熱に、浮かされ
四季のうちで特に好きなのは、自身が生まれた季節ということもあるのかもしれないが、これまで秋が、常に首位をキープして来ていた。いつまでも尾を引くような暑熱が去り、思いも寄らず肌に触れる、冷えた空気に顔を上げれば、果てを知らないような青が視界を満たす、その移り変わりに否応なしに気付かされる瞬間が好きだ、というのもある。
ならば、次にやってくる冬も同様かと言えばそういうものでもなく、特にこの家に独り、底冷えのする寒さに身を震わせている時などは、侘しさに誰に聞こえもしない息を吐いて、早々に床に入ることを繰り返していたから、夏に続いて苦手な部類に入るほどだったが、今では、それがすっかり順位を入れ替えてしまいそうな勢いで。
「……良充さん、いい加減に起きましょうよ」
「うん、もうちょっとだけ」
年内の業務も全て終え、やっと迎えた長い休暇の、初日の朝。
年が明ければそれはそれで色々とあるものの、取り急ぎ何もかもから解放された気分で、僕はふかふかとした毛布にくるまりながら、美冬さんの細い身体を自らで包み込んでいた。
日頃、自身の希望よりも背が低い、ということを気にしている彼女だが、実際のところ小柄、と表現されるほどの身長ではない。ただ、僕が同じ年代の平均よりはかなり高い方なので、こうして腕の中に収めてしまうことも出来るわけで、そのことすらも嬉しくて。
時折マイナーチェンジはするものの、長さだけはいつも変えない、緩く波打つ短い髪を指先で分けて、白い額に唇を寄せると、彼女はぴくりと身を震わせて、
「もう、朝からどれだけすれば気が済むんですか。唇腫れちゃいますよ」
「大丈夫だよ、君がくれたリップクリーム使ってるし。それにこれ以上荒れでもしたら、キスも禁止されそうだしね」
「当たり前です。ひび割れたりしたら痛いでしょう?ただでさえ乾燥しがちなのに」
少し咎めるような口調ながらも、心配そうに眉を下げて言ってくるのに、口元が緩む。
このひとと初めて言葉を交わした頃からもう随分経つが、きつい言い方をしてくる時は、必ずその底に気遣いが覗いている。そしてその後のフォローも、部下から恋人へ、さらに生涯の伴侶へと立場を変えていくごとに、次第に角が取れて、丸く柔らかくなってきて。
可愛いひとだなあ、と飽きることなくその面をひたすらに見つめていると、驚くほどに素直に感情を映す瞳が、うろたえたように揺れて、ふいと視線を外してしまう。この癖も、それと気付いた時からずっと、好きな仕草のひとつで。
と、逃げ出そうとするかと思いきや、美冬さんは僕の肩に手を掛けてくると、自分からそっと身を寄せてきて、
「猫たちの世話、もう終わってるんでしょう?朝ご飯の支度も」
「あらかたね。今日はちょっとサービスして、猫用のいいスープもあげてきちゃったし、人間の方はオムレツ以外準備しておいたから、後でお願いしてもいい?」
「やっぱり……遠慮なく起こしてくれていいって言ったのに」
拗ねたようにそう言うと、胸元に額を押し付けるようにして、瞼を伏せる。
「……結婚したら、何か変わるかなあ、って思ってたんですけど、相変わらずどころか、ますます私に甘いですよね」
くぐもった声とともに、微かな吐息が鎖骨の辺りを軽くくすぐってくるのに刺激されながらも、お返しのように身体を曲げて、滑らかな首筋に顔を埋める。ほんのりと色付いた肌の熱に、昨日開けたはずのボディソープの淡い香りが立って、なお彩りを添えるようで。
「だって、やっと僕にはすんなり甘えてくれるようになったでしょ。それが幸せなのに、この期に及んで方針転換なんてするわけないじゃない」
以前に彼女が零した、昔の彼に言われた言葉のひとつが、『甘えを知らない上に可愛げが欠片もない』だったそうだが、前半は概ね合っているものの、後半は明らかに誤りだ。
