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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
六年目:
57/62

幸、あれかし

 僕が美冬さんと結婚してからというもの、不思議なことに、同期や部下から結婚生活や恋愛のことについて相談されることがぐんと増えた。とはいえ、職員がこれだけいれば、必然的に発生してくる問題ではあるし、今までにその手の話を受けた経験もないではないのだが、何故かやけに切実さや真剣度の高いものが多くなってきたので、ふと疑問に思い何人かに理由を尋ねてみたところ、曰く、『誰にもなびかなかった明石係長をいつの間にか落としていた』ことに加えて、『鈍い久保と空回ってた立花コンビをカップル成立させた』ことで、何やら妙に実績がある扱いにされているらしいことが分かってきた。

 それは、単に美冬さんに僕が惚れてしまったからこその話で、と説いてみても、実際に再婚して滅茶苦茶上手くいってるじゃないですか!と言われてしまって、ちょっとばかり弱りつつも、聞ける話は聞いてはいたものの、

 「課長、その、恋愛において年の差ってどうやって埋められるものなんでしょうか!」

 ついに、直接の部下でないところまで範囲が拡大してしまっては、いささか困りもので。

 新たな年も明けて、休みボケもそろそろ抜けてきた、睦月の半ば。弱い冬の日もとうに落ちた時刻の、我が家のキッチンで。

 来客用にと揃えておいた、白地に藍の柄違いの呑水を、食器棚から取り出しかけていた僕は、横合いから飛んできた真剣な声に、戸惑いながらも答えを返していた。

 「うーん、埋めるも埋まらないも、そもそもがその辺りを意識したことがなかったからねえ……あ、ごめん森谷くん、ついでにその白菜とか適当に切っちゃって貰えるかなあ」

 「分かりました。樋口、落ち着かないのは分かるけど、お邪魔してるんだから、とにかく手伝いが先だろう?」

 流水で洗った大きな白い葉を、慣れた手つきで次々とプラ製のざるに上げていきながら、たしなめるような言葉を投げた森谷くんに、樋口くんはさっと頬を赤くすると、

 「すみません……手が止まると、ついついあのひとのことで頭が一杯になっちゃって。今日話せたのも、本当に凄く久し振りだったから……」

 俯いて、手にした白に青のステッチの入った布巾を握り締めては、落ち着かなげにもみくちゃにしているのに、思わず苦笑を漏らしている横で、微かなため息が響いた。

 「……ああして言葉を交わせてるだけ、僕より遥かに事態はましじゃないか。全く」

 苦々しげに呟かれた台詞に、さらに違う種類の笑みを呼び起こされそうになりながら、僕はまだ空いた片手でお玉とお玉受けを掴んでしまうと、樋口くんに声を掛けた。

 「まあ、とりあえずそのあたりは食べながらってことにしようよ。布巾は濯いでそこのスタンドに掛けといてくれたらいいし、手洗ったら森谷くんを手伝ってくれるかな」

 「いえ、この程度なら僕一人で……」

 「はいっ!先輩、お騒がせしたお詫びに何でも言いつけてください!えっと、こっちの野菜とかとにかく全部洗っちゃえばいいんですよね!」

 「……椎茸やしめじはそもそも洗う必要がないから。あと、水の勢い強いから緩めて」

 「えっ、そうなんですか!?あっ、しまった布巾落としたー!!」


 ……なんていうか、対照的だなあ、この二人。


 美冬さんに、『あの子、やる気には満ち溢れてるんですけどまだまだ周りが見えてないんですよね……』と評されている樋口くんと、何事もそつなくこなし、誰に言われなくともさりげなく他のフォローに動く森谷くん、という感じで、共通点と言えば双方ともが大卒、というくらいのものだが、ほとんど同じタイミングで恋に惑っているとは、それはそれで興味深いもので。

 慌てるあまりにさらに水を跳ね飛ばしている後輩と、最早苛立ちを隠すことも出来ずに眉を顰めている先輩を横目で見ながら、僕は先程の問いも含めて、さて、どこから彼らの悩みを解いていったものか、と思考を巡らせていた。



