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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
六年目:
55/62

瞳、奪われ

 僕らのような自治体に所属している職員に限らず、社会人ともなれば人事評価のくびきからは誰しも逃れられないものだが、評価される側だった平の係員、という時期も過ぎて、いわゆる中間管理職というポジションに配されるとなると、当然ながら部下を評価しつつ、上司から自己も評価を受けなければならない、という状況にさらされることになる。

 自身に課せられた職務は過不足なくこなしつつも、昇格するごとに必然的に評価対象となる人間は増えることになるから、ただ漫然と決裁だけを行っていればいい、というわけにはいかない。だから、他の管理職とも連携を取り、日々目を配ることを怠らない、その点については、特に自身の中でも意識しているのだが、

 「やっぱり、外部の視点って自己を俯瞰するためにも重要だからねえ。そういうわけで、小西代理、僕そろそろ出させてもらおうと思ってるんだけど、大丈夫かな?」

 七月の下旬、庁内の冷房もそろそろ効きが悪くなってきた、蒸し暑い水曜日。

 隣の市民ホールで行われる研修に赴くべく、資料を入れたファイルケースを手に、僕は傍らの自席で業務用端末を操作している小西くんに、そう声を掛けた。

 と、彼は忙しく動かしていた両の手を止めて、こちらに目をくれるなりため息を吐くと、整えなくても細い眉の下の、三白眼気味の瞳をわずかに細めて、呆れを露わに言ってきた。

 「そりゃ構いませんけど、研修室に行く前に、その緩みまくった顔だけなんとかした方がいいと思いますよ」

 「あ、分かる?だって、美冬さんが仕事してるところ間近で見られるの久々だからさ、なんかもううきうきしちゃってねえ」

 彼が新採の頃から続く、長い付き合いゆえの容赦ない指摘に、僕は悪びれることもなくそう答えていた。

 今日は、課長級を対象とした人事評価に関する研修で、外部講師を迎えて考課や目標設定、部下の育成や面談における指導力の強化などの各テーマについて、午後からおよそ半日にわたり行われるのだが、その司会を務めるのが美冬さんなのだ。

 なにぶん重要なものだと理解していても、長丁場となるとダレがちなこういった研修も、彼女の姿が常に視界の端にある、それだけで気の緩みも彼方へと吹き飛んでしまうようで。

 そんな内心が滲み出していたのか、小西くんはもう一度息を吐いて、短めに刈り込んだ黒髪が、ブラシの毛めいて直立している頭を軽く振ると、椅子を回して端末に顔を戻した。

 「あーもう、分かりましたからとっとと行っちゃってください。どうせ、かぶりつきの席で隙あらば奥さんを眺めてようって魂胆なんでしょうが」

 「うん、そうしたかったんだけどさ、私の真正面は気が散るから止めてください!って先に釘刺されちゃって。だから、右手の一番前で一番端のポジション取って、対角線上でじっくり見るのがいいかなあって思ってるんだけど、どう思う?」

 「そういうしょうもない質問は自問自答で済ませといてください。そろそろ出ないと、どっちみち実現不可能になりそうですけどね」

 最早顔も向けずにずばずばと言い返してきながら、追いやるように手を振ってきた彼にさすがに苦笑を返すと、あらためて後を頼んで、僕は自席を離れた。

 研修は午後一時半から五時まで、との予定だから、周囲は忙しく立ち働く係員が立てるキーボードを叩く音や、電話や窓口での対応中の声などに満ちている。取り急ぎ手持ちの仕事は全て片付けたとはいうものの、どことなく申し訳なさも感じつつ、職員用の出口をくぐり、すぐ傍の正面玄関を出て左手に折れると、屋根の付いた渡り廊下で連結しているホールへと向かう。

 庁舎とホールの合間を埋める、憩いの緑地、と簡単に名付けられた小さな庭園を横目に足を進めれば、ほんの一分もかからずに到着するので、移動も楽なものだ。築十年ほどの未だに小奇麗な入口を抜けると、施設受付の顔見知りの職員に挨拶をしつつ、吹き抜けの広いホワイエの右手から、緩やかな弧を描いて二階へと伸びる階段を上っていく。