確かに、仕事の面ではその傾向が顕著で、曖昧さを許さず自己にはどこまでも厳しいが、他者の言葉に決して耳を塞ぐことのない素直さは、このひとの何よりの美点だ。そして、ともに難局を切り抜けた時のほっとした表情や、時折ひらめく笑顔に、次第に惹かれて。
「……ねえ、美冬さん」
常にこう呼ぶようになってから、一年余りを過ぎた大事な名前をあらためて口にすると、腕の中の身体がわずかに身じろぐ。どうにも耳元が弱いのか、いつもこんな反応で。
「もっと、呼んでよ。良充さん、って」
そう告げた途端に、目の前にしている肌がまたも色を変えたかと思うと、彼女は小さくかぶりを振った。
「さっきそうしたばかりじゃないですか。それにこれからはちゃんと名前で、って約束したんだから、反故にしたりはしませんよ」
頑なに聞こえる言葉の裏に潜む、どうしようもない気恥ずかしさを隠すことも出来ずに、頬を染めて言い募る姿も、余りある愛おしさを増幅することにしか、ならなくて。
「うん、分かってます。だけど、君に呼んで欲しいんだよ」
いずれ叶えてくれると分かっている願いを、まるで、もう一度告白するかのように熱を込めて囁くと、僕は逃げることも敵わないように、回した腕に力を込めた。
籍を入れた翌月には式と披露宴を無事に済ませ、新婚旅行もやや短めながら(二人とも猫たちが心配過ぎてそうなったのだが)存分にいい思い出を作れるほどに楽しんできて、職場でも、すっかり『平岩夫妻』として認識されるようになった、年の暮れ。
「平岩さん、今年も、お疲れ様でした」
「はい、美冬さんも、一年お疲れ様」
お揃いのパジャマに着替えて、座り心地のいい二人掛けの座椅子にゆったりともたれ、今冬から新しく和室に導入した炬燵に、並んで、深々と足を突っ込んで。
人生の内で、これほどまでにめまぐるしい四半期はなかったであろう、という三か月を過ごし終えて、僕と美冬さんは静かに湯呑の縁を合わせて、乾杯めいたことをしてみせた。
今日は、いわゆる御用納めだった。昨今の世情もあるのか、課を上げて、というような大規模な飲み会はそうそう行われないものの、担当ごとに宴席が設けられることがやはり多い。そうなると、僕は立場上それぞれの席に顔を出さなければならないし、美冬さんも異動して初めて迎える日だから、何かと積もる話もあろうというもので。
ともあれ、午前様とはならずに済んだことに安堵しながら、僕も彼女も好きな、温かいほうじ茶で喉を湿らせると、僕は隣に座る彼女に、あることを切り出した。
「そういえばねえ、今日は住基担当で、結構なサプライズがあったんだよ」
浅い酔いを抜くという意図もあり、丁度、香ばしいその中身を口にしていた美冬さんが興味ありげな視線を向けてくるのに、問いをひとつ投げてみる。
「美冬さん、佐々木さんのことは知ってる?」
「はい、確か、久保くんの同期の子ですよね。もしかして結婚が決まったんですか?」
「ご明察。彼から聞いてたの?」
「いえ、実夏ちゃんからです。でも、彼女の口が凄く固かったらしくて、お相手が中の人か外の人かすら吐いてくれないんですよー、って不満そうに言ってて」
その様子を思い返したのか、小さく笑みを浮かべながら、軽く口真似までしてみせる。
くつろいでくれてるなあ、と、こちらの気持ちまで緩やかにほぐれるのを感じながら、僕は半ば空けた湯呑を天板に戻すと、待たれている疑問の答えを告げてみせた。
「それがね、佐々木くんなんだって、都市計画課の」
「……え、あの、本当に!?じゃあ、同じ姓同士っていうことですか!?」
「うん、洒落みたいな話なんだけど。しかも、わざわざ狙ってやってたみたいでねえ」
ほんの数時間前の、その場にいた全員の反応を再現したような彼女の姿に、僕は苦笑を漏らした。藤宮市全体の職員数は総勢四桁弱に上るとはいえ、さすがにこういうケースはいささか珍しいし、加えて、そのきっかけがある意味大したもので、
