鼓動を、胸に
自身が身に纏うものについてこだわる点は何かと言えば、やはりデザインと機能性だが、最も重視するポイントは、実は扱いやすさだ。一人暮らしが長かったゆえに、例えば家で洗えるか、アイロンが掛けられるか、皺が寄りにくいか、乾きやすいかなど、繁忙期にも残業の折にも、他の家事と並行しつつもいかに手間暇を掛けずにやり過ごせるか、が常に頭の隅にあったわけで、それゆえに毎日悩まずに済むからと、職場では最早制服の如くにパンツスーツ一辺倒だったし、それは結婚した今でも一向に変わっていない。
その傾向は普段着に関しても多少はあって、別に誰に見せるわけでもないし、と身体に馴染む楽なものばかりを選んでいたから、ごくシンプルかつスタンダードなものばかりが長くクローゼットやチェストを占めていたものの、さすがに彼と付き合い始めてからは、無理のない程度に、今まではあえて避けていた、柔らかさやほのかな可愛さを帯びたものにも、次第に手を伸ばしてみるようになってきた。
……まあ、奈緒に色々とつつかれた、という背景もあって、ではあるが。
そんな風に、行く店も傾向も緩やかに変わってゆく中で、いつしかほんの小さな望みが胸の中に芽生えていたことを、自覚してはいたのだけれど。
「あっ、これ、どうですか?明るめのグレーだからこれからの季節にも爽やかでいいし、中にはこんな感じで、ボーダーとか入れても合うと思うんですけど」
いざそれが実現してみると、我ながら、あり得ないくらいにはしゃいでしまって。
五月、皐月。長い連休も遥か彼方へと過ぎ去ってしまい、日差しも空も空気にも、夏の気配が日々膨らんでくるような、爽やかにしてやはりじわりと暑い、月の終わり間際。
週末だけに、それなりに人の多いクラウドモールの一角を占めるアパレルショップの、落ち着いた色調に彩られた広い店内の片隅で、私は一枚のジャケットを取り上げていた。
「うん、いいと思うんだけど……美冬さん、いったい僕に何着買ってくれるつもりなの?もうシャツもパンツも一揃い選んでくれたのにさ」
「とりあえず、ジャケットは一着かな。あとは、雰囲気に合う靴も見たいなって思ってるんですけど」
メンズだけにシックな、黒とグレーの二つのショッパーを既に持っているせいもあって、大人しく胸元に服を当てられながら、苦笑交じりに言ってきた良充さんにそう返すと、彼は驚いたように目を見張って、
「え、本気で全身コーディネイトしてくれるの?だめだよ、そんなに散財させるわけにいかないでしょ、別に何かの記念日ってわけでもないのに」
「何言ってるんですか、普段から外食でも何でも全然出させてくれないくせに。それに、これは大事なお呼ばれのためなんですから、たまには私の好きにさせてください」
珍しく慌て気味に返して来たのに、私はこれ以上有無を言わせないつもりで、ひた、とその瞳を見返してみた。
ちなみに『お呼ばれ』とは、いよいよ来月に完成する予定の、久保夫妻の新居お披露目パーティのことだ。我が家とさほど変わらない規模のお宅とはいえ、そう何十人も一時に呼ぶわけにもいかないから、両家揃ってのお祝いを済ませた後に、ごく少人数でお招きに預かる予定になっている。そして、その参加予定者である樋口くんからある話を聞いて、それなら私も、と思い立って、今日ここにやってきたわけで。
それはさておき、絶対に譲りませんよ、との意思を込めて、彼の視線をひたすらに捉え続けていると、ほどなくやや濃い目の眉が、弱ったように下げられて。
「単純に僕の楽しみでもあるし、ただ君にしてあげたいだけなんだけど、って言っても、そこもお互い様なんだよねえ……もう、ほんとに可愛いんだから」
……数えきれないほどに言われているのに、どうしてこう、胸に突き刺さるんだろう。
さらりと告げられたその前段と、妙にしみじみと放たれた止めの台詞もあいまって、のことだとは分かっていても、いつまでもその威力は衰えるどころか、幾何級数的に増してゆくばかりで。
