探り、探られ
いわゆるバツイチ、という立場になってしまって以降、実を言えば、周囲の女性からのお誘いが全くなかったわけではない。前の妻は僕と同じ職場ではないが、いわば同業他社、というところだったので、離婚直後から事実関係が周囲に知れ渡るのは避けられず、また、事情を知る同期などから、『性格の不一致』が原因であると漏れてからは、特に増えた。
もちろん心身ともにそんなことに気を向けられる状態ではなく、余計に疲れるばかりで、なんでこんなことになるのかねえ、と、同じく離婚経験者の友人に零してみれば、
『三十路後半、家持ち、役職ありで、世間的に憚られるような落ち度が無いとなれば、お前、割といい物件だろうが。触れなば落ちん、とでも思われてるんだろ』
などと言われて、そんなもんかねえ、としきりに首をひねったものだった。
ともあれ、月日が経つとともにいつしか奇妙なまでの波も引いて、独り身なりに気楽に過ごしていたのだが、
「代理ー、それが噂の『藤宮名店データベース』ですかあ?やったあ、美味しいとこに連れてってくれるんですよねー!」
こうも露骨なまでに纏わりつかれるのは、正直、その当時ですらなかったことで。
「あくまで主観だから、君が気に入るかどうかは分からないけどね。あと、デートじゃないんだから、悪いんだけど腕は離してくれる?」
まるで恋人にするように、こちらの腕に細い腕を絡めてきた立花さんに、やや弱りつつそう言うと、彼女は大きな目を幾度も瞬かせて、さらに張り付くように身を寄せてきた。
「えー、お互いに独身だしわたし彼氏いないし、別にデートでもいいじゃないですかー。ていうか、すっかりそのつもりで来たのにー」
「こら、当初の趣旨と完全にずれてるでしょうが。それに僕には大事なひとがいるから、そういうことなら帰らせてもらうよ」
さすがに、この手のやり方にまで付き合う気にもなれず、乱暴にならないように細い手首を掴んで引きはがすと、すぐさま駅の方へと踵を返す。
官庁街から二本入った裏通りとはいえ、金曜日なだけに、同じようなスーツ姿の群れが闊歩する中を縫うように足を進めながら、手にしていたブルーの手帳をジャケットの内ポケットにしまいかけたところで、軽い足音がようやく追い付いてきた。
「もー、代理ってばひどーい、真面目に取らないでくださいよー!」
ジャケットの裾を小さく掴んで引き止めてくると、さりげなく真正面へと回り込んで、上目遣いで見上げてくる仕草は、傍目から見ても愛らしい、と評価されるだろうとは思う。
実際、見目の良い妙齢の女性だし、こうしているさまを若干羨ましげに見ていく男性もいるのだが、今の僕には、申し訳ないが何だかややこしい子だなあ、としか取れなくて。
「そういうことは、まともに落としたい相手にやりなさいって。君くらいの女性なら、狙い定めて撃ち落とそうと思えば、簡単に出来るでしょ」
ため息交じりに心底からの印象と感想を述べてみると、立花さんの瞳がふっと、微かに揺らいで。
ゆっくりとひとつ瞬きをしてから、挑戦的なまでにつん、と顎を上げてみせると、軽く爪先立って、すっと間近に顔を寄せてきた。
彼女とは、目線が全く違う。ベージュとサーモンピンクのバイカラーのパンプスは踵が低く、それでもこの程度の動きで、僕の顎辺りまではあっさりと届くほどだ。
「言っちゃうと、九割九分九厘くらいは落としてきましたよ。でも、残りの一厘って、必ず存在しちゃうものなんですよね、今の代理、みたいに」
囁くように告げてから、ゆるりと身を離しざまにジャケットからも手を解いて、一歩、足を後ろに下げてしまうと、どこか不敵に笑んで。
「相談したいことがある、っていうのは、嘘じゃないですよ?」
「なんだ、じゃあ、『仕事のことで』がフェイク?」
「せーいかーい、でーす」
ふざけ気味に語尾を伸ばしながら、立花さんは右手の人差し指を立ててみせると、何か虫でも誘うかのように、くるりとそれを一周、回して。
「あと、こっちに出せるカードが何枚かあるんですけど、そのあたりも場合によってはご提供します。それで、どうですか?」
「いいよ。ただ、余計な駆け引きとか僕にはいらないから、そこだけ心がけてくれれば」
そう返しながら、今度は右に下げた鞄を持ち上げて、横にあるポケットに手を突っ込む。
ここ数年使っている、古くさい(と友人には言われる)アイボリーのPHSを取り出して、歩みを進めながらメールを打ち始めると、隣に追い付いてきた立花さんが、堂々と手元を覗き込んできた。
