③
彰吾は思わずマスクの中で叫んだ。冷静でいられるはずなどなかった。
そして、恐る恐る照明をその人物の顔に近づけると、やはり顔からは生気がとうに失せていた。瞳孔もはっきりとわかるくらいに散大している。
死体は仕事上である程度見慣れていたので、彰吾にはまだ耐性があった方だろう。それでも病院外で、しかも外の世界とは完全に隔絶されたこのような場所で、まさか死体を発見するなんて思ってもみない。
この巨大ホールを訪れたのは、彰吾が初めてではなかったということだ。先客がいたのだ。そして、無念にもここで息絶えてしまっていた。何が死因かはわからなかったが、おそらくは何か機材の故障か、あるいは道に迷って酸素が尽きてしまったのか……。
この洞窟で何か事故が起こったという話は今までに聞いたことがなかったし、まして死亡事故や行方不明者が出たなどという話も一切耳にしてはいない。それを考えると、おそらくは無許可での侵入であった可能性も高い。誰も入ったことを知らなければ、ここで誰かが亡くなろうと、捜索隊や救助隊など来るはずもないのだから。
遺体をよく見ると、ボンベと呼吸器具にガイドロープが巻きついて絡まっていた。もしかすると、ロープが絡まって身動きがとりづらくなり、やむなく切断したところ帰り道を見失って迷い、そのうちに酸素が尽きてしまったのではないかと短絡的な憶測をしてみた。
この人物の死因が何であろうと、とにかく彰吾が一番恐ろしく感じたのは、遺体の容貌だった。言い方としては不謹慎だが、非常に良い状態を保っていたのだ。まるでたった今亡くなってしまったかのようにも見えて、かっと見開かれて黒々とした空虚な目がどこまでも冷たく、彰吾は身体を震え上がらせた。
遺体を発見したことで、今まで麻痺していたのか、それともわざと意識しないようにしていただけなのか、やっと人間らしい恐怖心を思い出していた。自分もいずれはこの遺体と同じ運命を辿るのだと、目の前で突き付けられた気がして、一刻も早くこの洞窟から脱出したいと思った。これこそが、この洞窟が発する警告だった。
とにかくあの遺体から遠ざかりたい、日の光を浴びたいという一心で、彰吾は逃げるようにロープを伝って元来た道を引き返し始めた。そのときに、自分もここで道に迷ったりはしないか、もしロープがどこかで絡まっていたり切断されていたりしたら……と、いつもはそれほど不安に駆られることもないのに、悪い考えばかりが頭をよぎった。帰り道では、ここに入洞したことへの後悔と恐怖心にひたすら苛まれ続けた。
第二ホールを抜けて、なんとか第一ホールにも辿りつき、心の底から安堵した。あとは一本の細道を突き進むだけだ。
そして、その一本道に進入しようと試みたときに、ずっと遺体のことを考えて集中できていなかったせいか、ふいに洞窟上部に頭部の照明機材をぶつけてしまった。その折に、目の前の岩がガラガラと崩れ、なんとたった一本しかない出口へ続く狭い通路を塞いでしまったのだ。
彰吾は一瞬思考が停止した。
(嘘だ嘘だ嘘だ)
岩が崩れたせいで、底に沈殿した泥が一気に舞い上がり、視界はほとんどゼロになってしまった。彰吾は信じがたい出来事に、頭がとたんにパニックになってしまった。
ダイビング中にパニックを起こすことは、一番やってはいけないことの一つだった。冷静な判断ができなくなり、助かる命も助からなくなる。
彰吾は動揺しつつも、なんとかそのことを思い出し、必死になって心を落ち着かせようと努めた。しかし、手は震え、脳裏によぎるのは先ほど目にした遺体の男の顔ばかりだ。
ああはなりたくない、死にたくないと彰吾は必死に両手を胸の前で握りしめ、自身の胸板を何度も何度も叩いた。
酸素の残量を見やると、まだ十分に残っていた。天井の崩落さえなければ、ここから外へはもう少し進めばすぐに出られる距離なので、洞窟探検としては首尾は上々で締めくくることができたはずだった。それが、最後の最後でこんなことになるなんて。
洞窟内の地質は丈夫なようだと、初めに見誤った彰吾の判断ミスが招いた事故だった。部分的に非常にもろくなっている箇所があったのだろう。
絶望的な中、彰吾はただ無我夢中で崩落した岩を手作業でどけ続けていた。なんとしてもここから出なければならなかった。暗い手元を照明で照らしながら岩をどける作業は、非常に骨が折れた。岩をどけるたびに泥が舞い上がり、どの程度道を切り開けているのかも、まったく見通すことができない。
焦って呼吸が乱れれば、それだけ酸素の消費量が増える。過呼吸を起こしてしまうのも非常にまずい。
できるだけ心を落ち着かせようと、呼吸が荒くなりそうになったら、ひとまず長く息を吐いて、ゆっくりと呼吸をするように努めた。まるで陣痛発作時の産婦が行うような呼吸だ。作業中不安に押しつぶされそうになりながらも、幾度となく自分を励ましながら、その呼吸法を何度も何度も繰り返し行った。
洞窟探検が何よりの生きがいだった。しかし、今ではこの洞窟に入ったことを心の底から後悔し、そして一刻も早く明るい空を見上げたいと強く願った。何よりも美しいと感じていた聖域は、やはり聖域だった。人が踏み入ってはいけない場所だったのだ。
