死にかけの蒼
蒼い瞳は食い入るように文字列を追っている。
今にも光線を吐きそうな真剣な目。
その双眸の蒼は空より遠く、水より深い。
好奇心のままに文章からすべての情報を読み取ろうと忙しなく動く瞳とは対照的に、頭部の黒髪はくすみ、乱雑に肩の上で束ねられている。紺色の外套、革と金属のベルト、引き締まった両足を包む下履き、細い腕を飾る、小さな宝石の嵌った腕輪。
どれをとっても半端な作りだったり、量産品特有の安っぽさがあったりするものはない。それだけに、栄養も生気も抜けきったかのような青年の髪は、彼のパーツの中で確実に浮いていた。
体育座りで縮こまる彼の後ろには、様々な装丁の本が積み上げられている。赤、青、緑、黒、サイズも厚さもばらばらだ。
紙のにおいと少しの食糧、加えて自らだけが、今の青年の世界の全てだった。
ぱらり、ぱらりと薄い紙をめくり続けてどれくらい経っただろう。物語はクライマックスに差し掛かっていた。戦場で不覚を取り、癒えない呪いを持つ傷を負った主人公が、血反吐を吐いて這いずりながら恋人のもとを目指し、そして道半ばで息絶える。
「助けてくれ、もう目もよく見えないんだ」
ふと、少年は本から目を上げる。
「弱り切った軍人の体は冷たく、流れすぎた血のせいで抜け殻のように軽くなっていた。「マリア、マリアを知らないか」彼の命の灯と同じくらい弱弱しい街灯の下、道行く人に震える手を伸ばし、何度も問いかける。誰も自分のことで精いっぱいで、死にかけの軍人に手を差し伸べるものなどいない。みな彼を見ぬふりして通りすぎる、通り過ぎる。「マリア、愛してる、マリア。」いつしか問いかけは呼び掛けに変わる。街道の隅に転がる軍人の目が見ているのは薄暗い街道ではなく恋人との幸せな幻影。うつろに恋人の名を呼び続ける軍人の隣に、寝間着姿で一本の蝋燭を携えた少女が歩み寄る。少女は軍人の横に燭台を置いた。軍人の紅の双眸は揺れる炎を鏡のように反射し、自らの終わりという現実から目を背向け続ける。「まりあ」少女にはそれが、軍人の最期の言葉だと理解できた。細い金髪を夜空に舞わせてゆっくりしゃがみ込む。哀切に頬を歪めて、つぶやく。「おかえり」血で乾いた軍人の前髪をそっと除けて、光を失った瞳を閉じさせた。死に顔を刹那眺めて、額に静かに口づける。そのあとは一度も彼のことを見ずにレンガの家へ戻った。「どうしたの、マリア」食器をテーブルに並べながら、彼女と同じ位の背格好をした少年が訊く。「なんでもないわ。寒そうな人に蝋燭を貸してあげただけよ」マリアは、名前も知らない軍人の死に、その夜そっと涙を流した。」
抑揚の豊かな声で長く暗唱したのは、残りの文章そのまま全部だ。
「257週目、読了ですね」
小さくため息をついて、茶色の装丁の本を閉じる。あきれたような声は外見に似合わず高く細かった。外套に引っ掛けてあった万年筆を取り出し、表紙にびっしり書き込んである線の最後尾に、一本付け足した。
「よっ、と」
ゆっくり立ち上がり、257本の線を引かれた本を背後に放り投げる。
そのまま一回、二回と屈伸して、六畳ほどの部屋の反対側までちょこちょこ歩き、僅か積まれた小さな包みを手に取った。
どうやら植物の葉を紐で縛ったもののようで、なにを思ったか青年はそれをてのひらでもてあそびながら難しい顔をする。
「俺、これあんまり好きじゃないんですけど…」
拗ねた子供のようにぼやいた途端、青年の腹が、くるーぅ、と切なそうな音を立てた。包みの結び目を解くと、拳大の乾燥した雑穀の塊が乗っている。他の船と遭遇した暁には、もっとましな保存食を買ってやります、とは心に決め、それでも未練たらたらで舌を鳴らす。
そして老成したため息を再びつくと、一部屋しかない小さな小屋の、建付けの悪い木の扉を開け、水鏡と青空が共演する外へと足を踏み出した。
空から駆け下りてくる陽光、まぶしさに目を細める。
石の外庭は四畳ほどの広さで、端っこは削り出しの岩そのもの。崖のような断面に波が打ちつけ、かすかな音を鳴らした。
青年は庭の端にまた体育座りで縮こまった。
一面広がった淡水の大海原は、むこうの向こうからやってくる波だけを伝えている。
運ばれるのは彼の石船のみ、それが生み出す波紋はさらに大きな波紋に飲み込まれ、跡も残さない。
青年は右手に乗せた粗末な昼食に少量の水を加えてふやかしてから食べ始めた。
