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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
三年目:
43/62

恋、初めし

 かれこれ三十年も生きていれば、自分の性格がたまに苛つくほどねちっこいことは自覚しているし、それが元で面倒な事態を引き起こすこともかなりあったから、年齢とともに妥協を覚え、目的に向けて最善の道を探ることも、それなりに出来るようになってきた。

 加えて言えば、ここの仕事は起点も着地点もあらかじめ確定していることがほとんどで、遊びの余地などまずないと言えるから、与えられた指示の意図を読んで、いかに効率的に事を運ぶかに留意しているだけで、無駄な衝突はたいてい避けられるということもあって。

 だが、こと恋愛沙汰となると視野が狭まり、意識がその対象にばかり向いてしまうのは、いつまでも止められなくて。

 「立花、お前、どこまで聞いてた?」

 南町の裏通りにある、店は狭いが静かで美味い、ブラッスリー・コリーヌ。

 延々とループしがちな自省を断ち切るように、正面の席に座って、パテをパンに乗せて口に運びかけている立花に、俺は苛立ちを隠しもせずに尋ねた。

 と、奴は一瞬目を上げて、こちらをちらりと窺いはしたものの、手を止めることはなくそのままパンを口に入れてしまうと、平然と咀嚼を始める。

 その態度に、どうにも眉が寄るものの、そう素直に吐くとは元より思っていない。間を持たせるようにフォークを伸ばして、前菜が山ほど盛られた中から、赤いラディッシュを選んでしまうと、ぐさりとその腹に切っ先を突き立てる。

 丸く、やけに瑞々しいそれを口に放り込んで、憂さを晴らすように容赦なく噛み砕いていると、その音に混じって、立花の声がようやく飛んできた。

 「タイテンが、ごりごり係長に詰め寄ってる辺りからかなあ」

 「だから、そのどこだよ。ずっとそうだっただろうが」

 あえて露骨に代理との関係について聞き始めた時から、自分がそうしたいということもあったが、至近距離にまで身を寄せていたから、それだけでは判断できない。

 返事を促すように睨み付けていると、立花は、視線を跳ね返すかのように目を細めて、微かに口の端を上げた。

 「年上好き?って聞いてた時、かな」

 「……ほぼオールかよ。どこに潜んでたんだ」

 「カウンターの影。ちょうどいいとこにパーティションもあったし」

 欠片も悪びれる様子も見せず、けろりと答えてきた奴は、また大皿に目を移すと、迷うことなくスモークサーモンに手を伸ばした。器用な手つきでルッコラとともに皿に取ると、パンが盛られた籠を再び引き寄せる。棒みたいに細いくせに、本当によく食う奴だ。

 「一応、これはまずいなって思ったんだけど、タイテン暴走するかもしれないじゃない?係長もわけわかんなくて混乱してたっぽいし、いざとなったら飛び出そうかなー、って。あ、ちなみに全部は聞き取れなかったから大丈夫ー」

 「大丈夫じゃねえよ。人がボコボコになってんのに、お前、よくそんだけ堂々と高みの見物宣言してくれるよな」

 「だってわたしまさしく単なる第三者だもーん。それに、気持ち封印したんだろうなあ、って思ってたのに、今更行動に出たこと自体が予想外過ぎて、凄い驚いちゃってー」

 ずばずばとそう言ってのけると、今度は薄くスライスされたカンパーニュを選び出して、パセリの緑も鮮やかなチーズのディップを塗り付けながら、さらに続けた。

 「ねえ、なんで、一年も経ってから言っちゃったわけ?」

 遠慮も会釈もなく切り込まれて、一瞬、言葉に詰まる。ある程度は予想していたのか、立花は返事を待たず、瞬きもせずに俺を見据えてくると、

 「これがさ、ちょっとでも隙があるんなら分かるよ。でも、見たとこそうでもなさそうだし、カマ掛けにあれだけうろたえちゃうとか、ありえないでしょ」

 同性なのに萌えの意味が理解出来そうだったしー、と軽く笑う立花の台詞に、鮮やかにその姿が脳裏に浮かんで、気付けば、呻きめいた声が口から零れていた。


 「仕方ないだろ。そこがいい、って思ったんだから」


 問いの答えとしてはやや的を外れた、そんな言葉を投げつけてから、一年余りも密かに重ねてきた想いの中に、俺はぼんやりと思考を沈めていった。



 年上が好みか、などと彼女には聞いたが、返ってきた答えと同様、俺もそんな点になどそもそも関心がなかった。ただ、昇格したばかりの係長、しかも女性であるということで、多少の物珍しさと、あんまり頼りないと面倒だな、くらいは失礼ながら思っていたが。

