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「おはよう、光。今日もとびきりかわいいね。そんな可憐な君に似合いの薔薇だよ」
そう優雅に、歌うように、伊集院一は告げて、ピンク色の薔薇を一輪光の眼前にスッと差し出した。
「いらん」
光――松本光は、うんざりしきった顔で言い放った。
朝の校門前。大勢の生徒が門を通り抜けてゆく。好奇の視線を光に寄越しながら。
その痛いほどの視線を浴びて、光はにっこりと微笑んでいる一を睨みつけた。
「ええ加減にしろ! 毎日毎日しょうこりもなく待ち構えやがって!!」
「それは仕方ないよ。朝一番に君の顔を見ないと一日が始まらないんだ」
「そんなこと俺の知ったことか!!」
「つれないね。でもそんなところもかわいいよ。数ある君の魅力のひとつだね」
キモい。超絶キモい。気色悪さのあまり鳥肌が立った。
寒気すらする。
光は、思わず身体をさすった。
「どうしたの? 寒いの?」
「あんたがキモすぎて寒気がするわ」
「それは大変だ。僕が温めてあげる」
そう言って、両手を広げて、おいでのポーズをする。
「誰があんたなんかに温めてほしいと思うかっ」
「この寒空の下、可憐な君が風邪をひいてしまっては大事だからね。さあ、おいで」
「誰が行くかっ!!」
「遠慮しなくていいんだよ? 君と僕との仲じゃないか」
「変な言い方すんなっ!!」
光は大声を張り上げた。
その声に、さらに視線が集まる。
興味深げに見る者、冷めた目で見る者、憐れみの目で見る者、と様々な視線が入り混じっている。
「日本もとうとう終わりだな……」
「はい、日本終了~」
「どうなるんだ日本経済」
野次馬の囁き合う声がいやでも光の耳に入る。
なぜ、日本が終わりなどと大仰なことを言っているのかというと、原因は目の前の一にある。
伊集院一。高校三年生。容姿端麗、頭脳明晰、家は華族の血を引く元財閥だ。伊集院財閥といえば、三大財閥である三井、住友、三菱と引けを取らない一大財閥だ。最初は小さな商店から始まり、今では大型ショッピングモール、交通、貿易、金融、果ては芸能界までと、手広くビジネスを展開している。財閥解体により財閥自体はなくなってしまったが、今でもその影響力は色濃く、日本経済の一端を担っている。
一は、その伊集院財閥の直系の子孫にあたる。
伊集院グループの総帥である伊集院蔵之介の孫だ。一の父は早逝したため、次期総帥の座は一が継ぐことに決まっている。
幼少の頃より、祖父に付いて帝王学を徹底的に学び、伊集院グループのトップとしての品格を身に付けてきた。18歳にして、その姿たるや威風堂々としたものだ。並みいるお歴々と並んでも遜色ない。見上げたものだ。
そんな完璧と言わざるを得ない一を慕う者は、男女の別を問わなかった。
しかし、両性から熱い視線を送られても一はまったく取り合わない。気にも留めない。
なぜなら、一の目にはただひとりの人物しか目に映っていないからだ。
その人物とは、光だ。
一は光を一目見て恋に落ちた。一にとって初恋だった。
「君と出逢って、僕の世界は鮮やかに色づいた。そして、気づいたんだよ。これまで僕は色褪せたモノクロの世界で生きてきたんだって。君が僕の世界を照らしてくれたんだ。ありがとう、光」
「俺なんもしてへんねんけどっ」
「君の存在が奇跡だ。僕はこの奇跡にひたすら感謝するしかない。ああ、神よ。ありがとうございます!!」
一は天を仰いだ。その顔は感極まっている。
「キモッ」
光はそのかわいらしい顔を盛大にしかめた。