べとべとの雑穀を喉に張り付かせて咽たり、口の中に残るもぞもぞした感触に頬を膨らませたり、すこしずつ塊を消費していく。
えっちらおっちら昼食を取り始めた青年の名は《グリム・ディアドコス》。
齢二十にして一人削り出しの箱舟に乗り、ひと月ほど前に生まれの故郷を旅立った。
奇妙な言い伝えや昔話が多くあるこの世界。もっとも奇怪で出所がわからず、しかし遵守されてきた伝承が一つ。その言い含めが、グリムを故郷のわいわい集団生活から、孤独との二人暮らしに放り込んだ。
曰く、『等しきを拒む者、罪を負って去る』と。
通常、多くの人が集団生活を行う大規模な船の住人たちは、多少色合いは違っていても似通った色の瞳を持っている。それを「等しい」と見て、島の人々と異なる色の双眸を持つ子が生まれると、「等しきを拒む者」と扱われる。
そして、「等しきを拒む者」は、自力で生きていけると判断された場合か、船長の定めた基準まで成長すると、小さな削り出しの船を与えられ、広大な淡水の海に放り出される。
その昔、「大陸オリュンポス」にて大罪を犯した者は瞳の色が変異し、王の裁量で流刑に処されたというので、その伝承がねじ曲がって伝わったものだろう。
『そして彼らはたどり着く、魂の赦される地トレイターズゲートへ』とは、本の山の中、赤色のおとぎ話からの引用だが、果たして今、何の罪も目的もないままに流刑に処された彼らはどこにたどり着くのだろうか。
遠い空、雲一つなく、ただ鳥が群れを成して、羽ばたいていく。
一週間ほどは視認できた故郷の島も、青空と海の狭間に吸い込まれていった。
そこで愛されていたことだけは、自分の存在以上に明確なものだから。
それだけが、孤独に溺れる心を支えてくれるから。グリムは毎日島が消えた方向へ未練がましく視線を投げながらわびしい飯を胃に落とし込んでいる。
ごくり、小さな嚥下音が聞こえた。
どうやら食事は終わったらしい。
包みの葉は持ったまま、満腹とはいかない腹の虫を黙らせるべく、水をいっぱいに詰め込んだ。
周囲にはグリムのもの以外の島は見えないが、それは周りに一切島が存在しないといった意味合いではない。
アルカトラズに満ちる清水からは、古代から蓄えられている「灰色の魔素」が溢れ出たり戻ったり、人の手を介さずに魔素が常に変動している。
今はもう失伝された灰魔術に、光を屈折させて自らの姿の認識を乱すというものがあったが、おそらくその類だろう。あまりに大きな魔力ゆえに詠唱なしで魔術が世界に影響を及ぼし、ある程度の距離に近づくまで、石船の乗客はお互いを視認できなくなっている。
多少魔力が操れるとはいえグリムがそのからくりを知りえるはずがない。
その奇跡はグリムの孤独を一層深めるのに手を貸すのみだ。
ふと、グリムは片手に握ったままだった枯葉を宙に舞わせる。
ひらり、ひらり。
風に晒され、その葉がさらわれた。
「れすと」
素早く掲げた左手は呟きとほぼ同時に、飛んでいく葉を指していた。
次の刹那、吹きすさぶ風と踊る枯葉は、端から溶けるように消滅する。
呟きは、《無色魔術》の基本式句。
五指から迸ったわずかな煌めきは、純粋な魔力の暴力。
他の色付きの魔術には適性のないグリムが唯一使える、無二の生き延びる術が、これだった。
小さな的への会心の当たりに口角が自然と上がる。
魔法使いは次に、わずかに泡立つ波を見て、軽く上がった左手を縦に振りぬいた。
先ほどと寸分違わぬ無色の詠唱が風の合間に流れる。
指先の延長線上の水面が、水しぶきを散らしてぱっくりと割れる。
無色魔術のうち、《圧力魔法》と称される基本技。
大気中に存在するだけのマナに一斉に指向性を与え、対象に猛スピードでぶつける。
体内の魔法器官を通って、有色の魔力に変換して撃つ魔術より、よっぽど燃費がよく、素早く扱える魔術である。
有色の魔術は、基本技ならまだしも、広範囲、高威力など、突き詰めると長い詠唱を必要とするが、細かい技術を駆使して、形以上の威力にすることも可能だ。
無色魔法は変換を必要としないため詠唱が非常に短いが、欠点として、扱う魔力が大きすぎると直接魔力を操っているパレットに負担がかかり、詠唱によって体外で魔力を扱うために負担が軽減されている有色魔法と比べると、術者の体力の消費が激しい点がある。
「レスト」
もっとも
「レスト」
毎日修練し続け、
「レスト」
その負担に
「レスト」
慣れてしまえば
「レスト」
そんなもの
「レスト」
関係ないのでは?
