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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
二年目:
40/62

雨に、打たれて

 一応、覚悟を持って昇級試験を受けているのだし、管理職になるということへの自覚も気概も、十分なほどに溜め込んでいるつもりだった。加えて、三年という短い間とはいえ、理想とする上司のふるまいを間近で見ることが出来ていたのだから、それに倣いつつも、自分らしく目を配れれば、などと意気込んでいたわけだが、やはり最初から全てを完璧に、とはいかないわけで。

 「……ほんっと、疲れた」

 ようやく残業を終えて、バス停に向かう裏道に向けて足を進めながら、強い雨と二つの低気圧が巻き起こしている風とに紛れるように、私はため息交じりに呟いていた。

 もう、あの子、しっかりしてるようでぽーんと抜けてるところがあるからなあ……

 今日は、私の部下が、危うく必要な決裁を期日までに受けることが出来なくなるところだった。毎年七月に一度のみ、対象者に文書を送達するのだが、当然ながら業者に発注が必要となる案件なので、見積もりを取り、発注を行い、そして資金について、部長までの決裁を通さなければならない。その決裁を完了すべき期日について、部下の認識が誤っていたことが分かり、経験者含めた他の係員も巻き込んで、一騒動となってしまったのだ。

 特に部長が出張ののち会議、というスケジュールで、なかなか捕まらなかったものの、どうにか処理を終えることが出来た時には、皆が皆、虚脱状態になってしまった。

 決算事務も大過なく終わり、いささか気の緩みがちな時期であることも、今回の事態を引き起こした要因かもしれないが、私の目が十分に行き届かなかったことも、事実で。


 ……平岩さんが、傍にいてくれれば、いいのに。


 ふと、そんな気弱な考えに襲われて、私は唇をきつく結んだ。

 この春に昇格したのは私だけでなく、彼も他課の課長代理となった。同じ局内ではあるもののフロアは別になり、日中顔を合わせることなど、ほとんど無くなってしまって。

 しかも、彼のポジションを引き継いだ格好になるだけに、こういう時、つい彼と自らを比較してしまって、さらに気が沈む。ことに、篠突く雨の中を歩いて帰るとなれば、なおさらだ。おまけに、差しているのは非常用の折り畳み傘で、風に煽られるたびに細い骨が真逆の方向に折れ曲がろうとしてくれるから、余計に神経を使う、というわけで。

 ともあれ、今日は幸いにも金曜日だ。とにかく早く帰って寝よう、ということしか頭になかったせいか、その声に気が付いたのは、ひときわ強い一陣の風が耳をかすめた時で。

 「……何、なんか、鳴いてる?」

 甲高い、みいみい、というような、いかにも哀れを誘う切実なそれが流れてきて、足を止める。気のせいだと思いたいようなこんな悪天候の中で、何かが助けを求めているのだ。

 さっと周囲に首を巡らせると、真っ先に目に入ったのは、小さな規模の児童公園だった。

 見通しに配慮しているのだろう、丈の低い生垣が縁に巡らされたそこには人の姿はなく、フェンスの付いた砂場やブランコ、滑り台などの遊具が間隔を置いて配置されているのが見て取れた。そして、殊の外目立つのは、ほぼ中央にそびえ立つ、シンボルツリーめいて大きく風に揺れている、欅の木で。

 毎日傍を通ってはいたものの、寄ったこともないそこに私は足を踏み入れると、考えもなしに声の在り処を追った。おそらく雨を避けるために物陰にいるはずだ、と見越して、通り過ぎざまに遊具の下を覗き込みながら進んでいくうちに、ますます声が高くなる。

 呼ばれるままに辿り着いたのは、欅の影に入るように設置された、ベンチだった。脚がスチール、座面は木製というその周囲を見回すと、やっと声の出所を見つけた。

 三人掛け、というほどのその下に、隠すように置かれていたのは、段ボール箱だった。中に何枚かの薄汚れたタオルが敷かれていて、半ば埋まるようにしながら鳴いていたのは、ほんの小さな、子猫で。


 ……サビ子さんよりも、小さい。


 白に茶色のぶちのあるその子猫は、私の姿を認めるなり、さらに声を高くして、ブルーグレーの瞳をこちらに向けると、すぐさま傍へと寄ってきた。

 箱の端に掛けた前足は思ったよりしっかりとしているものの、まだ瞳の色も定まらないほどの幼い子だ。そっと背中に触れてみると、ベンチがうまく傘の役目を果たしたのか、幸いさほど冷えても、濡れてもいない。