 すると、行く先に臨む廊下の奥に見える、開け放たれた扉の向こうに、見慣れながらも変わらずに目を引かれる、彼女の立ち姿が視界に入ってきた。

 涼しげなベージュのパンツスーツにシンプルな白のシャツを合わせ、ヒールの高い黒のパンプスをすっきりと履きこなしているさまは、いかにもきびきびとして映る。『受付』と札の下げられた、参加者に配布する資料が整然と積まれた長机に向かい、隣に立つ係員と何事か話しているのを眺めながら、すぐ脇の壁に『第一研修室』とプレートが掲げられた入口をくぐるなり、即座に二人が顔を向けてきた。

 途端に、美冬さんはちょっと目を見張った後、苦笑気味に口元を緩めて、迎えるように進み出てきた。

 「お疲れ様です。本当に一番乗りでいらっしゃるとは思いませんでしたよ」

 「幸い、今日はトラブルらしいトラブルもなかったからね。早目に出てきちゃった……ああ、有難う」

 それなりのボリュームの研修用のレジュメを、ネイビーのスーツを纏った黒髪の青年が一揃い差し出してくれるのを、礼を言って受け取る。

 そのまま左手に首を巡らせてみれば、整然と並べられた白の長机には、誰一人として席にはついておらず、場所取りはまさに楽勝なのだが、

 「ところでさ、そこ、空いてるんだけど……やっぱり、だめ?」

 却下されることを前提に、僕はある席を指差しながら、そっと美冬さんに尋ねてみた。

 研修室は、入口から見て右手にスクリーンや演壇が設けられており、奥には壁際に設置された照明や音響関連の操作盤の傍に、人事担当用の席が二つ用意されている。

 ノートパソコンとワイヤレスマイクが置かれたその前に、適度にスペースを開けて配置された二人掛けの席を、僕の視線を辿って認めた途端に、困ったように眉を下げた彼女が口を開きかけた時、思わぬところから声が飛んできた。

 「はいっ、どうぞ、お席はどちらでも構いませんので!」

 驚くほどに元気な声に、夫婦揃ってさっと顔を向けると、人懐こそうな笑みを浮かべたさっきの青年が、やけにぴしりと指先まで伸ばした腕で、当該の席を示してくれている。

 と、一拍遅れて二人の注視を受けていることに気付いた彼は、慌てたように美冬さんを顧みると、

 「あの、席はなるべく前に詰めていただくようにっておっしゃってたので!いけませんでしたか!?」

 「あっ、ええと、あのね、樋口(ひぐち)くん……」

 「いや、それでいいよ。せっかくだから、傾聴のスキルをあらためて磨くとしますか、ねえ?」

 放たれた都合の良い台詞をすかさずフォローしつつ、彼女に目配せを送ってしまうと、僕はわざと後も見ずに足を進めて、狙っていた席をしっかりと確保してしまった。

 椅子に掛けるなり、瞬時に数段アップしたやる気を表すように資料を並べて、手にしたファイルケースから筆記用具を取り出しつつ、ちらりと美冬さんの方を窺う。

 こちらの抑えきれない笑みを捉えた彼女は、新たな人の気配に樋口くんが入口の方へと顔を向けた瞬間、もう、と声を出さずに唇を動かしてみせた。

 しかし、こっそりと見せてくれたその拗ねたような可愛い姿も、そろそろ集まってきた他の参加者が作る喧騒に紛れてしまって、僕は気持ちを切り替えるべく、軽く息を吐いた。

 美冬さんと結婚してからというもの、この上もなく幸せに日々を過ごしているわけだが、ひとつだけどうしようもない不満がある。というのは、夫婦となった以上、同じ部署への配属を避けることとなるので、過去の三年のように机を並べて、というわけにはいかなくなってしまったのだ。もっとも、そんなことを零したところで、家に帰れば飽きるほどに共に過ごしているのだろう、と言われればそれまでなのだが。

 けれど、適度な緊張に背筋を伸ばし、凛とした態度で事に対応する姿は、やはり見るにつけ、なんというか、惚れ直してしまうというもので。

 「……それでは、定刻となりましたので、研修を始めさせていただきたいと思います」

 ぼんやりと考えを巡らせていたせいか、美冬さんの澄んだ声に呼ばれたように、急激に焦点が定まる。気付けば、ほとんどの席はとうに埋まり、いつの間にか講師も演壇の脇の椅子に控えていて、僕は瞬きを繰り返すと、淀みなく流れる彼女の言葉に耳を傾けた。