みるみる熱くなる頬にうろたえているうちに、良充さんは、気付けばジャケットを強く握り締めていた私の手に、そっと自身のそれを重ねてくると、
「分かった、今日は美冬さんの気が済むまでとことん付き合うよ。でもね、荷物持ちと午後のお茶に関してはこっちに譲ってもらうから。それと」
「……これ以上は、私だって引きませんよ?」
何やらやけに真面目な表情を作り、わずかに声を低めたのを察知して、釘を刺すように言ってみると、その口の端が、楽しげにくっと吊り上がって。
「知ってるよ。だから、このお返しは、くれぐれも楽しみにしといてね」
わざわざ『くれぐれも』の一音ずつを、ことさらに強調するように言い切ってしまうと、私の手からジャケットをするりと取り上げて、少し離れた姿見の方へと歩いて行った。
……このひとといい、森谷くんといい、住民課は似たタイプが集まってる気がする。
腕に掛けた二つの荷物を左右に移しながら、手にした服に器用に袖を通して、ご満悦な様子の彼の背中を眺めていると、ふっとそんな考えが頭に過ぎる。
と、係長も早瀬さんも真っ向勝負型ですもんね、と微笑んだ彼女の声が思い出されて、私は小さく苦笑を刻んでいた。
四月の末日ともなれば、管理職および係員の異動も完了し、初期の新採研修も終えて、人事担当としてもようやく一息つける時期でもあるけれど、何より大型連休がその直後に待ち構えているから、どのフロアでも休暇の予定について話す声がそこここで耳に入ってくる。ことに時間外ともなれば、若手のグループが派手に盛り上がっているのを目にすることも多いが、多少趣は異なるものの、そのうちのひとつに思いがけず私も混ざることになってしまって。
「じゃあ、式次第も司会原稿も、全部倉田くんの方で準備して貰えるのね?」
終業時刻を二十分ほども過ぎた市役所の五階、エレベーター前の、ホールで。
縦型のクリップボードに挟まれた、チェックリストの体裁で作ってあるA4の資料を指でめくりながら、私は目の前に立つ二人に向けて、確かめるようにそう問いを投げた。
「はい、というかもう九割方は完成済みです。実夏の時のテンプレ、ほぼそのまま流用してますからね」
「まあ、久保と違って足立も奥さんも派手なことは避けたいみたいですから」
すぐさま返してきた支倉さんの後を取って、やれやれ、といった様子で応じてきたのは、彼女とともに今回の調整役を担っている、広聴広報担当の辻くんだった。短髪を無造作に後ろに流して剥き出しにした広い額に、黒目がちの瞳がトレードマーク、という感じの、少しばかりやんちゃそうな印象の青年だが、
「あと、ブーケプルズがどうのとかサプライズで弦楽アンサンブル登場とか、その手の時間がやたら押す面倒なイベントは軒並みありませんので、かなり楽になると思います」
よくギャップに驚かれるらしい、夫によればバスバリトンであるという持ち前の低音を疲れたように響かせてきたのに、思わず口元を緩める。
「あの時は凄かったものね。四人がかりでやるって聞いた時は驚いたけど、納得だった」
そう言いながら思い返していたのは、一昨年に行われた久保夫妻の結婚式のことだった。
夫婦それぞれの同期から二人ずつ司会者が出ていて、スピーチや余興のたびに入れ替わり立ち替わり、久保くん悶絶必至のプロポーズ再現劇から参加者突撃インタビュー、そしてラストのサプライズ動画までみっちりと采配を振りつつ、まさに八面六臂といった様子で。
盛り上がりもすさまじかったそれを見ているせいもあって、先日足立くんから直々に、是非とも司会をお願いしたいんですが、と打診された時は、一瞬迷ったのだけれど、
『あれはあいつの六年越しの執念の産物ですから。私も二度は同じこと出来ないですよ』
実際にそれを務めた一人である支倉さんに断言されて、それなら、と引き受けたというわけだ。ただ、このたび私が選ばれた最大の理由として、
『平岩係長なら失言はありえないですし、妙な相手のあしらいも上手いですからねー』
