しるしを、つけて
生き物と共に暮らす、ということの大変さというのはさまざまにあるが、ことに難しいのは、一時的に家を空ける時のことだ。うちの猫二匹は、幸いにも折り合いも良く、一泊ほどなら餌と冷暖房の問題さえクリアすれば機嫌良く過ごして貰えそうではあるのだが、近くに誰の目もないことはやはり心配だし、何より顔を合わせないのは殊の外寂しい。
とはいえ、今のポジションでは頻繁に泊まりを要する出張などはあまり求められないし、若い頃のようにアウトドアや長期の旅行になどそう行きたいとも思わなくなってしまった。まあ、課も変われば対応する先も増え、何かしら繁忙ではあるので、年休が取りたくても取れない、という現実的な問題もあってのことだが。
ならば何の支障があるというのか、といえば、僕にはたったひとつだけ、願望があって。
「早く行くから、とは聞いてましたけど。さすがに朝七時半は予想してなかったです」
「ごめん。かまぼこに踏まれて目が覚めたのが五時だったから、もういいや起きちゃえ、ってさっさと支度してきちゃったからさ」
小さくため息を零しつつ、測ったように均等にトマトを六等分している明石さんの横で、僕は言われた通りに、ちぎったレタスをボウルの中へと放り込みながら、そう応じていた。
秋の大型連休の初日である、土曜日の朝。明石さんの家の、キッチン。
このシチュエーションを噛み締めるように内心でそう呟いてみると、やっと実現出来た、と、何やら感慨深くなってしまう。彼女とお付き合いを始めてからというもの、週末には他に予定がないようなら、必ずと言っていいほど僕の家に来てくれてはいたのだが、一応彼氏(とでも言おうものなら、真っ赤になって叱られそうだが)としては、相手の部屋に一度くらいはお邪魔してみたい、という気持ちがあって。
こうして現実となったことに、正直、浮かれているのは否めない。間違いなく猫たちに明け方起こされるからと、昨夜は早目に床についたものの、彼女のことばかりが過ぎってしばし輾転反側していたし、朝は朝で、何をどうしてもそわそわとしてしまって。
こんなこと小西夫妻にばれたら笑われそうだなあ、などと思いながら、二人分なら丁度いいくらいの量か、と見取って手を止めると、明石さんがぽつりと言ってきた。
「……今日くらいは、ちゃんと全部自分で用意したもの食べて貰おうって思ってたのに。しかも手伝わせちゃうとか、本末転倒だし」
少々沈んだ様子で、オリーブの塩漬けの詰まった瓶を手にしている彼女に、僕は思わず口元を緩めた。結構、素で嬉しいことを言ってくれている自覚は、どうやらなさそうで。
「そう言うけど、いつも一緒に作ってくれてるじゃない。今日だって、同じことだよ」
「でも、メインで動いてるの、平岩さんじゃないですか。それに、さりげなく美味しいお取り寄せとか揃えてくれてるし、私が気に入ったらいつの間にか追加で頼んでるし」
「それは、基本的に僕の好きなものを手元に置いてるからだよ。ましてや君も好きなら、まさしく相思相愛、ってとこでしょ」
「……なんか若干、用法が誤ってる気がするんですけど」
どうにも腑に落ちない、といった風情で返してきた明石さんは、気を取り直したように手に持っている瓶を開けにかかった。
じきにきつく眉を寄せたかと思うと、蓋に回した白い指先が赤く色を変えるのに、僕は貸して、と半ば奪うように引き取ってしまって、その腹に貼られたラベルに目をやった。
と、思い切り見覚えのある赤の地に丸い実の付いた緑の一枝、というデザインのそれに、もう、笑うしかなくて。
「君だって、同じことしてるくせに。もしかしなくても、他にもあるでしょ」
それなりに固い蓋を掴んで、力を込めて捻ると、ぽん、という小気味いい音を立てる。
これも好きな理由なのだと、前に一緒に食べながら話したことを思い出しつつそう言うと、案の定、明石さんはちょっと悔しげに、頬を赤くして。
「……チーズ、何種類か揃えてありますから。厚めのトースト、好きですよね」
僕の差し出した瓶を受け取りながら、俯き加減に白状した台詞に、やられてしまって。
絶対に怒られるだろうけど何か手出ししたいなあ、と悩んでいると、そんな煩悩を断ち切るように、ジングルめいた短い音が響いた。
途端にびくりと身を震わせた明石さんは、慌てたようにエプロンのポケットを探ると、すぐさま赤いスマホを取り出した。滑らかに液晶に指を走らせて、ロックを解除するなり、慣れた調子で幾度か画面をタッチしていたが、
「……なんだ、久保くんか」
「ん、なに、緊急事態?」
気の抜けたように息を吐いた彼女に、僕がそう尋ねたのは、零れた名前が彼女の部下だ、ということを知っているからだった。今年の春に、青山くんの異動に伴いやってきたこと、確か三十路手前で評判はさほど悪くないらしい、程度のことしか把握はしていないが。
すると、明石さんは軽くかぶりを振って、困ったように眉を下げると、
「全然、そんなのじゃないんです。むしろ、単なる雑談をしょっちゅう振ってこられる感じで……今のも、ほら」
もう読み終えたのか、メールを表示したそのままの状態で手渡されてしまって、見てもいいのかな、と思いながらも、僕は数行ほどのそれに目を通した。
差出人:久保泰典
宛先:明石美冬
お早うございます!
