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下腹部にじくりと熱が生じた。
初めは月のものがきた痛みかとあまり気にはかけなかったが次第に臓腑を蝕むようにじくりじくりと熱は増し体だけでなく顔も火照った。
何もこんな時でなくても良いのに、と彼女は顔をしかめながらその訳のわからない感覚に堪え罵声をあげる婚約者だった男が騒ぐのを眺めていた。
「ローザリア・バルべロッタ!貴様との婚約は破棄させてもらう!」
片腕に華奢な娘を引っ付けて、伯爵家の子息が叫ぶ。そもそも彼にそんなに声高に叫べる資格はない。
何せ婚約破棄を願い出る相手は侯爵の生まれの令嬢である。彼の主張するか弱い彼女の身分が公爵の隠し子だとしても、些か証拠と証言が不足している。更にはこの場も良くなかった。
侯爵の血筋には縁深い、宰相ガウロデの孫娘のデビュタントも兼ねた夜会だ。
名だたる名家の中でもこれほどまで贅を尽くしたものはないだろうと言うような気合いの加減も伺えるそんな会場を何故よりにもよって選んでしまったのかと彼女を含め、冷静に物事を考えられる多くの貴族たちの感想だった。
誰も宰相の顔を見れない。
否、好奇心に負けたものが数人ちらりと宰相を見やったが、嵐の前の静けさか。無。皺だらけの歴戦の猛者を感じさせる厳しい顔に浮かぶものは何もなかった。普段何が起これど微笑みを浮かべているだけにそれが逆に不気味であった。
そんな宰相を知らず、彼と場の雰囲気に酔った、あるいは恋に酔いしれていたのかもしれない公爵の庶子だけがクライマックスを飾るように彼女に言う。
「……のような悪女は国の恥だ!さっさと身辺を片付けどこへなりとも出ていくが良い!」
「ブライユ様素敵!」
抱き合う二人は今にも口付け合いそうで……。
急な目眩に襲われたローザリアは額に手をやり身をよろめかせた。ローザリアの周りには人がいない。というのも父母といた彼女に子息が話があると連れ出したのだ。婚約者としてと言われれば彼女の性格上断ることもできないだろうと知った上での仕打ちである。
この状況で無様に倒れるのだけは避けたかったが、どうしようもないと心の内で自嘲していた、その時だ。
暖かな腕と厚い胸板が彼女を抱き留めた。仄かに香る男性物の香水の香だろうか。爽やかながら甘さも少し乗った芳しいそれにスンと鼻を鳴らし驚いて顔を上げれば知らぬものはいない人物の顔があった。
少し癖のあるダークブロンドの髪を項あたりでちょこんと結い、垂れたモスグリーンの目は心配そうに彼女を見据えている。全体的な雰囲気で言えば優男風の貴族男性だ。
さぞや女性方にモテようというようなそんな彼の顔にはしかし致命的な欠点がある。左目の下にある特徴的な三連の雫型をした泣き黒子がそうだ。
この国の言い伝えでは淫魔との間にできた子どもには彼のようにどこかしらに名状しがたい罪の証を携えてくると言われている。しかも彼の母は彼を産んだ際に亡くなっているため、その罪のほどは計り知れない。
「バルベロッタ侯爵令嬢、お怪我は?」
「え、ええ……。おかげで倒れず済みました」
未婚の女性ならばあまり近寄られたくはない代名詞の一人である彼が相手ではなければ心から感謝したはずだ。
しかし彼に助けられてしまったことでまた面倒ごとに巻き込まれると不敬ながら彼女は思わず身を強張らせ、直ぐに腕をやんわりと解きにかかった。だが遅かった。現に、目の前でバカ騒ぎをしていた彼らは目を見開きそれ見たことかと指を差し声を高らかにあげまた騒ぎ出す。
「淫魔に体を許すなど!そこまで落ちたかローザリア!」
「ローザリア様がそんな阿婆擦れだったなんて!」
鬼の首をとったように罪が増えたと嬉々として論っているが、つくづく彼らは周りを見ていないのだ。
「へぇ。今、私を淫魔と?そうおっしゃいましたか、ブライユ・ソフォン。貴殿は余程私より地位が高いと見える。四大公の一人を父に持ち、王妹を迎えた我が家より遥かに、ねえ?」
裏で表で噂はしても本人に直接言うようなバカは滅多にいない。へらへらと笑っていつも冗談と流すその行いもせず、目も口も笑っていない。寧ろ凍てつくような眼差しとその声音にハッとようやく我にかえったか、子息は慌て出した。
「い、いや!それはその、勢いと言いますか言葉のあやといいますか」
「淫魔と言う明らかに侮蔑や名誉を傷付ける言葉を誤ってでも口から滑らせる程に貴殿は私を、そして大公家を、王家を馬鹿にしておられる証拠でしょう。目の前で顔色の悪い女性が倒れそうになっていれば誰だって助けます。にも関わらず、私が彼女に触れ、気にかけただけであのように大声で非常に不快な発言をなさるとは貴殿の器が知れますね。あなたの発言は皆様聞いていますし、大公家から伯爵家に抗議の連絡があるものとお思い下さい」
「そんな!それは、それだけはご勘弁願いたい!」
「……失礼、私もよろしいかな、ソフォン家のブライユ殿に言いたいことがある。よくも、よくも我が家の夜会をぶち壊してくれたな!孫娘がどれだけ楽しみにしてきたと思っている!貴重な絵画やレリーフ、植物やシャンデリアに至るまで全て計算つくして今日この日のために用意したのだぞ!それを、それをよくも……!」