 その程度の認識で下についてみれば、元々担当にいたというのもあるが、必要な指摘を怖じることもなく、何を相談するにせよ、話が通るのがとにかく早い。

 そういうわけで、結構当たりを引いたな、と感じていたところで、俺にとっての転機が、思いも寄らず早々にやってきたわけで。

 「あれ、久保くんが一番乗り?他の人は?」

 異動した年度初めの一山二山を越えて、暑熱が日に日に増してきた、七月の終わり。

 外を窺うためにか、一枚分襖を空けた座敷席の端に、ちんまり、という風情で正座していた明石係長が、赤のスマホを片手にこちらを向いてきたのに、俺は頷きを返した。

 「松浦(まつうら)さんが煙草吸いに、長田(ながた)と日高はちょっと買い物に寄るって言ってましたよ」

 「そうなんだ。なら、まだ時間あるし、声掛けはもう少し後でいいかな……あ、どうぞ、どこでも好きな場所に座って」

 幹事らしく慣れた調子で、五つある席を手で示してくるのに、はい、と応じたものの、奥に座るのはそれほど好きではない。どちらかといえば、自由に動ける入口近くの場所が何かと都合がいいので、係長が座るつもりらしい下座は避けて、その隣に腰を下ろす。

 掘りごたつ席の切り下げた床に有難く足を突っ込むと、既に並べられていたおしぼりを掴みながら、俺はしみじみと息を吐いた。

 「あー、とりあえずさっさとビール飲みたいですねー……」

 担当だけでこぢんまりと暑気払いやりましょうか、という係長の提案に全員が乗って、すっきりと仕事を片付けた、金曜日。明日明後日が休み、ということもあいまって、気の抜けたような声を上げた俺に、係長は小さく笑みを零した。

 「本当に、お疲れ様。来て間もないから、余計にだよね」

 「それはありますね。でも、仕事自体は回しやすいし、人少ない割にここ若手が多いし、気楽でいいですよ」

 そう何気なく返した後に、係長もいいし、と続けようとして、思わず口を噤む。

 お追従、と取るような面倒くさい性格ではなさそうだが、ことさらに上を褒めるのは、さすがに生意気に過ぎる、などと考えていると、彼女はさらに笑みを大きくして、

 「うん、私が言うのもなんだけど、雰囲気は凄くいいと思うの。主担副担のコンビも、相変わらず上手く機能してるし」

 「……まあ、時々日高のマジなのかボケなのか分からないとこに疲れますけど。全員が担当全体の状況をきちっと把握出来てるのはいいんじゃないですかね」

 うちの担当では、週始めと週末に、必ず簡単な朝礼が行われるのだが、その週の各自のスケジュール、業務の進行状況及び各期日、出張・会議・休暇等の不在情報などを係長が纏めて配布し、常に全員で共有を図る、となっている。

 これだけならどこの職場でもやっていることなのだが、先のコンビ同士で一週間の仕事配分を確認した上で、必要があれば他の係員、時に係長が手を貸す体制を確立するので、バランス調整が非常にやりやすいのだ。……それでも、失敗する奴は失敗するのだが。

 少し前のことを思い出しては、俺が微妙な表情になっているのに気付いたのかどうか、係長はこくりと頷くと、

 「私も、昔、日高さんみたいに失敗したことがあるの」

 「え、マジですか。想像つかないですね」

 意外なことを告げてきたのに、俺はすぐさまそう返していた。格好でどうにかなるわけではないが、いつもパンツスーツに高いヒールの凛とした立ち姿で、きびきびと対応している様子には、迷いや不安の色も見えないでいるというのに。

 そんなことを言ってみると、係長は苦笑を浮かべて、ふっとスマホに目を落とした。

 左手で液晶に軽く指を走らせると、ロックを解除したのか、何やら黒と茶色の混じった画像が表示されて、脇からちらりと覗き込んでみる。

 その色の正体は、猫だった。俺の知る、縞とか三毛とかの割合メジャーな模様ではなく、複雑に入り混じった、見ようによっては前衛的とも取れそうなものだ。

 綺麗な琥珀の瞳を、驚いたように見開いている、愛嬌のある顔を見つめながら、係長は淡い色の唇をそっと開いた。

 「出来る、やれる、って傲慢なくらいに思ってて、そんな時だったからへこんじゃって。でも、当時の上司が私からは何も言わないのに、さらっと当たり前のように助けてくれて」

 半ば瞼を伏せて、まるで猫の頭を撫でるかのように指先を動かすと、今度は違う模様が姿を現した。白に茶色の小さな猫が、掬うように上向けられた人の手の中に、ぴったりと納まっていて。

 「だから、まだまだ頼りないけど、あの人みたいになろうって、ずっと思ってるの」


 その声に、知らず溢れている何かが、胸を騒がせる。

 憧憬を越えたものが、向けた視線の中にまで、表れているようで。


 走った動揺の意味が把握できずにいるうちに、係長の手にしたスマホが着信音を放った。猫に代わり、メールのアイコンが大きく表示されたのを見てみれば、日高の名前があって。