緩やかな放物線を描いたような眉。スッと通った形のいい鼻梁。小づくりな唇。そしてなによりも気を引かれるその瞳。黒目がちで、眦が垂れている。パッと見ただけでは、女性と間違えてしまう。それくらい中性的な容姿をしている。身体つきも男にしてはほっそりとしている。華奢だ。しかし、光の身体全体から放たれる勝気なオーラが、彼の身体を一回り大きく見せている。とても少年然としている。一度も染めたことのない黒髪が、そのまっすぐな性格を如実に表していた。
「そんな顔もかわいいよ。光はなにをしてもかわいい。非の打ち所がないよ。完璧だ。僕をどこまで君に夢中にさせるつもり?」
たまらないよと言い添えて、一は大げさに頭を左右に振った。その様は、まるで西洋人だ。
キリリときれいに整えられた眉。その下にある瞳は切れ長でとても理知的な光を宿している。長く鼻筋が通っている。厚くもなく、薄すぎでもない絶妙な具合の唇。こちらも黒髪で、その意思の強さを貫いている。
「知らんしっ」
光は喚いた。そして、勢いよくそっぽを向いた。
相手にしていられない。いや、相手にしてはいけない。ここで相手をしてしまったら一の思うツボだ。
ここは無視に限る。
そう決めて、光は無言で一の横を素通りしようとした。
しかし、それを察知した一が瞬時に光の前に立ちはだかる。
光は今度は右に逸れて、門を抜けようとした。しかし、またしても一が遅れることなく右に身体を移動させて、光の行く手を阻む。イラつきながら、次は左に逸れる。呼応するように一が反応する。続いて、右。阻止される。左。立ち塞がれる。
「ああっ、もうどけっ」
「どいたら君とは別れなくちゃいけない」
「それがどうしてんっ」
「寂しいよ。とてつもなく寂しいよ」
その言葉のとおり、ひどく寂しげな、そして切なげな表情を一はその秀麗な顔に浮かべた。
見る者の同情を買わずにはいられない表情だった。
しかし、光にはまったく通用しない。通用してたまるか。
「とにかくどけっ」
怒鳴りつけると、
「それはできない。まだ大切な用が済んでいない。それを終えるまでここを一歩たりとも動くことはできない」
いたくその顔つきは真面目だ。
「……なんやねん」
その大切な用とやらが終わるまでは一は立ち去らないつもりなのを気取って、光は仕方ないと諦めた。とっとと要件を聞き出して終わらせよう。
「さっさと言えや」
「僕と結婚してほしい」
「は?」
今一はなんと言った?
光がぽかんと口を開けているのをまじまじと見やって、
「人生の伴侶になってほしい」
「……なに言うてんの? アホとちゃう」
「僕はいたって真面目だよ。この命を懸けて一生光を守る」
「なら、今すぐ死ね。即刻死ね。ただちに死ね」
「君を置いて死ぬわけにはいかないよ」
「死んでくれたほうが俺には都合がええんやけど」
「どうか僕と結婚してほしい。君以外考えられない」
一が真剣な瞳をして告げた。
その目はガチだ。本気で言っている。
光は引いた。ドン引きだ。
「俺、男やねんけど?」
「それはむろん知っているよ。でもそんな些末なことは僕らにとって問題じゃない」
「おおいに問題ありやわっ。てか僕らとか言うなっ」
「愛に性別なんて関係ないよ」
「関係ありまくりやからっ。てか、男同士で結婚なんて無理やから!! 残念でしたー」
へへん、ざまあみろ、と光は笑ってやった。
しかし、返ってきた言葉は、
「いずれこの先、同性同士で婚姻が可能になる世の中が来る。だから、なにも問題ないよ。安心して」
「んなわけないやろっ!!」
真っ白なウェディングドレスを着て幸せそうに微笑む自分、その傍らには、タキシードを着て、これまたとろけるほど幸福そうな微笑みを浮かべている一。そして、二人は見つめ合い、キスを――そんな未来が来てたまるか!!