 市役所業務の中でも、来庁される市民の方々の窓口対応がメインとなる部署、つまりは僕の所属する住民課を始めとした各課については、課全体および窓口の状況が即座に把握出来るように、見通しの効く最奥部に課長席が配置されることとなっている。特に一階と二階は保険年金課や介護保険課、福祉課、税務課といった、常に混みがちな窓口ばかりが集中しているから、混雑の前捌きや係員では対処しきれない苦情案件などを遅滞なく対応すべく、こちらとしても常に目を配ってはいるのだが、

 「……あれ、つついてさっさと帰らせた方がいいですかね」

 「んー、まだ閉めてから三分経ってないしねえ。もうちょっとだけ様子見ようか」

 そのおかげで、どうやら恋の鞘当てらしきものまでが目に入って来てしまうというのは、正直、いいのか悪いのか判断しかねるところで。

 週の終わり、終業時刻を告げるチャイムの音もとうに鳴り終えた、住民課の自席で。

 隣に立った小西くんの抑えた声に、僕は同じほどの声でそう応じると、視線の先にある、微動だにせず立ち尽くすその姿を見やっていた。

 今日は、窓口対応もスムーズに進み、どの担当も皆早々に引き上げているというのに、課の中でも抜きん出て背の高い青年が、空の机が並ぶその中央に、ただ一人取り残されたように立っているものだから、目立つことこの上ない。しかも、物理的に何か起こせそうなほどに強い眼光を放っているとなっては、気付かずにいる方が難しいくらいだ。

 だが、カウンター越しにそれを向けられている方はと言えば、周囲に流れる人波を気にした風でもなく、顔を見合わせ言葉を交わすのに夢中で、時折頷き合ったりもしており、まるで仲睦まじいカップル、と言ってもいいような様子で。

 「……彼氏も好きな子もいなさそうだ、って言ってたのに。倉田くん情報も、完璧じゃなかったってことかなあ」

 「ああ、あいつがソースなら、信憑性は高いはずですよ。単に同期だから仲がいいってだけじゃないんですかね」

 僕が零した呟きにすぐさまそう返してきた小西くんは、ホールの片隅で未だ話し込んでいる、新採の二人に目を向けた。

 寒い時期だけに、襟に白いファーのついた淡いグレーのコートを、首元まできっちりと纏っている早瀬さんの前に立っているのは、単に好みなのか、見かける時には常にその色、という印象の、ネイビーのステンカラーコートに身を包んだ、樋口くんだった。

 そして、その横顔を射るような目つきで凝視しているのは、無論というか、森谷くんで。

 「しかし、あの様子だと、さすがにやっと自覚したんですかね」

 「どうだろうねえ……こないだ話した時は、なんか微妙に明言避けてたから」

 髭の剃り跡も濃い顎をつまみながら小西くんが尋ねてきたのに、あれは果たして意識的なのか無意識なのか、と僕は首を捻っていた。

 昨年の春、この同じホールで、どうやら恋に落ちてしまったらしい彼の姿を認めてから、もう九か月余りが過ぎている。こうして彼女を目で追い始めた初期の頃は、疑問符のみが浮いているような状態だったのが、次第に思い詰めた表情に変化していくのに気付いて、そろそろ穏やかにガスを抜いたほうがいいか、と食事に誘ったのが、先月下旬のことだ。

 僕を含めた周りが事態を察していることも含め、背中を押す意味も込めて現状を告げてみたものの、未だに彼女に向けて踏み出そうとする気配も見えなくて、事情を知る皆が、いわば勝手にやきもきしている、まさしく今は、そんな時で。

