春、爛漫
私の実家は藤宮市と同じ県下ではあるものの、山間部にほど近く切り開かれた、比較的新しい土地だ。県中心部からは離れたいわゆるベッドタウンで、延伸した鉄道の終点駅を中心に、郊外型の暮らしを前提とした街づくりが行われた場所だったので、通勤以外にはやはり車を使う機会が何かと多かった。
そのせいか、私も必要にかられて学生のうちに免許を取って以来、ペーパーにならない程度に運転は続けてきていたのだが、両親の趣味もあって、専らコンパクトカーばかりに乗っていたから、彼の持つ車長の長いステーションワゴンに慣れるまではいささか時間がかかったものの、最近はようやく気負わずに動かせるようになってきて。
「……とはいえ、油断は禁物、と。もう」
信号が赤に変わったばかりの、交差点の直前で。
ウィンカーをちかりとも出さずに、乱暴というよりは不注意すぎる動きで、ふらふらと前に割り込んできた黒の軽自動車にクラクションを鳴らしながら、私は小さく呟いていた。
土曜日の夕暮れ時、という時間帯だから、平日のような混み具合や渋滞はないものの、今走っているような四車線の幹線道路となると、それなりの交通量は常にある。加えて、数キロ先には大型ショッピングモールが鎮座しているから、それを目当ての車も多くて。
フロントガラスから望む、多種多様な車種がずらりと列を成しているさまを見ながら、私は軽く息を吐くと、ナビの画面に目をやった。
表示されている時刻は、午後四時四十九分。そして、設定しておいた場所への到着予定時刻は、午後五時ジャストだ。お迎えとしては丁度いいくらいかな、と考えているうちに、信号が青に変わる。先程の車がスタートダッシュを掛けるように発車するのに続きながら、頭上に広がる、まだ明るい澄んだ春の空を見晴るかしていると、今日の佳き日に、というフレーズがすんなりと頭に浮かんできた。
今日は、住基担当の佐々木さんと、都市計画担当の佐々木くんの結婚式が行われる日で、良充さんは新婦の上司として、無論のこと出席している。そして、私の方は彼らと面識はあるものの、双方ともに同じ所属になったことはないので、招待はされていない。
そういうわけなので、彼を送り出した後は猫たちとお留守番をしつつ、溜まった家事をこなしておこう、というつもりだったのだが、
『美冬さん、出来たらお迎えに来てもらってもいいかなあ。なんだか引き出物がかなり大きいらしい、っていう噂なんだよ』
などと、ちょっと困ったように彼からお願いをされて、夕刻にこうして車を出している、というわけだ。幸いにも今回の式場は上橋端から徒歩三分、という立地なので、自宅からおよそ二十分弱もあれば辿り着けるし、周辺にはコインパーキングも多い。上手くすれば駅前のロータリーで直接拾うこともできるから、いずれにしても都合がいいのだ。
流れに乗って走るうちに、ひらり、と淡い紅色の花弁が目の前をいくつも過ぎてゆく。
いつしか街路の脇に立ち並ぶ木々は欅から八重の桜へと変わっていて、そろそろ盛りも終わり、とばかりに強い風に吹き散らされるさまは美しくはあるものの、こうハンドルを握っていては、おちおち眺めてもいられない。
先に見に行っておいて良かったな、と思いながら車を進めていると、ふと二枚の花弁が、まるで蝶々が睦まじく絡み合うように飛んできたかと思うと、ぴたりとフロントガラスの端に貼り付いてしまった。
そのさまは、小さなピンクのハートのようで愛らしくもあり、なんとなく目の端にしていたけれど、またも吹き付けた春の風に、じきに攫われてしまって。
「……やっぱり、恋の季節、なのかな」
二つに分かれて、どこか高い空へと舞ってゆくそれを見送りながら、私はそんな思いを唇から零していた。
そんな連想が浮かんだのは、別に結婚式が引き金というわけではなく、少し前に二人で赴いた、お花見の席での話がきっかけだった。
「うん、これこそ、至福だねえ」
「……もう、しみじみと何言ってるんですか」
麗らかな、という言葉が、気候的にも気分的にもこの上もなく似合う、春の午後。
散り始めるにはまだ早い、やっと五分咲きといった綻び具合の花々の下で、折った膝に仰向けに頭を乗せて、深々と息を吐いた良充さんの髪を、私は軽く引っ張ってみていた。