係長、今何されてますか?
俺は予定一応あったんですけど、ツレがいきなり
「彼女と行けるようになったから」
ってポイ捨てられましたー。酷いでしょー。
連休だってのにしょっぱなから最悪なんですけど、
とりあえずどっか行こうかなーって思ってます。
こないだ連れてってもらったランチ美味かったんで、
どっか近場でいいとこご存じないですか?
それじゃ、返信待ってますから!
……これはまた、意図が、あからさまな。
内心で呟きながら、シンクの正面にある小窓に置かれている、イエローの丸い置時計に僕は目をやった。
今は午前、八時三十三分。休日であろうが常に早起き気味の彼女なら確実に起きていて、かつ、連絡するにもまずまず常識的な時間帯を狙い、あまつさえ上手くすればデートにも誘えてしまいそうな、そんな時間で。
「確か彼、篠川に住んでるんですけど、その辺りのお店とか知らないし……もう藤宮のどこかでいいかなあ……」
真剣に悩んでいる様子の彼女の唇から洩れたのは、藤宮からほんのひとつ上った駅名だ。そして明石さんの家は、藤宮大田の停留所からバスでおよそ十分強、という立地だから、さらに嫌な確信が深まる。
あっさりと僕に見せてきたことからして、これに好意が込められているなどとは欠片も考えていないのだろうが、それにしても、大概、鈍い。
とはいえ、既に向こうから切り込んできている以上、気を緩めるわけにもいかないな、と、僕は取り急ぎ、気になる点を尋ねてみた。
「明石さん、これ、どこに連れていったの?」
「エストレーラです。日高さんと彼と、三人で」
AランチとBランチでどっちが好みか論争が起こりました、と笑う彼女にほっとしつつ、しっかりした洋食の後だから、と、知っている良さげな店を幾つか頭に浮かべていたが、
「なら、ちょっと渋めだけど、西町の残月あたりでどうかなあ」
そう勧めた店は、南町商店街から移転した蕎麦屋だ。以前は少し駅から離れていたが、二代目から三代目に店主が替わるに当たって、再開発の風に乗りたいと移っていった店のひとつでもある。また、幸いにも三代目の腕も良く、評判は相変わらずで。
「ああ、あのお店、メインだけじゃなくて小鉢も凄く美味しかったですよね。彼、結構お酒好きだから、呑むにもいいよって勧めときます」
すっきりしたように笑みをひらめかせると、すぐにメールを打ち始めた彼女の言葉に、ちくりと胸に痛みを覚えて、僕はわずかに眉を顰めた。
上司としてのふるまいでしかないことは理解していても、他の男性と頻繁にやりとりをされるのは、あまり心地のいいものではない。それに、気移りを隠せるような器用なひとでもないから、これ以上に疑いようなどないことも、知っていて。
揺らぐ心を抑え切れずに、僕はさりげなく彼女の背後に回ると、完全に気を抜いているその背中に覆いかぶさるようにして、きつく抱き締めた。
「やっ……あの、どうしたんですか、急に!?」
小さく身じろいで、可愛い声を上げるのに刺激されつつも、細い腰に回した腕をさらに引き寄せて、耳元に唇を寄せる。と、
「彼には、僕と、デート中だって言っといて」
意図的に発した低い声に、嫉妬といささかの劣情を乗せてそう告げると、震えが届いて。
スマホを握り締めている手も、ふわりとした後れ毛が綺麗な首筋も、柔らかいと知っている耳朶までもが、音を立てないのが不思議なくらいにさあっと、朱に染まっていって。
及ぼした効果と、ひとことの答えも返せないほどにうろたえている彼女の姿を認めて、僕はようやく満たされた心地で、そっと腕を解いた。
「明石さん、メール返す間、ちょっと隣の部屋とか見てきてもいい?」
「え、あ、か、構わないですけど……」
身を離しながら投げた、脈絡のないお願いに、混乱しながらも明石さんは、頷いて。
まだ落ち着かないのか、何か言いたげな視線をこちらに向けてくるのに、わざとらしいほどの笑みを浮かべて、僕は無言で背を向けた。
……彼女もだろうだけど、僕自身も、色々と鎮めないといけないし。
参ったなあ、と呟きながら、成り行きのままに僕は隣の部屋へと向かった。
一人暮らしゆえに、1LDKの間取りなので、辿り着くまでに廊下などはあるはずもない。そういうわけで、オーバルな天板のダイニングセットの横を抜けて、キッチンの向かいの壁際に据えられた、いかにもふかふかとしていそうな青の座面を持つソファの脇を通れば、すぐに扉に辿り着いた。あとで座らせて貰おうかなあ、などと考えながら、どこか木の枝めいたドアハンドルに手を掛ける。
