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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
九月:
34/62

寿ぎ、満ちて・5

平岩係長:

 四十歳は不惑、などともいうけれど、私の場合そこまで達しているとは到底言えない、と自省するところだ。まあ、そもそも異説もあるようだし、とは思わなくもないが、そうあれかし、と漠然と思っていた姿とは、いささかならず異なるものになっていることにも、ふと我が身を見下ろしては、意外な思いを禁じ得なくて。

 とはいえ、仕事に関してだけは、概ね思い通りの道を辿れたのではないか、とは思う。新卒で、どうにかこの市に滑り込むことが出来たかと思えば、配された担当ではいきなり新規事業の立ち上げに参画することになって、ただひたすらに与えられた職務に没頭して。

 公であるがゆえの、さまざまな要因に振り回されながらも数年で異動して、また新たな業務に携わり、としているうちに役職も付いて、早数年も経って。

 気付けば、勤務年数もいよいよ二十年目の節目が近付いてきたのだけれど、そのおよそ半分ほどを、ずっとこのひとの傍で過ごしてきたことが、何よりも予想の外で。

 「そういえば、美冬(みふゆ)さん。森谷くんの弟さんって受かったんだっけ?」

 「ええ、局長によれば、ごく順当な結果で。昨日、彼から聞かなかったんですか?」

 毛足の長いラグの上で崩した膝の上に丸まっている猫の、手触りの良い茶白の毛並みに沿って漫然と手を動かしていた私はそう応じると、声の出所に顔を向けた。

 まだまだ暑さの残る時期だからか、ごくプレーンなアイボリーの半袖シャツに、適度に褪せたジーンズに裸足、という、完全に休日仕様な、力の抜けた服装で。

 身体を横たえるには丁度いい、緩やかなカーブを帯びた、グレーのカウチソファに足を伸ばして、私同様に膝に乗せた錆び柄の猫を撫でながら、夫はうん、と頷きを返してきた。

 「出張先から合流してそのまま練習に入っちゃったから、さっぱり頭から飛んでてさ。それでさっきホームページ見たら、あ、そういや受験番号知らないや、ってなってねえ」

 「7013番の方です。今年は他にもう一人いますけど、なかなか有望みたいですよ」

 八月の最終週に終わっていた職員採用の第三次試験の結果をホームページに発表したのが、つい昨日の午前十時だった。さすがに、あの冷静な森谷くん(まあ、彼女のことに関しては違うみたいだけれど)も、朝からどことなくそわそわしていたと聞いているし、昼休みともなれば早瀬さんたちも加わって、何やら相当に騒がしかったらしい。

 ……というのは、騒ぎに参加してきたという、川名さんが話してくれたのだけれど。

 そんなことを話してみると、良充(よしみつ)さんはそうかあ、と間延びした返事を返してきて、

 「出来たらうちに来てくれるといいねえ。僕のとこにはどう転んでも来てくれないのは残念だけど」

 「何言ってるんですか。もう住民課も三年目なんですから、来年あたり、横か縦に動く可能性もあるでしょう?」

 管理職の場合、横、は同じ等級で別のポストに異動すること、縦、はもちろん、昇格だ。

 今回合格した彼は土木職だから、配属される部署は限定されるけれど、この人の場合は無論そうではないわけで。

 そう返してみると、良充さんは、えー、と不満そうに声を上げて、

 「今の部署、居心地いいから動きたくないなあ……面倒な突き上げもあんまりないし。だいたいポストも限られてるんだから、これ以上上がるのもないだろうしさ」

 「もう、今年度部長級何人退職されるか知ってるくせに。さっさと上がって部下に楽をさせてくれないと困りますよ」

 こと昇格に関しては全くと言っていいほどにその気がない、というひとだと知っているだけに、私は思わず本心からの苦言を呈してしまった。

 我が夫ながら、一見適当に見える飄々とした性格をしているのは確かだが、与えられた職務は如才なくこなすし、部下への指導力や目配りに関しては、かつて自身が下についていただけに、信頼に値することは身に沁みて分かっているつもりだ。

