つかず、離れず
サビ子さんという猫を飼うようになってからというもの、僕の生活における習慣として、『清掃』と『整理整頓』というものが、より重要なものとしてクローズアップされてきた。
とはいえ、全くやっていなかったわけではもちろんない。最低限、水回りはやらないと衛生面の問題が出てくるし、掃除機くらいは掛けておかないと、どことなく漂う侘しさも拭えない。元より一人にはいささか広すぎる、4LDK+フリールームの一軒家をどうしたものかと持て余していたから、余計な物のあまりない、つまり一階のリビングダイニングさえ片付いていれば、まだ幼い猫一匹がフリーに遊べる場所も寝床も、十分に確保できていたわけだ。
しかし、彼女が実にすくすくと成長してきたことで、ついに二階にまで上がって来れるようになってしまったからには、いよいよそちらにも手を入れざるを得なくなったのだが、十年弱の間に堆積したものは、なかなかに手強くて。
「あっ、だめです、それ支えてないと崩れ……!あー、もうー!!」
鋭く飛んだ彼女の声が、じきに呆れ交じりのそれに響きを変えていくのを聞きながら、僕は足元に雪崩落ちた、さまざまなサイズの本の山を見下ろしていた。
「えーと、ごめん……バランス的にいけるかなって思ったんだけど」
「この状態じゃ無茶ですよ!それより、足はなんともないですか!?」
意味もなく髪に手をやって謝る僕の目の前で、膝をついて屈み込んだ明石さんはそう言いつつ、足首の辺りまでを埋め尽くしているそれらを、手早く取り除いてくれて。
そうしながら、これ以上被害を及ぼさないようにざっとサイズごとに積み上げてから、安心したように深々と息を吐くと、ちょっと怒ったように僕を見上げてきて、
「係長、このままだとそのうち怪我しかねないですから、大人しく、私の指示通りに、動いてくださいますか?」
「はい、承知致しました」
まるで子供に言い聞かせるように、単語を区切って強調してみせるのに、苦笑を返す。
すると、彼女はよろしい、というように頷いてから、膝を伸ばして立ち上がると、腰に手を当ててから、ぐるりと部屋の中を見回した。
「それにしたって、酷いなあ……書斎って、普通もっと重厚で格好いいイメージなのに、足の踏み場もないし。職場の机周りとは大違いですよね」
「仕事とプライベートは別物ですよ。あっちは整然としてる分、こっちは適当にしたい、っていうだけでさ」
まあ、適当にしすぎて、何が何だか分からなくなってるのも事実だけど。
今、二人でいるのは、二階にある僕の書斎だ。家を建てる時の希望として、小さくてもいいからプライベートスペースが欲しい、というものが双方にあったので、階段を上って左手が納戸と書斎、そして右手の二間のうちひとつが別れた妻の部屋、としていたのだが、その頃から中央の吹き抜けがそのまま、整然と雑然の境目となってしまっていた。
壁に作り付けた本棚は、これまでに集めた楽譜や歌詞集、趣味の雑誌などで満杯なので、入りきらない小説や実用本などの類がそこら中に積んであって、机の上にはCDがどこか地層めいた模様を織り成している。本と同様、つつけばあっさりと崩れ落ちるだろう。
そんな中でまだ比較的綺麗に保たれているのが、気が向いた時にほこりだけははたいているオーディオ類と、毎日寝ているグレーのカウチソファで。
ともあれ、さほど広くもない部屋の中を、これ以上被害を拡大しないよう、そろそろと爪先立って見回っていた明石さんは、うん、とひとつ頷くと、
「細かい分類は後から行うとしても、とりあえずはみ出している物は全部、一旦廊下に集積しましょう。とにかく床が見えるようにしなきゃ、危なくってサビ子さんにも入って貰えないですよ?」
「そうだねえ……確かにこのままじゃ、明石さんにも傍にいてもらえないし」
隠しもしない願望がうっかり口から出てしまった、と気付いた時には、もう遅かった。あ、また怒られるかな、と思って彼女の方を見ると、驚いたように目を見張っていて。
僕と目を合わせるなり、さっと頬が朱に染まったけれど、すぐに背を向けてしまって、