と、倉田くんにやけににこやかに言われたことが、若干気になってはいるのだが。
時間の都合で聞けなかったことを、そういえば、とこの際漏らしてみると、支倉さんはああ、と頷いて、
「新婦方の親族、結構うるさ型がいるらしいんですよ。えー……祖父の兄、だっけ?」
小首を傾げて、思い出そうと視線を天井に向けた彼女に、辻くんが軽く眉を寄せると、手にしたベージュのフラットファイルを、指先でこつこつと叩きながら口を開いた。
「違う違う、祖父の弟の大叔父。年が離れてるから新婦の父親の方に年が近いとかって足立が言ってただろ?」
「そうだったっけ。今回その辺まで覚える必要ないからさらっと聞き流してたわ」
「自分に関わりないことには相変わらずテキトーだな……まあ、お前らしくていいけど」
平然とそう返してきた支倉さんを、呆れたように見やったその瞳が柔らかく細まる。頬を上げるようにして浮かべた笑みは、親しみ以上の何かを、含んでいるようで。
……まだ、どこか、心を残しているのかな。
「えー、その辺りはまた足立から話してもらうとして、今後の流れなんですけど」
それこそ関わりのないはずの、そんな思考が脳裏に過ぎるのを遮るように、乱れのない低音が耳に届いて、引かれるように顔を向ける。と、
「式の正式な日取りが決まるのが連休明けになるってことで、六月中に一度、新婦方と顔合わせも兼ねて幹事会を開く予定にしてるんです。で、こっちは俺と梓と、あと倉田と河合が出る予定なんですけど」
綴じた資料を確認しながら、流れるような調子で続けた辻くんの台詞に、ふと違和感が走る。
確か、樋口くんから聞いていた限りでは、最近もずっと『支倉』と呼んでいたはずで。
思わず、そっと彼女の方を窺ってみると、一重の瞳をわずかに細めて、何か言いたげに彼の横顔をじっと、眺めていて。
「向こうもうちと同様に週休二日なんで、出来れば、土曜日に設定したいと思ってるんですが……係長、もしかしてご都合悪いですか?」
「えっ、いえ、そういうわけじゃ……」
「はーせーくーらーさーん!!酷いですよー!!」
しぼみかけた語尾をさらに掻き消す勢いの大声と、床を蹴るけたたましい足音が、他に人もいないホールに、むやみやたらと轟き渡る。
抗いようもなく、全員が声の方へと頭をめぐらせると、三対の視線を受けた樋口くんは、ぎょっとしたように表情を変えたものの、肩に掛けた鞄が跳ねるのも構わず、そのままの勢いで駆け寄ってきて。
支倉さんの傍にそっと立つと、一瞬、挑むかのように辻くんに目を向けたのを認めた時、それを制するように落ち着いた声が響いた。
「樋口くん、礼儀忘れた?」
淡々と問いかける言葉に、樋口くんはぴくりと身を震わせると、私、それから辻くんの順に目を移して、さっと頭を下げた。
「すみませんでした、お話中に割り込んじゃって!ちょっと浮かれてしまってて!」
「よろしい。で、何が酷いって?用があるから一階で待ってろ、って言ってあったじゃない」
「それですよ!五階に用がおありなんだったら言ってくださいよー!!それなら担当でひたすらじっと待機しておいたのに!」
「……正直、どっちで待ってようが時間的にも大差ないと思うんだけど」
確かに、我が人事担当はすぐ傍ではあるものの、どのみち一階に降りていようが移動はエレベーターを使えば、差はせいぜい一分以内といったところで。
そう反射的に突っ込むと、う、と短く声を上げた樋口くんは、何故か頬を染めて、
「でも、なんか、終わった瞬間からすぐに一緒にいられるし……それに階段使ったら、もっと時間を引き延ばせるじゃないですか」
「今日ヒール高めだから疲れるし却下。いいから大人しく」
「梓、そいつと約束してんのか」
すげない台詞を断ち切るように、辻くんが鋭く言葉を挟むのに、目に見えて樋口くんが色めき立つ。詰め寄りそうな気配を察して、止めるべきかと逡巡する間に、彼女が動いて。
「……してるけど、何?」
