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告げて、はじまり  作者: 冬野ふゆぎり
八月:
29/62

寝ても、覚めても・2

 早瀬里帆、という真面目そうな新採の彼女に得体の知れない衝撃を受けてからというもの、しばらくは何事もなく日々が過ぎていったが、当然ながら同じ職場である以上、嫌が応にも視界に入ってくることが次第に多くなっていった。

 研修を終えて、彼女が市民税担当に配属されてから、特にその頻度がぐんと増えて。

 何らかの用件で二階から一階へと降りてくる際には、ホールに向かう階段を使うことがほとんどなので、内野さんや倉田さん、といった見知った顔に伴われて各担当へと入っていく、そんな姿を見かけるたびに、内心で僕は首をひねっていた。

 何故かは自分でも知れないが、彼女が近くにやってくるのが、必ずと言っていいほどに分かるのだ。個人情報の漏洩を防ぐということもあり、対応窓口より奥の事務室との間は、端末の内容が見えない程度の、低めのパーティションで仕切られているのだが、わずかにその上から覗く人影が幾人も視界をかすめてゆく中、まるで目に見えない糸に引かれるような奇妙な感覚に襲われて、顔を向ければ長い黒髪を揺らす、あの後ろ姿が見えて。

 そして、それが無意識から、はっきりと意識をした上での行動になるには、そう時間は掛からなかった。

 「……あれは」

 常の如く仕事を終え、正面玄関から出ようとした途端、自動ドアの向こうに見えた影に、僕は反射的に足を止めていた。見紛いようもなく、彼女だ。

 もう、最初の頃のようにかっちりとしたスーツ姿ではなく、ネイビーのカーディガンにボウタイのついた白のブラウス、それに淡い青のフレアスカート、という慎ましやかな印象の服装だ。ヒールの低い、ごく薄いピンクベージュのパンプスを履いた爪先に一瞬目を落とした彼女は、腕に掛けたブラウンの鞄を軽く揺すり上げると、藤宮駅へと通じる地下通路に降りる、五番出口へと歩いて行く。

 ……別に、ほとんどの職員がここを使うんだから、躊躇することもないだろう。

 自らにそう言い聞かせながら、自動ドアを抜け、すぐさま同じように五番出口へと足を向ける。追い付くほどではないスピードで、その入口に立ってみれば、急ぐ様子もなく、階段をこつこつと降りていた後ろ姿が、丁度通路へと降り立ったところだった。

 姿勢は良いが、どこかおっとりとした雰囲気を纏わせている、そんな感想を抱きながら、僕は見失わない程度の、しかし十分な距離を開けて追うように歩きながら、その背中をじっと見つめていた。

 振り向かれることなどない、と分かってはいても、いささかの後ろめたさは否めずに、下りの緩やかな傾斜を持つ通路を進んでいきながら、彼女はどこに住んでいるんだろう、と純粋なまでの興味が沸いてきて、僕はふっと戸惑いを覚えた。

 知りたいなら、機会を捉えて尋ねればいい。同じ市職員なのだし、言葉を交わすことが全くないほど、接点のない担当というわけではないのだから。

 だが、知って、どうするのか。

 自ら発した問いに明確な回答が出せないまま、気付けば藤宮駅、そのコンコースへと足を踏み入れていた。ネイビーの背中が真っ直ぐに目指しているのは、やはりというか中央改札で、歩みを進めながら鞄に手を入れたかと思うと、取り出した定期をかざして、慣れた様子で抜けては駅の構内へと入っていく。

 その後を、わずかに遅れて通りながら、僕は自然と目線を右に向けた。

 上り1・2番線に上がる、広い階段とエスカレーター。僕の降車駅である上橋端、他社の路線へと接続する野辺原(のべはら)、そして終点の沢合。その三駅の名が並ぶ案内板の下を、人々が朝ほど忙しくもないスピードで流れていく、その人波の中に、彼女もいた。

 偶然が重なる、というにはまだ早い。通勤に関しては、バス路線が駅前ターミナルから複数あるし、電車はといえばさすがにこの路線しかないものの、上下二択なら同じ経路になることも、確率的にままあることで。

 ともかく、階段を選んで上って行くその後についてホームへと入ると、彼女は迷うことなく2番線へと足を向けた。乗車位置を既に決めているのか、三両目の一番後ろ、という目印の前に立つと、少しだけ顔を上向けて、小さく息を吐く。

