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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
五年目:
52/62

そして、これから

 いざ結婚ということになると、新戸籍を作るに当たってどちらの姓にするか、という問題が必ず出てくるものだけれど、私の周囲ではあまり揉めたという話を聞かない。

 父は長男、母は長女だったが、新たな所帯を作るのだから、継ぐ継がないは気にせず、好きなようにするつもりだが良いか、と双方の両親、つまり私の祖父母に告げて納得して貰った、という経緯があるそうで、妹も弟もそれに倣うように動いたのを目の当たりにしているし、同期や友人なども比較的すんなりと纏まっている。とはいえ、結婚した後に生ずる思わぬ親戚付き合いや、習慣の違いでさまざまに愚痴られることはあるのだが。

 そういった前提と諸事情を鑑みて、最終的に私が姓を変えることで合意したのだけれど、何故かその後、彼は顎に拳を当てた姿勢で、微動だにせず考え込んでいて。

 「平岩さん。いつまでそれ、凝視し続けるつもりなんですか?」

 十月も下旬に入り、そろそろルームウェアの上にも軽く羽織るものが必須となってきた、午後十時過ぎ。

 ダイニングテーブルに向かい合っていた彼と私の前に、白と青の色違いのマグカップをそれぞれに置きながら、私はいささか焦れてそう尋ねてしまった。

 と、我に返ったように寄せていた眉をようやく開いて、平岩さんは顔を上げてくると、困ったような視線を向けてきて、

 「いや、ここに書いてくれたのを見てたら感慨深くなったのもあるんだけどさ、これを出しちゃったらもう、明石さん、って呼べなくなっちゃうんだなあ、って」

 「……なんだ、そんなことですか」

 思いも寄らぬ答えを寄越してきたのに、いささかならず気が抜けて、私は小さく安堵の息を吐いた。それから、彼の向かいに腰を下ろして、テーブルの真ん中に広げられている一枚の紙を見やる。

 それはただの紙ではなく、A3版と定められた様式の婚姻届だ。既に必要な事項は二人で交互に埋めてしまって、押印も済んでいる。まだ証人の欄だけが埋まってはいないものの、これについては、以前から久保夫妻が夫婦揃って申し出てくれているので、明日にも記入してもらう予定になっている。

 ちなみに言えば、彼らの届け出の際の証人は私たちだ。是非ともお願いします、と久保くんが照れながらも、そして立花さんであった実夏ちゃんは、お二人が縁結びの恩人ですからね!と幸せそうに笑ってくれて、こちらとしてももちろん快諾させてもらって。

 ともかく、もしかしてまだ何か不安があるのかな、と心配していたことが消えて、私は自分用のマグを取り上げると、ふと浮かんだ疑問を投げてみた。

 「でも、かれこれ七年余りですから、結構長く呼んできてるじゃないですか。それに、プライベートでは『美冬さん』ですっかり固定化しちゃってるし」

 彼が過去に直接の上司だった、ということもあるが、その後異動を重ねても、職場での呼び方はずっと変わらず『明石さん』だし、私はといえば、下につく役職名を変えていくだけで済ませているので、何がどうというわけでもない、はずなのだが。

 と、鏡写しのように白のマグを取り上げながら、平岩さんは器用に右の眉だけを上げてみせて、

 「だって、君が傍に来てくれてからずっとこうなんだよ?僕の下に就いててくれた時も、大事な人になってくれた後も、なんだから、やっぱり思い入れは絶大ですよ」

 こともなげに凄い台詞を投げ返してくると、口元を緩めてこちらをじっと見つめてきた。


 ……ほんとにこのひと、昔は『ひたすら受け身』だったのかなあ。


 甘さを含んだ声と視線に容赦なくさらされて、未だに頬を赤くさせられながら、そんな疑問が脳裏を過ぎる。とはいうものの、この証言は小西さんと八重さんから得たもので、特に後者が言われるには、

 『小さな頃からどっか浮世離れしてるっていうかねえ。頭はいいんだけど他人に興味が薄くて、とにかく要領よく好きなことしかやってなかった気がするわね』

 とのことなのだが、確かに、その片鱗は今でも随所に見られる。ことに仕事に関してはその傾向が強くて、与えられた課題を必要最小限の労力で完了させる手腕が、一種見物で。

 「……もっと、昔のあなたも、傍で見ていたかったな」

 脈絡もなく、ぽつりとそう零しながら、現実的に可能かも知れなかった過去を顧みて、ことり、と置いたマグを覗き込むように顔を俯ける。

 新卒で藤宮市に入って、十年目に彼と同じ担当に配属されたから、それ以前の九年間を知り得たのかもしれない、という微かな悔いと、彼の手に光る指輪を目にせずに済んだ、そのことに思い至って、我ながら嫉妬深いなあ、と呆れていると、軽い吐息が耳に届いて。