 だけど、このまま放置されれば、と考えた瞬間、私は肩に掛けたトートバッグを探って、いつも持っているナイロン製のエコバッグを取り出していた。

 そこに、箱に入っていたさほど濡れていないタオルを二枚、底に敷き詰めると、残った一枚でざっと子猫の身体を拭いて、くるみこんだままバッグの中に入れる。さらに小さな頭が出せるくらいの隙間を残して、左右の持ち手を軽く結んでしまうと、胸元に抱える。

 ずり落ちかけたトートを揺すり上げ、傾いでいた傘をどうにか真っ直ぐに戻しながら、とりあえずどうしたものか、と息を吐いた時、バッグの中で着信音が響いた。

 「ちょ、今!?今なの!?」

 両手がほぼ塞がっている時に掛かってきたそれに、すっかり混乱しつつも、傘を地面に放り出すことで左手を空け、せめてもの雨除けにと、枝葉の下でスマホを取り出す。

 と、液晶に表示された彼の名を見るなり、安堵ともなんとも言えない感情が沸いて。

 中央に浮かび上がったその名前を、一瞬だけ見つめてから、待たせるわけにもいかずに私はそっと指を動かした。と、耳に当てるなり、聞き慣れた声が零れてきて。

 『あ、明石さん?僕だけど』

 いつも通りの前置きの後に、一拍を置いて、はい、とだけ答えると、何かを察したのか、数瞬の沈黙の後に、気遣わしげな言葉がそっと続いた。

 『今日、なんか大変だったらしいって小西さんから聞いたのもあるんだけど、こっちもまだ雨凄いから、無事に帰れたかなって気になってさ……ねえ、明石さん、大丈夫?』

 「……ぜんっぜん、大丈夫じゃないです。むしろ途方に暮れてたところなんですけど」

 ますます強まる風雨にさらされながら、優しい声に無闇に泣きたい気分になりつつも、バッグの中で声高に鳴き続けている子猫を見下ろして、私は欅の幹に力なく背を預けた。



 それから、手短に状況を話した結果、平岩さんが車で迎えに来てくれることになって、駅前のロータリーまで移動して。

 スーツも何もかもずぶ濡れの酷い姿を随分心配されたけれど、とにかく子猫が先だ、ということで、持って来てくれたキャリーに彼(もしくは彼女)を入れてしまうと、すぐに彼の家へと向かって、しばし。

 「……なんか、すっかり手慣れた感じですよね」

 この子の面倒はこっちで見るから、と、手回しよく溜められていたお風呂に入るように勧められて、有難く甘えさせて貰って。

 いくつかここ専用に置いてある中の、淡いブルーの上下のルームウェアに着替えた私は、乾かした髪を手ぐしで適当に直しながら、ケージの前に座り込んでいる彼に声を掛けた。

 「相変わらず本とネットで首っ引き、っていうところだけどね。小さいから心配だったんだけど、歯も大方生えそろってるし、とりあえず落ち着いたみたいで良かったよ」

 そう言いながら、すぐさま首だけで振り向いてきた平岩さんは、私の姿を見るなり頬を緩ませて、おいでおいで、というように手招きをしてみせた。

 やけに嬉しげな表情の理由は、嫌というほど分かっている。今着ているルームウェアは、純粋に私の好みで選んだものなのだけれど、それ以上に、彼が酷く気に入っているのだ。

 ちなみに、縁に施された小花のステッチに加えて、裾や袖口がメロウフリルで仕上げられているのがいいらしい。……まあ、こっちも、ある程度分かってやっているのだけれど。

 ともかく、サビ子さんを拾った時の如く、掃き出し窓の傍に配置されたケージの前まで近付くと、あぐらを組んで座っている彼の隣に腰を下ろして、私は思わず微笑んだ。

 白い柵の向こうには、浅めの紙箱を利用した砂入りの簡易トイレと、その横にはまさに取り急ぎという感じの、クッションの上に薄いフリースの膝掛けを重ねた寝床が作られているのだが、肝心の子猫はといえば、そこにはいなくて。