必死で岩をどかせ続け、その穴を手探りで確認すると、やっと人一人が通過できそうな空間を作ることができたようだった。
彰吾が伝ってきたガイドロープは岩に挟まれており、このままでは先に進めないと判断して、不安に煽られながらもナイフでロープを切断した。
はやる気持ちを抑えながら、崩れた天井を刺激しないように身をよじりつつ、慎重にゆっくりと泳いだ。どうにか無事に崩落部を抜けることができたようだった。
彰吾は大声で泣き出しそうになるのをぐっとこらえた。泣くのは外でいくらでもできる。今はできるだけ視界をクリアに保たなければならなかった。
そして、しばらく泳いでいくと、ようやく照明なしでも周囲の景色を見渡すことができるようになった。出口だった。彰吾は洞窟から無事に生還できたのだ。
潜水用コンピュータの画面を確認しながら、減圧を行うために時間をかけてゆっくりと少しずつ浮上していく。
やっとの思いで水面から顔を出したとき、彰吾が死ぬ思いで見上げた空は、先ほどの悪夢の出来事が嘘であったかのように、真っ青に晴れ渡っていた。
彰吾は宿泊先のホテルに戻り、部屋で身体を休めつつ、いろいろと物思いにふけっていた。そして熟考の末に、やはり遺体をあのまま洞窟に残しておくわけにはいかないと思い至った。
一歩間違えれば彰吾も同じ運命を辿っていたかもしれない。あの遺体の彼は、もう一人の自分の姿なのだと思うと、身体だけでもなんとか外に出してやりたいと強く思った。
真っ暗で狭い洞窟の中で、出口を探し出すこともできず、酸素の残量を見ながら確実に死が近づいていることを避けられない状況が、どれほど恐ろしかったことだろう。どれほど洞窟に入ったことを後悔しただろう。
彼の死に顔を思い出すたびに、彼が死を迎えるまでの恐怖と苦しみを想像してしまい、胸が押しつぶされる思いだった。
彰吾は翌日、電話で一連の出来事を警察に通報したあとに、撮影した動画を警察署に持ち込んだ。すると、動画が決定的な証拠となったようで、とんとん拍子に湖での大捜索が行われることになった。
参考人として、彰吾はしばらく北海道に滞在することを余儀なくされ、仕事も数日間休まざるを得なかったが、プロのダイバーが捜索に関わるようになると、彰吾はようやく解放されて自宅に帰ることを許可された。
帰り際に、動画を見たダイバーから単独の洞窟潜水がいかに危険であるかをこっぴどく説教され、もう今後二度と一人では潜らないと約束をさせられた。
彰吾の想像以上に動画が役に立ったようで、遺体の捜索と回収は、意外にもあっさりと熟練ダイバーによって手際よく完遂された。
湖から引き上げられた遺体の歯形から身元が判明した。彰吾とそれほど年の変わらない写真家の男性であったと、後の報道で知った。そして、彼は彰吾と同じく独身だった。同居家族がおらず、彼が行き先を誰にも告げなかったことが、遺体発見を遅らせる大きな要因となった。
加えて男性は、彰吾の読み通り、やはり入洞許可を取らずに洞窟内に侵入していたらしく、そこでそのまま遭難したようだった。そのため、男性が失踪しても誰も足取りを掴めず、行き先もわからないままだった。
そして、遺体の検死で誰もがみんな一様に驚いていたのが、引き上げられた遺体の保存状態が、経年をまったく感じさせないほど非常に良いものだったということだ。遺品のカメラのデータや持ち物などからも、男性が洞窟に入洞したのはおよそ五年前だと推定できた。しかし、遺体が五年前のものであるとは到底考えられないほど、ほとんど劣化してはいなかったのだ。
検死を行った検察官や医師の見解では、洞窟内での水温が低かったことと、適度な水圧、それに加えて光すら届かない低酸素濃度の空間で、微生物も存在しない環境であったことが、遺体の保存に役立ったのではないかとの見方を示した。遺体が腐敗しなければ、一般的な水死体のように膨張することもない。加えて低い水温の中では、ほとんど冷凍保存状態に近かったというわけだ。死因はおそらく酸素が切れたことによる溺死であると発表された。誰でも予測可能な答えだった。
五年前であれば、まだ洞窟は一般には公開されていなかった時期であり、男性が入洞許可を取らずにこっそり潜水した理由も頷けた。
そして、この事件が解決したあとは、湖は遊泳禁止となり、洞窟も結局閉ざされることになった。
彰吾はその後、あの動画を見ることは二度となく、また死にかけた苦い経験から、もう単独で洞窟潜水を行うことはしなかった。
命懸けのスリルを楽しむことよりも、仲間と比較的安全な海や湖でダイビングを楽しむようになった。月並みだが、今自分が何不自由なく生きていることが、どれほどありがたいことなのかを痛感したのだ。生きているだけで奇跡だと思えることは、ことのほか幸せだった。
しかし、あの洞窟で発見した巨大空間――恐ろしくも神秘的で、どこまでも深い闇に吸い込まれてしまいそうな、あの混沌とした美しい光景だけは、彰吾の脳裏にしっかりと灼きついており、何年経っても決して忘れることのできない記憶となった。
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