「……あんまり、何度も言わないでください」
細い声でそう言うなり、手近な本の山を両腕に抱え上げると、開け放したままの扉から足音も高く出て行ってしまった。
どうも、箍が外れて、困るなあ……
前の妻と別れて、四年。彼女が僕の下についてくれてからは、二年。
まさかこんな風に、分かりやすく恋をしてしまうなどとは、思いもしなくて。
仕事の出来る良い部下から、年下の可愛い女性へとスイッチを切り替えてしまったあの時のことを、僕は頭を掻きながら思い返していた。
サビ子さんを拾って、提案通りにすぐさまホームセンターへと赴き、考えられる限りの必要なものを買い揃えて、彼女が呼んでくれたタクシーで、僕の家へと向かって。
「係長、先にその子奥に連れていってあげてください。あ、でも荷物搬入し終わるまで出しちゃだめですよ、外に出ちゃうかもしれないですし」
肩に掛けたトートバッグを靴箱の上に置いてしまうと、慣れた様子で、玄関ドアに設置してある、レバー式のドアストッパーをパンプスの先で器用に下ろしながら、明石さんはてきぱきと僕に指示を飛ばしてきた。
「分かったけど、重いものは置いといていいからね、僕がやるから」
そう返しながら、言われた通り素直にポーチを抜けて中に入ってしまうと、片方の靴を脱いで上がり框に足を掛ける。左手には布製のキャリーバッグを下げているから、微妙にやりにくいのを、すっと傍に寄ってきた彼女が、横から両手で取り上げてくれて。
「あ、有難う。助かるよ」
「サビ子さんが心配なだけです。良かった、元気そう」
平然とそう返してきた後に、バッグのメッシュ状の窓から中を覗き込むと、ほっとしたように口元を小さく緩めるのに、少しばかり胸が騒ぐのに気付いて、複雑な心地になる。
ヒールの高いベージュのパンプスに、ライトグレーのパンツスーツという、普段通りのきりりとした服装も、軽く波打つショートの黒髪もそのままだというのに、表情一つで、こうも印象が変わるものだとは、思いも寄らなくて。
と、こちらの様子が妙なのに気付いたのか、明石さんは怪訝そうに僕を見上げてくると、はい、とキャリーバッグを突き出してきた。
「もうすぐ日が変わっちゃいそうだし、急ぎましょう。この子が落ち着くまでは、責任持って手伝いますから」
「……はい。でも、無理はしないでいいからね」
ソプラノの声が中から響くそれを受け取りながら、性格の出ている台詞に苦笑を返す。背中を押されたとはいえ、飼うと決めたのは僕だというのに、どこまでも生真面目で。
すると、いつもならむっとするかと思いきや、彼女は微かに眉を下げて、困ったような表情を作ると、
「お互い様です。たまには、こっちがフォローする側に回ったっていいでしょう?」
そうきっぱりと言うなり、さっと踵を返すと、ポーチに積んである大量の荷物の元へと足早に行ってしまった。
「……僕、何か、したっけ?」
はっきりと、恩義めいたものを感じているような反応に首を傾げつつも、サビ子さんに聞いてみる。が、当然ながら可愛らしい高い声で、にゃあ、としか返っては来なくて。
そんな馬鹿なことをしている間にも、第一弾とばかりに両手に荷物を下げた明石さんと目が合って、何をやってるんですか、とばかりに、きゅっと眉を寄せられて。
さすがにこれ以上呆れられたくはないので、僕は慌ててキャリーバッグを抱え直すと、リビングに続くドアへと向かっていった。
そこからは、二人がかりなだけに、かなり作業の進行は早かった。
この大きさからすると、おそらく離乳は済んでいそうだが、子猫だけにまだまだ小さいから、家具の隙間に隠れられたりしては危ないし、加えて、そんな場所で粗相をされても甚だ困ったことになる。
そういうわけで、設置場所を日当たりの良い(今は夜中だが)掃き出し窓の傍と決めて横にも縦にも広いケージを組み立て、中にトイレと、ふかふかとした寝床を設置して。
完成と同時に、サビ子さんに一旦そこに入ってもらっている間に、床にタオルを敷いて猫用のミルクに水、そして餌を用意して、そろそろと彼女の名を呼んでみる。
