面倒、だけど
年が明けて、新年の雰囲気が次第に薄れてくる頃から、世間にはどことなく甘い香りが漂ってくる。特に、職場から帰る時などはそれが顕著で、クラウドモール方面へと抜ける繁華なルートでなく、庁舎前の五番出口から一直線に駅へと向かうルートを取っているというのに、改札周りや駅ナカのそこここにまで期間限定の出店が目立つし、雑貨屋などに赤とハートに彩られた可愛らしいラッピンググッズや、本命にはこれ、義理ならこれで、というようなあからさまな文言が躍るのを横目で見つつ、そろそろ溜めた情報の発射準備しないとな、などと考えを巡らせる、そんな時期が今年もやってきたわけだけれど。
自分自身が、是非もなくその情報のひとつに巻き込まれる羽目になると、それはそれで果てしなく鬱陶しいもので。
「……あの、支倉さん、これって何人分くらい作られるんですか?」
「さあ?とりあえず、200個くらいは出来る予定だけど」
二月、如月。たった四週しかない月のその丁度ど真ん中となる、二週目の土曜日。
自宅のキッチン、その白いワークトップの上に置いたカッティングボード(まな板、でいいと思うのだけれど、実夏がそう主張して止まない)に、袋から出したチョコレートを乗せていきながら、私は何やら呆然としている様子の樋口くんに、そう答えを返していた。
「それより、さっさと薄力粉量って、400g。あと、ココア60gにベーキングパウダー、これは小匙3分の2だから、間違えないように」
「あっ、わっ、わかりました!」
「全部一緒に入れちゃっていいから。量り終わったらこっちのボウルにふるっといて」
白く平たいクッキングスケールの横に並べた、つくりが気に入って買った、上下に蓋の付いた粉ふるいと、ステンレスのボウルの大中小のセットを指し示しながら、あらためて揃えた材料を確認する。
指示したもの以外に用意してあるのは、バター、グラニュー糖、卵で、作っていくのはダブルチョコクッキーだ。いわゆる友チョコ、というやつで、実夏以下仲のいい女子連中からのリクエストがあってのことだが、何故か毎年対象人数が増えている。まあ、元から趣味でやっていることだし、必ずリターンが全員からあるので、大いに楽しんではいるが。
そんなことをしているうちに、樋口くんはやはり慣れていないのか、重ねて置いてある銀色の中から、妙に慎重に中を選ぶと、そろそろとスケールの上に乗せた。
すぐさま液晶に、『195g』と表示されたその後に、迷うことなく『0』と表記された右のボタンを押して、0gに戻す操作を行ったのを目にして、私はちょっと眉を上げると、
「そのへんの使い方は知ってるんだ。調理に関する知識は微妙どころか壊滅的だ、って聞いてたのに」
ストレートに投げつけた突っ込みに、樋口くんはうっ、と呻くような声を漏らして、
「……森谷さんに叱られたんです、『久保夫妻や課長夫妻に憧れる暇があったら、現実に出来るように動くべきだろう』って。だから、家でもちょこちょことやり始めてるとこで」
「ちょっと待って、君も一人暮らしって言ってなかったっけ。そのレベルでどうやって今まで過ごしてたの?」
「朝はコンビニのパンかおにぎりで、昼は安いから食堂行って、夜はスーパーの値引きされた惣菜かお弁当買ってました……あと、母親がたまに持ってくるおかずとか、係長が食生活心配しておすそわけしてくださったりとか」
「他の家事は?まさか掃除も洗濯も出来ないとか寝言言わないよね」
「べ、勉強してます。前に友達が遊びに来た時に『床を洗濯物の海にすんな!アイロン掛けられねえのをジャケットとネクタイで誤魔化そうとすんな!』って怒られたから……」
余程絞られたのか、恥ずかしげにうなだれつつも、先刻の指示通りに薄力粉をボウルに入れ始める。聞くところによれば彼は一人息子だそうだし、上げ膳据え膳が基本だったんだろうな、というような雰囲気ではあるから、それはそれで納得だ。
ともあれ、慎重な手つきで袋を振りつつ、上昇していく数値を凝視しているのを認めて、こちらも出しておいた包丁を取り上げて、厚い板状のチョコレートを粗めに刻みながら、私は用意していた問いをすかさず放った。
「で、森谷くんだけど、今日は彼女からチョコ貰えそうって?」
その途端、まるで言葉が突き刺さったかのようにびくりと身を震わせた後輩は、持っていた薄力粉を取り落としかけて、寸前で両の手で袋を掴む。と、
「うわ、粉!けむい!」
「余分はないんだから、それ以上撒き散らさないでよ。それに、何でもしますからって言ってから、まだ三時間しか経ってないんだけど?」
派手に吹き散らされた白いもやを、ばたばたと手で払っている樋口くんに呆れながらもそう言うと、私は腕の時計にちらりと目をやった。
今は午前十一時半をわずかに過ぎたところで、ざっくりと自分で立てていた作業工程の予定時刻より、三十分ほどの遅れが出ている。その原因となったのは、もちろん横で狼狽している彼なわけだが、今朝、枕元に置いていたスマホが鳴らした着信音が、事の発端で。
樋口 悠太
おはようございます!朝早くからすみません!