『佐々木さんが佐々木と結婚したら、めんどくさい変更手続きとか一切いらないんだし、時間も労力も節約できてお得だよなあ……』
と、当時新婚だった青山くんが零したひとことに、彼女がなるほど、と頷き、そのまま密やかに実行に移し現在に至る、というものだったそうで。
ちなみに、その時点で二人の佐々木は面識すらなかったというのだから、それも驚きだ。
「しかもさあ、彼女ときたら『一昨年の課長夫妻の反響を上回ってやる!って思って、必死で隠し通したんです!』とか言ってきてさ。狙いどころが違うと思うんだよねえ」
「まだそんなこと持ち出されてるんですか……もう、名前も間違えられなくなったから、そろそろ記憶も薄れてくる頃だと思ってたんですけど」
そう言って、苦笑を浮かべた彼女の表情は、照れる様子もなく至って落ち着いている。まあ、籍を入れて三月も経てば、新たな名字で呼ばれることにもいい加減慣れてくるものだろうし、僕ですら、填めなれないものが指にもどうにか馴染んできた頃だ。
けれど、それならなおのこと、配偶者としては納得のいかない点が、ひとつあるわけで。
「そういえば美冬さん、気が付いたら久保さんのこと、名前で呼んでるよね」
ふと思いついて、何気なくそう振ってみると、美冬さんはああ、と微笑んで、
「入籍した後、二人揃って人事に顔出してくれたんですけど、諸手続きの件で久保さん、久保くん、って呼び分けながら説明してたら、なんか混乱しちゃう!って言われちゃって。じゃあ、実夏ちゃんでいいかな、みたいな流れで」
実にさらりと、なんということでもないかのように返された答えを受けて、僕は続けて次の問いを放った。
「じゃあさ、久保くんにそう頼まれたら、泰典くん、って呼んでた?」
「えっ、さすがにそれはないですよ!だいたい実夏ちゃんのご主人なんだし、馴れ馴れしすぎるじゃないですか!」
思いも寄らないように即座に否定してきた彼女の言葉には、無論のこと嘘はないだろう。何より相手の立場を慮り、不用意に踏み込むことのない性格なのは、理解しているけれど。
と、こちらを見てきた美冬さんの瞳が、ふいに戸惑ったような色を浮かべるのを認めて、まずいな、と思いつつも、僕は今更噴き出たものを止めることも出来ずに、口を開いた。
「だったら、僕の名前なら呼べる、そういうことでいいのかな。結婚してからこの方、まだ一度も、耳にしたことはないはずだけど」
吐き出されたその声が、我ながら酷く愚痴めいていて、心底嫌になる。
けれど、大人しく腹に収めておくには、もう無理な話で。
意図せず発した低いそれに、彼女の細い肩がぴくりと震えるのを目にして、内心焦りを覚えながらも、僕はいつしか溜まっていた不満を、滔々と口に出していた。
「そりゃあ、君に『平岩さん』って呼ばれるのは好きだし、長年の癖もあるだろうから、しばらくはそれでもいいかな、って思ってたし、他には名前で呼ぶような人もいないのは分かってるよ」
そういうひとだから、『平岩係長』から、さりげなく『平岩さん』に呼び替えてきた時は、そろりと一歩踏み込んできてくれたことに、じわりと込み上げる嬉しさも、ひとしおで。
「だけど、久保くんは未だにタイテンなんて呼ばれてるし、小西くんはかっちゃんだし、日高さんは内線ですら朋くん呼びだったしさ……」
お互いに年の近い、さらに言えばごく若い頃からの想いを実らせた彼らとは、はなはだ状況が異なることも、理解してはいるけれど。
いつしか困惑の色も消え、揃いの藍の湯呑をきつく握り締めている彼女を見据えながら、僕は初めて覚えた望みを、思うさまに投げつけた。
「……つまりは、君に、そうやって求められたいんだよ」
触れて、幾度も彼女の名を呼ぶのは、ただ欲しいからだ。