と、まるでその単語が、自分のことだと理解しているかのように、三角の耳をぴくりと震わせて、一散にこちら目がけて駆け出してきて。
「……食べてる」
「うん、食いつきもいいみたい。ひとまず、良かったねえ」
ふんふん、と匂いを数度嗅ぐや否や、小さな頭を器に半ば突っ込むようにして、忙しく口を動かしている姿に、安堵の息が漏れる。それほど弱っている様子はなかったものの、やはりか細い体つきではあったから、こうして一心に食べている姿は、嬉しくて。
しばし、二人とも何を言うでもなく、時折、うにゃうにゃという奇妙な声を上げながら食べ続ける姿をじっと見つめていたけれど、突然思いついたかのように、明石さんが僕の方を向いてきた。
「係長、この子の写真、撮ってもいいですか?」
「え、ああ、いいよ、いくらでも。フラッシュさえ焚かないなら」
タクシーの中で取り急ぎ読んだ、『イロハで分かる!猫の飼い方』という本からの知識を思い出しながら、とっさにそう返すと、彼女はまた、唇の端を少し上げてみせて。
「これ、そもそもフラッシュ機能ついてないですから。安心してください」
妙にツボだったのか、軽い笑い声まで上げて、鞄から取り出した赤のスマホを構えては、伏せるように姿勢を低くして、サビ子さんを正面から、横から、身を起こして上からと、あらゆる角度から撮り始めた。
酷く念入りな様子に、趣味なのかなあ、などと、呑気に考えながら眺めているうちに、サビ子さんは夢中で餌を食べ、ミルクが気に入ったのか全て飲み尽くして、食事を終えて。
信じられないほどに薄く小さな舌で、しきりと口の周りを舐めているその姿を目にして、明石さんはようやく手を止めた。
「もう、大丈夫、かな」
「とりあえずは、っていうところかなあ。すきっ腹に入ると後で吐く時もあるらしいし、とにかく、少し様子見だね」
そう応じたことの他にも、トイレとか、用意した寝床でちゃんと眠ってくれるかとか、色々と気に掛かる点はあるけれど、それはもう、これからのことで。
ぼんやりとそんなことを考えていると、毛づくろいに熱心な様子のサビ子さんの横で、ふっと、口元に手を当てた明石さんが、小さくあくびをするのが見えて。
とっさに腕の時計に目をやると、とうの昔に日は変わっていた。共に残業をしていて、バスの時刻の都合で、僕が先に職場を出たのが午後十時を過ぎていたから、当然のようにこうなるわけで。
「ごめん、明石さん、遅くまで付き合わせて。お腹空いてない?」
一応、庁内の売店で夜食は買って、おにぎりやサンドイッチは食べてもらったものの、普通に考えれば到底足りないだろう。コーヒーでも淹れるか、それとも簡単な夜食でも、と考えていると、明石さんは、少し慌てたようにかぶりを振って、
「いえ、大丈夫です。あれだけ食べたし、今から、っていう気にもなれないですから、もう少ししたらお暇します」
「そう?なら、家まで送るよ」
彼女の住まいについては最寄り駅しか知らないけれど、この時間帯なら道も空いているだろうし、無理に急がなくても、ものの十分もあれば辿り着けるはずだ。
ところが、明石さんはそれを聞くなり、きっぱりと首を左右に振って、断固たる口調で言ってきた。
「だめです。係長、サビ子さんのこと見ててあげなきゃいけないじゃないですか」
「そうだけど……落ち着いたらケージに入っててもらうし、少しくらいならそっとしておけば」
まだ暖かい時期だし、おそらく大丈夫、と続けようとして、僕は口を噤んでしまった。
それは、鋭く細まった彼女の瞳が、咎めの色を露わに、こちらを睨み据えてきたからで。
「頼られたものから、そんなに簡単に離れないでください。何もかも初めてで心細くて、そんな時に伸ばしてもらった手って、凄く有難いんですから!」
目を見開いたのは、その放たれた言葉のせいではなくて。
数瞬のうちに、後悔から薄い羞恥にまで動いた表情に、見惚れていたからで。
「……ええと、明石さん」
「……なんですか」
なんとか呼びかけてはみたものの、ちょっと拗ねたような響きの声が、耳に届いて。