こつり、と、硬いヒールの音を鳴らして、向かい合うように身体を動かした支倉さんが彼を見上げた。軽く顎を上げたその姿は、身長差ゆえ、というにはいささか挑戦的に映る。
向けられた方も同じくそう取ったのか、右の眉を高々と吊り上げると、
「俺の誘いはことごとく断るのにか?飲みに行く程度なら、一度くらい構わないだろ」
「何度も言ってるけど、清水に悪いから、それは無理。そうだ、この子と一緒だったら行っても構わないけど?」
棘を隠しもしない台詞に、彼女が薄くからかうような声を返した途端、かっとその頬が、そして額までもが、一瞬のうちに紅潮して。
「お前、なんでそうやって茶化すんだよ!俺がどんな気でいるかも分かんねえのか!?なんで今更俺がお前とこうして組んでんのかくらい、いい加減見当つくだろ!?」
久保くんからも聞いていた『性質の悪い短気』を爆発させた声音に、びくりと身が竦む。けれど、支倉さんは、真っ直ぐに相対したまま、動じた様子もなくて。
落ち着いた赤に塗られた、やや薄い唇が動くかと見えた時、その姿を遮るように動いた樋口くんが、ほぼ同じ高さにある彼の瞳をきつく睨み据える。と、
「そんなの、分かるわけないじゃないですか!」
男性としては少々高めの声を張り上げてそう言うと、完全に虚を衝かれた形の辻くんに畳みかけるように続けた。
「僕なんてあなたからすればぽっと出で、頼りない年下だって思われても仕方がないし、実際その通りだって日々ダメ出し食らってるし、ついでに毎回へこんではいますけど!」
職場のそこここから飛んでくる、彼と彼女の現況を、実に的確に表現した台詞を放つと、樋口くんはさらに言葉を継いだ。
「でも、こっちが鬱陶しいくらいに何度アクション起こしても、支倉さん、絶対に何か反応返してくれるし、尋ねたことに答えてくれなかったこともないんです!なのになんで、恋人だったくせに、そんなひねくれたアプローチしかしないんですか!」
「……そこまで知ったように言えるんなら、いっそのこと俺の言い分も代弁してみろよ」
「出来ません。それを口にすべきなのは、僕じゃない」
最初の勢いが薄れた唸るような声音に、即座に切り返した彼は、悔しげに俯いて、
「待たれているって、本当に分からないんですか?それだけでも、僕はあなたのことが、羨ましくて妬ましくて仕方ないのに」
噴き出した感情に切り苛まれたかのように、拳を握りしめて。
未だ手の届かないものへのどうしようもない渇きに、じっと身を強張らせて。
「……自覚あるんなら、頻度落としてくれっていいたいところなんだけど、それはまあめんどくさいから置いといて」
微かなため息の後に続いた、呆れを含んだ台詞に、項垂れたままの身体が震える。
と、こちらに視線をくれた支倉さんは、すみません、というように会釈を送ってくると、滑らかな足取りで、かつての恋人の前に、歩み寄って。
「和樹。ずっと、私に聞きたかったことがあるんじゃないの?」
ためらいもなく放たれた問いと、呼ばれた名前に、辻くんは一瞬、息を呑んで。
「……お前が、好きだったんだ、梓」
「知ってた。それと、私も」
浅く頷いて、打てば響くように返された答えは、実に簡潔で。
でも、短い言葉の中にはきっと、全てを含んでいて。
「……なら、いい」
しばらく、ただ静かに交わされていた視線が、彼の頷きとともにそっと、外されて。
と、今更ながら私の存在を思い出したのか、こちらを向いたその面が、みるみるうちにうろたえの色に染まっていって。
「っその、平岩係長、この件についてはまた改めますので!!それと支倉、悪いけど、こいつ借りていくからな!!」
失礼します、と一礼をしながらファイルを抱え直し、空いた右の手をすかさず伸ばすと、やっと顔を上げかけていた樋口くんの腕を、むんずと掴んで。
「え?あ、ちょっと、ええーっ!?なんで僕なんですかおかしいじゃないですかー!!ていうか、せっかくこぎつけた夜デートがー!!ああっ、支倉さーん!!」