 気を抜くような仕草と、ほっとした、ということがあからさまな表情を目にして、妙に胸がさざめくのに動揺しているうちに、頭上のスピーカーからアナウンスが流れてきた。

 間を置かずホームに入ってきたのは、沢合行きの準急だった。残業や宴会でもない限りいつも乗って帰るそれが、時刻表通りに目の前へと滑り込んでくる。

 ほどなく、緩やかな駆動音を響かせて停止した列車のドアが開くと、降りる乗客と入れ違いに彼女が乗り込むのが見えて、僕は同じ車両だが、扉はひとつ隣を選んで、いつものように座席前に進むことなく、奥のドアの脇に立った。

 そこからの十五分は、常の通勤時間よりも、遥かに密度が濃く、長かった。

 彼女が吊り革を確保してからというもの、ブラウンの鞄から、布製のカバーの掛かった文庫本を取り出して、おもむろに読み始めたその横顔から、ずっと目が離せなくて。

 しかも時折、はっとしたように目を見開いたり、謎を前にしたかのようにじっと考え込んだりと、細かなリアクションを見せるものだから、終始何かをくすぐられるような、微妙な心持ちになって。

 また掴みどころのない感情に悩まされているうちに、聞き慣れた駅名が車内に響く。条件反射で顔を上げた途端、彼女が慌てたように手元の本に栞を挟み込むのが見えて、まさか、との思いが過ぎる。

 その間にも、吊り革から手を離して、曲がる列車の大きな揺れによたよたとしながら、閉じた本を鞄にしまうと、よし、とばかりに降り口に向けて、身体ごと向き直って。

 と、最後の揺れの後に扉が大きく開くなり、彼女を含んだ人の流れが一斉にホームへと降り立つのを認めて、僕は我に返った。近くの扉から足早に降りると、改札に向かう群れに混じって、どことなく逸る気持ちを抑えながら階段を上る。

 十基あるうち、ICカード専用の自動改札機を選んで彼女は抜けてしまうと、すぐ左手に折れて、迷うことなく西口の方へと向かっていった。

 距離を開けてその後を追いながら、どうするつもりなんだ、と自問しているうちに、揺れる黒い髪が階段の下へと姿を消してしまう。

 途端に僕はスピードを上げ、コンコースの端まで急ぎ駆け寄った。駅前ロータリーを見下ろせる、腰高の外壁近くからなら、西口から続く駅前広場も見渡すことが出来る。

 焦りを覚えながら、取りつくようにして壁際に立つと、視線を西へと向ける。すると、彼女は丁度広場を通り抜けて、数歩の短い横断歩道にもかかわらず、左右を見渡してから道を渡り、そのままスーパーの中へと入って行ってしまって。

 妙な既視感があったのは、最寄り駅が同じだったからか、と、自身を納得させるような考えが浮かんだものの、僕は首を振って、すぐさまそれを打ち消した。


 おそらく、どんな理屈を捏ね回したところで、正解には辿り着けない。

 この身を突き動かしているのは、どうしようもなく抗えないほどの、衝動だから。


 それでも、何故彼女にこうまで執着してしまうのか、その理由は未だ判然としなくて、腹の底に淀みを抱えたような苦い気分で、僕は東口へと踵を返した。



 それからは、我ながら酷い有様だった。

 通勤の途上は、相変わらず彼女を見かけては目で追っていたし、職場でも同様のことで、常に身体から専用のアンテナが生えてでもいるかのように、嫌になるほど的確に気配をトレースしている自身に気付いては、密かに懊悩する羽目になって。