「代理、それって彼女に、ですか?」
「そうだよ。行くところ決めたら連絡するって言ってあったからさ……あ、店は残月でいいかな、あそこ適度に静かな席あるし」
手早く文字を打ちつつ、宛先に表示される名前を見やって、明石さんに会いたいなあ、としみじみ考えてしまう。週末でお互いに早く帰れる機会はこの時期そうそうないので、美味しいもの買って家でのんびりもいいな、と考えていたところに、
『……あの、折り入って代理にご相談したいことが』
袖を引かれて、酷く思い詰めた様子(今思えば大した演技力だ)の立花さんに捕まってしまったわけで。
「明石係長も、今日定時でしょ?いきなり予定潰れて怒らないんですか?」
「怒らないねえ、理由がちゃんとしてれば。それどころか、『それならしっかり話聞いてあげてください』って、随分心配してたから」
さりげなく彼女のことを把握しているらしい台詞は置いて、ストレートにそう返すと、立花さんは初めて、ちょっと傷ついたような表情を見せた。
「なんですか、そのデレ顔ー。素で惚気るの止めてくださいよー、なんか、テンションどんどん下がっていっちゃうじゃないですかー」
「猫たちと彼女にはどうしてもこうなっちゃうんだよ。あの人、ほんと可愛いからさ」
明石さんが耳にしたら、真っ赤になって叱られそうな台詞を、ついつい口が滑るままに投げてしまうと、今度は、あからさまにむっとした気配が伝わってきて。
明るく染めた髪に似た色の、細く綺麗に整えた眉をきゅっと寄せると、立花さんは唇を尖らせて、小さく声を漏らした。
「……おんなじこと言ってるし。しかも、微妙に納得しちゃうのがまた腹立つし」
聞かれてももういいのか、ぶつぶつと不満げに零れた言葉に、僕は苦笑を返すと、
「だいたい、要点が見えてきた気もするけど……まあ、とりあえずいい酒でも飲んで。あ、僕下戸だから、そっちは付き合えないけど」
「知ってますよー。じゃあもう、わたし潰れるまでいっちゃってもいいですか?」
「それは却下。どのみちベロベロじゃあ、実りある会話もできなくなるでしょうが」
やさぐれ気味に俯いて、足をひたすらに速める彼女に適当にスピードを合わせながら、僕は定型の、しかし心からの言葉を最後に添えて、明石さんにメールを送信していた。
幸い、週末さらには月末、という二重の条件を乗り越えて、木製のブラインドで適度に間仕切りされた、個室めいたテーブル席をどうにか確保出来て。
漆黒の塗りも艶やかな天板を挟んで、僕の差し出した冷酒の瓶を、シンプルな脚付きのグラスで受けながら、立花さんが感心したように言ってきた。
「ここ、いい席ですねえ。密室でもなくうるさくもなく、いざとなったら逃げ出すのも容易だしー」
「ただの食事の席にいったい何を想定してるの、君は」
「まあ、色々と過去の経験から培われたものを。代理だって、その辺考慮の上でしょ?」
「一応はね。何より、彼女に誤解されるようなことだけは避けたいからさ」
今掛けている席は、複数あるテーブルを、天井から下げられたブラインドと、通路側の千本格子の丈高い衝立で小分けにしたものだ。部下と二人、という席は、これまでにないではないのだが、なにぶん相手が女性なだけに、色々と気は回さなければならない。
察しの良さを存分に発揮した切り返しに、僕が素直に認めてしまうと、立花さんは口の端を少し上げて、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「そうすぱーっと言い切れるくらい、惚れちゃってるっていいですよね。明石係長も、代理関係で突っ込んでみたら反応すっごく楽しいし」
「え、明石さん、僕のこと何か言ってたの?」
急須からそば茶を湯呑みに注ぎかけていた手を止めて、思わずそう反応すると、笑みがますます深くなって。
「そこは、女同士の守秘義務ですよー。概略は、代理愛されてるなってとこですけど」
「……もしかして、それが手持ちのカードってことかな。相談の結果によってオープンされるとか?」
推測をそう投げてみると、彼女は小首を傾げて、支えるように片頬に手を添えて、
「最初はそのつもりだったんですけど、なんかもう面倒くさくなっちゃって。だから、とにかくわたしが聞きたいこと、聞いちゃっていいですか?」
「どうぞ、遠慮なく」
疲れたように切り出したその様子に、短くそう促すと、有難うございます、と応じて。