事態をようやく把握したらしい後輩の、悲痛な叫びまでもを道連れにして、人ひとりを引きずっているとは思えないほどのスピードで、辻くんは駆け去っていってしまった。
「……あれだから、結局はたいてい、許されちゃうんですよね」
「……となると、意外と、根っこは似てるのかも」
呟きめいた言葉に誘われて、消えた二人を思い浮かべながら、ふとそんな風に応じると、細い眉をきゅっと寄せた支倉さんは、なんとも言い難い表情になって。
「ベースが同じ、かあ……なら、ますますめんどくさいじゃないですか、もう」
どっと疲れたように零した台詞に、私はそれ以上の追撃は止めて、彼女に向けて、ただ唇の端を小さく吊り上げてみせた。
あの後、どういうやりとりが彼らの間で交わされたのかは、分からない。
けれど、彼と彼、そして彼と彼女の周りの空気は、次第に穏やかに変わっていって。
「あ、美冬さんが笑ってる。なに、僕にはネイビーって合わない?」
「いえ、良くお似合いですよ。ただね、ちょっと思い出しちゃって」
ジャケットは先刻のライトグレーに決めてしまったから、次に中に着るプルオーバーを選んでいた良充さんに笑みを返すと、私は腕に掛けた鞄から、赤のスマホを取り出した。
液晶に触れて手早くロックを解除すると、今朝早くに送られてきた画像を開いてみせる。
「ん、なにこれ。男物だよね、このシャツ」
「樋口くんからなんですけど、支倉さんに見立てて貰ったらしくて……」
樋口 悠太
おはようございます!こんな時間にすみません!
実は昨日、凄いことがあったんですよ!
あ、支倉さんと飲みに行けたのもそうなんですけど!
店はどこにするか、って駅前通りを歩いてたら、
いきなり足を止めた彼女に、ショップに連れて行かれて。
君はやたらネイビーばっかり着てるから、たまには雰囲気変えなさい、
って、プレゼントしてくれたんですよ!!
その場ですぐにでも着替えたかったんですけど、当たり前なんですが
やっぱりパンツと合わなさすぎて断念しました!
その後も、なかなかいい雰囲気で終われましたよ!!
それもこれも係長のアドバイスのおかげです!有難うございます!
平岩課長にもよろしくお伝えくださいね!それでは失礼します!
「明け方近くにこのハイテンションってことは、一応は夜中を避けたのか興奮しすぎて眠れなかったってところかな。どんなアドバイスしてあげたの?」
「え、その、大したことではないんですけど」
すかさずそこに突っ込まれるとは思いも寄らなくて、微妙に語尾を濁すと、良充さんはひょい、と大きく眉を上げて。
広げていたネイビーのそれを、完璧なまでに元の通りに畳み直して棚に戻してしまうと、これでよし、と言わんばかりに満足そうな笑みを浮かべたまま、くるりと私に向き直って。
「そうやってあからさまに誤魔化す時の美冬さんって、何か可愛いこと考えてる確率が非常に高いんだよねえ。今朝だって今だってうきうきが全然隠せてないしさ」
「さりげなく物陰に追い詰めて来ないでください!分かりました、言いますから!」
企みも露わな表情でじりじりとにじり寄ってくる彼に、瞬く間に人気のない壁際にまで追い込まれてしまいながら、私は焦ってそう声を上げた。
途端に一層ご機嫌な様子を見せるのに、複雑な悔しさが過ぎるものの、これ以上負けが込んだところで、今更だ。
それに、どうせ抱えているものもあるのだからと、思い切るように、顔を上げて。
「君の心を、いつでも真摯に伝え続けなさい、って。でも、これは実のところ、自省の言葉でもあるんですけど」
あの日も、それ以前にも彼から彼女へと放たれる言葉には、一片の嘘も混じっていない。例えそれがやりきれないほどの焦燥や、身を焼くような嫉妬から生まれたものであっても、芯にある想いだけは、揺らぐこともなくて。
「苦くても痛くても、自分の醜さを思い知ったとしても、それでも変わらないのなら、相手を、何より自らを裏切らずにいるしかないって、そう思うから」
想いが深ければ深いだけ、疑いや迷いの闇は、ひときわ色を濃くするけれど。
