想いは、尽きず
お酒の種類というのも実に多種多様だけれど、同じ酒好きでも好みは様々だ。例えば、私は結構何でもいけるクチで、苦手なのは胃の腑を焼かんばかりのものだけ、という程度だが、美冬はワインを除く洋酒、要するにウィスキーやブランデーなどに食指が動かない一方、ビールと日本酒はかなり好むものの、ジュースと紛うばかりの甘いカクテルなどは苦手にしている。ついでに言えば、彼女と決定的に異なるところは家で飲むのか否か、ということで、独身の頃からこちらが一日たりとも晩酌を欠かさないのに対して、あちらは今の家では一滴も飲まない。以前に何事か失敗をしたらしいとは聞いているが、ともあれ、彼女の夫はアルコール自体を受け付けない完全な下戸なので、ある意味上手く噛み合っているわけだ。
そして、我が伴侶はと言えば、幸いにもこの点に関しては、完全に嗜好が一致していて。
「じゃあ、またまた奇しくも同じ状況に陥ってる、ってわけね、あの子たち」
「ああ。全く、ようやくどっちも落ち着いてきたと思ったんだけどな」
四月、卯月も下旬に入り、旧年度と新年度をついつい間違うことも減った、金曜日。
食事も家事も終わり、子供たちもそれぞれの部屋に引き上げて、お互いの話す声以外は他に響くこともない、一階のリビングで。
綺麗に片付いた四人掛けのダイニングテーブルを挟んで、いつもの如く向かいの椅子に疲れをあらわに掛けている夫に粉引の徳利を差し出しながら、私は唇の端を上げてみせた。
「なに、心配?森谷くんはともかく、樋口くんには随分疲れさせられてたじゃない」
「今でも疲れる。けどまあ、初期の頃よりはまだマシだからな」
徳利と揃いの、ちらほらと斑点の散った猪口でそれを受けながら、夫は何かを思い返すように白目勝ちの目を細めると、さらに続けた。
「少なくとも、考えなしに支倉に付き纏って騒ぐだけの真似はしなくなったし、何より、あいつ自身がテリトリーに入ることを許し始めてるんなら、何も言うことはないしな……だから、なんというか、釈然としないんだ」
「ふうん、すっかり肩入れしちゃって。彼も、意外と人タラシなのかもね」
「お前まで平岩さんと似たようなことを……一周回ればあの落ち着かなさも愛嬌でしょ、とか言うけどな、毎回実力行使で止めてたのは俺なんだぞ」
「しょうがないじゃない、あなたの方が支倉さんに席近いんだし。それになんだかんだ言って、上にも下にも頼られると断れないくせに」
深々と眉を寄せている夫にからかうようにそう言ってみせると、私は左手で取り上げた、少し斑点の位置が異なる猪口に、なみなみと酒を注いだ。
こうして彼が酷く気に掛けているのは、今年に入ってから二人の青年が繰り広げている、我が職場での恋模様だ。これにありふれた、とつけることが出来ないのは、彼らがわざとなのか、と思えるほどに、惚れた相手に公然たるアプローチを続けているからなのだが、ここに来てまずまず順調かと見えていたその恋路に、それぞれあからさまなまでの横槍が入れられたからで。
「まあ、心配なのは分かるけど、横恋慕なんて良くある話だし、何より、傍から見てる限りじゃ女の子二人とも、向いてる先ははっきりしてるんじゃないの?」
「早瀬は、そうかもな。けど、支倉は分からんだろうが」
「ごめん、言葉が足りなかった。樋口くんのことはさておき、仮にも婚約者がいる男に、つまんない態度取るような真似する子じゃないでしょ、ってこと」
そう続けながら、私は徳利を脇に置くと猪口を傾け、熱めに仕上げたそれを口に含んだ。舌と喉に馴染ませるように中で転がしながら、ふと、心配そうな美冬の声が脳裏を過ぎる。
『彼女と辻くんが接触し始めてから、やっぱりどこか様子がおかしいの。それなのに、あの子、大丈夫ですから、って笑ってみせるばかりで……』
森谷くんとその思い人に関しては、既に戸川くんが『いやー、あっさりフラれましたー』などと公言していることもあって、下馬評含め今さら動くことはないだろう、と噂されているし、何より早瀬さんが彼を見つめる姿を目の当たりにすれば、それを疑う余地はもう欠片も残っていないように見える。
一方、支倉さんと辻くんに関しては、かつて長く付き合っていた経過もあるから、燠に火が点くことも有り得るだろうと、無責任な憶測が飛び交ったりもしているわけで。
「……あいつらは、いずれ自分の中で片付けるつもりなんだろうが、清水はな」
