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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
四年目:
46/62

触れて、伝えて

 住む環境を変える、という機会は、これまでに四回ほどあった。両親が家を購入した折、大学の女子寮に入った折、今の職に就いた折、そして、少し広く新しい部屋に移った折だ。

 特に、今の部屋は近くに電車の駅こそないものの、バス停がほぼ目の前という立地だし、新築かつオートロックも完備されていて、一度遊びに来た妹と弟が、やけに気に入って騒いで帰っていったことを覚えている。それから数年経ち、小さいけれど自分の城、的な愛着も沸いて、余程のことがなければこのまま住み続けるんだろうな、と思い始めていたというのに、ついにこうして引き払う準備などをしていると、何やら感慨もしきりで。

 「明石さん、流しの下と食器棚、なんとか拭き終わったよ。あとは何すればいい?」

 「あ、有難うございます。でも、リビングもここもあらかた済んだので、もういつでも出られるようにだけしていて貰えればいいですよ」

 そう言いながら、長い柄を持つ床用のワイパーを片手に振り返ると、濃いグリーンのエプロンをつけて、両手には雑巾を握り締めた姿の平岩さんが、戸口から顔を出していて。

 私と目を合わせるなり笑みを刻んで、ぐるり、とすっかり空になった寝室を見回すと、青と白のストライプのスリッパを鳴らしながら、こちらに近付いてきた。

 「すっきりしちゃったねえ。特に家具が無くなっちゃうと、その人の色が消えちゃう、っていう感じがするから、不思議だなあ」

 「多分、私の好きなもので固めてたからじゃないですか?ほら、平岩さんの家だって、猫の部屋もリビングも、すっかり雰囲気が変わっちゃったし」

 感心したように放たれた言葉にそう応じながら、いかにも空き部屋です、という風情に戻された、何も掛けられていない白い壁と、剥き出しのナチュラルカラーの床を見やる。

 今日をあちらの家に引っ越す日と決めてからというもの、何度も経験しているとはいえ、被った家電などの不用品の処分、荷物の梱包作業、各種契約の停止や住所変更、郵便物の転送届など、必要なことの多さにあらためて目を回しながら、色々と準備をしてきた。

 とはいえ、転居先には以前から寝起きする環境が整っているわけなので、いざスタートしてみれば進行は早かった。新居(というには馴染みすぎているけれど)への移動距離が近いことも幸いして、衣類などの荷物は車で数回往復するだけで済んだし、私が持ち込む家具などのレイアウトについては、事前に時間を掛けて詰めていたから、今更悩むこともない。加えて、大物家具の搬出については、久保くんと立花さんが手伝ってくれたこともあって、昨日のうちに全て終わっているから、ここまで来れば、あとは気楽なもので。


 ……まあ、ひとつだけ、気持ち的に大変な手続きは、残っているけれど。


 明日の午後に予定されているそのことを思い返して、内心でため息をついていると、平岩さんはひょい、と眉を上げて、

 「変えたのは、僕じゃないよ。サビ子さんとかまぼこと、明石さんがいてくれるから、自然と変わっていったんだよ」

 そう言いながら、私の脇を通り過ぎてしまうと、換気のためにまだ開けてあった、奥の突き出し窓に手を掛けると、手にした雑巾で水拭きを始めた。

 外観と内観、双方を兼ねたデザイン性と、あとは明かり取りとしての機能がメイン、という感じの小さなそれらを、長い腕を駆使して表も裏も綺麗にしていきながら、妙にうきうきとした調子で乾拭きまでの作業を終えてしまうと、くるりと振り向いてきて、