立ち竦んでいるだけでは、いつまでも晴らすことは、できないから。
そう言葉を紡ぐうちに、彼の表情から、次第に喜色が薄れていって。
終いには、軽く眉を寄せて目を細めるのに、弱く心が揺らいだけれど。
「……だからというか、今日は少しだけ、我儘を言おうって、思ったんです」
樋口くんの弾けるような喜びように、いささかならず影響されたことも否めない。でも、胸の奥底にあるはっきりとした欲から、目を逸らし続けるのももう、続かなくて。
「こうして、服も靴も何もかも、私の贈ったもので包んでしまいたくて。昔あなたが、あのひとにそうされていたみたいに」
どれだけ言葉を尽くしたところで、もう、取り繕えはしない。
私のものでいて、と、願う心も全て、捧げてしまいたいのだから。
「……こんなところまで、お互い様とかね、もう」
呟くように零れた言葉が、耳に沁み込み切る前に、唐突に伸びてきた彼の大きな手が、私の腕を、そっと取り上げて。
「美冬さん、一旦ここ、出よう。今度は、しばらく僕に付き合ってもらうから」
「え?構いませんけど、どこに……あの、良充さん?」
呼び掛けにも応じず、心ここにあらずといった様子の良充さんは、曖昧にひとつ頷くと、後も見ずに、店の外へと足を進め始めた。
すぐに通路に出てしまうと、横にも縦にも長いクラウドモールの中を、脇目も振らず、ひたすらに突き進んでゆく。急く、ということを知らないような鷹揚さはなりをひそめ、時折遅れそうになる私の手を、離れないように握り直しては、先へ先へと歩みを進めて。
やがて辿り着いたのは、私も目にしたことのあるアパレルショップだった。メンズも少々扱ってはいるが、メインはやはり、レディースで。
確か、デザインも素材も花弁を身に纏うかのような、と評されているのを、雑誌で見た記憶が蘇って、戸惑いつつも彼に手を引かれるままに、中へと入って。
奥に長いつくりの店内を、迷いもなく、ただ一点を目指すように歩くうちに、白と紺のツートーンで纏められた制服を身に纏った女性が、こちらに気付いて。
「いらっしゃいませ。今日はついに、奥様とご一緒でいらしたんですね」
私よりも、さらに言えば夫よりもわずかに年かさと見える穏やかな面が、そう柔らかく綻んだのに、驚いて隣に立つ彼を見上げると、
「ええ、やっと。早速なんですが、あれを彼女に着て貰いたいので」
苦笑を浮かべながら、そう応じた夫の声を受けて、女性はかしこまりました、と一礼し、レジカウンターの奥、パーティションの向こうへと姿を消すのを呆然と見送っていると、
「少し前に見かけて、一目で惹かれたんだ。ああ、君に似合いそうだ、って」
その声に顔を戻すと、彼は頭を巡らせて、通路際のショーウィンドウに立つトルソーを見やった。今、そこに掛かっているのは、ライトグリーンの華奢な印象のワンピースで。
「もっと奥にある文具店に行くはずだったんだけど、目の端に綺麗な色が目に入って、ふらふらって引き寄せられちゃってさ。でも、正直なところあまりセンスには自信ないし、いきなり押し付けてもなあ、って思ってたんだけど」
「お待たせ致しました。奥様、宜しければどうぞ、お手に取ってごらんください」
まだ続こうとする声を、柔らかく遮る台詞に、二人揃って、振り向いて。
否応なしに目に入ってきたのは、白と、青だった。初夏らしく、ふんわりとしたフリルスリーブに、身体に沿うような滑らかなラインを持つそれは、ワンピースで。
上半身はシンプルに、白一色。腰の位置をやや高めに作ってあって、そこからは異なる素材の青に切り替えられているのだが、幾枚もの生地を接いであるスカートになっていて、身体をくるりと回せば、淡い青の花が咲くかのようになるだろう、そんなデザインで。
可憐、という言葉がふさわしいだろうそれを見つめて、手を伸ばしてもいいものか、とためらっていると、その代わりというように、長い腕が差し出されてきて。
まるで優しく抱き上げるかのように、良充さんはそれを取り上げると、私を、見て。