と、彼はお腹の上で組んでいた指を解くと、腕を上げて私の手を掴まえてくるなり、指の腹でゆるゆると甲を撫でてきた。
「だってさ、お互いに繁忙期も一段落だし、お弁当美味しかったし、言うことないじゃない?おまけに、君には思いがけずこうしてもらえるしさ」
「意外と人目がないから、ですよ。それに、あなたもちょっとお疲れ気味みたいだから」
与えられる柔らかな刺激に、心と身体の双方にくすぐったさを感じながら、気を緩めてくれている様子に目を細める。彼は背が高いから、一杯に広げたレジャーマットから、足の先が派手にはみ出しているのはやや気になるけれど、まあ、それもご愛嬌だ。
今こうしているのは、織江川河川公園の一角となる、篠上地域だ。藤宮市下だけでなく、県下でも最も流域面積の広い川であるだけに、複数の地域にそれぞれ違う機能を持たせたそれらが整備されているのだが、ここは護岸に植えられた桜並木の美しさがつとに名高いことで知られており、特に満開の時期は遠方からもやってくる人々の賑わいに満ちている。
しかし、今日の予定は全くの未定だったのだが、今朝、コーヒーを入れていた彼が、
『ねえ、美冬さん。僕、君とお花見に行きたいなあ……』
と、半分寝ぼけたような口調で、唐突に切り出してきたのでいささかならず驚いたのだが、元より猫たちと遊ぶ以外に何があったわけでもないから、ちょっとした行楽弁当が作れるかどうかだけを確認して、大丈夫だろう、と頷いたわけなのだけれど。
ともあれ、良充さんはそうだねえ、と認めてみせると、枝葉を透かして零れる日の光を避けるように瞼を伏せて、微かに息を吐き出した。
「係員の異動に関しては悪くなかったんだけどさ、新しい部長、とにかく話が長いからねえ……宴会の間中、はい、はいって相槌打つのにもさすがに飽きてきちゃって」
「そこは小西さんに振ればいいんですよ。彼だって代理になったんだし、少しは苦労を分かち合う、ってことで」
案の定だったなあ、と苦笑を漏らしながら、私は慰めるようにそう提案してみた。彼の言う新しい部長は、長谷川という定年も間際の方で、仕事ぶりには問題はないがこれさえなければと嘆かれるほどに、酔うと話が途切れないことで有名なのだ。経験者から聞いたところによると、およそ二時間でネジが解けて黙り込むらしいが。
「彼は彼で、若手の話とか聞いてくれてたからそういうわけにもいかなくてさ。うちは今のところ割と平和な部署だけど、まあ、プライベートとなると色々あるみたいだし」
何気なく続けた台詞に、わずかに匂わせるようなものがあるのに気付いて、私はそっと彼の髪を撫でた。新年度だからと、短く整えたばかりのその手触りを楽しみつつ、静かに尋ねる。
「何か、気がかりなことがあったんですか?」
課長という立場になって、目を配るべき対象が増えたこともあり、部下に関する話題は家でも頻繁に出るけれど、先だっての佐々木さんの結婚話を始め、専ら気楽な話ばかりだ。
人事担当から見ても、住民課は問題児が見当たらない、と言われているくらいだし、心を悩ますこともさほどないのでは、と思っていたのだが。
でも、それが深刻であるほどに底に沈むものだから、掻き立てるような真似も良くないかな、と考えていると、彼はんー、と声を上げて、甚だ予想外過ぎることを口にした。
「恋に落ちた瞬間、っていうのかな。どうやらそれを目の当たりにしちゃったみたいで」
「……え、あの、それって誰の話ですか?」
思いも寄らない展開に混乱しつつもそう聞いてみると、良充さんは笑って、あっさりと答えを明かしてきた。
「住基の、森谷くん。で、お相手は市民税の、早瀬さんだよ」
今度こそ声も出ないほどに驚いて、私はまじまじと彼の顔を眺めてしまった。
二人はそれぞれ去年の新採と今年の新採だから、担当としてはもちろん面識があるし、前者は冷静沈着、後者は素直で一生懸命、そんなイメージを持っていたのだが、
「なんだか、意外……彼が採用された時に、結構女子が騒いでたんですけど、とにかくつれないっていうか、色恋に興味が薄い、みたいな話だったのに」
「それこそ、恋は思案の外、なんじゃないかな。僕だって、君に恋をした時はどうにも抗しようがなかったし」
噂話も加味した、極めて個人的な印象を述べた私に、彼はさりげなく凄い台詞を投げてきながら、その光景を思い返すように、高い空へと視線を向けた。