 「それに、もう、僕だけの家、じゃないよ。僕と明石さんの家、になるんだからさ」

 いかにも嬉しそうに口の端を大きく上げて、踊るような足取りで傍にまで寄ってくると、見上げた私に腕を回そうとしたところで、はたと手を止めた。

 「しまった、雑巾が邪魔だった。どうしようかなあ」

 「……もう、どうもしなくていいですから」

 常日頃から、何かしら手を出したい旨を表明してくれている彼の、困ったような表情に苦笑を返しながら、私は左の腕を伸ばすと、指先でその頬をつっと撫でてみた。

 すぐに意図を察したのか、身を屈めてきた平岩さんが、そっと口付けて来ようとした時、まるで何ひとつない部屋の中を満たすかのように、チャイムの音が高く鳴り響いて。

 途端に、彼はあからさまに落胆したように息を吐くと、ちらりと腕の時計に目をくれた。

 「もう、家主さん時間厳守だなあ……明石さんから促してくれるなんて機会、めったにないっていうのに」

 「遅れて待たされちゃうよりは、余程いいですよ。じゃあ、また、あとで」

 不満を露わな台詞を零すのに、笑みを誘われながらそう言ってしまうと、私は玄関へと足を進めた。いよいよ引き渡しだ、となんとなく心の中で気合いを入れつつ、リビングの中程までに達した時、軽い足音が追い付いてきて。

 一緒に出てくれるつもりなのかな、と振り向く前に、さっと私の正面に回り込んできた平岩さんは、見事なまでの早業で、唇を重ねてきて。

 ついばむように繰り返されたそれが、ようやく三度目で離されるのに、効き目がないと分かっていながらも、私はじっと彼を睨み付けた。

 「……どうして、あと少しだけ我慢してくれないんですか」

 「だって、この後鍵返しちゃうし、キス出来るチャンスって家に着くまでないじゃない。車の中はだめ、って言われちゃったしさ」

 「夜ならまだしも、昼日中にしようとするからですよ!ああもう、とにかく雑巾洗ってきてください!」

 「はーい。あ、そのワイパーも引き受けとくから、こっちに貸してね」

 叱りつける私の声にも堪えた様子もなく、この上なくご機嫌に応答すると、私の手から最後の掃除用具を取り上げて、鼻歌交じりにお風呂場へと向かっていった。

 ……なんだか、立花さんに指摘されるのも、無理もない気がしてきた。

 急かすようにもう一度鳴らされたチャイムの音に、慌ててドアを開けに向かいながら、私は頬に上った熱を少しでも冷ますように、幾度もかぶりを振っていた。



 こうして、彼とともに住むことを思い切るに至ったのは、さまざまな後押しがあってのことだ。平岩さんの根気の良い説得はもちろんのこと、小西夫妻には呑むと泣き上戸の夫、宥め上手の妻とセットで懇々と語られたのだけれど、やはり一番強く背を押されたのは、立花さんの、とある一言で。

 「と、いう経過をもちましてー、めでたくタイテンと付き合えることになりましたー。ついては係長にご迷惑をお掛けしましたことを、あらためてお詫びしたく!」

 「え、いいって、そんなの。あなたが真剣に悩んでたのは本当のことなんだし」

 向かいの椅子にきちんと掛けた姿勢から、わざわざ深々と頭を下げてきた立花さんに、私は少し面食らいながらもそう応じていた。

 日高さんのミスから始まった騒動が、仕事面でも私的な面でもどうにか終息し、無事に迎えた新たな年の、睦月。

 何故か、平岩さんを経由して、ここブラッスリー・コリーヌに誘われたかと思ったら、いきなりこれまでの事情を話された上に、久保くんとのことまで知らされては、驚くより他になくて。

 ……それにしても、あの恥ずかしい台詞も全部、聞かれちゃってたってことか。

 彼への想いを、端的に表現し過ぎた言葉を思い返して、頬の赤みを誤魔化すように手をやっていると、顔を上げてきた立花さんが、ふいに悪戯な笑みを浮かべてみせた。

 「係長、いいひと過ぎですよー。こっちだって本音言っちゃえば、吐き出してすっきりしちゃいたいっていうのもあるし、知られちゃえばタイテンの未練も断てるかなあ、って考えたりもしてるんですからー」