 「……本日の配布資料を読み上げますので、不足の場合にはお手数ですが、その場での挙手をお願い致します。まず……」

 レジュメ通りの進行に従って、指示の通りに手元の資料を確認しながら、耳触りのいい声を楽しみつつ、時折目を上げてはその横顔を盗み見る。

 姿勢良く自席に立ち、マイクを口元に寄せて構えては、意識的に一語一語をはっきりと発音しているさまを見ているうちに、ふっと古い記憶が呼び覚まされて、僕はひとり口の端を上げた。



 「……平岩係長って、良い声ですよね」

 前触れもなく、唐突に横から飛んできた褒め言葉らしきものに、僕は啜っていたお茶を危うく鼻に入れてしまいそうになって、慌てて口から湯呑を離した。

 時刻は、午後八時過ぎ。フロア全体を見渡しても、この担当以外は明かりも落とされた、しん、と静けさの漂う、夏の夜。

 翌々日に迫った説明会の資料作成もどうにか終えて、そろそろ引き上げようか、というタイミングで放たれた妙な台詞に、僕は戸惑いながらも、隣の席に掛けている明石さんに向き直った。

 「ええと、お褒め頂いたのは有難いんだけど……なんでそんなに難しい顔してるの?」

 とりあえず、手にした湯呑を机に戻してしまいながら、白と青のストライプに包まれた細い腕を組んで、何やら首を傾げて考え込んでいるらしい彼女に、そう切り出してみる。

 と、背もたれを軽く軋ませながら、腕を解いた明石さんは椅子ごとこちらを向いてきて、

 「ほら、今もそうですけど、係長の声ってマイクがなくてもよく通るじゃないですか。そんなに張ってる感じじゃないのに、いつでも鮮明に耳に入ってくるから、いいな、って」

 最後の『いいな』に、明らかに羨ましげなニュアンスを滲ませて言ってくるのに、何か可愛らしさを感じてしまって、僕は小さく喉を震わせた。

 「それは、どうも。でも、君だって凄く滑舌がいいし、穏やかな聞き取りやすい声だと思うんだけど」

 この際だから、ではないが、彼女がここに来てからというもの、普段の会話や電話対応などで、毎日のように耳にしているその感想を正直に述べてみると、

 「一対一なら、そんなに緊張もしないですから。ただ、特別な時になるとなんていうか、変に喉が強張るっていうか、細くて頼りない声になっちゃうんですよね」

 「特別な時って……あれ、もしかして明石さん、大勢の前で話すの、苦手?」

 困ったように眉を下げて、珍しく気弱な様子を見せた彼女に、僕は思い当たったことをそう尋ねてみた。

 今週末に行われる市民向けの説明会では、実務を担当している彼女がメインとなって、進行も含めて行ってもらうことになっているのだが、それを告げた時に、微かながら顔を強張らせていたから、少しばかり気にかかっていたところで。

 「昔から、あまり得意じゃないんです」

 案の定、素直にそうと認めてきた彼女は、申し訳なさそうに俯きながら続けた。

 「状況が状況だから、一対多数になるのは分かってはいるんですけど、あの、出席者の注意が、ふっとこちらに集中するような瞬間っていうのに慣れなくて……意識しなければいい、って思いはするんですけど、目を逸らしたりしても、何か落ち着けなくて」

 「ああ、緊張しちゃうのか。そうかあ……」

 そう返しながらも、かなりの場数を踏んで慣れてしまった自分には、助けになる言葉がすぐには見当たらなくて、僕はつい先程の仕草を真似るように、両の腕を組んでみた。

 「話す内容については、特に不安はないんだよね?」

 「あ、はい。三宅さんからの引き継ぎも十分でしたし、自分なりに制度の理解も出来ているとは思うんですけど」

 「うん、そこは僕も信頼してるから」

 つい先程まで、二人がかりでひたすら束ね、綴じ、としていた資料の山を思い浮かべて、僕はそう断言してみせた。

 今回の説明会は、年一回の定例のもので、制度としては既に施行されて五年目となる。ゆえに一通りのテンプレートはとっくに出来ていて、毎年の改正や細かな変更点について留意していれば概ね何とかなるものだが、彼女はそれにさらなる見直しを掛けていて。

 「フローもQ&Aも入って、より伝わりやすくなったし、いつも長引きがちな質疑応答もおかげで対応しやすくなりそうだし、凄く良くなったって思ってるから、中身については自信持ってくれていいよ」