二人の若者の話の最中で怒りに滾る声を押し殺してついに宰相が割って入った。そして大公子息には目にもくれず伯爵子息を怒鳴りつける。まさに憤怒。まさに修羅の形相でブライユもその連れの娘も腰を抜かして縮こまっている。
それに口端を引きつらせながらも大公子息はこの隙にとローザリアに退室を促し姿勢良く礼をした。
「言いたいことはまだ山程ありますが、しかしバルベロッタ侯爵令嬢のお体が気にかかります。親族の方はどちらにおられますでしょうか、お付き添いいたします」
注目を受ける彼と二人きりにならないようにと宰相家の執事に頼み、後を三人の侍女と護衛がついての付き添いとなり、ローザリアは羞恥心を感じながらも噂とは違う彼の紳士な対応に安堵しようやく身を預けた。
騒ぎの中心から離れ、そこまで遠い場所ではないところで両親が心配そうに彼女を待ち構えており彼女の姿を見るやいなや駆けつけてきた。そして娘の代わりに矢面に立ち、婚約破棄の騒ぎを薄めるような立ち回りをしてくれたことについて夫妻に口々に礼を言われた大公子息はへらりと笑って別に当たり前のことをしただけだからと続けたが今日のところは騒ぎも騒ぎだし帰ろうかと話し出す彼らに少し考えこむような素振りを見せた後、緊張した面持ちで切り出した。
「侯爵、ローザリア嬢のことで少々お時間を頂いても?」
恩人を無碍にするものはない。宰相の家のものに控えの間を借りた彼らは大公子息に内密にと言われて最低限の見張りと信頼できるものだけを室内に残し、話し始めた。
「あのようなことがあって直ぐにこのようなことをお知らせするのは気が咎めますが、どうか、皆様、落ち着いて聞いてください。ローザリア嬢は今、恐らくどこかの淫魔に狙われております」
ローザリア本人も父母も驚きを隠せず狼狽し顔を見合わせる。そしてどう言うことなのかと続きを促した。
「私が淫魔と繋がりがあるという噂は皆様も先程の伯爵家の彼と同じくご存知でいらっしゃるはずです。その噂は実を言うと半分ほど的を得たもので、淫魔としての力はほとんどありませんがそれでもこの身に流れる血故にかあいつらの気配がわかるのです。……先程の騒ぎでローザリア嬢を見た時から妙な引っ掛かりを覚えまして。実際に近付いてよくよく確認させていただきましたところ奴らのターゲットとしたい女性につける印のようなものを見てとれましたので、こうして知らせに来ました」
恐らく王家も関わる秘事だろうにそれを明かす彼は真剣そのもので侯爵を前にも物怖じせず、そう言い切ればその眼差しをそっと気遣わしげにローザリアへと向け視線を僅かに落とした。
まるで下腹に何かあるように。
「重ね重ね、未婚のあなたにこのような不躾なことを問うのは無礼と承知しておりますが、ローザリア嬢。最近、いや、この夜会に来てから何かお体に変化がありませんでしたか?お腹が痛くなるような、そんな感覚です」
「…………あり、ました。まさか、そんな、本当に私が」
婚約破棄や淫魔やらとわけのわからない事象が立て続きに起き、流石にいっぱいいっぱいになってしまったのだろう。気丈な彼女ではあれどはらはらと涙を零し信じたくはないと自身の腹を庇うよう背を丸め、それを母が抱き寄せ宥める。
可愛い愛娘の悲痛な姿に父母はどうしたら淫魔から逃れられるのかと彼に縋るように問うと、彼は苦笑しながら対処はないわけではないから兎に角今は皆落ち着いて状況の理解だけをしてほしいと念入りに伝えた。
「まだ自身のターゲットとして他に示す為の仮印の段階です。危険性はありますが、今宵直ぐに襲われるわけではないと思います。しかし下手に焦り奴らにこちらが気付いているとバレるのはマズい。奴らは夢を介して渡ります。現実の世界では防ぎようのない不利な場所に引きずり込まれたらこちらに勝ち目はないのです。悪魔祓いも確実に向こうの姿や形、名前のいずれかの情報が必要になります。下手に刺激するのも怖い。暫くはどなたか信用できる同性の方を寝室に番として置いて様子を見て下さい」
「わかりました……」
「人の形を真似るものもいますから合言葉やそのものしか知らないものを予め確認し合うのも一つの手です。念のために出入りがある時は手間ですが、必ず身体検査をしてください。見てくれを真似ても男である可能性もあります」
「そのような恐ろしいことをしてまでも……。どこまでも欲の深いものたちなんですね」
「ええ。……最後に、気休め程度ですが私と暫くの間、定期的に会いましょう。私の体からも淫魔の香に近いものが分泌されているそうなのでそれでもうこの乙女は他の淫魔に囲われるまで至っているのだと誤解させられれば後は勝手に諦めてくれるはずです。奴らはそこまで力の強い種ではなく、同族同士の喧嘩を極力避ける傾向にあるのです」
「なるほど」
「……ですが、私とあまり長くいては先程のようにあらぬ噂も立てられる恐れもあることも事実。ですので私の香りのついた衣服や手紙、時計など贈り物をさせていただく許可を願いたい。好きでもない男の持ち物を置かせるのは忍びないですがどうか一時的なものと耐えていただければ幸いです」
そしてそれらはお守り代わりに枕元に置いてほしい、と彼は言って立ち上がり詳しくはまた調べてから伝える旨を侯爵にと取り付け去って行った。
ローザリアは帰宅後、自室にて着替えをとしている際に侍女がヘソの真下に黒い翼のような形の痣を見つけその顔色を更に白くした。