 「それ、僕も思ってたよ」

 あっさりとそう告げられた言葉に驚いて顔を上げると、平岩さんは口をへの字に曲げて、珍しいことに不満げな表情を隠さずにいて。

 「ユースなんかもう絶妙なタイミングですれ違いだし、配属先もことごとく階は違うし、所属的にも接点皆無だしさ。なのに小西夫妻のとこも同じ担当だったし、久保さんなんて酷いんだよ、わたしなんかずーっとタイテンの傍でしたからねー!って自慢してくるし」

 流れるようなその言い方に加えて、あからさまに拗ねているのが分かる声音に、思わず笑みが零れる。付き合い始めた頃より、こうして甘えを見せてくるようになったことに、ほんのりと嬉しさもあって。

 「仕方ないですよ、さすがに私も職員全員とは面識ないですし。あ、でも、平岩さん、私が挨拶回りに回った時は見てたんですよね?」

 「そりゃね。フロア奥で遠巻きに見てただけだったから、新しい子は初々しいねえって思ってたくらいだけど……」

 当時を思い返すように、しばし顔を天に向けていた彼は、つと顎に手をやって。

 そのまま小首を傾げると、すっと私に目を戻してきて、意外なことを尋ねてきた。

 「美冬さん、確か挨拶回りもパンツスーツだったのに、僕のとこに配属された時だけはスカートで、翌日にはまた元に戻ってたよね?」

 「え、あの、確かにそうでした、けど」

 良く覚えてるな、と思いながら、少しばかり焦ってしまう。あれは、本当にくだらない理由から、手持ちのそれらしいブラウスとジャケットを合わせて済ませたのだが、やはりどこかおかしかったかな、とそわそわとしていると、彼は喉を震わせて、

 「この間のワンピースも凄く綺麗だったけど、あの時も可愛かったなあって。今思うととっても貴重な格好だったんだよねえ」

 物柔らかな、この上なく幸せそうな笑みを浮かべながら、真っ直ぐに過ぎる褒め言葉を、惜しげもなく周囲に、降らせてきて。

 またも新たな照れを呼び起こさせられながら、好きになってしまう前のこのひとの姿がふっと重なる気がして、私は奇妙なまでに胸を騒がせていた。



 私や私の同期は、おそらく配属された担当や人事的なタイミングもあったのだろうが、全員、異動のサイクルが他の採用年度の者に比べて妙に早かった、という記憶がある。

 長くて四年、早ければ二年、というところだったから、やっと十年目に入ったところで既に四つの担当を渡り歩いていた身では、内示を受けてもまたか、今よりも残業が少ないといいな、とため息ひとつで済ませてしまえる程度には、慣れてきていて。

 だから、五つ目の担当だからといって特に構えることもなく、とはいえ気の緩みだけは許されないから、何事も最初が肝心、とだけは心がけていた、のだけれど。

 「あれ、もう引継ぎ済んじゃったの?それは参ったなあ」

 新たな担当に異動した、その初日。昼の休憩時間までは、あと一息という時刻。

 もはや儀式、とも言える部局内の挨拶回りを終えて、慣例通りに一旦元の担当に戻り、後任の係員に手早く引継ぎを済ませて、新たな自席に帰ってきた途端に、これで。

 「……何か、不都合がありましたか?」

 やけに間延びしたどことなく気の抜けるような声に、私は一拍を置いて、新しい上司にそう聞き返してみた。と、自席から立ち上がっていた平岩係長は、すぐ隣の椅子を右手で示すと、困ったようにやや濃い目の眉を下げて、