 「あ、有難うございます……良かった」

 浮かぶ憂いを取り除きたくて、あらためてストレートに褒めてみたのが功を奏したのか、明石さんはほっとしたように息を吐いて、微かに口元をほころばせた。

 硬さが和らいだ様子に少しばかり安堵しつつも、肝心な点はまだ解決とはいっていない。イメトレやプレゼンの基本を唱えるのは今更だし、などと考えているうちに、結構な昔に大学の友人と後輩にやった、『人目を気にしなくなる方法』をふと思い出してしまった。

 「……いや、あれはだめだなあ」

 どこをどう見ても嫌がらせとしか思えないその光景が蘇って、思わずそう呟くと、明石さんははっと息を呑んで、

 「あの、係長、他に問題があれば遠慮なくおっしゃっていただければ……」

 表情を曇らせながらも、真剣な様子で切り出してきたのに、僕は焦って口を開いた。

 「今のは違うから、独り言だからね!明石さんに何かあるわけじゃなくて、僕に碌でもない友達がいるだけの話だから!」

 誤解を解こうと、我ながら相当にうろたえつつもそう言うと、彼女は驚いたように目を見張って、それからこらえきれないように、小さく吹き出して。

 「なんですか、それ。話が飛びすぎちゃって訳分かんないですよ、もう」


 目の前に、突然花開いたような笑顔が、思いがけないほどに無邪気で。

 久しく忘れていたものが呼び起こされそうな気配に、ざわりと胸が騒いで。


 「こら、笑い過ぎですよ。せっかく真面目に君の悩みについて考えてたのにさ」

 さりげなく今見たものを心の隅に追いやりながら、たしなめるようにそう言ってみると、明石さんは手で口元を押さえて、悪戯っぽく眉を上げてみせた。

 「ごめんなさい、係長の珍しい姿を目にしたから、つい。でも、それってどういうことなんですか?」

 そう問われてしまったので、僕は参ったなあ、と思いながらも、簡単に説明することにした。要するに、あがり症気味の後輩に、友人が僕を含むサークルの人間を集め、それを克服させようと企んだことがあったのだが、

 「こう、後輩を中心に立たせてね、残りの人間は距離を開けて、扇形に展開するんだよ。それで、ひたすらに皆で凝視するわけなんだけど」

 それから、半ば周囲を包囲した状態で、後輩には適当に用意した原稿を読ませるのだが、とちったり詰まったりするごとに、全員が一斉に一歩距離を詰めていく、という、何やら暑苦しくてかなわない計画で。

 「結局、至近距離になった時点で後輩が気持ち悪さに泣いて逃げ出しちゃって……まあ、男が男の団体に無言で迫られるんだから、そりゃ嫌だよねって話だったんだけどさ」

 「何か、夢に見そうですよね……でも、ひょっとして耐えきれたら効果的、なのかな」

 「どうだろうねえ。まじまじ見つめられるのって、一人でも結構堪えるもんだけど」

 計画を説明された時に、友人にちょっと実演されただけでも相当に疲弊したことを思い出していると、明石さんは、しばし眉を寄せて。

 「……係長、試しにやってみていただくわけには」

 「え、本気?あれって完全にネタでしかなかったんだけど」

 そう返す間にも、彼女は既に椅子から立ち上がっていて。

 机上に置いていた説明会のファイルを胸元に抱えて、お願いします、というように僕を見て来られては、応じないわけにもいかなくなってしまった。そういうことで、

 「……じゃあ、明石さん、次第の通りに読んでみてね。ミスしたら三歩ずつ近付くから」

 課長席の隣に腕組みをして立つと、五メートルほども離れたカウンター前で、ぴしりと足を揃えて身構えた彼女に、妙なことになっちゃったなあ、と思いながら僕は声を掛けた。

 また、明石さんも張り切った様子で、はいっ、と頷くものだから、苦笑するしかなくて。

 「じゃあ、いきますよ……『それでは、定刻となりましたので、まだご来場でない方もいらっしゃいますが、今年度の説明会を始めさせていただきます』」

 早過ぎも遅すぎもしないスピードの、滑らかな口調で流れ出した声は、落ち着いていてやはり聞き取りやすい。原稿に目を落としながらも、要所要所で聴衆である僕の方を窺いつつ、適度な間を空けて進行していく様子は、いささかの問題もないと思えるのだが、