 「まあ、絵に描いたような見事な三角関係ですね」

 不意に脇から掛けられた声に、僕も小西くんも揃ったようにそちらに首を巡らせる。

 と、声の主は、艶やかな赤みを帯びた薄い唇を吊り上げてみせると、ピンクベージュのノーカラーコートに包まれた細い腕を軽く組んで、面白がっているような調子で続けた。

 「でも、森谷くんがまだ絡んでもいないわけだし、単なる横恋慕ってとこでしょうか」

 「……その単語が出てくるってことは、あの二人、そういうことなの?」

 「いえ、残念ながら、私はそこまでは知らないんですけど」

 ますます声を潜めて投げた問いに、間髪入れずにそう返してきた支倉さんは、涼やかな印象の一重の目を細めて、新採二人に一瞥をくれてから、再び口を開いた。

 「川名によれば、樋口くんの方はちゃんと好きな子がいるらしいですよ。ただ、誰とは頑として言わなかったそうですけど」

 与えられた新たな情報に、僕は小さく息をついた。向き合っているかはどうかとしても、矢印のもう一本が、彼女の方を指しているという可能性もあるわけで。

 「微妙なことになってきたなあ……とにかく、長引かせても仕方ないし、そろそろ彼に声掛けてこようかな」

 「なんでしたら、私が行ってきますよ」

 押し止めるように掛けられた台詞に顔を向けると、ゆっくりと腕を解いた支倉さんは、やや芝居がかった仕草で、自らを示すように胸元に右の手を置いた。

 「平岩課長は既に一度相談に乗っておられるわけですし、上司から幾度も、というのはプレッシャーになりかねないです。その点、私ならただの先輩ですから」

 「……もっともらしいことを言ってるが、単に新しいネタを手に入れたいだけなんじゃないのか」

 僕が突っ込むより一拍早く、小西くんが眉を寄せつつそう指摘したのには、理由がある。

 二年前の久保くんのプロポーズの件を始め、彼女はどういうネットワークがあるのか、職員間のゴシップを密かに掴むのを得意としていて、それらをメールやメッセージアプリなどを用いて、仲間内(主にユースらしいが)に瞬時に拡散するという習癖があるのだ。

 これがかろうじて『悪癖』扱いとなっていないのは、噂の当事者とネタの真偽を十分に選んでいるから、らしいが。

 それはともかく、支倉さんは笑んだ表情を変えないまま、小さく頷くと、

 「その通りですよ。だから、ほんの軽い刺激に留めておきます、ここで心折れられても今後の展開がつまらなくなっちゃいますし」

 「……せめて針で刺さずに、穂先でくすぐる程度にしてあげてね」

 そろそろ破裂寸前、といった風情の森谷くんを見ながらそう言うと、心得てますよ、とばかりに唇の端を上げた支倉さんは、美冬さんの半分程度と見えるヒールを鳴らしながら、するすると机の間を抜けて、彼の元へと足を進めていった。直後、

 「課長、あれ」

 注意を引くように飛んできた声に首を巡らせると、ホールでは今まさに新採が二人から三人に増えたところだった。右のエレベーターから降りてきた川名さんが、派手な動きで両手を振りながら走り寄ってくると、何やら二人に向けて、一頻り何事か話していて。

 やがて、女子二人が樋口くんに小さく手を振ったかと思うと、裏口の方へと踵を返して、肩を並べて歩き去っていった。

 これで一段落か、と気を抜きかけた時、二人の背中を少しだけ見送っていた樋口くんが、正面玄関へと向かうのか、くるりと振り向いてくるなり、何故かぎくりと身を強張らせた。

 驚いたように見開かれた瞳が見つめる先には、予想通りに森谷くんの姿があったものの、その注意は既に彼からは逸れていて、隣に立つ支倉さんと言葉を交わしている。

 相変わらず楽しげに笑んでいる彼女が、身長差のせいかわずかに見上げながら二言三言、といった風に唇を動かすのに、目に見えて憮然とした後輩は、逃れるように顔をそらして。