 「いや、まだ三宅(みやけ)くんが新しいとこから戻って来てなくてさ。そうだなあ、とりあえず机は片付いてるし、好きなようにレイアウトしといてくれればいいよ」

 物品は足りなかったら言ってね、と軽めの口調で告げてくるなり、腕の時計をさっと確認したかと思うと、ジャケットの内ポケットに手を突っ込みながら、さらに言ってきた。

 「ところでね、明石さん、特に好きなものって何かあるかなあ」

 「え?あの、それはどういったジャンルの話ですか?」

 酷くざっくりとした問いに、戸惑いながらもそう切り返すと、一斉に吹き出す声が二つ、見事なまでに同時に響いて。

 「係長、それじゃ唐突過ぎますって」

 「ですよねー。にしても明石さん、返しめちゃくちゃはっや!」

 そう声を掛けてきたのは、松浦さんと青山さんだ。二人とも私よりそれぞれ二年と四年後輩の男性で、前者がメタルフレームの眼鏡に一重の瞳、後者が短い茶髪に二重の瞳、という、並んでいてもどこか特徴を説明しやすい容貌をしている。

 そして、幸いなことにどちらもユースなどで既に面識があって、異動してきたばかりの身としてはそこも心強いのだが、それはさておき、

 「だって、いきなり好きなものって、範囲が広すぎるでしょう。だから、色とか花とか食べ物とか、頭の中にさあっと浮かんじゃって」

 「あ、それ。一番最後のやつだよ」

 とっさに感じた困惑をそのまま口にすると、再び横から飛んできた声に顔を引き戻す。

 すると、口の端を小さく上げた係長が、目の前に一冊の手帳を差し出してきた。

 それは、深いブルーのカバーを持つ小さなもので、私の手の中にでもすっぽりと納まるサイズだった。革製らしく、触れられ続けたことによって微かにたわみが出ているものの、そのせいか柔らかくて、肌に馴染むような感触で。

 それに、何か好きな色だな、と思いながら、表紙をなんとなく撫でてみていると、

 「おー、出ました、係長の『藤宮美味いもの手帳』」

 「あれ、『藤宮なんとかデータベース』じゃなかったでしたっけ」

 「あのね、君たちも適当な名前を勝手につけない。これはただのメモ書きですよ」

 「……よく分からないんですけど、中を見てもいいんですか?」

 松浦さんの言葉を皮切りに、次々と飛んできた台詞にだいたいの内容を想像しつつも、意図がまだ読めずに係長を見上げると、うん、と頷きが返ってきて、

 「担当で歓送迎会設定するから、暇な時に好きそうな店でも見繕っといてくれるかな。あと、良ければ今日のお昼、一緒に食べに行こうと思ってるんだけど……」

 そう言いながら言葉を切ると、向かいの列に机を並べて座る男性二人に目をやる。と、松浦さんは眉を上げ、青山さんは苦笑を浮かべて、

 「俺は毎度のことながら、嫁の弁当がありますんで」

 「僕もです。っていうか完食して帰らないと怒られちゃうんですよー」

 「そっか。日高さんはお休みだし、三宅くんが戻って……来なさそうだなあ」

 その語尾に重なるように、昼の休憩時間を知らせるチャイムが、フロア中に鳴り響く。

 個々の席から一斉に立ち上がる気配と、口々に放たれる声が作る喧騒に包まれながら、私は傍に立つ係長を見上げた。

 途端に、その瞳に浮かぶ弱い惑いに気付いて、微かに眉を寄せる。何か妙に引き気味のその態度に内心でむっとしながら、少し顎を上げると、

 「お申し出、有難くお受け致します。なので、混んじゃいますから急いで出ませんか?」

 正面切って見返して、そうきっぱりと言い切るなり、返事を待たずにお昼時用の小さなショルダーを掴むと、取り急ぎさっきの手帳をそっと中にしまう。何しろ、四十五分しかないのだから、一分一秒が実に貴重なのだ。

 落とさないようにきっちりとファスナーを閉めてから、再度確かめるように上司の方を窺うと、幾度か瞬きを繰り返した係長は、ゆるりと相好を崩して。

 「そうだね。それじゃ明石さん、洋食は好きかな?」

 「あ、はい。かなり」

 「良かった。じゃあ、そこそこ歩くけど、美味しいランチ食べに行こう」

 そう言いながら、一瞬、大好物を目の前にしたように目を輝かせて、脇をすり抜けると、フロアの出口に向かって、先に立って歩き始める。

 一転しての素早い動きに、慌てていってきます、と残る二人に挨拶をして、その背中を追いながら、私はなんとなく変な調子の人だな、という感想を抱くことしか出来なかった。



 それから、前置きがあっただけのことはあって、庁舎からおよそ徒歩七分ほども離れた、純喫茶・エストレーラで。

 「ごめん、君のヒールのことももう少し考慮しとけば良かったね」

 「……いえ、すみません、修業が足りなくて」

 いかにもレトロな内装と雰囲気に見合った、クラシカルな装丁のメニューを開きながら、私はまだ整い切らない息を吐き出しつつ、向かいの席に掛けている係長にそう答えていた。