もうひとりの渦中の彼女の名を零した後、珍しく語尾を濁すように言葉を切った彼は、猪口を口元に寄せるなり、ぐい、と一息で干してしまって。
こちらの手の中にあるものと同じ、熱を帯びた息を荒く吐き出すと、椅子の背が軋みを上げるほどに、乱暴に身を預けて。
「余計なことだとは分かってるんだが、辻の態度を見るにつけ、どうにも気の毒な気がするんだ。可哀想な目にならなきゃいいんだが」
……相変わらず、あの手の女の子に弱いんだから、この人は。
内心で小さくため息をつきながら、いい意味で『いかにも女性らしい』と評されそうな、華奢で大人しやかな清水さんの姿を心に浮かべた途端に、そういえば似通っているな、と、私は嫌が応にも、ある女性のことを思い返す羽目になってしまった。
夫との出会いは、新採の折に配属された部署にたまたま彼が先輩としていた、という、味も素っ気もないものだったし、担当の人数も多ければ職務の内容もやや外れていたから、あまり話す機会すらないような有様だった。
加えて言うなら、こちらは男女年齢役職問わず、浅く広く交流を広げていっている最中、それに反するが如く彼は職場でもプライベートでも専ら男ばかりと飲みに遊びにと行っていたような状態では、そもそも接点などがどこにあろうか、というものだったのだが、
「……だからなあ、一度浮気されてるんならさっさと切ればいいだろうが、あんな男。お前だってそう思わないか、渡部」
「うーん、キーワード的にはそれでいいんじゃないかって感じではありますけどねえ。誰のことかも諸事情もさっぱり分からないんで、なんともお答えしかねるかなって」
曲がりなりにも社会人となって、二年目。薄紅色の花弁が全て散り終えて、新緑が枝のそこここに瑞々しく色を添え始めた、そんな心地の良い、春の宵に。
すっかり据わった目を正面へと向けたまま、前置きも解説もなしに突然唸るような声を彼に投げられた私は、なんか性質の悪いのに捕まっちゃったなあ、としか思えないでいた。
……ていうか、土曜日だってのに、職場近くのこんな店にいるとか予想外過ぎるし。
心の中でそう呟きながら、諦めに似た気持ちでぐるりと周囲に視線を巡らせてみると、なおさらそんな思いが強くなってしまいながら、間を持たせるべくキールを口に運ぶ。
今、この人とこうして並んで座っているのは、いわゆるカップルシートだ。といっても、バーの一角を幾つかのブースに仕切り、肩を寄せて二人でゆっくり飲める触れ込みだが、例えば夜景が綺麗だ、というわけでもなく(そもそも店は地下だし窓がない)実態は身を寄せざるを得ないだけ、という縦も横もテーブルさえもせせこましい席で。
そんな店ではあるが、酒は文句なしに美味しいので、適当に買い物など済ませた後に、カウンターで一杯だけ飲んで帰るつもりが、妙に暗いオーラを放っているやたらと座高の高い姿が目に入って、何の気なしに声を掛けたのがまずかった。
とはいうものの、いきなりそれじゃ失礼しまーす、と言い出せる雰囲気でもなくて。
と、のろのろとこちらに顔を向けてきた先輩は、どう控え目に見積もっても三白眼、なそれをきつく細めてみせた。……正直、ちょっとどころでなく顔、怖いんだけど。
「なんだ、知らないのか。その……服部さんだ、服部さん」
「あー、えーと、五階だから、総務課の人でしたっけ」
一拍置いてやけに大事そうに口にしてきた名前に、私は乏しい庁内人物データベースを脳裏に展開すると、記憶の中にあるその姿を必死で手繰った。
確か、肩を越す栗色に染めたストレートヘアの、ちょっと儚げな感じのする綺麗な人で、担当までは覚えてないけれど、ややチャラそうな彼氏がいることくらいは知っていて。
そんなことを伝えてみたら、先輩は途端に不機嫌さを露わにすると、手にしたグラスを割れよとばかりに握り締めながら続けた。
「それは健康福祉課の、本間さんだ。彼女の同期で、今年中に結婚するんだそうだ」
「えー、それは凄くおめでた……くはないんですよね、小西さんにとっては」
初めて耳にするニュースに、普段のノリで声を上げかけたところを無理矢理に抑えて、流れから推測されることを尋ねてみると、深々とした頷きが返ってきて。
「ずっと、惚れてた。けど、フラれたんだ」
「……簡潔な回答有難うございます。ついでに傷をえぐりますけど、それって今さっき、なんですか?」
「ああ。分かるか?」
