ずっと、心に
誰かに惚れるきっかけなんてものは、個々人によって千差万別だということは自ら思い知っているし、身近な人間に聞いた話からもそれは明白だ。曰く、容姿が凄く好みだった、眼鏡フェチだからウェリントンを掛けた格好良さに、とかいう見た目から入るものから、趣味が合って一緒にいて楽しいから気付いたら、というナチュラルなもの、果ては小学生男子並みのからかいと構われ方をされ続けてガチ切れしたら真剣に告白されて落ちた、というある意味ギャップ萌えと言えるものまで、バリエーションは実にさまざまで。
しかし、経験上から言えば、ただ惚れているだけでは話にもならないもので、告白して頷いて貰ってからが、むしろ本番だ。美人は三日で、ではないが、物珍しさも新鮮さも、時間とともに徐々に薄れていくわけだから、慣れと惰性にだけは絶対陥らないようにと、化粧も髪型も服装もスタイルも、とにかく気を付けてきたところではあるのだけれど。
でも、そんな努力など欠片も見えないでいる夫に、どうしようもなくときめいてしまう、そんな瞬間がたびたびやってきてしまうことだけは、正直悔しくて。
「……おい、なんだよ。そんなに似合わねえか?」
しかも、短くした髪に手をやって、ちょっと不安そうに眉を寄せてみたりしてくるし、もう、なんか、そこ気にするんだ、って、新たにきゅんとするポイントまで加算されて。
髪は職場に一番近い理髪店で、大体いつも同じように全体的に伸びたところを切るだけ、という代わり映えしないものだったのに、今日は何故だか、きりっとしたツーブロックに仕上がってて。
ワックスで少しだけアップにしてるのが、スーツにもマッチしてて滅茶苦茶格好良いんだけど、と心の中で渦巻いている言葉を外に出したくても、すぐ隣にいる二人の前で暴発するわけにもいかなくて、うー、と唸り声を上げていると、
「あー、久保さん、こいつガチで見惚れてますから、気に病まなくていいですよ」
「俺たちには、っていうか周りにはバレバレなんですけどねー。ほんっとに二人とも、結婚しても変わってないなー」
半ば投げやり気味な声が紡ぐ台詞に続いて、のほほんとしながらも癇に障ることだけは的確に突いてくる言葉が横から飛んできて、一瞬で感情が沸騰して。
「うーるーさーいー!!足立くんも倉田くんも、自分で言いたいって分かってるくせにいらない代弁しないでよー!!タイテンだって鈍すぎなんだからー!!」
「俺もかよ!?ていうか褒めるんならストレートに褒めりゃいいだろうが!」
三月、弥生。年度末だけに例年の如く日々は足早に過ぎ去り、気付けば最終週の金曜日。仕事的にも曜日的にも、大半の担当ではいい加減見通しもついた、そんな時期に。
宵闇にも人通りの絶えない駅前通りに面したクラウドモール中央口の前で、わたしは色々と溜まりに溜まった憤懣を吐き出すように、タイテンに向けてそう声を上げていた。
変なところで炸裂してしまったのは、別に、タイテンと喧嘩していたとかわだかまりがあったとか、そういうわけではない。ただ、自分達とわずかに重なるようなことを、その少し前に聞いてしまっていたからで。
「え、足立くんいよいよ!?おめでとう、ほんっと良かったねー!!」
「そう言ってくれんのは有難いけど、声でけえって」
「うんうん、やっぱ持つべきものは同期だよねー。そういうわけで、久保さんにもこれ渡しとくから、陰というよりはむしろ日向になって協力してねー」
午後、六時過ぎ。時間的に広い店内には人もまばらな、喫茶ゼフィールのテーブル席で。
目の前のカプチーノの泡が吹き飛びそうな勢いで叫んだ私に、苦笑交じりに応じてきた足立くんに続いて、我がことのようににこやかに(というか彼はいつもこんな表情だけど)している倉田くんが、持っていたレジュメをすかさずこちらの手元に滑らせてきた。
「うわー、もう資料作成済みとか、相変わらず手が早いよねー……ていうかこの時点で、もう有無を言わさず分担決まっちゃってるわけ?」
左端を綴じた形式の、A4版ヨコ・3枚6ページにわたるそれをめくりながら、早速目に入ってきた『イベント別役割分担表』に、わたしは指を走らせてみた。
『足立くん・遥さん・披露宴進行マニュアル』という標題と日程、目次の並んだ表紙の裏面には全体の行程表、その下には同期・同い年の九人を中心としたそれが既に作られていて、(案)とも(仮)とも付されていない。そして、幹事はといえば、最早当然のように倉田くんで。
「一応、全員の向き不向き考えて作ったつもりだけど、まだ式まで時間は十分あるからもちろん幾らでも変更はするよー。で、久保さんだったら一番容赦のない意見くれるから、やっぱり先に聞いといた方がいいかなって思ってさ」
「……若干気になる言い方なのは脇に置いといてあげる。まあ、受付はわたしも河合も山ほど経験あるし、全然大丈夫だと思うけど……」