と、脳筋な仮説に則って、計六発、水面を割り開いて飛沫を散らす。
グリムは伸ばしたままの手を首のあたりまで持っていき、こき、と首の関節を鳴らした。
大して疲れは見えないが、もう修練は終わりだというのか。
とん、とん、とん。指先で首の裏をたたき始めた。
グリムは待っている。
標的を。
修練の本番はこれからだ。
乾いた音のペースがだんだん早くなる。
その逸りは、焦燥か恐怖かそれとも期待か。
そして数瞬あと、不意に響いた大きな波の音に、グリムの眉がぴくりと震えて、聴覚の云う方向を左手で指す。
沈黙。
三つ数える、何も起こらない。
その結果に少しだけ落胆し魔法使いは踵を返して都合大股五歩、小屋へ戻―――――
らない。
「小賢しいですねぇ」
意外と広いグリムの背中を見たように、刹那、上がった飛沫と割れた鐘のような鳴き声と、合間を縫うように聞こえる美声。
水滴の弾幕の向こうに見えるのは、身長170強と、決して身の丈が小さいわけではないグリムすら一口で飲み込めるような大口に、びっしりと並ぶ鋭い歯。本能のまま、光る赤い瞳。
鮫型魔獣、《ブラッディ・シャーク》。
空中で身をよじらせ、獲物へ猛突進する。
相対する柔いだけの肉の塊は、無抵抗に噛み砕かれ、物言わぬ骸に形を変える。
獲物が、ただの無力な人間であったなら。
グリムは手首の腕輪の金属音をまといながら振り返って左腕を振るい、叫ぶ。
「遅いですよっ、レスト!」
目標を得た魔力はいまだ舞う水滴とともに襲い来る魔獣を迎撃した。
瞬間的に指向性を与えられた魔素と、赤い光を引き連れた吶喊の激突が衝撃波を散らす。
一秒にも満たない時間せめぎあいが起こり、結果的に押し負けたのは魔獣の方だった。鼻っ柱をへし折られてぼとぼとと血色を零す。
傷を負った魔獣は金属が軋るような鳴き声を力いっぱいに発する。聞くものに不快感を抱かせるそれは灰色の静謐を荒々しく乱した。
脳を攪拌されるような厭わしさに、グリムは頬を引きつらせて耳を塞ぐ。
毎度毎度のことながら、どうしてもこの声には慣れられそうにない。
この世の怨嗟を煮詰めたような声をあげながら魔獣は空中でのたうち回る。
それを機と見たか、グリムは再び腕で宙を掻き、五指から魔力を放つ。
今度は緩く、体側に回り込むようなカーブを描くイメージで。
魔力を操り、魔術を使う際。ふいに視界が奇妙にダブる瞬間がある。
時には裂いていく空気の悲鳴が、時には勢いのまま衝突する相手の体を押しつぶす感触すら脳に届く。
暴力という快感に脳が沸騰して、凌辱されて、溺れる。
無色の輝きが空気を追い抜いて、耳元で、ひゅうひゅうと音がする。
黒い魔獣の横腹をぶち抜いて肉を穿ち、肋骨の形を見失わせ、内臓をぶちゅりと取り拉いでまだ生きて蠢く筋肉が体の中で破片になり、赤黒い血液を零し、体内を凄絶な圧力で蹂躙し、時々訪れる意識の混濁魔素と自分だけでなく突き穿っていく相手の間隔さえも脳に侵入してきてその痛みと苦鳴と喪失感とが共有されて俺のものじゃない痛覚が内ぞうがちゅうにほうりだされてみぎわきばらをとてつもないそうしつかんがおそってちがうちがうちがうおれのはらわたはここにあってどこかにきえてしまったのはめのまえのまじゅうのちとにくとないぞうとそうだおれのじゃなくてこれはおれがいたいんじゃなくておれがおれのまほうがかたくてやわいにくをおしつぶすたびにおれのまじゅうのまほうがのうにいたみをたたきこまれて
朦朧とした意識と感覚とが混ざり合ってまだ消化されていない胃の内容物ごと、魔獣を無残な挽肉に-------
「――――――ぁ」
風と衝撃にどこまでも沈みかけた脳が、破壊の先の神経の絶頂に達することなくグリムのものへと立ち返る。
一秒間際、それは遅すぎた。