「そりゃそうですよ。時間帯とへこみっぷりと、見た目からは想像しがたい店と場所のセレクトでしょ?誰か口説くのミスっちゃったのかなー、くらいは思いつきますって」
口が滑るままにずばずばと言いながら、腕に巻いた時計をあらためてチラ見してみると、そろそろ午後九時になろうかという時間だった。ディナーデートには遅すぎる上に、またこの人の格好ときたら、普段職場で着ているに違いないグレーのスーツと白のシャツに、何故かネクタイだけが、焼け気味の肌にはどうにも浮きまくりの、ピンクで。
おそらく変な方向に気合いを入れたのであろうそれを見ながら、背も高いし肩幅広いし、体格もがっしりしてるのに色々もったいないなあ、と遠慮なく上から下まで眺めていると、ふいに、彼の赤く染まった目尻に、うっすらと涙が浮かぶのが見えて。
さすがにぎょっとして、こちらが軽く身を引きかけたのに気付いたのか、慌てたように顔を逸らした小西さんは、すまん、と気恥ずかしげに零して、
「……どうしても、諦めきれなかったんだ」
テーブルにグラスを置くと、ぽつぽつと彼女への想いを語り始めた。ユースでの宴会で司会を務めた姿に一目惚れして、ちまちま接触を試みてはその優しさに触れて、とまあ、川の流れの如く滔々と褒め言葉が続いた後に、やっと問題の本間さんの話になって。
「仕事は出来るし、如才ないし顔はいいし、世間的には文句のつけようもない人だっていうことは分かってる。だからって、それが浮気する言い訳になるわけじゃないだろうが」
「んー、まあ、そうですよねえ……」
聞けば、何か二年ほど前に元カノとそういうことになったらしいが、顔すらうろ覚えの人物の微妙な話題を展開されて、気のない相づちを打った私に、小西さんは憮然として、
「……お前も、許せる、っていうのか」
「いや、無理ですけど。むしろ即座に切り捨てますけど、なんかそれぞれに積み上げたものがあるんだろうし、二人の間のことに口出しするのもなあって感じじゃないかと」
地を這うような声を向けてくるのに割と引きながら、自分の主張以外はごくごく無難な返答を返してみると、彼は、ふっとため息をついて。
濃い酒気が間近に流れてくるのに、もう飲み過ぎだこの人、とこちらが顔を顰めているのにも気付かず、力の抜けたように顔を俯ける。と、
「……たまに愚痴を漏らすのを見てると、俺ならそんなつまらない苦労はさせないのに、とか、あの手を取れたらどんな心地だろうな、とか、勝手な夢を描いてたんだ。それが、もう見ることすら叶わなくなるのが、酷く辛い」
手の届きそうにふわふわとしたそれを、断ち切ろうと放つ言葉は、薄い刃のようで。
後から思い出したように、傷から滲むものの代わりに溢れた雫が、嫌に物悲しくて。
「……そっか、辛かったですねえ」
気付けば手を伸ばして、短く刈りこんだ硬い髪を撫でつけるように、手を動かしていて。
触れられたことに驚いたのか、一瞬身を震わせたものの、小西さんは顔を上げられないようで、涙を拭いもせずに、そのままでいて。
「……ガキみたいな真似をして、すまん」
「子供だって、恋はするでしょ。だから、いいですよ」
我ながら変な理屈、と小さく笑いながら、酒が回っているせいだろうと思うことにして、わざと強めにぐりぐりと、えらく高い位置にある頭を撫でて。
「真面目に想って、砕け散ってもいいじゃないですか。多分ですけど、彼女にだって、何か残ると思いますよ」
誤解のしようもなく、どこまでもストレートな台詞でこんな風に言われたら、きっと。
そんなことを考えた時、胸の内で密かにざわめいたものがあったけれど、次の瞬間には、派手に鼻水をすすり上げる音がして、一緒くたに微妙なあれもこれもが吹き飛んで。
「……すまん、ティッシュ、貸してもらってもいいか」
「構いませんけど、玉砕覚悟なのにそのへん持って来てなかったんですか?」
「いや、お前に声掛けられる前に、全部使い切ったんだ」
そう言われて、指差す方向を見てみれば、足元にひっそりと置かれたダストボックスが、こんもりとした白い紙の山で、既に満杯近くで。
「どれだけ泣いてたんですか、もう……はい、これ鼻かんでも痛くならない奴ですから、遠慮なくどうぞ」
さほど酷くはない花粉症対策に持ち歩いている、水色のパッケージのそれを差し出すと、彼は怪訝そうにしながらも、礼を言って身体ごと横に向けると、思うさまに鼻をかんで。