思わず、光は自分の想像にぞっとした。
「君を一生大事にする。愛し抜く。神に誓うよ」
「誓うなっ」
「君を愛してるんだ。心から愛してる」
ひどく真摯に、熱のこもった目で告げる。
その瞳を受けて、光は心底から嘆息を吐き出した。
「……あんた、頭ええんやろ?」
「ああ、この前の全国模試では1位だったよ。それがどうしたの?」
「そんなに頭ええのに、なんでわからへんの?」
「頭で想像可能なイメージは実現できる。不可能はない。僕は、君が僕を愛してくれるとイメージができる。だから、それは実現可能だということだ」
「あんた、伊集院グループの跡取りやろ? その下に何千の、いや、何万の社員の生活抱えてるねんで? それちゃんとわかってんの?」
「もちろんわかってるよ」
「それなら、男に結婚申し込むとかアホなことやってわかってるやろ? てか、わかれ」
「どうして? 心満たされる愛があってこそ、仕事に張りが出る。僕はちゃんと仕事をしてる。決しておろそかにしたりしていない。なにせ何万人もの社員の生活がかかっているんだからね。心得てるよ。でも、だからと言って、恋愛をないがしろにしようとは思わない。人を愛することは素晴らしい。君を愛して初めて僕は、その事実を知ったんだ」
滔々と述べられる言葉に、光は、はあ……と重い重いため息をついた。
「ぜんぜんわかってへんな……」
頭が痛い。痛すぎる。
なぜこんなイタいヤツに好かれてしまったのか……。
引っ越しなんてしてこなければよかった。
それならば、こんな厄介なことに巻き込まれずに済んだのに。
光は、故郷である大阪を懐かしく思った。
ああ、帰りたい。今すぐ帰りたい。
心の中に、大阪の景色を思い起こす。
「光、返事を聞かせてほしい」
「そんなん言わんでもわかるやろ」
「それじゃ、結婚してくれるんだね」
「はあ!? 今までの流れからなんでそんな答えが出てくるんっ!!」
「わかっているよ。君が恥じらいから、そんなふうに拒絶して言っているのは。奥ゆかしいね。本当に光はかわいいんだから」
「いやっ、ぜんぜん恥じてへんからっ。心から素直に言ってるから! てか、かわいいって言うなっ!!」
光は、嫌悪感も露わに怒鳴った。
「怒った顔もかわいいよ」
「俺の言葉聞いてへんのかっ!!」
ダメだ。話が通じない。
「まさか、光の言葉は一言一句記憶しているよ。当たり前でしょ」
フッと、キザに一は笑った。
「その記憶力を仕事と学業だけに活かせっ」
「心配してくれるんだね、なんて君は心の優しい人なんだ」
感動したように、うれしそうに、一はその切れ長の瞳を細めた。
「いや、まったく心配なんてしてへんからっ。なんで俺があんたの心配せなあかんねんっ。アホかっ」
「君は本当に心の優しい人だからね。――君と僕が出逢った時のことを覚えてる?」
「……ああ」
光の顔に翳が差す。
「あの日、君は車に跳ねられて死んだ子犬をずっとずっと抱きしめていた。大粒の涙を零しながら……。その君を見て、僕は恋に落ちたんだ。一目ぼれだよ。なんて心の優しい、純粋で、きれいな人だろうって」
「……でも、あんただって、子犬を一緒にちゃんと埋葬してくれた」
「そりゃあね、君の悲しむ顔をそれ以上見たくなかったからね」
「あの時は、その、ありがとう」
そっけないながらも、光はお礼を言った。
「どういたしまして」
優しさを滲ませた顔で一は微笑んだ。
二人の間になんとも言えない空気が流れる。
「それじゃ、俺行くから」
なんだか気まずくなって、今度こそ光は、一をかわして門を通り抜けようとした。
「待って」
しかし、またしても一が立ちはだかる。
「なんやねん」
「まだプロポーズの返事を聞いてないよ」
「やから、無理やってば」
しつこいな、と光はその柳眉をひそめた。
「なぜ?」