 途端に、ひたと見据えてきている視線に気付いて、瞬時にその表情が険しさを増す。

 それを認めて、怪訝そうに眉を顰めた支倉さんが、先を追って顔を動かしたかと思うと、ああ、と納得したように、頷いて。

 まずいかな、と思ったのも束の間、目に見えて頬を紅潮させた樋口くんが、周りのことなど見えていない様子で、二人の元へと一直線に突進していった。

 職員用のスウィングドアに回ることなど思いも寄らないのか、腰高の受付カウンターにぶつかるようにして止まると、両の腕を掛けて、乗り越えるかのように身を乗り出して。


 「あの、支倉さん!六歳年下がオッケーなら、七歳年下も許容範囲内ですか!?」


 轟く声で放たれた、完全に想定外の台詞に、その場にいた全員がフリーズさせられて。

 唖然呆然、としか表現のしようもない状態に陥らされた中で、いち早く我に返ったのか、支倉さんがこつり、と踵を鳴らして、一歩後ずさると、

 「年下だろうが年上だろうが同い年だろうが関係なく、どれもめんどくさいから却下」

 よく通るアルトの声で、きっぱりとそう宣言してしまうと、下げた足を軸にして素早く身を翻して、僕と小西くんの傍まで、足早に近付いてきて。

 「あれ、厄介そうな気配がひしひしとするのでお先に失礼します。もし可能でしたら、がっちり引き留めといていただけると幸いなんですけど」

 囁くようにそう言い置くと、綺麗に巻いたブラウンの髪が背中で跳ねるほどの勢いで、一散に奥のロッカーの方へと走り去ってしまった。

 「……課長、樋口も森谷も未だに硬直解けてませんけど、どうします?」

 「……とりあえず、双方とも、一旦回収してこようか」

 いくらなんでも、あのままじゃあ、どちらもいたたまれなさすぎだし。

 そう内心で呟きながら、カウンターにしがみつくような姿勢で固まっている樋口くんと、憐憫なのか同情なのか、なんとも複雑過ぎる感情を面に張り付けている森谷くんの方へと、僕はゆっくりと近付いていった。



 それから、地の底まで落ち込んでいる樋口くんを宥めているうちに、帰りそびれていた森谷くんまでが、なんとなく話の中に巻き込まれてしまって。

 すっかり泣きつかれて放り出すわけにもいかず、おまけに美冬さんは時間外の会議で、猫たちの世話もあるしと、取り急ぎ二人ともを家まで連れてきた、という次第なわけだが、

 「……樋口、いったい、支倉さんのどこがいいんだ?」

 リビングに据えたテーブルの中央に、土鍋を置くカセットコンロをセットしていた僕は、キッチンから届いた心底不思議そうな森谷くんの声に、堪え切れずに吹き出してしまった。

 「えっ、課長までそんな反応ですか!?酷いですよ、支倉さん綺麗じゃないですかー!」

 「いや、まあ、それは認めるけどさ、一癖も二癖もある子だっていうのも確かだしねえ。森谷くんも、彼女につつかれて疲弊してるだろうけど、もうちょっと言葉選んであげてよ」

 「すみません、軽率でした。けど、それほど接点があるわけじゃなさそうだし、どこに惚れる余地があったのかなと、単純に疑問で」

 完璧主義気味な性格を表すように、切った具材を向きまで綺麗に揃えて盛り付けながら淡々と続けた先輩に、後輩はしめじの塊を小房にほぐしていた手を止めると、頬を染めて、

 「……み、見た目、でしょうか」

 至って真面目な表情で切り出してきた台詞に、僕も森谷くんも絶句していると、それに気付いたのか、慌てて否定するように両手を振り回した。

 「いや、だって、まだそんなに中身をどうこう言えるほどは喋れてないんですよー!!でも、一目見た時から凄く好みだなって思って!」

 「……一応聞くけどさ、彼女と話したのって、何回目?」

 「今日で、やっと四回目です!」

 「予想より少ないな……けど、それだけ話してれば、人となりの欠片くらいは見えたんじゃないのか」

 僕の問いに加えて、より深いそれを重ねた森谷くんの言葉に、樋口くんは素直にはい、と頷くと、

 「一回目二回目は、ほんとに自己紹介と挨拶くらいで。だから、やっとまともに話せたのは、年末のユースの宴会の時だったんですけど……何かと動き回ってるうちにたまたま隣の席になれたんで、お酒の勢いで話し掛けちゃって」