「……柔らかくて、気持ちいいな」
丁寧に丸めたものをきちんと捨てて、ぽつりとそう呟きながら、こっそりと空いた手で、涙を、拭って。
けなげにも映るその仕草に、また心にさざなみが走ったものの、いやいやこれはない、これはないわー、と、私は無言のまま激しくかぶりを振っていた。
それで、最終的に泣き疲れて寝そうになった彼を、無理矢理引きずって勝手に精算して、やっとの思いででかい図体をタクシーに放り込んだら眠り込んで起きなくて、仕方なしに一人暮らしの自宅に連れて帰ってから、気付けば大きな子供までいるわけだけど。
いつまでも女に夢見てるよねこの人、と少しばかり疲れを覚えつつも、私は口を開いた。
「かっちゃんさあ、辻くんや支倉さんが選ぶ側で、清水さんはひたすら耐えて待つ女、みたいに思ってない?ていうか思ってるよね?」
図星だったのか、ぴくりとして背もたれから身を離した彼の視線を捉えて、睨むように目を細めると、さらに続ける。
「それ、地味に失礼だから。昔の彼に向き合うのも、ふらつく相手を信じて待つのも、どっちも彼女たちがそうすることを選んだってだけのことでしょ、あの人と同じで」
嬉しかったけど、彼が好きなの、と、小気味いいほど綺麗に笑んでみせた、彼女も。
責任は取るからと、盛大な勘違い発言を放ったこの人に惚れた自分も、そういうわけで。
遥か昔に聞いた、これは勝てないなあ、と思い知らされたひとことが懐かしくも響いて、元気でいるかな、と、贈られた猪口にじっと目を落としていると、
「……奈緒、お前、まだ俺が勢いで付き合った、とか思ってるんじゃないだろうな」
「……え?ちょっと、何をいきなり」
唐突に掛けられた台詞に、意味が分からなくてさっと顔を上げると、酷く険しい表情を作った彼が、乱暴に猪口を脇に置いてしまって。
「そりゃ、俺も、服部さ……いや、本間さんのことを多少は清水に重ねたところもないとはいえないけどな、その、お前の前だから、こうやって素が出せるんだし」
「だから待ってってば、さっぱり話が見えないって……」
そう続けかけて、言い募る顔も首筋も派手に赤らんでいるのを認めて、あ、これは相当回ってるな、と気付いて、とりあえず言わせとくかモードに入り、次の言葉を待ち構える。
そんな気配を察したのか、眉間の皺をひときわ深くした夫は、テーブル越しにずい、と身を乗り出してくると、長い腕を伸ばしてきて、
「俺の今があるのはなあ、あれだけみっともない格好をさらしても、情けなく泣いても、その、お前が何もかもすんなり受け入れてくれたからでだなあ!!」
空いた私の右の手を、砕けんばかりに握り締めながらそう叫ぶと、鋭いままのくせに、赤く潤んだ涙目を、真正面から向けてきて。
「……そんなの、知ってるわよ、とっくに」
だから大事にしてるんじゃない、と呟きながら、立ち上がって、身を寄せて。
柔らかいな、と熱っぽく言われた唇で、零れ落ちそうな雫をそっと、掬い取って。
「ついでに言えば、『かっちゃん』って呼ばれるのが好きなのも、私のこと呼び捨てするのに半年悩んだことも、『奈緒はお前たちの母親だけど、その前に俺の奥さんだからな!』って子供たちにやたらと張り合ってたことも、全部知ってるんだけど?」
親切な各方面からにやにやと、そして呆れ交じりに教えられた小さな秘密を、ここぞとばかりに耳元に囁いてやると、なっ、あっ、と、言葉にもなりきれない声を漏らして。
アルコールと羞恥の相乗効果で、すぐに熱量が飽和したらしい彼は、頬を撫でる指先に、大人しく陥落してくれて。
「……なんでこう、お前に関しては裏目にしか出ないんだ、俺は」
「下手に構えるからでしょ、付き合い長いくせに。素直に、好きって言ってくれたら、それでいいの」
この際だからと、一番苦手にしていることを要求してみると、低く呻きが返ってきて。
やがて、促すまでもなく私の胸に寄りかかってきた彼は、ぼそぼそと二言三言、言葉をくれて。
必ずしも好み通りではないことに、らしくなく悩んだ時期も、あったけれど。
こうして、応えてくれるたびごとに、心ごと全て、馴染んでいくから。
気恥ずかしさを誤魔化すように、ぐるりと腰に巻き付いてきた腕に力が篭められるのに、私は密かに微笑むと、わざと、その広い額に音を立てて口付けてやった。
……全く、いつまでもどこまでも、好きでいさせてくれるんだから、この人は。