何しろ、同い年組で結婚していないのは、確定した足立くんを除けば二人だけだから、一時は女子四人で月替わりローテを組むくらいの勢いで依頼が回ってきた時期があって、ようやく自分の番がやってきた時は、段取りを組むのにも慣れ過ぎていて内心複雑だったものだ。とはいえ、実現までに思っていたよりも時間が掛かってしまった分、抱いていた夢はふんだんに盛り込ませてもらったけれど。
そんなことを思い返しながら、動かしていた視線がある名前を捉えて、軽く眉を寄せる。そして、知り過ぎるほど知っている名前が、同じ分担の枠に入れられているのを認めると、わたしはさっと顔を上げた。
「二人とも、これってわざと?それとも彼から何か言われたの?」
我ながら問い詰めるようなきつい声で、意図的に主語を飛ばした台詞を放ってみると、先に反応を示したのは、やはり倉田くんだった。いつもの笑みを消した彼は、足立くんに了解を得るように一瞬視線を向けると、すぐにわたしに向き直る。と、
「どっちも当たってる。但し、順番は逆だけどね」
「じゃあ、辻くんからわざわざ申し出てきたってこと?今更、どうしてよ」
そう鋭く問いを重ねたのは、理由がある。辻くんはわたしたちの同期の一人で、まれに短気を爆発させる点に片目をつぶれば、至って気のいい奴であることは周知の通りだ。
しかし、それ故にかつて支倉と付き合い、別れてしまった経緯があることも知っていて。
「……それに、とっくに夕奈ちゃんがいるくせに。あいつ、何考えてるの」
苛立ちがほとばしる勢いのままに、支倉にだって、と続けかけた時、それを押し止めるように、今度は足立くんが口を開いた。
「あいつら、正面切ってケリつけられてねえからな。辻も話せるもんなら、今のうちに直に話しときたいこともあるんだろうよ」
「支倉まで一緒にしないでよ。あの時、一方的に接触断ったのあいつの方じゃない」
四年前の、バレンタインデー。珍しく疲れた顔の支倉から、『なんか、もういいって』と零されて、二人が恋人ではなくなったことを告げられて。
しかも、辻くんはこの緩やかな同い年グループからも一時は離脱してしまって、事情を聞いたわたしの言葉や、足立くんたちの取り成しさえも拒絶するほどだった。
そして何より、話しかけようとする支倉の姿さえ、見るなり背を向けて立ち去る有様で。
けれど、二年ほど前に彼に新しい彼女が出来てからは、ぎこちないながらも普通に言葉を交わすくらいにまで関係が回復して、もやもやしながらも二人の間のことだし、と思っていたというのに。
そこまで考えて、足立くんが言った言葉の中に、ひとつ引っ掛かる単語が混じっていたことに気が付いて、わたしはさらに尋ねた。
「あと、『今のうちに』って、どういうこと?」
「あいつら、もう俺に続く予定にしてるんだよ。まだ、日取りまで決める段階じゃないらしいけどな」
問いを予想していたかのように、間を置かず返ってきた答えにわたしが眉を顰めると、淡いグリーンのカップを口元に寄せていた倉田くんが手を止めて、後を引き取ってきた。
「久保さんが支倉さん寄りなのは当然だって分かってるよ。だけど、俺と足立くんも、辻くんサイドの話を聞いてるからさ」
言葉を切って、目を上げてわたしの顔を一瞥してくると、心の中で何かの判断が付いたのか、彼は白いソーサーにカップを置いた。
「だからって、かばうつもりも代弁するつもりもないけど、結局、どうしたいかを判断するのは彼女だからね。付け加えとくと、清水さんには辻くんからその旨伝えてあるから」
「伝えさせた、が正しいだろうが」
ぼそりと挟んできた足立くんが、上げた腕で倉田くんの方を示すと、
「清水に言ったか、って俺が聞いて、あいつが口を濁した途端に『言えないくらいならさっさと破談にすればいいんじゃない?』って、ばっさり切り捨てやがったからな」
「……何もかも、御膳立て済み、ってことなわけね」
懸念を抱いていたことが既に潰されていることに安堵して、わたしは小さく息をついた。
支倉ももちろん大事な友人だけれど、夕奈ちゃんも可愛い後輩なのだ。だから余計に、一瞬でも天秤に掛けるような真似をされるのは、見ていて気持ちのいいはずもないことを二人も理解してくれた上で、今ここにこうしているわけで。だから、
「支倉には、わたしから打診してみる。返事は急がないよね?」
「そうだな、今から他のメンツに声掛けていく予定だから、来月中旬くらいで頼めるか?」
分かった、とやや表情を和らげた足立くんにそう応じながら、わたしは胸の奥に渦巻く、苦みを帯びた感情を抑え切れずに、軽く唇を噛み締めた。
それからは、用事を済ませたタイテンからメールが飛んでくるまで、三人ともがそれに触れることはなかったけれど、すっかり熱を失ったカップに、時折思い起こさせられて。