 「体温が、丁度いいのかな……あと、そのくぼみ?」

 「確かにサビ子さんもお気に入りだけど、どうだろうね。でも、困ったなあ」

 揃えたわけではないけれど、上は淡いブルー、下はネイビーのシャツパジャマ、という格好の平岩さんは、組んだ足のまさしくど真ん中に陣取って、くるり、と綺麗に丸まって寝ている白と茶の子猫を、言葉通りに眉を下げて見下ろしていた。

 ふんわりと乾いた白いお腹はほどよく膨らんでいて、見る限りでは満足するまで食べて眠ってしまったらしい。既に空になった白い皿の脇に置かれている離乳食の缶は、三分の一ほどが減っているから、なかなかの食欲を発揮したようで。

 「困ったって、ひょっとして動けないからですか?でも、サビ子さんが寝ちゃった時と同じでしょう?」

 「それもあるけど、他の猫の匂いがつくと浮気した!って思われるらしいし……でも、この子はこの子で可愛いしねえ。あ、明石さん、もう名前とか考えてる?」

 「え、飼うって決めちゃったんですか!?」

 性急すぎる台詞に、さすがに驚いて私がそう言うと、平岩さんは意外そうに眉を上げてみせて、

 「飼っちゃだめ?明石さんのマンションペット禁止だし、ここにいればいつでも会いに来てもらえるしさ、いいと思うんだけど」

 「でも、サビ子さんとの相性とか、コスト的な問題とかもあるし……」

 感染症などの可能性もないとはいえないから、彼女は玄関脇の猫部屋に入ってもらっているのだが、いずれにせよ、新しく猫を迎える場合には、先住の猫と徐々に慣らしていかなければならないというし、万が一に性格が合わなかった時のことを考えると、そうそう素直には頷けなくて。

 そんなことを伝えると、平岩さんは常の如く、じっとこちらの話を聞いていたけれど、やがて、軽く口元を緩めて。

 「この子が増えたところで手間もさほど変わらないし、希望的観測を含んでも、勝算は十分にあると思うよ。サビ子さん、ほんと穏やかな性格だし……どうしても合わない時は、里親とかも考えなきゃいけないかもしれないけど」