そのたびにくるくると変わる表情や、決して僕の前でしか零さない声を、執拗なまでに確かめて、数限りないしるしを刻んでも、飽き足りなくて。
子供のような、それにしては性質の悪いストレートな願望が、やがて薄れ、宙に消える。
と、その場に縫い止められたかのように、微動だにしなかった彼女の瞼が、伏せられて、
「……だって、あなたに呼ばれると、弱いから」
これほど傍にいても、かろうじて耳に届くほどの声でそう言うと、やりきれないようにかぶりを振って、手の中のそれに今気付いたかのように、湯呑を炬燵の上に追いやる。
埒もない言葉に、微妙に繋がらないものをぶつけてきた美冬さんは、困ったように眉を下げると、そっと、空いた両の腕を伸ばしてきて。
こちらが手を差し出す前に、僕のパジャマの胸元を掴んでしまうと、しがみつくように身を寄せて、小さく問いを投げてきた。
「平岩さん、もし私が名前で呼んだら、どうなりますか?」
「どうって……そうだなあ、とんでもなく浮かれちゃうと思うなあ」
考えるまでもなくあっさりと出た結論を口にしながら、与えられた機会を逃すことなく腕を回して抱き締めると、彼女は抗うこともせずに、頷いて。
「今だって、初めて『美冬さん』って呼ばれた時みたいに落ち着かなくなって、簡単に乱されるくらいなのに……これ以上ギアを上げられたら、耐えられる自信、ないです」
無慈悲なまでに正確な一撃は、ものの見事に急所を、捉えてきて。
湯上りのせいだけではない体温と、甘く立ち昇る髪の匂いが、相乗効果をもたらして。
「……上げるどころか、オーバーヒートしてるんだけど。君の方がよっぽど、容赦してくれないじゃない」
手ぐしで軽く整えただけの黒が映える、白いうなじが見る間に朱に染まりゆくさまが、一段と身体の芯に帯びた熱を、上げてしまって。
手の内に丸め込もうにも、打つ手自体も思いつかなくなってしまって、僕はとりあえず欲望に流されるままに、その肌に指を這わせていった。
それから、どうにか朝までに、あらためてのお願いを聞いてもらって。
彼女が目を覚ましてからも、しつこいと怒られてしまいそうなほどに、猫のように身を擦り付けながら、こうしているわけだけれど。
「……一応、ずっと考えてはいたんですよ?」
「ん、何を?」
すぐ傍で上がった声に、いくつかある説のうち、『所有権を主張している』というものを推すように頬を寄せてみると、美冬さんは一瞬、口ごもって。
「だから、いいタイミングっていうか……ご実家にお年始のご挨拶に伺った時とかなら、どさくさに紛れてさらっと呼び替えれば、多分突っ込まれないかなって」
「無理だって、そんなの。僕が気付かないわけもないし、間違いなく適当に口実作って、さっさと君を連れて帰っちゃうだろうから」
それこそ、人目も礼儀も全部かなぐりすててしまいそうなくらいに、浮かれて、溺れて。
忙しないほどに構い続けて、きっと、真っ赤になった君に、叱られて。
他愛もない想像の中ですら、このひとしか眼中になくなるだろうことが明白に過ぎて、思わず喉を鳴らしていると、彼女が、ふっと目を合わせてきて。
「……あなたが、私にしてくれているように、呼べてますか?」
微かに不安を滲ませながら、最早聞くまでもないことを、おずおずと尋ねてこられては、もう、ため息を吐くしかなくて。
「ぼちぼち解放してあげようかなって思ってたけど、止めにするよ。どれだけ効果的なものなのかって、理解するまで全力で反撃してあげるから、覚悟してね」
ことさらに淡々とそう言い切ってしまうと、彼女が事態を把握する前に、顔を近付けて。
そのまま、自身が知り得る表現方法の限りをひたすらに尽くしているうちに、冬の日はすっかり中天高く昇ってしまった。
……まあ、結果としては、それでもかろうじてドロー、といったところかな。