外向きに開いたそれはそのままに、中へと足を踏み入れると、つい先程も覚えた、甘い香りが鼻をくすぐってきて、僕は惹かれるようにぐるりと首を巡らせた。
おそらく六畳ほどだろう、リビングと同じ白い壁紙に覆われた部屋で、奥の壁に三つ、腰高の位置にアクセントのように設けられた、スクエアな突き出し窓にまず目を引かれる。
換気のためか、わずかに開けられたそこから朝の光が差し込む中、すぐに視界に入ってきたのは、ベッドだった。ブラウンの、ヘッドレストを持つ箱型のごくシンプルなもので、左側の壁沿いに寄せて置かれているのだが、
「やっぱり、ほんのり可愛い趣味っていうか……」
カバーはどうやらお揃いと見えて、布団も枕も、一見味も素っ気もない淡いブルー一色だが、よくよく見れば、四隅に花と蜜蜂、てんとう虫とたんぽぽ、雲と虹、そして猫と魚、という組み合わせで、小さな刺繍が施されていて、なかなかに芸が細かい。
猫の柄は黒猫で、出来ればサビか茶白が良かったなあ、などと思いながら、右手の壁に並んだクローゼットやチェストやらを眺めていると、やがて気になるものが目についた。
ベッドから少し離して置かれた、横長の四角い木製のテーブルの上にあるのは、椅子の形のどうやらスマホスタンドらしきものに、多分照明のリモコン、それに浅いペントレイ。
そして、大きく今月のページが開いたままの、手帳だった。
……これ、明石さんがいつも持ってるやつだな。
すぐにそれと分かったのは、皆が皆地味な黒ばかりが目につく中で、カバーは爽やかなブルーグリーン、そこに枝葉に止まる小鳥が型押しされている、凝ったものだったからだ。
しかも、栞紐の先には一葉の飾りがついていて、今は、ページの上に横たわっていて。
そこまで目を走らせたところで気が咎めて、僕は視線をさまよわせた。彼女がブロック式のものを愛用していることも、会議などのスケジュールを米粒のような文字で、升目の限界まで書き込んでいることも知ってはいるが、覗き込んだことはさすがにないからだ。
だが、あえてそらしたはずの目の端に、どうしても追求したくなるようなものが、引っ掛かってしまって。
「それはまあ、堂々と名前も書きにくいんだろうけどさ……」
苦笑も抑えられずにそう口に出してしまうと、僕は色々と諦めて、手帳に顔を近付けた。
月曜始まりのそれには、平日は会議、研修、出張などに加え、担当全体のスケジュールが詳細に書き込まれていて、各業務の日程(特に、決裁期日は朱書きだった)はもちろん、上司及び係員の休暇予定に至るまで、綺麗な楷書で記されている。
癖なのか、各項目の頭には、四角、三角、逆三角、丸、黒丸、星など、思いつく限りの図形が付けてあり、アンダーラインとともに、一目で見て取れるように強調されているのだが、土曜日、日曜日と祝祭日には、いくつか特徴的なものが描かれていた。
例えば、先週の土曜日は、三角の耳と髭を持った、黒と茶色の猫。つまり、どう見てもサビ子さんであるマークの横に、『代理』との文字が躍っている。
しかも、点は花に、縁や鈎は実や葉を帯びた蔓草にと、ひときわ可愛らしい飾り文字にされているものだから、見るからに醸し出す雰囲気が異なっていて、自然と頬が緩む。
さらに今週の土曜日、要するに今日の日付を見てみると、今度は茶と白の猫で、無論のこと、我が家のかまぼこだ。耳の色が左右で違うことまで再現されているのも必見だが、今度は、『代理』の文字がさらに豪華に変化している上に、何かその下に列記されていて。
「チーズ四種、ケイパー、オリーブ、卵……今日の、材料か」
買い足す、と最後に書かれているので、どうやら買い物メモだったらしい、と納得した直後に、少し間を開けて記されている、酷く細かな文字列を見つけて目を凝らす。と、
「平岩さん、あとトースト焼く手前まではだいたい出来ましたから、そろそろ……」
スリッパを鳴らす軽い足音とともに、開け放してあった扉から明石さんが、入ってきて。
立ち位置も向けた視線の先にも何一つ言い訳しようもなく、僕が振り返るなり、彼女はほんの数瞬のうちに、事態を察したようで。
あ、と、唇が形を変えるものの、声は出て来ない。試みるように幾度か口を動かしては、結局、うー、というような細い唸り声を上げて、その場に立ち尽くしてしまった。