「試着室借りられるから、おいで。エスコートさせていただきますから」
左の腕に服を掛け、右の腕は私に向けて伸ばされるのに、頬を染めながらも手を委ねて。
いつの間にか、彼が持っていた荷物をさりげなく預かっていた女性に見送られながら、既に把握していたのであろう、奥に位置する広い試着室の前へと、連れて行かれて。
「はい、荷物こっち」
解いた手に、すぐに鞄を引き取られて、引き換えに渡されたものを手に、おそるおそるカーテンの向こうへと入り、取り急ぎワンピースは備え付けのハンガーに掛けてしまう。
正面の壁を、半ば覆うように据えられたミラーに映しだされた自身の顔が、あまりにも心細げで情けなくなりながらも、背後にじっと立っている彼を、見返って。
と、その肩を、間違えるはずもない大きな手が、乱暴なほどに引き寄せてきて。
バランスを崩して声を上げる間もなく、とん、と背中に熱が触れて、抱きすくめられて。
「君よりも僕の方がむしろ、独占欲の塊だよ。それを身に纏ってくれたなら、きっと、他の誰にも見せたくなくなること、請け合いだから」
低く耳元に落とされた台詞に、指先すら自由にならないほどに、縛られる。
ただ、鏡越しに向けられた彼の瞳を見続けていることしか、もう出来なくて。
やがて、軋みも上がらないほどの硬直を解くように、ゆっくりと腕を引いた彼は、妙に軽やかな調子で私の肩をひとつ叩くと、隙間なくカーテンを、閉じてしまって。
「……あんなのって、ずるい」
零れた声が思い出させたかのように、いつになく激しく脈打つ鼓動が、耳を打つ。
またも脳裏に刻み込まれてしまった彼の表情は、告白してきた時と、まるで同じで。
何度こっちを落とせば気が済むんだろう、と、心地良い敗北感に浸りながらも、いつか、出来ればこの白と青で、彼を落とし返してやる決意を、私は胸に抱いていた。
けれど、やはりというか、そうそう上手くいくはずもなくて。
「……私だけ、こうやって全部着替えさせられるとか、やっぱりずるいですよ」
目的という目的は、全て済ませてしまった、午後、一時過ぎ。
お楽しみだからね、と行く先はまだ教えてくれない、『午後のお茶』の店へと、モールの通路を並んで歩きながら、私は小さく零してみせた。
何しろ、全身の熱が冷めるまで待って、いざ、とワンピースを纏って外に出てみれば、なんと、雰囲気を合わせたオープントゥのサンダルに、イヤリングまで用意されていて。
完璧なまでに先を取られてしまったことに悔しさを隠せずに、拗ねたように繋いだ手をくい、と引いてみると、良充さんはおかしげに、笑って。
「だって、仕方ないでしょ。僕と二人の時だけ着て欲しい、っていうのに、君が絶対に今度のお呼ばれに着ていくってきかないんだから、誰よりも先に堪能させてもらわないと」
堂々とそう言い切ってしまうと、私に顔を向けてきた彼は、ふと足を止めて。
何かあらためて気付いたことが、とでもいうように、じっくりと全身に視線を這わせてくると、弱ったように眉を下げて。
「うーん……ほんと言うと、惚れ惚れするたびに、やっぱり前言撤回しようかな、って思っちゃうんだけど」
またこのひとは臆面もなく、と頬を染めながら、私はせめてもの一撃を繰り出してみた。
「私だって、あなたに見立てて貰った、って自慢したいんですから、我慢してください」
きっぱりとそう告げた途端、わずかに目を見張った彼の口元が、見る間に緩んで。
この上もなく嬉しげに、相好を崩すのをひたと見据えるうちに、新たな熱が胸に満ちて。
「なら、僕も樋口くんと久保くんに対抗して、見せびらかしまくっちゃおうかなあ……あ、クールビズに入れば、シャツは職場に着て行っても大丈夫だよね?」
「さらに範囲を拡大しないでください!また局長に冷やかされるじゃないですかー!」
からかう声も、繋いだ手の体温も、愛おしげに細められるその瞳も、何もかも。
いともたやすく胸を騒がせるのは、この先もただ、あなたひとりだけ。