 さりとて、繰り言を重ねたところでそうそうモチベーションが上がる、というものでもないだろうし、と考えたところで、先日小耳に挟んだことを思い出して、私は口を開いた。


 「それに、森谷くんの結婚式の時は、仲人やるんじゃないんですか?」


 仲人云々、という話は一階にいる私の同期から聞いたのだけれど、こんなことを尋ねたのには、理由がある。これは藤宮市だけの慣例かもしれないが、職員同士の結婚が比較的多いだけに、いずれかの上司に依頼するケースがかなりの割合を占めており、結果として部長級以上の方々が請け負われるのがほとんどだ。

 となれば、まだ実現までには数年かかるだろう(そして、彼は必ず達成させるであろう)その間に、階段を上っておかなければならないわけで。

 そう述べてみると、良充さんは一瞬目を見張った後、小さく吹き出して、

 「いやいや、上に頼むんなら早目にね、って言っただけだよ。だいたいさ、ただでさえ早瀬が連撃食らって沈み込んでるのに、追い打ち掛けるわけにもいかないし」

 微かな吐息にぴくり、と耳を震わせた、小さな頭が見上げてくるのに、モザイクめいて入り混じった黒と茶のそれを愛おしむように撫でながら続けた彼は、ふと言葉を切って。

 何事かを検討するかのように、しばし尖り気味の顎をつまんでいたかと思うと、

 「でも、立場上それなりに正装するんだろうし、そうなると美冬さんの黒留袖やロングドレス姿なんかも見られるってことか……ねえ、仲人ってお色直ししちゃだめだよね?」

 「当たり前です!良充さん、本来の意味分かって言ってるでしょう!?」

 さらりと斜め上の発言を繰り出してきた夫にすかさずそう指摘すると、彼は、悪びれた様子もなく、あっさりと頷きを返してきて。

 「だって、足立くんの式じゃ美冬さんスーツだしさ。凛々しくて好きではあるんだけど、ああいうのってまた雰囲気が変わるしねえ……部長に御仕立ての店紹介して貰おうかな、ねえ、サビ子さん」

 「……遥か未来の話を、いったいどこまで飛躍させるつもりなんですか」

 どこまでも本気でやりかねないことを、これまでに幾度も思い知らされているだけに、ぽつりと零した一言が、眩暈にも似た感覚を呼ぶようで。

 同じように猫を抱いている姿に、何もかもの発端となった過去を思い返しながら、私は、至って機嫌良く喉を鳴らしている白と縞の耳に、小さくため息を落としていた。



 それは確か、もう六年ほども前の、職場からの帰り道。

 長かった残業後のけだるい身体をもてあますようにしながら、駅から少し離れたバス停までの道のりを、のろのろとひたすらに歩いていた時、

 「あ、明石(あかし)さんだ。あのさ、猫って飼ったことある?」

 「うわっ!?」

 前触れもなく脇から掛かった声に、可愛らしさの欠片もない声を上げてしまいながら、私は高いヒールを折りかねない勢いで、数歩横へと飛びすざっていた。

 よろめく足を踏みしめながら、その声に聞き覚えがあることをどうにか思い出していると、アスファルトの上にまるでゴミ袋めいてわだかまっていた黒い塊が、ごそりと動いて。

 丸まっていた布が解けるように立ち上がった、そのスーツ姿が弱い街灯にさらされて、ようやく、私は胸を撫で下ろすことができた。

 「平岩係長、脅かすのもいい加減にしてください!それになんでこんなところで……」

 先に出たはずの上司に、いかにも怪しげな様子で道の端にしゃがみ込んでいた理由を問い詰めようとした時、その腕に抱えているものに気付いて、私は瞬きを繰り返した。

 「……猫、ですか」

 一応先にそう聞いているはずなのに、確かめるように尋ねてしまったのは、その毛色があまりにも馴染みのないものだったからだ。全体的に黒っぽいけれど、完全に黒猫、ではなくて、そこに茶色の毛がギザギザとランダムに混じっている、変わったもので。