「……こら、そのまま行くとぶつかるだろうが」
柔らかく宥めるような響きの声が耳に届くと同時に、繋いでいた手を強めに引かれて、わたしははっとして顔を上げた。すぐ目の前にある街灯の黒いポールに焦点が定まるなり、右手に伸びた四車線の道路からの喧騒が周囲に立ち戻ってきて、ようやく我に返る。
「ごめん。ちょっと、色々と考えがループしちゃって……」
そう言いながら慌ててタイテンを見上げると、わたしと目を合わせるなり、朝より少し細く整えられた眉が、すっと上がって。
「……だいたい想像はついてるけどな。話せるか?」
気遣わしげに変わった声音と視線に、流れ出すものを阻むように、ぐっと唇を引き結ぶ。そうしながら、感情に乱されがちな思考の欠片を、どうにか思うところに寄せ集めようと半ば、瞼を伏せて。
「何で今なの、って……せっかく、支倉だってほんっとうにほんのりだけど樋口くんに気を向けるようになってきたのに、妙に未練たらしい真似とかして」
一月の終わりに告白されてから二か月を経た今は、初期の頃の一も二もなくお断り感も次第に薄れてきて、繁忙の合間を縫ってアプローチを繰り広げる彼に、相変わらず淡々と対処しつつも、傍に寄ることを拒むことはなくなってきた。
その微かな変化を、からかうつもりで突っ込んでみると、支倉は軽く首を傾げて、
『小動物が一心不乱に車輪回してるのをぼーっと見てる感じに近いけど、別に邪魔にはならないから』
と、口では結構酷いことを言いつつも、どことなく柔らかい雰囲気を放っていて。
「あいつら、森谷と早瀬に匹敵する勢いで庁内に噂が広まってるからな。耳に入れば、元カレとしてはそれなりに気にはなるんだろ」
「……それが、一番、嫌なの」
一般論として返された言葉に、ちくりと胸を刺された心地になって、わたしは続けた。
「今はちゃんと彼女がいるのに、下手に気を掛ける態度なんか見せないでよ、って思うじゃない。頑張って信じようとしたって、好きなら好きなだけ揺らいじゃうことなんか、絶対分かってるはずなのに」
心の片隅を、自分じゃない誰かがいつまでも占めていることは、理解していても。
やっぱり特別なんだ、とあらためて思い知らされるのは、誰にもして欲しくなくて。
蘇る感情に、喉がざらつくような感覚を覚えて俯いていると、ふいに、繋いでいた手がするりと、解かれて。
「……こら、なんて顔してんだ」
そのまま、そっと身を屈めてきたタイテンは、間近にわたしの顔を覗き込んでくると、苦く口元を歪めて、笑って。
あの二匹の猫たちにしていたように、大きく手を動かしてこちらの頭を一撫でしてから、肩に腕を回して引き寄せてくるのに、じっとされるままになっていると、
「幸せであって欲しい、っていうのは、やっぱりあるんだよな」
「……係長のこと?」
どうにか唇から押し出した弱い問いに、タイテンはああ、と頷くと、
「昔は、正直に言うと、彼女のことだけそう考えてた。けど……今は、お前のおかげですんなり、二人が幸せでいて欲しい、って思えるようになったから」
あいつがそう思ってるかどうかまでは分かんねえけど、と続いた台詞は、ふいに溢れたものに、吸い取られるように途切れて。
昔なら、慌てたようにばたばたとポケットを漁ってハンカチを出してきていたところが、落ち着いた様子で、右手に下げていた鞄から取り出したそれを、優しく目尻に当ててきて。
「ほんとに、自分のことでも人のことでもよく泣くよな、お前」
「……だって、あいつが、泣かないから」
なんか、そういうつくりになってないみたい、って、ぽつりと零して。
目を伏せて、内にしまい込むように身を丸めた姿を、見ていられなくて。
あの時のように、止めどなく膨れ上がっては流れ落ちる雫を拭われながら、今はもう、すがりつくことの出来る腕があることを、痛いくらいに意識していることに、気が付いて。
「……タイテンみたいに、支えてくれるひと、いればいいのに」
しゃくりあげる合間に、途切れ途切れにそう漏らすと、足りない言葉を正確に汲んで、笑みを含んだ答えが返ってきた。
「樋口はどうしたんだよ。結構涙ぐましい努力はしてるだろ、実る様子はねえけど」
「……頼りないとこと、怖がりなとこが消えて、昇級して、家事も完璧に出来るようになったら、認めてあげてもいいけど」
「お前、さんざん佐々木とセットでけしかけといてそれかよ」
呆れながらも、少しだけ浮上したことを見て取ったのか、ほっとしたように息を吐く。
それから、吊り上がり気味の目を細めて、はっきりと嬉しげに、笑って。
焦ってた昔の姿も、照れなくなった今のタイテンも、やっぱり、好きでたまらなくて。
何もかもを添わせてくれるその姿を見つめながら、わたしは身勝手なほどに湧き上がる想いのままに身を寄せると、その背中に腕を回して、きつくきつくしがみついてみせた。




