴えてやる!」
「はぁっ? レニー、何を言っているの、この方は――」
「ベルも寂しかったなら正直に言ってくれれば良かったのに」
「は?」
ユーグ様が領主様本人だと知らなかったのはさておき、私はそそのかされてなんかいない。
慌てて訂正する私の声を、レニーの妙に甘ったるい声が遮った。
「もう大丈夫だよベル。僕は気づいたんだ。僕なら彼女も君も、まとめて幸せにできるって。だから戻っておいでよ。そして三人で幸せになろう!」
(な、何を言っているの? レニーの言っていることが何一つとして頭に入ってこないわ……)
突然異国に投げ出されたような気分の私に対し、レニーは自分の言葉にうっとりとしながら私を見つめていた。
そんな私たちのやり取りを聞いていたユーグ様も、私と同じように戸惑っていたらしい。
「彼が元婚約者かな?」
「そうです。恥ずかしながら……」
「そ、そうか。なら尚の事、君は彼と結ばれなくて正解だったよ」
そう言うとユーグ様が毅然とした態度でレニーの前に立った。
「な、なんだ? 暴力になんか負けないからな。ベル、見ていてくれ。僕は君を守ってみせるよ」
「彼女に見てもらうばかりで、君は彼女の何を見てきたんだい? 残念だがこれから彼女を守るのは私の役目だ」
ユーグ様が発した言葉にレニーの顔が固まる。何か言おうとしているのか、口元があわあわ動いているが、声にはなっていない。
(大変! これは泣き出す前兆だわ。そうなるとレニーはこちらが引くまで、全然話を聞かなくなってしまうのよ)
私はユーグ様にレニーの相手をさせてはいけないと、二人の間に割り入った。
「レニー、悪いけど私、あなたと復縁する気はないわ」
私が出てきたことでレニーの表情は緩んだ。レニーの瞳に私への期待の色が浮かぶ。
「強がらなくても大丈夫だよ、ベル。君のその姿、まるで『桃色の天使』みたいだ。僕を振り向かせようとしていたんだろう? 君の態度に免じてその男の事は許してあげるよ」
「レニー! 話を聞いてちょうだい」
もはや言葉の通じないレニーに私は恐怖を覚え始めた。
思わず後ずさりをした私にレニーは手を伸ばした。だがその手を取ったのは私ではない、ユーグ様だった。
「君の語る『桃色の天使』とは、この人形のことかな?」
そう言ってユーグ様はレニーの手に、真っ白なもう一つの手を重ねた。
「――うわぁっ!? な、なんだ! 気持ち悪い」
「君の言う『桃色の天使』じゃないか。気持ち悪いとは失礼な物言いだな」
ユーグ様がレニーの前に差し出したのは『桃色の天使』だった人形だ。ただ今はかつらと服が脱がされ、白く塗られた棒に丸坊主の女性の頭と手足がついているだけだが……。
「領主に訴えたければ好きにすると良い。その代わりこちらは君のこれまでの不法侵入の記録と、私の愛する女性に対する侮辱を、領主として責任もって裁かせてもらう」
「え。『領主として』って……。ベ、ベル! 僕をだましたのか?! やっぱり君はひどい女だっ! 僕を助けろっ、助けてくれベル!」
どこからともなく現れた使用人たちに動きを封じられたレニーは、それでも唾を飛ばしながら私を怒鳴り続けた。
今までならそこで許してしまっていたのかもしれない。これ以上レニーの声を聞きたくないと謝っていたのかもしれない。
でも今、私が彼の声を聞かずに済んでいるのは、ユーグ様の胸の中に閉じ込められているからだ。
「あのっ……? ユーグ様、こ、これは……」
ぎゃあぎゃあ騒ぐレニーの声が遠くなっていくと、今度はうるさいほどの心臓の音が私の耳に届き始めた。この音は私の心臓の音じゃない、今抱きしめられている胸から聞こえてくる音だ。
「さっきは邪魔が入って言えなかったが、私はずっと君の絵を描きたかったんだ。あの人形も君に似るよう作らせた。気味が悪いと思われることは承知だが、黙っていられなかったんだ。本当にすまない」
「あっ……」
そう言ってユーグ様は私の身体を自分から引き離した。うるさいほどの鼓動もユーグ様の温もりも一気に離れていき、私は残念な気持ちに声を上げてしまった。
思いがけない気持ちの変化に恥ずかしくなり、うつむいてしまった私の頬にそっと添えられた手はゆっくりと私を上向かせる。
「初めは理想の絵を描くために服を頼んでいただけだが、自分の道を見つけて頑張っている君がだんだん気になってしまったんだ。使いの者から話を聞くたび、君への気持ちが膨らんでいった」
まっすぐ私を見つめるユーグ様の瞳の中には私が映っていた。後から聞いた話では、こっそり仕立て屋まで私を見に来た事があるらしい。その時の記憶を元に『桃色の天使』を作らせたそうだ。そう言われれば髪の色や背丈は私にそっくりだった。
「君の事を一番近くで見ていたい。それに、これからは君以外を描きたくないんだ。ゆっくりでいいから、今度は私の事を見てくれないかな」
ゆっくりも何も、私はもうすでにユーグ様から目が離せなくなりかけていたのだ。
私はユーグ様の言葉に胸がいっぱいで何も言えず、ただ一度、深く頷いた。
(はっ! だめよ、ベル。こんな時こそ何か一言、言っておかなきゃ……!)
だが、意を決して顔を上げた私の口から言葉が生み出されることはなかった。
嬉しそうに、そして心から幸せそうに微笑むユーグ様の顔が視界いっぱいに広がり、次の瞬間には柔らかな温もりに塞がれてしまったからだ。
口をふさがれた(正しくは唇)お話でした。
お読みいただきありがとうございました。
『桃色の天使』はあまりにもセンスがないネーミングでちょっとだけ反省してます。