 そこはそれで、とこともなげに笑う彼に言葉を継げないでいると、小さな暖かいものを撫でていた手が、するりと伸びてきて。


 頬に指先が触れた感触に、波紋のように唇が震えて、声が出なくなる。

 一言でも放てば、違うものが堰を切って流れ出しそうで、それが、怖くて。


 「明石さん、いや?」

 「……だって、私が、勝手に拾ってきちゃったのに」

 柔らかく甘やかすような声音に、無理矢理に抗うようにそう零すと、動かされた親指が唇を、そっと押さえてきて。

 「だから、でしょうに。君が望むことなら、なおさらしてあげたいじゃない」

 子猫のことだけを指しているはずのその言葉に、別のスイッチを押されたかのように、張り詰めていた糸が、ふつりと切れてしまって。

 やみくもに右の手を伸ばすと、彼のパジャマの端を掴んで、ぎゅっと引っ張って、

 「だったら、うちに戻ってきてくださいよ。また、一緒に仕事、したいのに」

 無理でも無茶でもあることを理解していながら、駄々をこねるように、私はそう言った。

 ひとつ階段を上がったことは、後悔などしていない。けれど、このひととこんなに早く離れてしまったことに、思いの外擦り減っていることに気付いて、心細くて。

 傍でずっと見ていて欲しい、という甘えが多分にあることも、見透かされているというのに。だからこそ、こうして距離を置いた方がいいのだということすら、きっと。

 と、いつしか頬に添えられていた手が外れたかと思うと、ゆるりと動いたそれが、私の頭にぽん、と乗せられて。

 「ちょっと、待っててね」

 髪を掻き混ぜるように一撫でしてから腕を引くと、そのまま、大きな手は、未だ起きる様子も見えない白と茶の毛玉を、そろそろと包み込んでしまった。

 運ぶには片手で足りてしまうほどの子猫は、そうして持ち上げられても、小さな鼻から抜けるような息を漏らすだけで、何を構うこともなくて。

 あぐらを解いて膝を立てると、空いた左手でケージの扉を開けた平岩さんが、奇妙に花めいた襞を持つフリースの中心に、壊れ物を扱うように置いてしまうと、

 「……参ったなあ、もう」

 ほんの少し背を丸めて、そう呟いた彼は、それでも音を立てないように、扉を閉めて。

 膝を揃えた姿勢のまま、ラグの上に手をついてこちらに向き直ってくると、私の両手を指先も見えないくらいに握り込んできた。


 「大事なものは増えちゃうし、一番に大事なひとは、もっと大事になっちゃうしさ……おまけに、こんなに甘えてくれるとか、なんだかどうしようもなくなりそうなんだけど」


 その意味の深さに気付くには、あまりにも口調が、淡々としすぎていて。

 俯いたきりの彼の姿を、呆然として見つめるうちに、こらえていたものが静かに溢れて、頬を伝い落ちては、雨垂れめいた音を立てる。

 握った手を濡らした雫に、顔を上げてきた彼の瞳の色すら、もう見えなくて。

 「あんまり、我が儘言わせないでください。キリがないし、こんなんじゃ、止めどなく厚かましくなりそうなんだから」

 「今更そんな逆アピールされても、信用できないでしょ」

 切れ切れに投げる言葉を、ばっさりと斬り捨てるように即答してきた平岩さんは、手を離すと、長い腕をすっと伸ばして、抱き締めてきて。

 「それでなくても、君は責任感強いくせに、自己評価は控えめ過ぎるきらいがあるから、かなり心配してたんだからさ。疲れちゃった時くらい、もたれてくれればいいじゃない」

 ねえ、と、言い聞かせるように付け加えると、首筋に軽く口付けて、背中を叩いてきて。

 やけに正確に刻まれた、一定のリズムで続く、優しい手の感触に促されるままに、私は何もかもをさらけ出すように、ひたすら泣き続けていた。



 そうして、気付いた時には、翌日の朝で。

 見慣れてしまった柾目の天井を、まだ腫れぼったさの残る目をこすりながら見上げつつ、同じ布団の隣で、当然のように寝転がっている平岩さんに、私は声を掛けた。

 「サビ子さんとあの子、もうご飯あげちゃいました?」

 そう尋ねたのは、和室からリビングに繋がる襖が、微かに開けられていたからだった。

 その隙間からは、ケージがすぐに目に入るようになっていて、小さな毛玉が変わらず、大人しく丸まって、眠っている姿が伺えて。

 「うん、少し前に。けど、やっぱり匂いが気になるみたいでねえ、彼女にめちゃくちゃ不審そうに遠巻きにされちゃって……ああ、でもこうしてみるとどっちも可愛いしなあ」

 「一晩しか経ってないのに、もう親馬鹿ですか」

 呆れたようにそう言いながら、私は身をひねって、うつ伏せた姿勢のままストレートなアイボリーのPHSを、長い指でちまちまと操っている、彼の手元を覗き込んでみた。

 やや小さ目の液晶画面には、次々と猫二匹が単体で、ほぼ交互に映し出されていくのだが、一度も見たことのない画像ばかりだった。ということは、夜半から明け方(つまり、つい先頃だ)にかけて、撮り溜めたものだということで。

 「だって、可愛いからさ。子猫は油断してるとすぐ大きくなっちゃうし、サビ子さんはサビ子さんで、信じられないくらいアクロバティックなポーズ披露してくれたりするし」

 「確かに、見てると羨ましいくらいですけど……あれ?」

 さすがに数が尽きたのか、お皿の水を舐めている子猫の画像を最後に、全画面表示から一覧表示に戻った、その時。

 サムネイルの一番下段、右端に、どう見ても猫ではないものが映っているのが、見えて。

 「あ、しまった。これだけフォルダにしまい忘れてた」

 「何事もなかったように操作続けないでください!それ、私ですよね!?」

 顔色を変えた私に背を向けることすらせず、指を走らせ続ける平岩さんに詰め寄ると、彼はそうだよ、とあっさり肯定してきて。

 「せっかく可愛い人が傍で寝てるっていうのに、撮らない手はないでしょうに。それと、ちゃんとフォルダにパス掛けてあるから、安心していいからね」


 ……そういう問題じゃないって言っても、びくともしなさそうだし、この人は。


 リアルに漏れたこちらの呻きなど構う風でもなく、平岩さんは、妙にいそいそと操作を終えてしまって。

 その後も、隠すこともなくむしろ自慢げに、当該のそれを見せてきた彼の満面の笑顔と、付けられたフォルダ名に、私はさらに頭を抱えるしかなかった。

 ……『美冬(みふゆ)さん』とか、めったなことでは呼ばないくせに。もう。

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