7
その一件があってからというもの、光はどこか落ち着かなくなっていた。
ふわふわとしてまるで夢の中を漂っているみたいだ。
「どうしたの?」
「え?」
ハッとして、光は我に返った。
そうだ、今はお昼休みだ。
いつものように一に捕まり、教室でお弁当を食べていた。
「最近なんだかボーッとしてるね。なにか悩み事でもあるの? 言ってごらん、相談に乗るよ」
「なんでもあらへん」
そっけなく返して、光はおかずを口にした。
「なんでもないって顔じゃないけどな」
ジッと一に見つめられて、光はそわそわしてしまう。お弁当へと視線を落とす。
「でも、どんな光もかわいいよ。光は世界一かわいい。ああ、なんでそんなにかわいいの?」
ほんと君は罪作りだよ、とたまらないように頭を左右に振る。
一はいつもとなにも変わらない。
なのに、光は違う。
一を見ると、胸がざわつく。
なんでこんな変態相手にこんな反応を示すんだ。
なんで? どうして?
きっかけはわかっている。あの一件だ。
一の震える身体、震える声を如実に思い返している。
『無事でよかった……。君になにかあったら、僕は生きていけない』
その言葉を思い出すだけで、光の胸はキュウッと締めつけられる。
切なくなる。胸が重苦しくなる。
なんで、こんなふうになるんだよ。
光は戸惑っていた。
これじゃまるで、一のことを意識しているみたいじゃないか。
……意識している?
ダメだ。絶対に、ダメだ。
そんなことを思っちゃいけない。考えちゃいけない。反応しちゃいけない。
(俺が好きなのは、今井さんやねんから!)
断じて、一のことなど好きではない。
このわけのわからない感情を振り切るために、香菜に思いきって告白しよう。
光は思い立って、そう決心した。
チラッと、香菜を見る。
彼女は仲のいい友達とお弁当を広げながら談笑している。
ふと、香菜が光を見る。
そして、にこっと笑った。
光の胸はドキンと高鳴った。
(ほら、やっぱり俺は今井さんが好きなんや)
それを再確認して、ホッと安堵した。
ん? なんでそんなにあからさまに安心してるんだ?
光にはよくわからなかった。
「今井さん、話があるねんけど」
その日の放課後、光は思いきって香菜に声をかけた。
「なに?」
「ここじゃ、ちょっと。場所変えへん?」
「いいよ」
そうして、二人は屋上へと向かった。
下駄箱にはいつものように一が待ち伏せしているはずだ。
告白するチャンスは今しかない。
屋上へと着いた。
「話ってなに?」
不思議そうな顔をして香菜が首を傾げる。
光は、拳を握った。
「俺、今井さんのことが好きです。俺と付き合ってください」
決死の思いで告白した。
心臓が爆発しそうにバクバクと鳴っている。
(どうか俺の想いが届きますように)
光は一心に願った。
香菜は困った顔した。
そして、言った。
「ごめんさない。私松本くんと付き合えません」
「……なんで?」
「好きな人がいるの」
「誰?」
「それは、伊集院先輩」
光はショックを受けた。よりによって、香菜が一を好きだなんて。
「と、松本くんが好きなの」
「え?」
どういうことだ?
一と光の両方が好きだというのか。
光が要領を得ないといった顔しているのを気取って、香菜は説明した。
「私ね、伊集院先輩と松本くんのカップリングが好きなの」
「え?」
「松本くんに熱烈な愛の告白をする伊集院先輩に、ツンデレな松本くん。最高のカップルだわ!」
「は?」
光は目を白黒させた。
いったい全体香菜はなにを言っているんだ。
「ねえ、松本くんは伊集院先輩のこと少しは好きなんじゃないの? あんなに毎日毎日愛を告げられたら、私だったら即行落ちちゃうけどな」
光は、言葉を失った。
「私の夢は、二人のラブラブなところをこの目で見ることなの」
目を輝かせながら、夢見るように香菜が告げる。
光は衝撃を受けた。
なんと、香菜は腐女子だった。
男×男のカップリングをこよなく愛してやまに女子が少なからずいることを光は知っていた。
だが、香菜がその腐女子だったなんて。
光は呆然とするしかなった。
「考えれれば考えるほど、二人は最高のカップルだと思うの。あー早くひっついてくれないかなー」
呆ける光を無視して、香菜はひとり楽しそうに語っている。
と、そこへ、
「光」
声がした。声の主は、もちろん一だ。
なぜ一がこんなところに? ああ、誰かがチクったのだろう。伊集院学園の情報網がつくづく広いことを知る。
一は、光のもとへと近づくと、香菜に視線をやった。
「悪いけど、いくら女の子でも、光は渡せないよ」
「もちろんです。私はお二人が結ばれることを心から祈ってます!!」
勢い込む香菜に、一はいささか驚いたようだ。
「そうなの? 僕らを応援してくれてるんだね。とてもうれしいよ、ありがとう」
「いいえ、お二人は本当にお似合いです!!最高のカップルです!!」
「ありがとう」
にっこりと微笑む一に、香菜もうれしそうに満面の笑みだ。
「だって、光。僕らを応援してくれる人がいる。本当にうれしいね」
「……うるさい」
「光?」
どうしたの?、と光の顔を覗き込んでくる。
光は、一をギッと睨みつけた。
「おまえのせいや……こんなことになったのも、全部」
「光、これは僕のせいじゃないよ」