 その体躯もまた微妙で、大人というにはやや小さく、子猫と言うには大きい、正に成長途中、といった感じのほっそりした姿だった。

 その、夜目にも鮮やかに映る琥珀の瞳に、何か抗いようもなく目を引かれていると、

 「うん。なんか呼び止められちゃってさ、足に絡みついてくるからこれじゃ踏むなあ、と思って、抱き上げたらしがみつかれてねえ」

 「……捨て猫、ですかね」

 「分からないけど、首輪ないし、親の姿もさっぱり見えないし、どうしたもんかなって」

 などと言いながらも、グレーのジャケットにがっちりと爪を掛けて、ひしと抱きついている猫の小さな頭を、長い指先がそろそろと撫でていて。

 少し困ったような、それでいて目が離せないような様子でいるのを見取って、私は軽く息を吐くと、ずばりと聞いてやった。

 「係長、この子、飼えるんですか?」

 「飼えないことはないよ。ただ、猫って触るのも初めてでさ」

 「じゃあ、連れて帰ってください。どうせ置いていくなんて無理な話でしょう?」

 頼られれば余程のことがない限り見放しはしない、ということを、同じ担当で過ごしているうちに嫌というほど見てきたから、背中を突き飛ばすくらいのつもりでそう言うと、私は鞄から購入してまだ間もない、赤のスマホを取り出した。

 ブラウザを開き、『子猫 飼う 必要なもの』というワードで検索をしてみると、幸いに簡潔に纏められたサイトがすぐに見つかった。ざっと目を通してから新しいタブを開いて、近隣のディスカウントストアの営業時間(9:00~0:00)を確認してから、ひとつ頷くと、

 「はい、必要なもの、ここにあると思います。行きますか、どうしますか?」

 変わらず優しい手つきで猫を撫でているその目の前に、決断を迫るように検索結果を突き付けてやると、彼は一瞬、じっと画面を見つめて。

 それから、仕方ないなあ、とでもいう風に、微かに口元を緩めると、

 「行くよ、有難う。どのみち、このままじゃ電車もバスもタクシーも乗れないだろうし」

 そう言いながら、抱いた猫を怯えさせないようにか、酷くゆっくりと足を進め始める。

 ついてくることを疑いもしないでいるらしい、その横に自然とついて歩きながら、私はふと思い立って、この猫の柄をなんと呼ぶのかを調べ始めた。

 三色ではないから三毛でもなく、ぶちでもなく、縞というには波があり過ぎる、などと考えながら検索をしていると、ふいに横から声が飛んできた。

 「明石さん、この子、雄かなあ、雌かなあ」

 「残念ながら、一目見て分かるほど詳しくないので……あ、錆び、っていうんだ」

 「サビ?何が?」

 「その子の模様です。ほら、これですよ」

 『猫 模様 毛色』で検索してみた結果のトップには、まるきり同じ模様の毛皮を持つ猫が表示されていて、『錆び猫とは』という解説も載っていたので、そのまま見せてみると、彼は歩みを止めて、じっくりと記事を読み込み始めた。