 今日は、服装に合わせたというのもあるけれど、普段履いているものよりヒールは低い。だが、それで楽になるかというとそうでもなく、高さに慣れた身体には思いの外、響いて。

 小さな判断ミスにうなだれて、初日からこれか、と疲れを露わにしていると、長い指がするりと伸びてきて、とんとん、とメニューの一点を示してきた。

 「Aランチが大人しい量で、Bランチはミンチカツ追加、って感じなんだけど、どっちも看板になってるくらいだから、どうかな?」

 「あ、美味しそう……でも、時間、大丈夫でしょうか」

 メインはエビフライやクリームコロッケなど、食い気をそそるラインナップにつられるものの、いかにも手間暇がかかりそうな内容でもあるから、心配になってそう尋ねると、

 「大丈夫、ここ出てくるの早いし、味は保証するよ。まあ、僕基準でだけどね」

 そう付け加えると、迷いのない仕草でさっと手を上げて、離れたカウンター内に立っている初老の男性を呼ばわる。ぴしりと皺ひとつない白のシャツにギャルソンエプロン、という出で立ちの方が、注文を復唱してから伝票を手に戻って行かれるのを見送りながら、私はふと先程の手帳のことを思い出して、ショルダーからそれを取り出してみた。

 「明石さん、真面目だねえ。別に急がなくてもいいよ、日程調整するのこれからだしさ」

 「そういうわけではないんですけど……平岩係長、相当に食べるのがお好きなんですね」

 冷水の入ったタンブラーを片手に言ってきた彼に、ページをめくりながらそう応じると、あらためてその体裁をざっと見やる。それは、6穴のリングにリフィルを随時足せるようになっているバインダー形式のもので、色を変えたごく小さなタブがつけられているのだが、赤が北町、青が東町(ひがしまち)、黄が南町、そして緑が西町(にしまち)と、藤宮中心部の四つの町ごとに分けてある。そして、それぞれの一ページ目には街区図を簡略に写し取ったものが描かれていて、店の名前と位置、さらには番号が付されており、非常に明快だ。

 それに続くのが、付番通りに並べられた、住所などの店の基本情報と、個人的な評価。

 加えて項目の最後に、日付とともに見慣れた名前が列記されているのに気付いて、私は首を傾げつつ、小さく読み上げてみた。

 「篠田(しのだ)、松浦、青山……これって、もしかして」

 「うん、連れて行ったことのある人の名前」

 あっさりと肯定されて、驚いて顔を上げる。というのは、どの店にも必ずと言っていいほど、職員の名前が複数記されているからで、中には部長や局長の名前まであったからだ。

 私の顔に浮かんだ問いを読んだのか、係長は使っていたおしぼりを綺麗に畳んで、銀のトレイに戻してしまうと、口を開いた。

 「ひとりでのんびり食べるのも割と好きなんだけど、やっぱり、食事って気を緩ませる効果があるからさ。ついでに、雑談でもいいから、何かあったら吐き出せる場所になればいいかなっていうのも、多少はあるんだけど」

 言葉を切ると、椅子の背に身体を預けて、膝の上で大きな手を組み合わせる。そのせいか、余計にごつごつとした節が際立つのに目を引かれていると、彼は視線を宙に向けて、

 「あとは、こうやって書いておくと、関わった人のことを思い出せるから、かなあ……たまに次どこ行こうかな、って眺めてると、色々と当時のこととか過ぎるんだよね」

 「あ、それ、分かるような気がします。私も一年ごとに変えてる手帳、処分出来なくて」

 新採の頃から数えて、使い終えたものは既に九冊あるけれど、全て自室の本棚に並べて保存してある。例えば、上からの指示や会議の要点を、余白がなくなるまでに書き込んだページとか、手酷い失敗の日に記した泣き言なども含めて、これまでの仕事の軌跡が俯瞰出来るというのもあって、捨てようにも捨てられないのだ。