 あけすけなまでにそう言ってくるのに、思わず口元を緩めながら、私も少しばかり思うところを返してみた。

 「私見だけど、久保くん、そういう半端なことはしないタイプだと思うの。応えるって心を決めた以上は、あなたのこと凄く大事にしてくれるんじゃないかな」

 実際、平岩さんと言葉を交わしたことについては彼からも話があったし、その後は元の落ち着いた様子に戻っていった。そして、最近では仕事が終わるなり、間を置かず誰かに(つまり、彼女に)スマホで連絡していることも、ちょっと目についていて。

 そういう変化を言葉にしてみると、立花さんは驚いたように目を見開いて、小さく息を吐くと、

 「だと思うんですけどねー、義理立てバリバリだから絶対浮気とか出来る奴じゃないし。でも、ずっと扱いが友達プラス後輩だったから、向こうも切り替え難しいみたいでー」

 悩ましげに言葉を切ると、細い足を持つワイングラスを取り上げて、唇に引いた色にも似た中身を、そっと口に含む。

 どこか憂いを帯びたその仕草につられるように、私も傍のグラスに手を伸ばしかけた時、思いも寄らぬ発言が飛んできた。

 「係長、代理が手を出して来たのって、多分ですけど付き合い出してすぐですよね?」

 「……お願いだから、何気なく爆弾投げて来ないで」

 確かに、好意をはっきりと告げられてからは、まあ、展開は早かったけれど。

 突き倒す羽目にならなくて本当に良かった、と思いながら、さらに注意深くそれを手に取ると、少しでも酔っているせいに出来るように中身を呷る。渋みより酸味が勝つ、舌に響くようなややきつい味に顔を顰めていると、立花さんは鈴を鳴らすように、笑って。

 「ごめんなさい。代理、係長のこと全開で好きだから、だろうなって思ったのもあるんですけど、そのあたりってやっぱり友達と恋人の境界線だから、ちょっと考えちゃって」

 「……なかなかラインを越えて来ない、っていうこと?」

 かなり久し振りになる、こんな恋の話に若干照れながらも、小声でそう尋ねてみると、彼女は相当に長い溜息をついた。

 「そーなんですよーもー、こないだの初詣でやっと返事くれたのはいいんですけどー、手を繋いだら一応は解かないんですけど人気ないところに誘導してもなんにもしないし、せめて帰り際にキスくらいしてくれないかなーって思ったらあっさり帰っちゃうしー」

 「でも、最初はそんなものじゃない……のかな」

 一瞬、平岩さんとのことを重ね合わせてみたものの、年齢も状況も違いすぎて参考にもならないし、初々しい初恋の頃など、とうに遥か彼方へと霞んでしまって。

 ついでに、二十代の頃のあまり思い出したくもない過去のことまで蘇ってきたものの、耳に届いた立花さんの深刻そうな声に、瞬時に吹き散らされてしまった。

 「片思い五年、返事待ち三か月だから、これからもいつまでだって待てる自信はあるんですけど、やっぱり時々焦りが出て来ちゃってー。こっちが好きなのはブレなくたって、向こうから好き、っていうサインが感じ取れないから、たまに辛いなあって思っちゃって」

 「……うん、そうだよね」

 