「あんまりじっと見続けたらまずいなあ、とは思うんだけど、目が離せなくてさ。彼も、見るからにそんな感じだったから、さて、どう出るのかな、って眺めてたんだけどね……なんか、隠密並みに物陰から見つめ続けてるばかりだから、ちょっと心配になっちゃって」
その言葉に、柱の影からこっそりと、早瀬さんに熱視線を送っている森谷くん、という光景が浮かんでしまって、私は慌てて口元を押さえ、笑いそうになるのを寸前でこらえた。
端正と言っていい外見を持ち、良充さんには及ばないものの高身長の部類に入る青年が、可愛らしい印象の彼女を見初めるのは、別に不自然なことでもなんでもない。とはいえ、一部ではクールだのなんだのと評判の彼が、そんな純情なところを垣間見せていたとは。
「彼、その気になれば凄くモテそうなのに。もしかして声も掛けてないんですか?」
油断すると口元が緩みそうになるのを、誤魔化しながら聞いてみると、彼は再び頷いて、
「というか、とにかく近付かないんだよねえ。今の時期って、特に接触するチャンスは山ほどあるってのに、ユースではむっつり飲んでたばかりらしいし、さりげなく傍に誘導しようとしても、目に見えて避けられるみたいだし」
「やけに詳しいですね。誰からの情報ですか?」
「ああ、井沢くんだよ。僕と一緒で、一目惚れ現場目撃仲間だからさ」
もうひとりの住基担当の若手の名前に、一応納得はしつつも、私はふと疑問を抱いた。
かなり衝撃的な場面を目撃したとはいえ、このひとがここまで人の色恋に関わろうとしているのは、正直珍しいことだからだ。
原因としてひとつ思い当たることは、早瀬さんの父が彼の後輩だという事実だけれど、だからと言って、こんなことにまで口を差し挟むのは筋違いだとわきまえているはずで。
そこまで考えたところで、私は手を伸ばすと、良充さんの両の頬を指先で摘んでみた。途端に、何ですか、と言わんばかりに片眉を上げてみせた彼に、問いをぶつけてみる。
「どうしたんですか?彼のこと、随分気にかかってるみたいですけど」
先程のお返しのように、頬をくるんでゆっくりと手のひらで撫でてやると、良充さんは心地よさ気に猫めいて目を細めながら、答えを寄越してきた。
「彼が、彼女のことを見つけたのって、本当に来たばかりの頃なんだよね」
聞けば、その瞬間は、私が引率していた新採の挨拶回りの折で、一階のホールに彼女が姿を現した時から、ひたと据えた視線を片時も外すことがなかったらしい。
そして、ほんの一言だけ、あるきっかけで彼女が彼に言葉を掛けて、その場を離れて。
二階に駆け上がって、廊下の奥に姿を消すまで、身じろぎもせず立ち尽くしていて。
「見てると、他の面ではオールマイティなくらいなのに、この点だけはえらく不器用な立ち回りしててさ……だから、なんか、もったいないなあって思って」
そう言うと、また腕を上げて、頬に添えられた私の手を、さらに包んでしまって。
熱を移すように撫でさすりながら、ふっと瞼を閉じて、吐息のように声を漏らした。
「どうしようもなく惹かれるひとを、採用の頃から余すところなく見ていられるなんて、この上ない贅沢だって思うから、余計なお節介を焼きたくなっちゃうのかもねえ」
重ね合わせた想いが、不意打ちのように弧を描いて、心の内に飛び込んでくる。
遡れはしない過去を、せめてもなぞらないようにと願っていることも、身に沁みて。
「……しばらくは、見守ってあげるのもいいかもしれないですよ」
自然と零れた言葉に、問いかけるように目を向けてきた良充さんに私は笑みを返すと、沈黙に促されるままに続けた。
「彼女はうちに来たばかりだし、この時期に恋を仕掛けられたら対処できなさそうだ、っていうのもありますけど、まだ二人とも酷く若くて、時間もたくさんあるでしょう」
ことに、出会ってからはほんのひと月にも足らず、傍に寄りたくても心が定まらない、きっと、そんな惑いに満ちている気がして。
「それに、ひとり想いを募らせる時間があっても、いいんじゃないかって思うんです。私だって、思えば一日や二日で、あなたのことを好きになったわけじゃないですから」
あの秋の日に花を開かせたのは、いつしか密やかに降り積もっていた、恋のかけらだ。