 そういったことを話すと、係長はひょい、と眉を上げたかと思うと、低く喉を鳴らして。

 こちらが怪訝な顔になったのを見取ったのか、ごめん、と手を上げてくると、

 「そうか、優先順位が仕事なんだ、ほんと噂通りに真面目だなあ、って思っちゃって。ついね」

 「……多分、そのソースって小西夫妻のどちらかですよね」

 妙な部分を面白がられているらしいことに複雑な心地になりながら、とりあえず尋ねてみると、ご名答、と即座に楽しげな声が返ってきて。

 「実は、両方から。内示の後に二人揃って来るから何事かと思ったんだけど……そうだ、明石さん、少しだけ手帳返してくれる?」

 「はい。それはもちろん」

 唐突だけれど丁寧な申し出に、慌てて元の通りに閉じた手帳を、名刺交換めいて両手を添えて差し出すと、どうも有難う、とまたおかしげに、笑って。

 同じように両手で受け取ると、機嫌良さげな口元はそのままに、すぐさまそれを左手に移す。それから、右の手が赤のタブをつまみ上げて、さらに二回、ページがめくられて。

 目当てのページに辿り着いたのか、大きく開いたままの手帳をテーブルの上に置くと、係長はジャケットの内ポケットから、ノック式のシルバーのペンを取り出した。

 慣れた仕草でかちり、と芯を出すと、ひとつの項目の上で視線をさまよわせていたが、やがて、ひたと一点に目を止めて、その場所に何やら書き込み始めて。

 「よし、出来た」

 満足げに声を上げて、ペンを脇に置いた係長は、くるりと指先で手帳を回転させると、当該のページを私に、すっと見せてきて。

 「……追記してくださったのは一向に構わないんですけど、どうして私の名前だけここなんですか」


 ……ついでに言えば、なんで『明石さん』なんだろう。

 他の職員は男女問わず、敬称どころか役職すらもついていないというのに。


 店名である『純喫茶・エストレーラ』の文字の横に、今日の日付と自分の名字がやけに目立つように書かれているのを指差してみると、係長は喉を震わせて、


 「ここが一番皆を連れて来ちゃったからさ、もうあんまりスペースないでしょ。それに、長い付き合いになるかもしれないんだし、これからよろしくっていう意味も込めて、かな」


 そう告げてくるとともに、向けられたふわりと柔らかい笑みに、微かに胸が騒ぐ。

 他意なんてあるはずないじゃない、と、反射的に沸いた自意識過剰気味の思考を焦って振り捨てながら、目をそらして私は言い返した。

 「また、すぐに動かされちゃうかもしれないですよ。前の担当だって二年だったし」

 「えー、さすがにそれは嫌だなあ。せっかく主担者として来てくれたんだから、絶対に三年はいて欲しいのに……あ、今のうちに課長通して人事に直訴しに行っとこうかな」

 「って、私今日来たばかりですから!いくらなんでも気が早過ぎますよ!」

 などと、初日だというのに容赦なく突っ込んでいるうちに、羽根のような縁飾りのある白の大皿に盛られたAランチが、うやうやしくも運ばれてきて。

 抗しがたいほどの良い香りに、勧められるままにナイフとフォークを取り上げてからは、唇から溢れる美味しい、の言葉に、私は何もかもを忘れさせられてしまった。



 それからは、新たな仕事を把握していくことに夢中で、あの時に交わした言葉などは、心の隅に片付けてしまっていた、はずなのに。

 「……まるで、予言みたいじゃない」


 紡がれた言葉と記された文字が、いつしか絡み合う糸の先を、知っていたようで。


 そんな考えすらもどうしようもなく気恥ずかしくて、その呟きを隠すように手を口元に持って行くと、遮るように彼の腕が、伸ばされてきて。

 取り上げられた手の甲に這わせられる、誘うような指の動きにおずおずと目を上げると、合わせられた瞳が、からかうように細められて。

 「もう、そんな気になる仕草されちゃ、触れずにはいられないでしょ。どうしたの」

 自分にしか向けられることはない優しい響きの声に、わだかまっていた最後の想いが、さらりと、解けていって。


 「過去は、仕方ないけれど……これからのあなたを、私に委ねていただけますか?」


 言葉にするには、あまりにも覚悟が足りない気がして、声にするなど出来るわけもない、そうまで思っていたはずの望みが、気付けば、口をついていて。

 強く打たれたように目を見張った平岩さんは、一瞬、泣き笑いのような表情を見せて、


 「……全部、君にあげる。だから」


 耳に届いた、囁くような同じ望みに、ただ一言、はい、と応じて。

 触れられるのも、触れるのも愛おしくてならない彼の大きな手を、せめても守るように両の手で包み込むと、私はそっと、その指先に唇を寄せた。


 これからの私を、何もかも全て、あなたのために。

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