 原料は問わず、焼酎をロックで、という彼女のいつもの飲み方に若干気圧されつつも、たわいない話をどうにか繋いでいたところ、先のユースの会報の話になったそうで。

 「以前に、課長にもご協力いただいたアンケートで、久保夫妻が僅差でトップになったじゃないですか。それで、皆さんがそれぞれ羨ましくなるくらいの回答だったのに、どの辺りが勝因だったんでしょう、って、何気なく振ってみたんですけど」

 同期の中でも特に久保さんと仲が良い、と聞いていたこともあって、話のタネになるか、程度に投げてみた言葉に、支倉さんはひとつ瞬きをすると、手の中のグラスを揺らして、

 「実夏のやつ、くっつくまでにかなり苦労したから執念が滲み出てたんじゃない?ってそっけなく言われたんで、なんて返していいか一瞬戸惑ってたら、ふって、唇が緩んで」

 半ば瞼を伏せて、何もかもが透明なそれを口元に持ってくると、中身を少し含んで。

 「あいつ、やっと『好き』を出し惜しみしなくなったから、って、柔らかく笑って……やっぱり綺麗だなあ、って目を引かれちゃって」

 心を奪われたままに真っ直ぐに向けられている視線に気付いた支倉さんは、眉を上げて、きゅっとへの字に唇を曲げてみせると、じろりと睨み付けてきて。

 「なんていうか、それが、綺麗よりかは可愛い寄りで、忘れられなくなっちゃって……あー、もー、だめだー!!」

 とつとつと言葉を重ねていくうちに、徐々に頬の赤みを増していった樋口くんが、突然爆発したように叫ぶと、腕を上げて頭を抱える。

 その動きにつれて、まだ手にしていたらしいしめじが、床にばらばらと飛び散るのに、森谷くんが鋭く叱りつけた。

 「何やってるんだ!?混乱するにも程があるだろう!」

 容赦なく飛んだ声に、びくり、と身を震わせた樋口くんは、すみません、とうなだれたものの、おさまりがつかないように上げた両の手で、ぐしゃりと髪を掻き回して。

 「こうやって話してたら、その後グラスに口をつけた仕草とか、軽く動いた白い喉とか、髪からふわって香ったいい匂いとか次々思い出しちゃって……触ってみたいなあ、って、そしたら、なんかダメな方向性の妄想がだーって沸いて止まんなくて、それで」


 ……まあ、若いから、仕方ないと言えば仕方ないけど。


 いささかストレート過ぎるなあ、と頭を掻きつつ、僕はカウンター前からキッチンへと移動すると、床に屈みこんで、既に房ですらなくなっていたしめじを拾い始めた。

 「あっ、わっ、すみません課長、僕やりますから!」

 「いいから、とにかく君は髪にくっついたそれ取っておいで。洗面所あっちだから」

 「えっ!?うわ、マジだ!!ほんと申し訳ありませんー!!」

 僕の指摘に、やっと派手に絡みついたものに気付いた樋口くんがキッチンを飛び出して、じきに玄関の方へ続く扉の向こうに姿を消してから、しばし。

 「……あんな風に、乱されるのが嫌にならないのかな」

 同じように屈んで、ほぼマットの上とはいえ結構な範囲に散らばった淡い灰色のものを回収している森谷くんの呟きに、僕はちょっと眉を上げると、探るつもりで応じてみた。

 「情欲抜きで恋愛語るのは相当に難しいでしょ。ことに、相手が自分の好みだったらさ」

 「そっちの話じゃないんです」

 即座に否定してきた彼の顔を、わざととっくりと眺めながら続く言葉を待ってみると、焦れたのか拾い上げる手のスピードを無闇と上げて、目につく限りをすっかり綺麗にしてしまうと、すっと立ち上がって。

 定めるところが知れないように視線を泳がせた彼は、見上げた僕には目を合わせずに、薄い唇を歪めると、軋んだ声を吐き出した。

 「ただでさえ、見ているだけでネガティブな自分ばかりが表に出てきて嫌になるのに、話して、触れて、それでも傷つけずにいられるかどうか、確信が持てないんです」

 