あからさまなほどにそらされた顔と、紅を刷いたように、ほんのりと染まった頬の色になんとも言い難い心持ちになりながら、僕はとにかく尋ねてみた。
「その、今照れてる理由って、もしかして僕なの?」
つい先程の台詞と、初めて目にするこんな姿とを考え合わせると、どうやらそうとしか思えなくて。
放った問いがさらに広げた沈黙に、大いなる勘違いとかだったら嫌だなあ、といささか弱気になっていると、
「……異動してすぐに、さりげなく声掛けてくださった時、あったじゃないですか」
そう零すと、まだ具体的なことが思い当たらないている僕に、明石さんは続けた。
「青山さんが急病で休んじゃって、代理で急遽、翌日の会議資料作成しなきゃいけなくなった時です」
「……ああ、あれかあ」
僕と明石さんが所属する担当は、さほど人数は多くない。青山くん含めてたったの五人、という、同じ課内でも最少レベルの単位だ。しかも、一人が一業務についてほぼ専従的に携わる形になるから、例え主担と副担を設定しているにしても、初めてここにやって来たばかりの人間が、何もかも把握しているはずもなくて。
「今までとは全然畑違いですけど、なんとかやりこなせる自信あったのに、確認すべき事項は漏れてるし、時間は迫るしで……そしたら、横からそっと指摘してくれて」
そこまで言われて、僕はようやく事の詳細を思い出した。その時点で資料は概ね出来ていて、補足的に添付すべきデータの参照先や範囲を定めるところで迷っていたようだったから、少々手を出してみただけのことで。
実際、二、三の点について軽く詰めただけで、あとは彼女のエンジンがかかるに任せてしまえたから、僕としてもさして残業にならずに済んで有難かった、のだが。
「大したことしてないのになー、とか思ってるでしょう、絶対」
「……はい」
内心をずばりと読まれて、素直に頷きを返すと、明石さんはでしょうね、と呟いて。
それから、癖なのかきゅっと眉を寄せて、迷うように唇を開きかけてから、俯くと、
「私にだけじゃなくて、誰かが焦ったり迷ったりしている時に、さりげなく同じように目を配ってらっしゃるから……だから、あの、尊敬、してます」
最後は、急き込むようにそう告げてくると、しばし、そのまま微動だにしなくて。
思いがけなく貰えた好意的な評価に、こちらも、照れと気恥ずかしさが絶妙にブレンドされた心地で、ぼうっとその様子を見つめていると、ふと、目の端で影が動いた。
同じように気付いたのだろう、明石さんも顔を上げてきた時には、すっかりくつろいだ様子のサビ子さんが、僕と彼女の間にとことこと割り込んでくると、にゃあん、と鳴いて。
訴えるような声に、とっさに伸ばした手を、三角の耳の上で、互いに止めて。
触れかけた指先の代わりに、向けた視線が緩く、絡んで。
「明石さん、今日、泊まっていかない?」
ためらいもなく、ごく自然なことのように言ってしまってから、まずい、と気付く。
だけれど、虚を衝かれた無防備なまでの表情を目にしては、今更引き返せなくて。
「ちゃんと客用布団もあるし、そこの和室は普段使ってないから綺麗なもんだし……あ、けど、鍵掛からないとかで不安だったら、中からバリケード構築してくれていいから」
そう続けつつ、我ながら馬鹿なこと言ってるなあ、とは思ったものの、飛び出した声が戻せるはずもなく、彼女の反応を、じっと窺うしかなくて。
と、ふいにサビ子さんが、鼻先を明石さんの手に擦り付けて、喉を震わせるようにして、音を鳴らし始めた。
甘えるような仕草と、あらためて耳にする、不思議な響きのそれに聞き入っていると、明石さんが、ふっと息を吐いて。
「色気皆無のお誘いだって、分かってますから。そんなに強調しなくてもいいですよ」
気を緩めたように零した、その柔らかい笑みを目の当たりにして、何かが崩れて。
「……明石さん、可愛いなあ」
ぽろり、と漏らした台詞に、きっちり三秒ほどの間を開けて、彼女は動かしていた手を止めて。
浮かべていた笑みが薄れて、次第に戸惑いに変わって、半ば、目を伏せて。
「それ、サビ子さん、の間違いでしょう」