 想いのバランスが崩れて、対等だったはずのものが、いつしか変わっていって。

 戸惑いが苛立ちへと移行してからは、壊れるのはあっという間で。


 思いも寄らず揺り戻ってきた波に、目を伏せて酒を口にすることで誤魔化していると、立花さんはわずかに間を置いて、そっと尋ねてきた。

 「あの、それって、代理のことじゃないですよね?」

 気遣いつつも確信しているような口調に、自然と苦笑を誘われて、私は頷きを返すと、なるべく冗談めかして言ってみた。

 「そう、昔々の話。長く生きてると、色々あるから」

 思い返してみれば、あいつとの関係も六年で終わったな、と気付いて、記憶を探ろうとしても、もう顔も声すらも、薄れていて。

 ただ残っているのは、手酷く傷つけたいがために放たれた、最後の言葉で。

 微かな爪痕をなぞるように、あの時は正確に急所を捉えていたそれを反芻していると、しばし眉を寄せて考え込んでいた立花さんが、また口を開いた。

 「明石係長、やっぱり、付き合うことになったきっかけって、代理から迫られまくったからですか?」

 そう問われて、私は目を上げると、彼女のどこか不安げな表情を見返した。はっきりと意図は読めないながらも、じっと答えを待っている様子に、軽くかぶりを振ると、

 「それだけじゃない、かな。確かに、あのひとって二人きりだと特に臆面もないから、言葉でも態度でもたくさん表してはくれたんだけど」

 言いながら、『付き合う』までの微妙な期間にされたアプローチを思い出して、にわかに気恥ずかしくなったものの、気を取り直して続ける。

 「元々上司として好感は持ってたし、惹かれてることにも気が付いてたから、あとは、どうやって手を伸ばせばいいんだろう、って、凄く迷いはしてて」

 前の恋が終わりを告げてからは、とうに八年ほども経っていて、今更覚えたその気配にひたすら戸惑って、うろたえも隠せずにいて。

 だけれど、彼の家で一緒にいた時に、ふと、かちりと何かがはまるように、ある衝動が沸いてきて。

 「唐突に、触れてみたい、って思ったの」

 未だに、あの瞬間のことは鮮明に覚えている。

 いつものように、リビングでサビ子さんと遊んでいて、あのひとが傍にやってきて。

 するりと、身を二つに折るようにして屈み込んできたかと思うと、グレーのラグの上でいかにも心地良さ気に身体を伸ばしている彼女を、長い指で優しく撫でて。

 音を立てそうに骨ばったそれが、器用なまでに滑らかに動くさまをなんとなく見ていて。

 ひとしきりサビ子さんに喉を鳴らさせてしまうと、満足げに身を引いて、コーヒーでも淹れようか、と笑って、キッチンへと踵を返した背中に、立ち上がって、追い付いて。

 「腕を掴まえて、引き止めたのはいいんだけど、自分でもどうしてなのか分からなくて。でも、何故だか彼には、伝わったみたいで」

 