 ……また、こっちはこっちで、違う方向にこじらせちゃってるし。


 さすがにため息を抑えられずに、僕も膝を伸ばして立ち上がると、流しに向かう。

 結構減っちゃったなあ、と考えながら、とりあえず空いたざるを引き寄せて、手の中のものを、無造作に放り込んで。

 「そう思うんなら、飛び出した棘は、自らの手で折り取ればいいでしょうが」

 彼の方は見ずに天板に置いてしまうと、右手でレバーを上げて、激しく流れ落ちる水に指先をさらして、冷たさに顔を顰めつつ、僕は続けた。

 「僕だって、綺麗な思いばかり抱えてきたわけじゃないよ。未だに独占欲も嫉妬心も、余りあるくらいに持ち合わせてるけど、幸い、再び発揮する機会がやってこないだけで」

 四年前のあの時、彼女が久保くんからのメールを受け取ったところに居合わせたのは、たまたま運が良かっただけだ。あれがなければ、肝心なところで鈍い彼女だから、予兆を見逃していた可能性も捨て切れない。それに、真正面から挑戦されていたなら、斬り結ぶことも厭わなかっただろうことは、明白で。

 「彼女にそれをぶつけたことも、もちろんあるよ。余裕があるように見せかけたくても、制御出来ない自分に苛立って、年だけは食ったのになあ、って情けなくなりもしたけどさ……所詮、言葉にしないままなら、何もかも幻にしかなり得ないんだよ」


 微かな疑念を振り払えなかった夏の夜も、懐に入れてさえなおも求めた、冬の宵も。

 剥き出しの醜さをかろうじて取り繕っただけのものに、それでも、応えてくれたから。


 レバーを下げて水を止めながら、今更だけどよく引かれなかったもんだなあ、と過去のあれこれを顧みていると、ようやく、隣で動く気配がして。

 吊り戸棚から下げてある、ハンガーに掛かったタオルで手を拭きながら顔を向けると、いつの間にか手を空けていた森谷くんは、どこか途方に暮れたように、俯いていて。

 「彼女が、君にとってどういう存在なのかは、もう分かったの?」

 追い打ちとばかりに突きつけた問いに、彼は、肩を震わせて、


 「……とうに、自覚は、しています」


 口に出した直後に、どうにも不本意そうに、きつく眉を寄せて。

 けれど、酷く思い詰めていた瞳の色も、次第に和らいでいって。


 ついに吐き出してしまったことに、居心地の悪さを隠せないでいるそのさまを見ながら、やっと崩れ始めたらしい頑なさに、僕は口元を緩めると、さらにつついてみせた。

 「だいたいねえ、傷つけるって言うけど、そもそも距離が余程詰められてないと起こり得ないことだよ。半径二メートル以内にも入れてない君が言うことじゃないでしょうに」

 「それは、これから策を練ります。樋口の二の舞は演じたくないですから」

 普段の調子を取り戻したのか、憮然としながらもすぐに返された彼の台詞に重なるように、待ちかねていた着信音が高く響く。

 「係長からですか?早かったですね」

 「うん、今終わったみたい。それで君たちがお腹空いてるだろうから、遠慮しても先に食べさせてあげて下さい、って……」

 言葉の途中で、まるで突進してくるようなけたたましい足音が耳に届いたかと思うと、傍らの扉が勢いよく開け放たれて、

 「平岩課長ー、森谷さんも!朗報なんです、聞いてくださいよー!!久保さんが、あっ、奥さんの方なんですけど、支倉さんも入ってるアプリのグループに入れてあげる、って!それで、やっぱり謝りついでにアプローチするのは止めた方がいいですよね?」