 「……『以上、三部の書類を期日までに提出していただくこととなります。提出方法は郵送、または当担当、および市内三か所の出張所窓口にとくせつ……』あっ」

 「直接、ね。舌が乾いてきちゃった?」

 からかうように指摘しながら、宣言通りに三歩足を進める。わずかに頬を赤くしながら、悔しそうに眉を寄せた明石さんは、すぐに気を取り直したように続けた。

 負けず嫌いなところを存分に発揮しているその姿を見ながら、そういえば、こんな風に彼女をじっくりと眺めることなど初めてだな、との思いが過ぎる。主担者という立場上、僕のすぐ右隣の席についてもらっているから、何かと話す機会も多くはあるのだが。

 それにしても、いつもながらすっきりと端正な印象だ。緩く波打つ黒く短い髪は乱れもなく、白い襟が爽やかなストライプのシャツに、皺ひとつないグレーのパンツを合わせて、ヌードカラーの高いヒールのパンプスも、よろめくことすらなく履きこなしていて。

 そして、淡い色に彩られた唇を一心に動かしているさまは、正直なところ目にも快くて。


 ……綺麗なのに、恋をしたりはしないんだろうか。


 思考の底から、泡のように浮かび上がり、目の前で弾けたその言葉に叩かれたように、彼女へと意識が集中する。と、丁度ひとつの段落を読み終えたその面が、すっと上がって。


 まともに視線を交わした瞬間、わずかに目を見張って、唇を震わせて。

 うろたえの色を見せた瞳に引き寄せられるままに、気付けば、足を進めていて。


 「どうしたの?続けないなら、もっと近付くことになっちゃうけど」

 言葉も出ない様子の彼女に、三歩、また三歩と、わざとゆっくりと迫りながら、揶揄を含んだ声を放つ。

 あと六歩、というところで、びくりと身を震わせて、自らを守るようにファイルを抱き締めた明石さんは、降参、とばかりにくるりと背を向けてしまった。

 「すみません、もう、無理です!」

 「だから言ったのに……まあ、本番じゃこんな風にじろじろ見るひとなんていないしさ、万が一何かあっても僕がフォローするから、気楽にやりなさいね」

 おそらく、別種の緊張に縮こまっている細い背中に、宥めるようにそう声を掛けると、帰ろうか、と言い置いてから、自席へと踵を返す。

 少し遅れて、ヒールが立てる硬い足音がどこかおずおずと近付いてくるのを聞きながら、半ば、目を伏せて。

 

 ……一歩間違えば、セクハラだなあ、これ。


 心にそう呟きつつ、途中から彼女の反応を楽しんでいたことにあらためて気付かされて、僕は腕を上げると、戒めのように自らの頬をきつく捻っていた。



 そんなこともありながら、当日は彼女も開き直ったようで、実に見事に役割をこなして。

 以来、自信もついたのか、ためらいも不安の色も消え、次第に笑顔も増えて。

 「皆様、ご確認いただけましたでしょうか。それでは、今回のテーマにつきまして……」

 抑え目ながら心地よく響く、今の彼女の声に意識を戻しながら、あの時が最初だったな、と今更ながら気付いて、僕は再び目を上げた。

 丁度、講師が登壇し終えたタイミングで、手にしたマイクのスイッチを落とし、自席に腰を下ろす、その所作をじっと見やっていると、つと、視線がこちらに動いて。

 目を合わせて、合図のようにひとつだけ瞬きを送ると、すぐに手元の資料に目を落とす。

 ごく自然に見えるその仕草さえも、僕にしか分からないほどに薄く染まった頬の色が、心の内を覗かせていて。


 いつまでも、可愛いひとなんだから、もう。


 後で叱られそうだなあ、とは思いつつも、流暢に語り始めた講師の声など耳に入らないほどの勢いで、僕は惹かれるままにその横顔を眺め続けていた。



 そうして、四時間弱にわたる研修も、それなりに有意義に過ごし終えて。

 受付に立ち、定例のアンケートを回収している樋口くんと、次々と部屋を出ていく他の参加者を横目にしながら、僕はいそいそと美冬さんに近付いていった。

 「お疲れ様。さすがに、一度のミスも見当たらなかったね」

 笑みを含んでそう言うと、すぐに思い当たることがあったのか、彼女はふんわりと顔をほころばせて。


 「だって、あなたが見ているんですから、絶対に気は抜けないでしょう?」


 特別な意味を帯びたその言葉と、柔らかな表情に、抗いようもなく引き寄せられて。

 「……だめですよ。もう、他の人もいるのに、何考えてるんですか」

 ふらりと、触れてしまおうと一歩近付いたところで、頬を染めた美冬さんに、しっかり睨まれてしまった。

 ……やっぱり、所属は離れていた方が身のためだなあ、ほんと。

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