実は、今日のことで、佐々木さんからお話聞いちゃって。
なんだか大変な作業をされるとかで、手伝い要員がいない、
みたいなことを零されてた、っておっしゃるので、気になって。
それで、僕、今日も明日も暇なんです!
同期も友達も、皆バレンタインデーだからそっちで忙しいですし、
僕の方は、当たり前ですけど忙しくなりようがないので……
良かったら、お手伝いさせていただきたいんです!
出来ることならなんでもやりますから!
それでは、お返事待ってますね!
という、細かいところまで馬鹿正直なメッセージを起き抜けに読まされて、佐々木さん余計なことを割り当てゼロ決定、とか、あと三十分はぐだぐだする予定だったのに永遠に待たせておいてやろうかこいつは、とか色々と考えは巡ったものの、よくよく考えれば、ひとつだけ、タイムリーに使いどころがあることに気が付いたので、家まで来なさい、と呼びつけたわけだけれど。
「……やっぱり、それ目当てで呼ばれたんですか」
少しばかり傷ついた、と言わんばかりにしょんぼりとした表情を向けてきた樋口くんに、私はひょい、と眉を上げてみせると、
「当然じゃない。元々ひとりでやるつもりだったし、今のところ荷物持ち以外は戦力になってないんだから、吐ける情報くらい期待してもバチは当たらないと思うけど?」
休日に、全く爽やかでない目覚めを提供された腹いせも込めてそう言うと、切り刻んだチョコを小さなボウルに放り込みながら、私はここ数日間の実りのない状況を振り返った。
同期に倉田くんと実夏、そして同い年に足立くん、という近しい交友関係のおかげで、若手の、特にユース関連の動向は比較的掴みやすい立場にいるわけだけれど、森谷くんと早瀬さんの件に関しては、どうにもやりにくくなってしまった。
というのは、早瀬さんが思いの外素直に『お友達から』のお付き合いを開始したことを認めてしまった上に、これまでの鬱屈をばっさり振り捨て、開き直った森谷くんが人目もはばからない怒涛の攻めを開始してしまったから、雑多な、しかもかぶりまくりの情報がそこら中から入って来て、ノイズだらけの状況となってしまって。
「おまけに課長も井沢くんも見守りモードに入っちゃうし、森谷くんは『僕はいいですけど、彼女にはちょっかいは出さないでください』って釘刺してくるし、その割に明日は、って聞いても難しい顔するだけだし、立てる煙も立たないじゃない」
「えっ、じゃあ、僕と支倉さんが代わりに噂になるとかは!」
「それをひるまずに提案できる図太さだけは褒めてやるけど、心底いらないから。で、うろたえるくらいだから何かはあるんでしょ?」
二枚目のチョコを手元に寄せながら、私は細めた目を樋口くんに向けた。
確信を持ってそう尋ねたのには、ごく単純な理由がある。
あの日、この子が私に告げてきた日以来、先輩と後輩の間に妙なシンパシーが芽生えたらしく、近場で二人、飲んでいるところを見かけることも増えた。
そして、その突き合わせた二つの顔は、どこか似通った、薄い憂いを帯びていて。
水にさらしていた手を止めたその姿に、探るように視線を捉えてみせると、彼はさっと頬を染めたけれど、次第に弱った風になっていって、
「……教えても、いいですけど。その代わり、僕もひとつだけお伺いしてもいいですか?」
「別に、いいよ。答えられるかどうかは保証の限りじゃないけど」
やけに思い詰めたような瞳の色に、少し警戒しながらもそう返すと、頷きが返ってきて。
時間を稼ぐように、ゆっくりとタオルで手を拭ってから、顔を上げてくると、
「今日みたいに、クッキーを何年か前から大量に作るようになったって、久保さんから聞いたんですけど……どうしてなのかって、聞きたくて」
……実夏のやつ、匂わせるような真似したな、全く。
ただ一人、その理由を知っているはずの同期の顔を思い浮かべて、思わず眉を顰める。
幾層かに重なっているそれをぼかし気味にすべきか、と一瞬考えたけれど、今になれば、あえて隠すほどのものでもないと思い直して、私は口を開いた。
「最初は、ストレス解消。多少苛ついてても、作るのに没頭してるうちに治まるから」
奉職してこの方、忙しくも比較的平和な部署に配属されていたとはいえ、細かな鬱屈が溜まることはやはり避けられないから、月一ペースで休日をそれに費やすようになって。