 日々そんな様子であれば、こらえているつもりであっても外に漏れていたのか、ついに意外なところから、そのことを指摘されるまでになってしまった。

 「で、森谷くんは、早瀬さんのことをどう思ってるのかな」

 いよいよ師走も下旬に入った、金曜日。藤宮(ふじみや)北町(きたまち)にある、純喫茶・エストレーラ。

 至って平板な調子で、前置きも雰囲気も何もあったものではなく切り出された台詞に、僕は手にしていたカップを危うく取り落としそうになった。

 艶よく磨かれたオークの天板に、点々と中身が零れたのに慌てていると、向かいに座る平岩課長はおや、とばかりに、やや濃い目の眉を上げて、低く笑声を漏らした。

 「そううろたえなさんな。ま、珍しいものを見れて、僕としてはなかなか楽しいけど」

 「からかわないでください。それに、仕事の件で、っていう話はフェイクですか」

 散った雫に濡れた手を、おしぼりで拭きながらそう返すと、課長は実にあっさりとうん、と頷いて、傍らに置かれた、繊細な唐草文様の施されたカップを取り上げた。

 「今のうちの現状、身内贔屓を差し引いても、非常に上手く回ってると思うんだよね。おかげ様で余裕があるせいか、どうしても君のことが目についちゃってねえ」

 細く立ち昇る湯気とともに、辺りにまで漂う芳香を味わうように、半ば目を伏せながら、さらに課長は続けた。

 「全くもって仕事に影響が出てないのは大したもんなんだけど、そろそろ内圧を下げてやらないといけないかな、と思って。春からずっと遠巻きにしてるだけっていうのは、結構辛いんじゃないの?」

 言ってる間に年も明けちゃうしねえ、と、胸に刺さるような言葉をまともに食らって、僕はさすがに憮然としながら、仕方なく口を開いた。

 「……何をどうしたいのか、未だに分からないんです」

 彼女に意識を向け始めてから、もう随分経つというのに、一言の言葉を交わすことすら出来ていない。やろうと思えば、間近に寄れる機会もなかったわけではないというのに、あえてそうしなかったことも、自覚はしていて。

 「彼女の姿を追うことは止められないのに、踏み込むまでのきっかけも掴めなくて……それに、そうした後のことが、自分でもまるで見えなくて」

 無論、こちらから接触することも、全く考えなかったわけではない。

 ただ、シミュレーションをどう繰り返したところで、真っ先に投げてしまいたい言葉が、あまりにも馬鹿げている気がして。


 君を目にした時から、どうしようもなく気になって仕方がない、などとは。


 他の、ごくあたりさわりのない切り出し方を考えなかったわけではないが、心の奥底に秘めた真意を隠したままでいられるとは、到底思えない。

 ましてや、始終物陰からこそこそと様子を窺うような真似をしておいて、反応がただの困惑で済めばいいが、相当に引かれる可能性しか浮かばない。主観でも客観でも正直に気持ち悪い、という認識になるであろうことは簡単に予測できるからだ。

 僕の零すことを、しばらくうんうんと頷きながら聞いていた課長は、こちらが口を噤むなり、間髪入れずにずばりと切り出してきた。

 「でもねえ、今のまんまじゃ、彼女にとって君は路傍の石以下だよ?」

 あまりにも端的な表現に、僕が返す言葉もなく絶句していると、課長はカップを傾けて、一口赤いそれを含んでから続けた。

 「ましてや、それが石だって、足先にでも掛かれば気を引ける可能性もあるってのに。クジャク並みに派手になれとは言わないけどさ、棒立ちのままじゃあ、いつまでたっても意識の端にも入れてもらえないんじゃないかなあ」