 鮮やかなブルーのスマホを大きく掲げながら、興奮気味に駆け寄ってくるなり言い募る樋口くんの、むやみやたらときらきらした笑顔に、圧倒されてしまって。

 「……あれだけ手酷く振られてるのに、まだ折れてないのか」

 「うーん、でも彼女相手ならさ、不撓不屈がモットーくらいで丁度いい気がするしねえ。森谷くんも、そこだけは見習ってもいいんじゃないの?」

 期待を込めてアドバイスを待っている後輩に、一拍を置いて呆れた声を漏らした先輩の肩を、僕はけしかけるように二度叩いてみせた。



 そうして、美冬さんの伝言通りに、先に若者二人に鍋を始めてもらって。

 「じゃあ、ついに森谷くんも、ですか?」

 「と、思うんだけどねえ……今までの思い切れなさ加減からすると、要経過観察、ってところかなあ」

 最寄駅から家まで、およそ徒歩六分ほどの、長年通い慣れた帰り道。

 T字型に張り出したポールの先の両端に、ランタンめいた二つのスクエアを吊り下げた、モダンな印象の街灯に照らされたそれをゆるゆると辿りながら、僕は隣を歩く美冬さんにそう答えていた。

 こうして彼女の方が遅くなる日は、必ず駅までお迎えに行くことにしている。途上にはスーパーや薬局などもぽつぽつとあるし、住宅地だけに傍らに灯りが絶えることはないのだが、やはり夜道をひとり歩かせるのは心配ではあるし、何より、のんびりと手を繋いで帰れる、という貴重な機会を逃すわけにはいかなくて。

 「まあ、樋口くんが『応援しますから!』って燃え上がっちゃったからさ、焼け野原にされる前に動かないと、彼としても納得のいかない結果に陥りそうだし」

 「森谷くん、プライドが果てしなく高そうですからね」

 その光景が簡単に想像出来てしまったのか、美冬さんは小さく口の端を上げて続けた。

 「それにあの子、純粋な好意から余計なことしかねないからなあ……早瀬さんに好きなタイプは、とか平気で聞きに行きそうだし」

 「さっき申し出てたよ。なんだったら川名さんも仲良しですからそれとなく話を!って言った瞬間に却下されてたけど」

 とはいえ、近しい年回りの同じ立場に立つ同士となれば、多少なりとも通じるところはあるらしく、僕が家を出てくる時には、結構真面目に顔を突き合わせていて。

 あの無駄に回る口を塞いでやりたいです、とかなり本気な声で僕に零していたけれど、後輩に尋ねられるままに、支倉さんのことを教えてあげているところも、おかしくて。

 そんな片恋に悩む男子二人の様子を、時折頷きつつも聞いていた美冬さんが、ふっと、藍の空の果てを仰ぐように、目を移して。

 「もしかしたら、難しい恋かもしれないけれど……でも、どちらも、悔いのないように過ごして欲しいですね」

 「……そうだねえ」

 僕も、そして彼女も、後ろに残して来たものは、いくつもあるけれど。

 出会って、自ら選び取ってきた道を、振り向かずにこうして、歩けていて。

 とりとめもなく浮かぶ思いを巡らせているうちに、気付けば足は自宅へと向かう傾斜の緩やかな坂にかかり、行く先には玄関を彩る、見慣れた白い灯りが見えてきた。

 さして長くもない道行きだけに、急ぐ理由もなく歩いてきた割にはもったいないほどに早く着いてしまう気がして、こっそりと速度を落とす。

 と、ほんの軽く、繋いだ手を引かれて顔を向けると、そっと見上げてきた美冬さんが、ほろりと、花が零れるような笑みを浮かべて。

 「……良充さん、なんだか、とっても嬉しそう」


 口にしたその言葉以上に、溢れんばかりの同じ想いを、惜しみなく与えてきて。

 だから、どれだけ繰り言になったとしても、君のせいですよ、と、何度でも伝えたくて。


 「うん、恋って、やっぱりいいもんだからねえ」

 それだけを返すと、表し切れない気持ちをせめても示すように、小さな手を包み込む。

 そうして、どちらからともなく身を寄せては、肩を並べて、歩みを進めて。


 君がくれる、例えようのない幸福は、僕だけのものだけれど。

 いつか、彼らにも、どうか。


 窓辺から零れる暖かな灯りと、迎えるようにそこに現れた大小二つの影を見上げながら、僕は、誰に届くとも知れない願いをひとつ、空へと放っていた。

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