 「ふうん、遺伝的に雌ばかり、なのか。じゃあ、この子はサビ子さんだね」

 「……ちょっと安直過ぎませんか、その名前」

 「名は体を表す、でいいんだよ。しかし、女の子かあ……」

 スマホから目を離して、軽く腕の中の猫を抱え直すようにした平岩係長は、琥珀の瞳を覗き込むようにして、どこか弱ったように眉を下げていて。

 こんな表情を見るのは初めてだな、と思いながら、取り急ぎ疑問を呈してみた。

 「女の子じゃ、だめなんですか?」

 私は猫を飼ったことが一度もないから、性差によっての細かな違いはあまり分からない。手術が必要になる、などの微妙なことだろうか、と考えを巡らせていると、

 「うん、まあ、そういうわけじゃないのかなあ」

 珍しく歯切れの悪い物言いをしたかと思うと、まるで慰めを求めるように、三角の耳の間を撫でてやりながら、係長は言葉を継いだ。


 「前に、色々と見落としちゃったことがあるからさ。大事に出来るかどうか、自分でも分からないところがあるんだよねえ」


 詰まるでもなく、ごくするりと吐き出された言葉は、何故か、この人の中で反芻されてきたもののように、ふっと思えてしまって。

 気付けば、手を伸ばして、その腕の中で丸まっている細い背中を、指先で撫でて。

 思ったよりもずっと高い体温に驚きながらも、私は、心に浮かんだことを口にしていた。


 「そんなの、相手次第なんですから。素直に可愛い、って思ってあげればいいんですよ」


 だいたい、この子人じゃないし、猫だし。

 半ば呆れたようにそう思いながら、小さくて頼りなくて、それでも人よりも早い鼓動を繰り返しているそれに触れていると、琥珀の瞳が、つと私の方を向いて。

 幾度かの瞬きの後に、にゃあん、と、ソプラノの高さで、鳴いて。

 身を乗り出して、頭をこすりつけるようにしてきたその子に望まれるままに、柔らかい毛並みを撫でていると、低く喉を鳴らすような音が、響いて。

 顔を上げると、おかしそうにこちらを見下ろしている彼の瞳と、まともに視線が合ってしまって、一瞬うろたえたけれど、


 「確かに、可愛いねえ。そうか、それだけのことかもしれないね」


 やけに深々と、得心したように何度も頷くと、何やら嬉しげに大きく破顔して。

 機嫌良さ気に、妙にレベルの高い鼻歌を繰り出しながら、係長は猫を揺すり上げると、どこか踊るような足取りで歩き始めた。

 ……なんだか、やっぱり、変な人。

 かねてから感じていた印象を、ますます強化するような行動を見せる上司の背中を眺めながら、私はわずかに遅れて、疲れた足をまた進め始めた。



 それで、必要なものを買えるだけ買って、成り行きのままに運ぶのを、一緒に手伝って。

 餌をあげたりトイレを設置したりケージを組み立てたり、としている間に、日が変わって、遅いから泊まっていけば、という誘いに、どうしてだか乗ってしまって。

 そこから猫ももう一匹増えて、いつしか上司は上司でなくなって、こうして、隣にいて。

 「全く……少しはやる気になってくれるかな、って思ったのに」


 長く続いた片恋を、酷く気に掛けていただけに、いつか、彼らの先行きも、と。

 そんな思いが瞳に覗いていることを、知っているから。


 失言が呼んだ妙な展開に、いささかの情けなさも込めてそう呟くと、吐息を受けた猫が、構ってくれるのですか、とでも言うように、煌くカッパーの瞳をじっと向けてきて。

 期待されているのに応えるべく、指を伸ばして額の間を強めに擦ってやると、ますます喉から漏れる音が、大きく派手になっていって。

 と、目の端で、良充さんがゆっくりと身を起こすのが、見えて。

 大事そうにサビ子さんを抱えたまま、ラグの上に座っている私の傍に、あぐらを組んで腰を下ろしてしまうと、くっと、口の端を上げて。


 「僕の一番のモチベーションは、常に君ですよ。ついでに言えば、君だってそう思ってくれてるはずだって、自負してるんだけどねえ」


 あの、鼻歌が飛び出してきそうな、酷くいい笑顔で、そんなことを言ってきて。

 狙い違わず図星を突いておきながら、しっかりと自覚しているらしいことさえ、伺えて。


 「だったら、とにかく余興を完璧に仕上げてください。こっちはこっちで、司会進行を淀みなくやり遂げますから」

 「それは、もちろん。足立くんにも君にも、失望されるわけにはいかないしねえ」

 悔しさまぎれの答えに、間髪入れずにそう返してきた彼は、何故か、じりじりと距離を詰めてきて。

 「だから、首尾よく終えられたら、さっきのこと、真面目に考えといてね」

 「……常識的な範囲内でしたら、喜んで」

 耳元に囁かれた言葉に、おそらく、本気で本腰を入れて何もかもをやりとげてしまうであろうことを、敏感なまでに、察知して。

 いつの間にか寄せられていた肩に、私は諦めたように、そっと顔を埋めてみせた。

 ……まあ、こういうひとだから、ここまで好きになってしまったんだけれど。もう。

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