上司と部下、という散文的な関係から、次第に特別なものに変わっていったことを自覚させられた時には、もう、抜き差しならないところまで来てしまっていて。
とはいうものの、サビ子さんという存在に引き合わされなければどうなっていたかな、などと、今更ながらの仮定を頭の中で巡らせていると、ふいにきつく手を握られて。
驚いて彼の方を見ると、妙に機嫌良さ気に口の端を吊り上げているのが目に入って、ぎくりと顔が強張る。これは間違いなく、付け込む隙を与えてしまった時の、表情で。
「ねえ、美冬さん」
「……何でしょうか」
迫る時とはまた異なる微妙な響きの声で、私の名前を呼んでくるのに渋々そう応じると、良充さんは、喉を鳴らして、笑って。
「いつから、僕のこと好きでいてくれたの?あ、ちなみに僕はね、サビ子さんのことがある前から、笑うと可愛いなあ、ってずっと思ってたんだけど」
どこまでも晴れやかな顔で、なんてことを切り込んでくるのか、このひとは。
「……先に言ったからって、こちらまで答えを明かす義理なんて、ないですからね?」
あからさまに予防線を張るつもりでそう言うと、彼は引いた様子も見えないどころか、ますます笑みを大きくして、さらなる追い打ちを掛けてきて。
「いいよ、別に今でなくたって。答えてくれるまではいつまでもこうしてるから」
「ちょ、それはずるいですよ!このままじゃ足も動かせないし……だからだめだって、もう、こんなところでしがみつかないでくださいー!」
私の手を離したかと思うと、仰向けの姿勢のまま、実に器用に人の腰に腕を回してきて。
ごろごろと、まるで我が家のかまぼこの真似をするかのように身を摺り寄せてくると、彼はいかにも満足げに、ゆったりと目を閉じてみせた。
そして結局、そのまま足が痺れて動けなくなるまで、彼に粘られてしまって。
交渉の結果、拘束状態からの即時解放、そして帰ってからの足マッサージと引き換えに、私は口を割らざるを得なくなってしまった、のだけれど。
……つくづく、変なところは、見逃さないんだから。
内心でそう呟きつつ、右折レーンに車線変更をしてから、交差点の直前で赤に変わった信号を目にして、余裕を持ってブレーキを踏む。停止線丁度にぴたりと止められたことによし、と頷きながら、規則的に刻まれるウィンカーの音を聞くともなく聞いていると、聞き慣れた着信音が高く鳴り響いた。良充さんからだ。
幸い、青になるまでは幾分時間があるから、助手席に放り出してあったスマホを掴み、手早くメールを開く。と、
「今、出ました、か」
二次会なしで適当に解散だから、課の子たちと一緒に駅に向けて坂を下っています、と続く文面を見ながら、取り急ぎロータリーに入るか、と決めたところで信号が変わった。
直進車が三台で途切れたところで、横断歩道に歩行者がいないのを認めてから右折し、駅方面へと向かう道へと入る。左右にはコンビニやケーキ店などの店舗が立ち並ぶさまを目の端にしながら進むと、信号にも引っ掛かることなく、じきに上橋端の駅が見えてきた。
タクシーの専用レーンを横目に、緩やかなロータリーのカーブを曲がり切ったところで、車を停める。まだお迎え、という時間には早いのか、他に停まっているのは一台だけだ。
すぐさまスマホを取り上げ、着いた旨を必要最小限の内容で送信して、ほっと息を吐く。
さて、どこから降りて来るのかな、と、周囲の状況を確認すべく顔を上げたところで、私は記憶にある人物を視界に認めて、思わず目を疑ってしまった。
フロントガラスの向こう、カーブに沿って設けられたガードレールの傍を、肩にかかるほどの真っ直ぐな黒髪を揺らした若い女性が、どこか弾むような足取りで歩いている。
白にブルーの、手描きのような大ぶりな花柄のシャツにボーイフレンドデニム、という、いかにも休日仕様です、という格好に、すぐ傍にある本屋のロゴが入った濃いグリーンの袋を片手に下げているのは、紛れもなく話題の彼女で。
「……あの、早瀬さん!」
気付けば、車の窓から顔を出して、私はその名前を大声で呼ばわっていた。
途端に、びくりと身を震わせて立ち止まった彼女は、手を振るこちらに気付いて、一瞬混乱したように黒縁眼鏡の奥の目を見開いたものの、すぐに手を振り返してくると、急ぎ走り寄ってきた。