職場の皆に配って、反響を貰えるのも気分が良くて、段々と作るレベルも上がった、と自負し始めた頃に、水を差すような一言を投げつけられて。
「それもこれも分かってると思ってたのに、いきなり切れて『俺にだけ作れよ』とか、料簡の狭いこと言い出すから」
作るって約束したから、という言葉を盾に取り、あてつけも込めて作り続けていたら、勝手にブチ切れて、ガチャ切りのあげくに連絡断たれて、それきりで。
そういえば、丁度同じ時期だったっけ、と思い返しながら、私は言葉を継いだ。
「あんたにだって用意してるんですけど、って、結局言わずに終わったから、その名残」
未だに、そこまで言われるほどのことだったのかどうかは、正直分からない。
構わずにいたわけでもなく、むしろあっちからずかずか入り込んできたくせに、今更で。
もののついでにそんなことを漏らすと、樋口くんは珍しく、ほろ苦い笑みを浮かべて。
「でも、元カレさんの気持ちも、ちょっと分かります。森谷さんとも、被っちゃうとこあるかもしれないんですけど」
転がり出てきた名前に、ぴくりと耳をそばだてるものの、しばし口を噤んだ彼は、軽く目を伏せて、静かに続けた。
「縛っちゃだめだって頭で理解してはいても、出来ることならひとりじめしたい、って思っちゃうんですよね。好きだから、僕だけに特別だって思わせて、って言いたいけど、そんなこと、口に出せる立場ですらないから」
切なげな響きの声と表情に、最後にここで見た、微かに悔しげなそれが、重なって。
分からんならもういい、と言われたことは、そういうことかとようやく、腑に落ちて。
「……なら、そこまで言っちゃえば良かったのに」
素で意味が分かっていなかったことに気付かされて、さすがに罪悪感を覚えてそう呟く。
それが耳に届いたのか、樋口くんは目を上げてくると、小さく口元を緩めて、
「出来れば、言わせる前に、言って欲しかったんじゃないかなあ……プライドとか色々、邪魔しちゃうところって確かにありますし」
「……そうなると、君はそのへんの意識が薄いってこと?」
これまでの彼の行動を顧みて、ふとそんなことに思い至って聞いてみると、彼は、虚を衝かれたように、目を瞬かせて。
何やら色々な思考が過ぎったのか、視線をさまよわせたり焦ったりぎくりとしたりと、くるくると忙しく顔色までも変えていたけれど、やがて、耳も首までも紅潮させて。
「あっ、あのでも、今までに言ったことは全部間違いないですから!最初から最後まで、嘘偽りなく真剣な気持ちからですね!」
「はいはい、分かった分かった」
「そんなあっさりと!いくらなんでも返しが適当過ぎませんか!?」
受け流したものにしつこく食いついてこようとするのに、やっぱめんどくさいなあ、とため息を吐きながら、すっかり作業を止めてしまっていた手元に目を落とす。
と、指先に触れたそれが、実にほどよいサイズであることに気が付いて、摘み上げて。
「口、開けて」
命じるように言いつけると、勢いに押されたように素直に、唇が動いて。
苦くも甘い砕けた欠片を、ケリを付けるように、放り込んでしまって。
「チョコレート、貰えそうにないって言ってたんでしょ。これで一個はカウント出来るじゃない」
昨日川名から飛んできたノイズのひとつに、ついでのように付け加えられていた情報をそう告げてみると、樋口くんは目を白黒させながらも、酷くゆっくりと、咀嚼して。
それから、文句でもあるのか、と軽く睨み付けた私を、じっと見返してくると、
「……嬉しい、です」
内心がじんわりと滲み出るような満面の笑みに、あまりにもチョロ過ぎないかこの子は、と、いささかならず不安までも覚えてしまったけれど。
「あの、義理でも頂けたってことは、僕、少しは見込みあるってことでいいですか?」
「さあ。現状を鑑みれば、森谷くんの方がよっぽどあるんじゃない?」
「かなり距離を離されてるのは認めますけど!だったらかねてから申し込んでるようにちゃんとしたデートからですねー!!」
すぐさま、斜め上に調子に乗った発言を繰り出してきたところを見ると、放っといても問題はなさそうだ、と、私は早々に見切ってしまった。
……まあ、至って分かりやすい、という点だけは、一応評価してやるけど。