だから、と一は光へと手を伸ばした。その手を光は勢いよく打ち払う。
「おまえなんかっ、おまえなんかっ、大っ嫌いやっ!!」
光は、腹の底から叫んだ。
そうだ、なにもかも全部一のせいだ。
香菜にフられたことも、一へと抱くこのわけのわからない思いも全部。
「光……」
一が目を見開いている。そして、ひどく傷ついた顔をした。
光は、一目散にその場から逃げ出した。
一気に階段を駆け下りる。
息が切れた。苦しい。
胸が苦しい。痛い。
でも、この苦しさ、痛みは、階段を駆け下りたせいだけではない。
もっと別のモノだ。
なぜだか、じんわりと涙が浮かんできた。
光は乱暴にそれを拭った。
このままここにいては、一が追ってくるだろう。
早く、逃げなくちゃ。
光は急いで、学校を出た。
翌日。
重い気持ちと足取りで、学校に向かう。
きっと今日も例に洩れず、一が校門で待ち受けていることだろう。
それを思うと、憂鬱な気持ちにさらに拍車がかかる。
しかし、光の予想は覆された。
校門に一の姿はなかった。
そのことに、驚くと当時に、ホッとした。
そして、一はいったいどうしたんだろうと、気にかかる。
そこで、光は頭を左右にブンブンと振った。
なに一のことなんて気にしてるんだ。いなくてせいせいする。ほっとけばいいんだ。
そう思い直すものの、心は晴れない。
もやもやとしたものが胸にわだかまっている。
校門を通り抜けて、下駄箱へと向かう。
と、それに気づいた。
光の下駄箱に、薔薇が入っていた。
それは、紅色で四輪入っていた。
きっと、いや、絶対に一の仕業だ。間違いない。こんなキザなことをするのは一以外いない。
はあ……、と光の唇から重いため息が零れ落ちた。
光は、その紅色の薔薇を取り出すと、上靴に履き替えて教室へと向かった。
「どうしたんだよ、なんか暗い顔して」
京介が心配げな顔をして言った。
「きのうの放課後、おまえ今井さんとどっかに消えたろ。告白したんだろ。違うか?」
「……うん」
「その顔から推測するに、フられたんだな」
「……うん」
「まあ、そんな落ち込むなよ。次の恋がおまえを待ってるって」
「いや、フられて落ち込んでるわけちゃうねん」
「じゃ、なんだよ?」
光は、話すか話すまいか一瞬迷った。しかし、話すことにした。
「きのう告白して見事にフられたところに、あいつが来て……」
「ん、で?」
「俺、なんかわけわからんようになって、あいつに大っ嫌いやって言ってもうてん」
「なるほど、で、伊集院さんはなんて言ったんだ?」
「なんも。ただめっちゃ傷ついた顔してた。俺そのあと逃げ出したから、あいつがなに言うたか知らん」
本当に傷ついた顔をしていた。
それは当然だろう。これまで散々、光は一に対して罵詈雑言をぶつけてきた。
しかし、一度も言っていない言葉がある。
それは、『大嫌い』だ。
内心で思っていても、言葉に出して言ったことはなかった。
それをきのう言った。……とうとう言ってしまった。
「おまえ、ほんとに伊集院さんのこと嫌いなのか?」
「……それは、」
あとに言葉が続かない。
これまでの光なら、即嫌いだと言っていたはずなのに。
ここにきて、それが言えなくなった。
あのひどく傷ついた一の顔を思い出して、胸がズキンと痛む。
どうして、こんなふうになるんだろう。そりゃ、一をまた傷つけてしまったことを後悔している。けれど、なにかもっと違う感情が他にあるような気がする。
それが、掴めそうで掴めない。
それがひどくもどかしかった。
この痛む胸の理由がそこに隠れている。
それを、知りたいと思う自分と、知りたくないと思う自分が混在してせめぎ合っている。
「その薔薇の意味知ってるか?」
光は、力なく頭を左右に振った。
「紅色の花言葉は、『死ぬほど恋焦がれています』で、四輪には、『死ぬまで気持ちは変わりません』て意味がある」
光は、唇を噛みしめた。
なにも言葉が出てこなかった。
一が薔薇に込めた想いが、光には痛かった。とてつもなく痛かった。
「伊集院さんは、なにがあってもおまえのことが好きなんだってよ。ここまで思われて、おまえなにも感じないのか? 気持ち悪い、大嫌いだって思うか?」
光は黙ったままだ。
「ちゃんとおまえの胸の中にある気持ちと向き合えよ」
諭すように、京介が言った。
その日のお昼休憩と放課後も、朝と同じく、一は姿を現さなかった。
光は、安堵と、どこか失望感を覚えた。
「この薔薇は、いつも誰からもらっているの?」
薔薇を花瓶に活けながら、智恵が不思議そうに尋ねた。
「誰かわからん。いつも下駄箱に入れられてるから……」
「毎日毎日、すごいわよね。その人はきっとすごく光のことが好きなのね」
ふふ、とうれしそうに智恵は笑った。
智恵の言葉を光は苦い思いで聞いていた。
「あ、そういえば、一くんにまた会いたいわ。連れてきてよ」
「……」
応えない光に、智恵は、
「喧嘩でもしたの?」
「……」
「どうせ、また光が一くんにキツいこと言ったんでしょ」
もう、子供なんだから、と智恵は呆れた様子だ。
「仲直りしなさいよ?」
光は、黙ったままだ。
「はい、は?」
母の威厳で、智恵は光に迫る。
「…………うん」
智恵の怒りを買いたくなくて、光は仕方なく頷いた。