「そんなん男同士やからに決まってるやん」
「さっきも言ったけど、いずれ同性同士で結婚できるようになる。断る理由にならない」
「やーかーらー、俺にはソッチの趣味あらへんから。俺には好きな女の子おるから、無理」
「その好きな女の子というのは、この子だね」
そう言って、一は黒のロングコートのポケットから写真を取り出して、光に見せた。
そこには、確かに光が心ひそかに想っている女の子がくっきりと映っていた。
「なっ、なんで知ってんねんっ!!」
光はその大きな目をさらに大きく見開いて動揺した。
「光のことはどんな些細なことでも知っていたいからね。いろいろ調べたんだ」
「ひっ、変態っ!! ストーカー野郎っ!!」
「ひどいな。愛している相手のことを知りたいと思うのは当然の心理だろう?」
「あんたのは異常やわっ!! てか、俺に好きな女の子がおるって知ってるんやったら潔く諦めろやっ!!」
「それはできない。僕は君を愛してるんだ」
「そんなん俺には関係あらへんわっ!!」
「いいや、関係あるよ。なんたって、君は僕の結婚相手なんだからね」
「やから、あんたと結婚するつもりなんてあらへんからっ! 一ミリも、一ミクロンも、一ナノもっ!!」
「光、今はミクロンじゃなくてマイクロだよ」
「うっさいわっ!! 突っ込むところそことちゃうやろっ!!」
真面目な顔して言う一に、真っ赤な顔して怒鳴る光。ひどく対照的だ。
そこへ、
「あのー、そろそろチャイムが鳴るので教室に行っていただけないでしょうか」
光と一は声のするほうへと一緒に顔を向けた。
そこには非常に申し訳ない顔をした教師が肩身が狭そうに立っていた。
ここ伊集院学園は、その名のとおり、伊集院グループが運営している。理事長は、蔵之介だ。
だから、教師陣はその孫にあたる一に大きな態度を取ることができない。
「もうそんな時間か」
一は腕時計を見た。それはどこぞのハイブランドのものだった。
「それじゃ、俺はもう行くから」
「光、待って」
「なんやねん」
「忘れものだよ」
そう言って、改めてピンク色の薔薇を光の眼前に差し出した。
「やから、いらんって言うたやろ」
「君のために用意した薔薇なんだ」
「だからなんやねん」
「君が受け取ってくれないと言うならば、捨てるしかないね」
一は悲しそうに薔薇を見つめ、重いため息をついた。そして、その薔薇をその手から落とそうとした。
「あーもうわかった。受け取るからっ」
花に罪はない。可憐な薔薇が捨てられようとして、光の心はチクンと痛んだ。
「よかった。君なら絶対受け取ってくれると思ったんだ」
「毎日毎日持って来やがって。迷惑やからやめろや」
「それは無理だよ。愛しい君への想いを表しているんだからね」
にっこりと一は微笑んだ。
その顔に光は呆れ返るばかり。
「ほんま迷惑やから」
と、そこへチャイムが鳴りだした。
「やばっ」
光は、薔薇を一から奪うように取って、今度こそ駆けだしていく。
その背後から、
「光、愛してるよっ」
大きな声が聞こえた。
(あー恥ずいヤツ……)
そう心の中で呟いて、光は教室を目指した。
しかし、少しばかり遅刻してしまった。
「遅れてすみません……」
「伊集院くんと一緒にいたのか?」
「はい……」
「なら、仕方ない。早く座りなさい」
「はい」
「伊集院くんは相変わらず、君に求愛しているのか?」
「……はい」
光は、羞恥に顔を紅潮させた。
教師でさえも、一が光のことを好きなことを知っている。
「そうか。なら、その気持ちに応えてあげなさい」
しかも、一の味方だ。雇われている身だからそんなことを言うのだろう。
(このヘタレ!)
内心で、光は悪態をついた。
光が睨みつけるように教師を見ると、彼はわざとらしく咳払いをして、
「さて、授業に戻ります」
そう言って、教科書に目をやった。