 そう思わない?と、同意を求めるように平然とした顔を向けられて、僕が空しく言葉を探していると、課長はまた、低く笑って。

 「知りたいし、知って欲しいんでしょう、君は」

 「……多分、そうだと思います」


 車内で本を読む姿も、窓口で対応している時の真剣な面持ちも、時折耳にする声も。

 わずかに知っていること以外にも、違う表情を、もっと傍で。


 思いも寄らず、引き出されてきた心の動きに明確な名前が与えられそうな気がして、このまま思考を進めるべきか否か、とためらっていると、

 「こらこら、そこで微妙に逃げを打たない。まあ、どこか理詰めで納得したい気持ちも、分からないではないけどもねえ」

 半分ほどに中身の減ったカップを、同じ柄の巡らされているソーサーに置いてしまうと、課長は膝の上で長い指を組んで、猫のように目を細めた。と、

 「けどまあ、君の言ってることは、所詮、言い訳」

 まさに一刀両断、といった調子で、さらりとそう言い切ってしまうと、口の端を上げて、


 「だから、惹かれるものには、素直に惹かれときなさいって。また違うものが、きっと見えてくるからさ」


 妙に軽い口調で、そのくせ静かに先を導くような、穏やかな声音で。

 無理のない程度に、肩をぽん、と叩くような言葉に、渋々ながら納得しかけた時、

 「ああ、そうそう、彼女、付き合ってる人も好きな男もいないらしいよ。とりあえず、今年十一月末日現在では、の話だけど」

 「……どうして、そんな情報を掴んでるんですか」

 反射的に、手にしたカップを握り締めて、その中身がすっかりぬるくなっていることに気付いて、ますます眉間に皺を寄せていると、

 「うん、僕には確実な情報源が二つもあるからねえ。市民税の倉田くんと、彼女の父親、っていう」

 あっさりとソースを暴露してきた課長は、手を伸ばして、テーブルの端に置かれていたスタンドから、クラシカルな装丁のメニューを取り上げては、ぱらぱらとめくり始めた。

 「うーん、やっぱりここのメニューじゃ若い子には軽いか……あと、心配しなくても、君のことは早瀬には言ってないから」

 「ちょっと待ってください。倉田さんには、どうなんですか」

 やや尖り気味の顎をつまみながら、さりげなく付け加えてきた課長に詰め寄ると、彼は、顔も上げないまま、実に器用に肩をすくめて、

 「僕如きに見破られる程度だっていうのに、他の職員が勘付いてない、とか思ってたの?まさかまさか、そんなわけないでしょうに」


 かもしれない、を、あえて見ないようにしていたというのに。

 幻から現実にまで、ただのひとことで引き上げられるなどとは。


 井沢さんを始めとして、わざわざ思い起こすまでもなく、僕と彼女を知る顔が次々と脳裏を過ぎって、いったいどこまで把握されているんだろう、と奈落に叩き落とされた気分でいると、課長は音を立ててメニューを閉じて、

 「今日だって、ちょっと森谷くん誘ってみるかなあ、って何気なく係長に言ったらさ、あっという間に担当中に話回っちゃって。特にもう、佐々木(ささき)さんとか支倉(はせくら)さんとか女子の食いつきが凄まじいのなんのって……あ、森谷くん中華か和食どっちがいい?奢るよ」

 「……課長の、お好きな方で」

 伝票を取って席を立ちながら、止めのように爆弾発言を投げてきた上司に、かろうじて礼儀を保ちつつそう応じながら、僕はカップを上げて、冷めた中身を一息に飲み干した。



 結局、その後はかなり高級な中華料理店に連れて行かれて、コース料理までご馳走になって、普通に職場の話も交えつつ、話に花が咲いて。

 時折フェイントのように彼女の話を持ち出されたものの、至って和やかに食事を終えたのだが、お礼を告げたあとの彼の台詞に、また打ちのめされることになって。

 『いや、罪滅ぼしっていう面もあるから。まあ、週明けから、せいぜい頑張ってね』

 実際、月曜日に出勤してみれば、井沢さんの気遣わしげな態度や、先輩女子たちの妙な励ましに加えて、上司連から向けられる生温い視線が、どうにも気恥ずかしくて。

 「……あれがなければ、言い出せなかったとは、思うけど」

 窓の外に流れる、見慣れた景色を見るともなく見ながら、疲れたように呟くと、それを聞き付けたのか、傍に立つ里帆が顔を上げて、不安そうな視線を向けてくる。

 その動きに、僕がようやく目を合わせると、彼女はどこまでも真っ直ぐに見つめてきて。

 自然と緩む口元はもうそのままに、腕を上げて、抱き締める代わりのように髪を撫でる。


 改札で告げた時も、萎えかけた気力を振り絞ってどうにか追いついた、あの時も。

 このひとに、僕のことを刻み付けて、全てを欲しいと、そう望んで。


 「あ、あの、博史さん、ひ、人前です……」

 みるみるうちに真っ赤になって、それでも電車内であることを意識しながら、小声で言ってくる里帆の様子にふと我に返った時には、もう列車は緩やかに速度を落として、藤宮の駅へと入っていくところだった。

 見慣れた高架駅の島のようなホームに、列車が滑り込んでいくさまを眺めながら、そろそろ降りよう、と扉の方へと身体を向けた里帆の右の手を、僕は何も言わずに包み込んだ。

 途端に、びくりとして振り向いてきた彼女にわざとそ知らぬふりでいながら、開いた扉から、しっかりと繋いだ手を引きながら降りてしまう。

 流れる人波に乗って、普段通りに階段を下り始めると、されるままになっていた里帆が、慌てたように言ってきた。

 「博史さん、あの、どうして、今日は」

 「いつもしないからって、いつまでもそのまま、ってわけじゃないだろう?」

 そう返しながら、意地が悪いな、と我ながら思う。帰りはともかく、出勤時は大半の職員と乗ってくる電車が被ることがほとんどだから、彼女が酷く照れてしまうことを考慮していたのだ。だが、今日だけは、こらえるのを止めてしまうつもりで。