 緩やかに視線が絡んで、触れて、触れ返されて。

 互いに、同じ場所に辿り着いたことを、おずおずと確かめ合って。


 その後に言われた言葉もされたことも、ひとつたりとも忘れていないことにあらためて思い至って、先程とは違う甘さに、ほんのりと酔う思いでいたけれど、

 「ええと、それから、かな……こんな答えでいい?」

 どこかぽかんとしている様子の立花さんに気付いて、慌ててそう締めくくると、彼女は幾度も目をしばたたかせた後、何故か、痛みでもするかのように額を押さえて。

 「あー、だめだー、こんなの真似出来ないー……」

 瞼を伏せて、ううー、と唸るような声を上げると、さらに続けた。

 「それって、すっごいナチュラルに落としにかかってますよ、係長ー。っていうかもうとっくに落ちてるんだろうけど、絶対抜けられなくなっちゃうー」

 「……それ、同じようなこと、言われた」

 嘆息めいて零された台詞に、奇妙なほどに聞き覚えのあるフレーズが混じっているのに、つい、ぽろりと返してしまうと、彼女は動きを止めて。

 ゆっくりと手を下ろすと、目は伏せたまま、ブラウンの細い眉をきゅっと寄せて、

 「うん、分かった、わたしってどこまでも代理サイドに立ってるんだ」

 「え、あの、それってどういう意味?」

 「立場的に、ってことです。要するに、まだまだ追い掛けてる方なんだなあって」

 何かしみじみと言葉を吐き出して、すっと瞼を上げた立花さんは、ひときわ強い視線を私に据えてくると、きっぱりと告げてきた。

 「係長、わたし、これからなりふり構わずタイテンに手を出させるように仕向けます。だから、そちらはそちらで、もう一緒に住んじゃいましょう!」

 「……え、ちょ、待って、なんでいきなりそこに話が飛ぶの!?」

 「ちゃんと関連性はありますよー。一、係長が同棲する、二、代理喜ぶ、三、タイテン諦めがつく、四、わたしが幸せにする、っていう流れなんですけど」

 工程が進むごとに、きちんと右手の指を一本ずつ立てていきながら、彼女はすらすらと言い切ってしまうと、ふっと不敵な笑みを作って、

 「なんかね、タイテンに告白してからわたし、めちゃくちゃ吹っ切れちゃったんです。言っちゃったものは仕方ないし、あとは待つしかないよねーって。けど」

 うずうずする気持ちを抑えきれないかのように、白く、華奢な指をきつく組み合わせて、さらに笑みを大きくすると、

 「これからずっと傍にいるつもりなら、時間がもったいないなって。一分でも一秒でも、せっかく恋人でいられるんだから、我慢しないで、あいつにもっともっと触れたいんです」


 ためらいなく放たれた言葉のひとつひとつが、想う人を、ひたむきに求めていて。

 それでいて、瞳の色は甘やかなほどの光に満ちて、とても綺麗で。


 伝えてからも、絶え間なく恋の矢をつがえ続ける姿に、あのひとの顔が重なるようで、私は唇をほころばせると、

 「触れられたい、っていう願望はいいの?」

 「それを目指したいところなんですけど、わたしの方が構わずにいられないからなー。っていうか係長、その発言は求められてる女性の余裕ですよねー!」

 からかうように発した問いに、わざと唇を尖らせて返してきた立花さんと目を合わせて、揃って、吹き出して。

 「だって、好きなんだから。それにあなたの彼も、いつまでもそのままじゃいられない、って思うの」

 かつて、私自身があのひとの矢に、射抜かれてしまったように。

 狙い定めて放たれた、数限りない真摯な想いがいつか必ず、彼の胸を貫くはずで。

 「当然ですよーなけなしの女子力雑巾並みに絞り出してるんですからー!とりあえず、第一の目標は半年以内に両家公認まで持って行く、ってことで!」

 いささかならず、お酒の力も借りて叩いた私の軽口に、彼女もころころと笑いながら、やけに具体的な内容の行動宣言を、高らかに披露してみせた。



 それから結局、二人でフルボトルをすっかり空けてしまう間に、『対久保くん攻略法』を、冗談も本気も入り混じりで、閉店まで話し込んで。

 心配して迎えに来た平岩さんと久保くんが、ほぼ同時に店の前で鉢合わせする、という事態になってしまって、それぞれ車と徒歩で左右に別れて帰ってから、既に半年が過ぎて。

 「明石さん、ちょっと寂しい?」

 何事もなく部屋の引き渡しが終わって、家主さんにお世話になりました、と挨拶をして。

 建物のすぐ前の道路から、初夏の白い日差しにさらされたマンションを見上げていると、隣に立つ平岩さんが、そっと尋ねてきた。

 「それなりに思い出はありますからね。でも、これからはひとりじゃ、なくなるから」


 このひとの傍にいるようになってから、周囲の全てが、目まぐるしくも変わって。

 寂しいなんて言っていられないくらいの日々が、きっと、この先も。


 「じゃあ、そろそろ行きましょうか。久保くんと立花さんも駅前に着いたみたいだし、猫たちも待ってますし」

 そう言いながら、ここからは少し離れたパーキングに向かうべく、彼の方を振り仰ぐ。

 と、燦々と差しているはずの日の光がふっと遮られたかと思うと、かすめるように唇に触れる、感触があって。

 「あ、ごめん、つい反射的に。でも、車の中じゃないんだし、いいよね?」

 言葉とは裏腹に、意図的にやりました、と言わんばかりのにこやかな笑みを浮かべて、平岩さんはこちらの顔を至近距離で、じっと覗き込んできて。

 最早、唸り声しか出せない代わりのように私は腕を伸ばすと、その薄い頬を思い切りつねり上げてやった。

 ……今ですらこうなのに、明日を越えればどうなることやら、全く、この人は。

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