「その、ごめん。つい、見ちゃった」
繕う気にもならず、ストレートに謝意を表してみると、明石さんは少し顔をそむけて、
「そうやって放置してたの、私ですから。だいたい、見られて困るようなこと、書いてないですし」
きっぱりとした口調で続けたものの、どことなく気恥ずかしげな様子は、隠せなくて。
「……参るなあ、ほんと」
このひとときたら、誰よりもとびきり愛らしくて、かなわなくて。
口にしてしまいたいけれど、そうすれば照れて逃げてしまいかねないから、そろそろと傍まで近付いて、宥めるように髪を撫でながら、耳元に囁く。
「明石さん、僕の誕生日、来月なんだけど」
記されていたのは、リボンの掛かった箱の横に、『それとなく探る』という、一文で。
近々に、他に該当する予定もないので外れではないだろう、と推測したのだが、
「……それは、知ってます」
一拍を置いてそう返してきた彼女は、僕が意外そうな顔になっているのに気付いたのか、するり、と手元から抜け出してしまうと、あのテーブルに近付いていった。
そうして、手帳をそっと取り上げると、さらに傍のペントレイから、淡いライラックのボールペンを選び出して、再び僕の元へと戻ってきて。
「小西さんから、聞いたんです。奈緒経由で」
それを聞いて、なるほど、と僕は納得した。かつて、彼と同じ担当にいた時に、流れで誕生日を祝われる、という機会があったことを覚えていたからだ。
しかし、そのちょっとした宴の席は、いささかならずほろ苦い思い出を伴っていて。
「離婚慰労会、だったんですよね?」
「そう。ま、僕が言い出したんだけどさ」
六年も共に過ごしていれば、別れるとなると物理的にも精神的にもそれなりのパワーを必要とする、ということを思い知らされていた時期で、傍目にも疲弊していた、らしい。
それを見かねた彼に連れられ、話しているうちに零れた単語が、それで。
「忘れてたんだよねえ、すっかり。年取って、祝うこともなくなっちゃってたし」
若い頃は、お互いに想いを込めて伝えていたものが、薄れて、果ては消えていって。
気付けば、話すことも触れることも稀になり、それが当たり前のようになって。
愛しいものをこうして懐に入れてはいても、時折蘇る微かな痛みに口元を歪めていると、明石さんは、ふいに栞紐に手を掛けて、手帳を開いてみせた。
すかさず指先が今月のページをめくってしまうと、来月の月間予定表が姿を現す。既にいくつかの予定が黒く書き込まれている中に、猫たちのマークが今度は二つ、並んでいて。
「去年は、ばたばたしてるうちに過ぎちゃってたし、今年は、って思ってたのもあるんですけど……そろそろ、本来の意味に戻しても、いいんじゃないかなって」
そう言いながら、手にしたボールペンを、さらりと滑らせて。
『平岩さん 誕生日』の飾り文字を、可憐なまでの花綱を描いて、囲んでしまって。
しばらく、花を加えたり実をつけたりと、納得するまで細密なそれを書き込んでいたが、やがて、ようやく納得がいったようで、手を止める。
「それで、あの……平日だし、おまけに週の中日ですけど、お邪魔しちゃっても、いいですか?」
いつになくおずおずと、聞くまでもないことを問うてくる彼女に、僕は口の端を上げて、
「いいよ。なんだったら、そのまま住み始めてくれちゃっても」
専用の部屋を作ってしまっても、どれほど心に食い込んでこようとも出なかった言葉が、ふざけ混じりとはいえ素直に転がり出たことに、余計に笑みが深くなる。
そして言われた方はと言えば、大きく目を見張って、ためらうように唇を震わせて。
「……その、それは、いずれは、ということで」
消え入りそうな、それでもきちんと耳に届いた声を、あらためて確かめるように、僕はそっぽを向いた彼女の身体をくるみ込んでは、与えられた温もりにじっと浸っていた。
それから、朝食からブランチへと変化してしまったそれを、二人で食べて。
「そういえば、さっきの久保くん、どうしたの?」
コーヒーのおかわりをマグに注いでもらいながら、ふと思い出してそう尋ねてみると、明石さんは、う、と小さく声を上げて。
「……彼とデートしてる、とは、送りましたよ」
さらに、返事が来ていない、ということも聞けて、ますます口角が上がってしまって。
……このまま行くと、そのうち三日月みたいになっちゃうんじゃないかなあ、僕の唇。