 彼女を捕まえた日から、ジンクスのように使っている同じ改札を抜けてしまうと、もう半ば諦めたのか、少しだけ速い僕のスピードに合わせて、一生懸命についてくる。

 おかげで、庁舎へと通じる最後の階段を足早に上り切ってしまった時点で、開庁時間の二十分前だった。

 「……け、結構、息弾んじゃいました」

 「ごめん。どうしても、試したいことがあってね」

 相変わらず手は離さないまま自動ドアをくぐり、リーダーで出勤処理を終えてしまうと、僕は彼女を、ホールのある地点まで連れて行った。

 誰がいるわけでも何があるわけでもないそこに立たされて、戸惑っている様子の里帆に、言い聞かせるように告げる。

 「ここにいて、今からずっと、僕のことを見ておいて。気をそらしちゃだめだよ」

 「は、はい、分かりました」

 訳が分からないながらも勢いに押されるようにして頷いた彼女を置いて、僕は担当へと足を向けた。受付カウンターのスウィングドアを抜けると同時に、毎日、ほぼ一番に出勤している井沢さんが、おはよう、と声を掛けてくれて、会釈とともに挨拶を返す。

 自席に辿り着き、手にしていた鞄を机上に置いてしまうと、端末の電源を入れて回っている彼に、僕は近付いた。

 「井沢さん、少しお願いしてもいいですか?」

 「え?構わないけど、どんなこと?」

 「ちょっとしたことを、再現してみようと思いまして」

 そう言いながら、ホールの方を示してみせると、動きを追った井沢さんが、立ち尽くす彼女の姿に気付いて、しばらく瞬きを繰り返していたかと思うと、

 「ああ、なんか分かった!いいよ、それくらいならいくらでも」

 このへんだったかな、と笑いながら、早速請け負った通りに動いてくれた。

 カウンター近くの窓口用端末の傍ら、という位置関係は記憶の通りで、よく覚えてるな、と思いながらも、僕はその脇に立って、視線をホールへと向けた。

 それから、あの時と寸分違わない、柔らかな照明の光を浴びている彼女に、腕を上げて。


 指し示す動きに、大きく目を見開いた彼女が、さっと二階を見上げて。

 すぐに顔を戻してくるなり、真っ直ぐに僕の元に、駆け寄ってきて。


 迎えるようにホールに出た、僕の前に辿り着くと、彼女はすっかり焦った様子で謝ってきた。

 「ご、ごめんなさい!私、遠目でどなたかも全然見えてなくて、シルエットしか!」

 「いいよ、覚えててくれただけでも十分だから。それに」

 おろおろと言葉を続けようとするのを遮って、里帆の肩をそっと掴むと、身を屈めて。


 「……きっと、あの時から、ずっと好きだよ」


 認めてしまうまでも、告げてしまってからも、そして、これからも変わることなく。

 そんな想いを込めて、耳元に言葉を落としてしまうと、唐突に背後から声が飛んできた。

 「森谷くんさ、吹っ切れたのはいいことなんだけど、いささか加減知らずだよねえ」

 「あー、そ、そうですね。ええと、そろそろお客様も来庁される時間だから、二人ともなんていうか、ほどほどにね?」

 からかいと気遣いに満ちて、届いた二つの台詞に、瞬時に里帆の頬が朱に染め上がる。

 とっさに声も出ない様子の彼女に、僕は大きく笑いかけると、その肩を抱いて、まるで見せつけるように、井沢さんと平岩課長の方へと振り返ってみせた。



 その後、既に限界だったのか、涙目になった里帆に、さんざん二人の前で叱られて。

 どうにか宥めて、二階へと送り出したその背中を見送っていると、


 「あ、早瀬さんも森谷くんも、仲人頼むんなら早目にね。結構予定も詰まってるし、皆さん調整もあるからさ」


 と、無駄に響く声で放たれた平岩課長の台詞に、またもや一騒ぎが起こることになってしまった。

 ……まあ、いずれ通る道だとは、当然、もう決まっていることだが。

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