私も車から降りると、その正面を回って迎えるように足を進めながら、すっかり焦った様子の早瀬さんに、先を取って微笑みかけた。
「驚かせてごめんなさい、いきなり声掛けちゃって。そういえば住まいは上橋端だって言ってたのよね」
「あ、はい!あそこにあるスーパーの向こうになるんですけど。あの、でも平岩係長、今日はどうしてこちらにいらしたんですか?」
「実は、夫を迎えに来たの。この近くで結婚式があって……」
当然の質問に答えを返していた時、頭の上から、美冬さーん、と呼ぶ声が耳に届いて、二人揃ってそちらを見上げる。
すると、おそらくそこは駅のコンコースなのだろうが、腰高の壁から半ば身を乗り出すようにして、黒の礼服姿の良充さんが、派手な動きで両腕を大きく振っていて。
それから、私の傍に立つ彼女にも気付いたのか、おや、というように眉を上げてから、再び小さく手を振り直すと、さっと壁の向こうに引っ込んでしまった。
「……平岩課長って、係長の前だとあんなテンションなんですね」
「ええと……なんていうか、色々と解放しちゃってるところはあるかもしれない、かな」
そう返しながら、なんとなく微妙な顔を見合わせていると、早瀬さんは口元を緩めて、視線を左手に向けると、乗降口のひとつを指差した。
「多分、西口から降りて来られますよ。ここに一番近いから」
示された方を見てみれば、五人ほどが横に並べそうな広めの階段と、上り専用のエスカレーターが設置されていて、彼女の言葉通りに、じきに彼が姿を現した。
その左手には、予想していたほどには大きくはないが、かさばるのは間違いない程度の、紅白に彩られたバッグが二つ下げられている。おそらく、引き菓子に引き出物だろう。
急ぐ必要はないというのに、黒に包まれた長い足をフルに動かして駆け下りてくると、脇目も振らずこちらに大股に近付いてくるのに、応じるように手を上げた時、
「うわー、本当にお迎えに来られてるんだ!いいなー」
「平岩係長ー、課長メール送りながらめちゃくちゃ自慢してましたよー……ってあれ、早瀬さんもいるじゃん!なんでー!?」
またもや頭上から降ってきた声に慌てて顔を向けると、先程の壁の上に井沢くんを始め、見知った顔が五つほど並んでいた。ざっと見たところ、男女含め住基担当の若手ばかりだ。
と、その端に立つ、ひときわ丈高い青年の存在に気付いて、私は身を固くした。
ひたと、ただ一点に向けられたその視線は、酷く切実で、懸命で。
彼女に悟られないのが不思議なほどに強く、何かを求めるようなそれに見入っていると、肩に軽い衝撃が走って、私は弾かれたように顔を向けた。
「……良充さん」
「うん。お待たせ」
それだけを告げて、宥めるように私の背中をぽんぽん、と叩いてから、彼はそっと肩に腕を回してきて。
「いいでしょう。なんといっても、僕の大事な奥さんだからねえ」
ことさらに胸を張って、良く通る声で惚気を発してみせるのに、冷やかしの声が応える。そして、隣に立つ早瀬さんまでもが、驚きと照れを露わに、こちらを見てきて。
その時、見えない糸が切れたかのように視線をそらした青年は、ふいと横を向いたかと思うと、そのままコンコースの奥へと姿を消してしまった。
あれは、向けられる方にも、相当な覚悟がいるものかもしれない。
未だ賑やかに降ってくる声に、曖昧な笑みで応じながらも、私はそんな埒もないことを考えていた。
それから、早瀬さんと、そして彼らとも別れ、それぞれの帰路について。
「……あなたが気を揉むのも、ちょっと分かる気がする」
交差点で止まった折に、ぽつりとそう零すと、助手席に深く腰掛けていた良充さんは、うん、と頷いて。
「でも、とりあえずは見守るだけにしておくよ。下手につつくのも良くないだろうし、彼もまだ、足元すらおぼつかない感じだから」
そう言うと、窓の外に、つと目をやって。
どこからともなく飛んできた薄紅色の花弁が、気まぐれな風に運ばれていくのを見送りながら、穏やかな声音で続けた。
「いつか、咲くといいねえ」
「……ええ、本当に」
願わくば、それが甘やかで、美しいものでありますように。
密かに芽吹いた、春の訪れを知る由もない、素直な瞳の彼女の姿を脳裏に浮かべながら、私はどこか、祈りめいた言葉を心に呟いていた。