取り急ぎ、それぞれに口を湿らせてから、立花さんは珊瑚めいた色合いの唇を開いた。
「代理、明石係長と、どうして結婚されないんですか?傍から見てる限りじゃ、何にも支障とかなさそうなのに」
「……これはまた、直球で来たね」
予想とはやや異なる質問に、いささかならず面食らいながら答えるものの、瞳に満ちた真剣な色を見れば、応じないわけにもいかなくて。
どこから話したもんかな、とわずかに迷ったものの、少し前に浮き上がってきたことを思い返して、僕は湯呑を脇に置くと、肘をついて指を組んだ。
「結論から言うと、それを前提として、彼女と一緒に住み始めたいな、とは思ってるし、もう具体的に打診はしてるんだけど、明石さんが躊躇しててね」
端的に現況を告げてしまうと、立花さんの目が大きく見開かれる。何か言いたげに唇が動くのを目の端にしながら、僕はさらに言葉を継いだ。
「彼女の部屋ももうあるし、服も靴もうちから出勤出来るくらいの量になってきたし、そろそろかな、と思って、ついこの間、切り出したんだけど」
サビ子さんが紡いだ縁で、彼女と一緒にいられるようになってから、もう三年目になる。
週末や休日になると、合鍵でやってくる彼女を出迎えて、猫たちと家でごろごろとして、それこそ夫婦のように過ごしていることが、当たり前のようになって。けれど、
「君も知ってると思うけど、僕の方が一度、結婚生活破綻してるからさ」
一緒に住もう、とは口に出せても、その先にあるものはずっと舌に乗せられないでいて、彼女もそのことを、敏感に察していて。
それに、これまでに一人で暮らした期間が長すぎて、恋人としては上手くやれていても、万が一共に暮らすようになった時に、何もかもが揺らいでしまわないか、僕を傷つけてしまわないかと不安なのだ、と零して。
「それに、今でもたくさんのものを委ねてるのに、甘え過ぎてしまいそうだから、って……僕の方が、よっぽどそうさせてもらってるっていうのにね」
ぽかりと空いていた空洞を、家だけでなく心まで全て、埋めてしまって。
代わりになるものなど、最早想像すら出来ないというのに、あのひとは。
甘えてくれていいのに、と抱き締めれば、素直にそうされてくれるのに、妙なところで頑なで、でもそこが殊の外、愛おしくてならなくて。
「まあ、不安を取り除くのは、僕の役目だと思ってるから。気長に説得しようかな、と」
「……いいなあ、係長」
語尾にかぶせるように、ぽつり、とそう呟いた声に目を向けると、立花さんはいつしか空にしていたグラスを、ことり、と音を立てて置くと、そっと横に避けてしまって。
居眠りをする時のように、曲げた両の腕を枕にして、ずるずると突っ伏してしまうと、
「これだけ大事にされてる、っていうだけでも、めちゃくちゃ羨ましいのに。なんで、よりによってあいつまで、惹き付けちゃうかなあ」
酷く弱い声に、初めて見せるむき出しの感情が顔を覗かせていて、僕は口を噤んだ。
伏せられた瞼の端に、微かに煌くものには気付かないふりをしつつ、間を持たせようと湯呑を持ち上げる。
そのままぼんやりと顎を湯気に当てながら、このまましばし待つべきかと考えていると、彼女は身じろぎをして、
「代理、絶対に係長から、タイテンのこと聞いてるでしょ」
「うん、まあ、聞いてるっていうか、やんわり聞き出したんだけどね。もの凄く時間がかかっちゃったけど」
既に確信しているらしい台詞に、僕が頷くなり、勢いよく身を起こして、拗ねたように睨み付けてきて。
「二人とも、なんかずるいし。腹いせにちょっとくらい引っ掻き回してやろうかなあ、とか思ってたのに、なんでそんながっちり分かり合っちゃってるんですか」
「そう言われてもねえ……好きだから、としか答えようがないかなあ。それに明石さん、こらえてても動揺が外に滲み出ちゃう方だからさ」
「フェイントにも弱いですよねー。スマホの猫写真のこと指摘しただけで狼狽してるし、すかさず追撃したら、適当に誤魔化してくれてもいいのに、頬染めて素直に認めちゃうし」
不機嫌を露わに、『手持ちのカード』らしきことをつらつらと喋ってしまった立花さんは、どこか諦めたように、深々とため息を吐いて。
「結局、元々の性格とかもあるんでしょうけど、係長がどっか可愛いのって、ぜーんぶ代理が引き出してるんですよね、きっと。だから、余計にダメージきついっていうか」