「違うよ。もちろん、彼女も可愛いけどさ」
「……何言ってるんですか、もう」
からかいだと受け止めました、と言いたいかのように、つんとそっぽを向いてしまったけれど、黒と茶の背中を求められるままに撫でているその指までが、淡く色を変えていて。
抗いようもなく溢れる恋の気配を、後先も考えずに放ってしまったことに驚きつつも、僕は、可愛い人が可愛い猫を構い続けているのを、ひたすらにその傍で眺めていた。
そして結局、サビ子さんが彼女の膝から離れなかったこともあり、泊まってもらって。
翌日には心配だから、と一緒に動物病院に行ってくれたり、そこからほぼ毎週のように遊びに来てくれて、僕としてはいささかならず、調子に乗っているのは確かだ。
職場では色々と抑えてはいるけれど、引かず自分の領域に入ってきてくれるものだから、それをいいことに家ではついつい、好意を露わにしてしまって。
とにもかくにも嫌われたくはないから、言われた通りに片付けてしまおう、と、足元に積んでくれていた本を抱えられるだけ抱えてしまうと、廊下に出る。
すると、リビングからの階段のてっぺんに腰を下ろした明石さんが、膝にサビ子さんを乗せて、じっと見つめ合っていて。
その光景を、なんとなく脳裏に刻むように幾度か瞬いてから、僕はひとまず納戸の前の集積場所に本を置いてしまうと、静かに二人に近付いていった。
と、すぐにぴくりと耳を震わせて、琥珀の瞳が光を弾いて、こちらを向いて。
対照的に、振り向いてはくれない人の後ろにあぐらを組んで、艶やかな黒い髪を梳いてみたいような衝動を覚えながら、どう伝えようかと考えあぐねていると、
「まだ、ちょっと、戸惑ってるんです」
「……うん」
僕の元に来ようというのか、右の肩によじ登るサビ子さんをやりたいようにさせながら、明石さんは俯いたまま続けた。
「こんな風になるとか、予想もしてないのに、係長は不意打ちで、その……」
「変なこと言うし?」
「そこまでは思ってないですけど。なんだか、いちいち揺さぶられる、っていうのか、自分でも、普段みたいに落ち着けてないな、って」
そう言いながら、肩を乗り越えていこうとするサビ子さんの尻尾を、指先で弄んでは、また離して。
「けど、あの、嫌、っていうわけじゃなくて。私、あんまり簡単にうろたえ過ぎだし、それが情けないっていうか……」
もう、いい大人どころじゃないのに、と呟いた彼女の声が耳を刺して、それに促されるように、僕は腕を伸ばした。
黒と茶の毛並みは滑らかで、預けられた身体の熱は、わずかに高くて。
だけど、本当に触れてしまいたいのは。
「まあ、でも、仕方ないよねえ」
「……何がですか」
僕の声に、眉を下げつつ振り向いてきた明石さんと、目を合わせて。
酷く弱ったような表情に、軽く苛めてしまいたいような感情が、むくりと頭をもたげて。
「素直に可愛がれ、って言ったのは、君なんだから。嫌じゃなければ、そうされてね」
大きく口の端を上げてみせると、一拍ほど遅れて、理解の光が黒い瞳に、ひらめいて。
「え、ちょ、あの時は、そういう意味で言ったんじゃ!」
「うん、けど、それぞれの解釈ってものがあるからさ」
この際だから、何もかも都合のいいように方針決定してしまおうとか、身勝手なことを考えて。
見る間にじわりと色付いてゆく肌と、何か言いたげに震えた唇に目を引かれつつ、僕は身代わりのように、膝の上に落ち着いてしまったサビ子さんの頭を、そっと撫でてやった。
それからというもの、僕の口癖が、すっかり『可愛い』に固定されてしまって。
「……あんまり可愛い可愛い連呼してると、一回ごとに価値が目減りしていきますよ」
「うーん、他の表現に変えてもいいんだけど、なんかしっくりこないんだよねえ。あ、髪とか足が綺麗だなあ、とかはいつも思ってるけど」
「その発言は微妙なラインですから!もうそれでいいです!」
と、真っ赤になった明石さんの言質を取ったことで、あっさりと解決を見てしまった。
……どのみち、言わないっていう選択肢は、ありえないんだけど。可愛いから。