 「……あれ、ここの場所が分からないみたい。ごめんなさい、表に迎えに出てくるから」

 「え、いや、俺が行きますよ」

 そう言いながら、すかさず立ち上がった彼女に一拍遅れて、俺も慌てて席を立った。

 既に小上がりから降りようとしているところに追い付くと、ふと、何か違和感が走って。

 「いいよ、すぐそこだし待っててくれれば……あの、どうかした?」

 背後に立つ俺に向けて、振り向いてきた姿に、唐突に腑に落ちる。

 あからさまなほどに普段とは違う、目線の高さが示すことはといえば、やっぱり。

 「……係長、思ったより背、ちっちゃいんですね」

 思わず、まじまじと頭のてっぺんから爪先まで目を走らせると、石畳の敷かれた通路に置かれた、相当に高いヒールのパンプスが視界に入る。

 今までは目前で靴を脱ぐような機会もなかったから、あれがなければこうなるわけか、などと、むしろ感心していると、係長はきゅっと唇を結んで、微かに頬を赤くして。


 「……憧れてたけど、無理だったの。こうやって追いつくくらい、構わないでしょ」


 ほんの少し、拗ねたようにそう言うと、ふいと顔をそらして。

 俺が目を見開いている間に、素早くパンプスに足を突っ込むと、かつかつと足音も高く、店の入口へと向かっていってしまった。

 「……なんだよ、あれ」

 考えなしに、コンプレックスを無造作に突いてしまったことは、悪かった、とは思う。

 けど、あんな風に見上げながら言ってくるのは、ある意味卑怯すぎて。

 意図的なはずもなく、ましてや俺をどうこうするつもりなど皆無だとは知っていても、見事なまでに突き刺さった視線の矢は、そう簡単には抜けてくれそうにもなかった。



 それからというもの、自問自答を繰り返してはようやく自覚に至り、それとなく彼女の情報を集めているうちに、ぼんやりと平岩代理の存在が垣間見えてきた。

 だが、前の上司であること、ことさらに親密な様子を目の当たりにした人がいないことなど、関係を示唆する決定的な要素が掴めなくて、いささか苛立ち始めていたのだが、

 「もー、せっかく、色々と骨折って調べてあげたのにさあ」

 どこをどう察したのか、俺が係長に気を向けていることに気付いたこいつが、わざわざ、頼みもしないのに、動いてくれて。

 平岩代理からシェアしてもらった、という、係長のものと寸分たがわない猫の画像を、何故か威張りつつ見せられた時の衝撃を思い返して、俺はふてくされ気味に応じた。

 「悪かったな、諦めが悪くて。どのみち振られたんだから、結果は同じだろうが」

 証拠を提示されたあとも、賭けめいて送ったメールの返事でカウンターを食らっても、あれだけ傍にいれば、そう簡単に気を散らすことも出来ない。

 だから、いっそのことさっさと結婚でもしてくれれば、ケリが付けられると思っていたのに、この有様で。

 「でも、まだ吹っ切ってもないんでしょ。でなきゃ、あんな台詞吐けるはずないもんね」

 的確に傷を抉るように、追い打ちを掛けてくる台詞に顔を顰めていると、細い腕が再度、半分ほどにまで減った大皿の上を、迷うように動いてから、狙いを定めて。

 フォークの先に突き刺した胡瓜のピクルスを、どこかトロフィーのように掲げた立花は、言葉を切って、メトロノームのように左右に振りながら、それをじっと見つめていたが、

 「タイテン、ケリ付けるお手伝い、してあげようか?」

 ぴたりと手を止めて、真正面から俺の視線を捉えてくると、薄く笑みを浮かべた。

 それから、答えなど気にも留めないように、ピクルスを口に入れてしまうと、しばらく小気味いいほどの音を立ててから、白い喉が小さく、上下して。

 二重の、メイクで余計に大きく見える瞳を瞬かせて、企んでいるような表情を作る。と、

 「わたし、猫好きって設定で代理とそれなりに仲良くなってるから、探り入れてあげる。ついでに、相談女っぽく試してみるのも、ありかもね」

 「……そこまではやめとけ。余計な真似すんな」

 職場内でも外でも、こいつに体よくあしらわれた男が複数いるのを知っているだけに、本気でやりかねないことにため息を吐いていると、立花はひょい、と眉を上げて、

 「タイテン、微妙な恋心がはみ出てますよー?ま、実行日時は知らせるし、ちゃーんと嫌味なくらいねちねち詳細にレポートしてあげるから、刮目して待て!って感じで」

 完全にやる気で、妙にテンション高く宣言してきたのに、俺はそれ以上否定することも止めることも出来ずに、ただ、味もろくに分からなくなった酒を呷っていた。

 ……明日、あの人とまともに顔を合わせられるかどうかも怪しいってのに、全く。

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