言葉を切ると、荒い動作で冷酒の瓶とグラスを掴んで、手酌でなみなみと満たしながら、表面張力の限界にまで挑戦するかのように、盛り上がった水面を、じっと見つめて。
「こっちは、いくら恋しようが全然可愛くなれないし、嫉妬しまくりでみっともないし。両思いと片思いの差、って、目に見えて残酷ですよね」
注がれたものが作るいくつもの気泡が、硝子の底から縁へと、昇って。
その曲面に映る瞳がゆらりと滲んで、瞬きとともに、弾けて。
やりきれないように唇を結んでいた立花さんは、ついとグラスを取り上げると、見事に一滴たりとも零さずに、一息のうちに干してしまって。
かたりとも音を立てず、天板に空になったそれを戻してしまうと、小さく酒気を吐いて、
「っていうかねー、もんのすごく文句言ってやりたいー二人のことは二人の勝手じゃん、って。それにあんたがあんなやわらかーい雰囲気に出来んのってーもーあのばーか」
まさに立て板に水、という風情で言い切ってしまうと、間を置かず手が動いて、みたび注ごうと瓶が傾けられる。と、
「……言いたけりゃ、陰口でなく本人に言えよ、お前は」
前触れもなく、呆れを含んだ低い声が届いて、僕はそちらに顔を向けた。
格子の衝立の影から静かに姿を見せた青年の、吊り上がり気味の瞳に視線を合わせると、久保くんは、どうも、ときまり悪げな様子で、軽く会釈を返してきて。
瓶とグラスをきつく握り締めて、テーブルの一点を見つめたまま、ぴくりとも動かなくなった立花さんをちらりと見やる。と、
「その、こいつが代理に絡んだのは、俺のせいなんで。申し訳ないんで、回収します」
照れと苛立ちとが分かちがたくないまざったような複雑な表情の彼と、俯いたきりの彼女の肩の微かな震えを、見て取って。
なんとなく交互に、二人の姿を確かめるように眺めてから、僕はようやく口元を緩めた。
「分かった、あとは任せるよ。それと」
椅子を引いて席を立つと、鞄と伝票を手にしてから、彼の真正面にまで足を進める。
何を言われるのか、と、構えるように身を固くした久保くんに、ひたと目を据えると、
「明石さんのことは、僕に任せてもらっても、いいかな」
気負いもなく放てたことが、自分でもすとんと腑に落ちた心地で返事を待っていると、彼は、驚いたように大きく目を見張って。
それから、目に見えて悔しそうに唇を歪めると、あー、と一声、唸って。
「分かりました、俺もいい加減、引きます。あと……」
「ん、なに?いい機会だから、文句要望その他くらいは聞くよ?」
垣間見えた性格からも、色々と溜め込んだものがあるだろう、とそう提案してみると、久保くんはかぶりを振って、
「いえ、ただ……代理、早く係長に連絡してあげてください。あの人、メール返した後、めちゃくちゃしょんぼりしてたんで」
口にされた意外な言葉に、その光景が鮮明なまでに、脳裏に浮かんで。
胸に込み上げる柔らかく暖かいものに満たされて、意味もなく頬に手をやっていると、立花さんが力尽きたように、完全に突っ伏してしまったのが目の端に見えて。
無言のまま久保くんと視線を交わすと、彼の肩を軽く叩いてから、僕は衝立を回ると、滑らかな光沢の板目の通路を玄関に向けて進みながら、いそいそとPHSを取り出していた。
それから、周囲の人々に怪しまれそうなくらいに頬を緩めながら、家に帰って。
扉の前に立って、常の如くにキーケースを取り出したところで、道路に面した猫部屋の窓の光が消えていることに気付いて、僕は口の端を上げた。
猫のいる家のルールとして、脱走してしまわないようにそろそろと扉を開けて入ると、すぐさまリビングに通じる奥の扉が音を立てて開いて、明かりがさっと零れて。
サビ子さんよりもかまぼこよりも先に、明石さんが、駆け寄ってきてくれて。
上がり框に足を掛けながら、廊下に鞄を置いてしまうと、見上げてきた彼女の身体を、有無を言わせず抱き締めて、僕は耳元に囁いた。
「ただいま。寂しかった?」
触り心地のいい髪を撫でながらそう尋ねてみると、されるままになっていた明石さんが、そっと、僕の背中に腕を回して、しがみついてきて。
「……それも、ありますけど。ちょっとだけ、心配、でした」
細い声で告げられた言葉の意味を、数瞬の間を置いて、理解して。
お帰りの挨拶を待ちかねたかまぼこによじ登られて、背中に爪を立てられるまでずっと、僕は彼女を離せずに、ひたすらにその場で可愛がってしまった。
……どうやら、立花さんの言ってたことも、本気にして、いいみたいだ。




