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第7話  衝撃と栄光と別離 ①

 スノードロップは、別名「春を告げる花」とも言われている。イギリスではまだ肌寒い雪解けの二月の初めから咲き始める。

 花びらはその名の通り白い雪の滴のように可憐に俯く姿だが、その小さな花は寒さに負けずに力強く咲こうとする。

 花言葉は「希望」。

 ロンドンの中心部でウェストミンスター地区からケンジントン地区にまたがる王立公園、ハイド・パークでも、その広大な敷地のあちこちでスノードロップが、まだ冷たい風に花びらをそよがせている。

 彼女たちは水仙に似た気品ある香りを風に乗せ、人々に春が近づいていることを優しく告げていた。

 だが、この日イギリス国内の各地からここへ集まってきた少女達はひどく緊張していて、春を告げる芳香へ心を向ける余裕などなかった。

 ただ、誰もがそうだった訳ではない。

 俯いて地面を見ることの多かった人々は、ささやかな春の息吹にいち早く気づく。

 イギリスの二月は、辛い冬の日々を耐えてきた人々にこそ、季節が巡る喜びを誰よりも早く与えてくれるのだ。


「わたし、この花、好きなんだ」

「へぇ、かわいい花だな」

「うん。小さくて優しい香りがして、お母さんも好きだったの」

「そうか」


 しゃがんで花びらに鼻をつけた小柄な黒髪の少女は、「いい匂い。ほら、嗅いでみて」と、傍に立っていた巨漢を招き寄せた。


「うん、いい匂いだ。オレ様も好きだな」


 そのゴツい顔に可憐な花はちっとも似合わなかったが、男が顔をほころばせると少女ははにかんだ顔に嬉しそうな表情を浮かべてうなずいた。

 二人の傍らを硬い表情の少女たちが通り過ぎてゆく。彼女たちの傍にはマネージャーらしい男性や母親らしい女性などが付き添っていたが彼等も緊張した面持ちをしていた。

 これからイギリスで最も権威あるオーディションへ挑もうとしているのだ。無理もなかった。

 彼等は、呑気そうに道端で花を楽しむ二人を参加者ではなく観客か公園を散策しているカップルぐらいにしか思っていなかった。

 だが、その二人の胸元には紛れもなく「ブリティッシュ・アルティメット・オーディション」の参加資格を証明する小さなプレートが、首から架けられている。


『オーディション出場登録番号D-一〇三四 エメル・カバシ』


 プレートをそっとつまんで掲げると、エメルは恥ずかしそうに笑った。


「私、出られるんだね。それだけでも何だか夢みたい」

「おう、夢だ夢だ。夢だと思っとけ。そうすりゃ緊張せずに歌えるだろ」


 ドラ声で言うとデブオタはガハハハハ、と豪快に笑ってエメルの背中をどやしつけた。

 だが、豪胆な彼でさえ今日ばかりはさすがに緊張の色が隠せなかった。


「まだ混んでるみたいだけど時間じゃない? そろそろ行きましょう」

「お、おう」


 だが、受付のゲートの前は出場者でまだごった返している。手続きが終わっても会場の中に入るのを躊躇って付近をうろついている者も多く、混雑に輪をかけているようだ。

 遠くからそれを見て「空くまでもうちょっと待つか」と、尻込みしたデブオタの手をエメルは引っ張った。


「ダメよ。あんまりグズグズしてると受付時間をオーバーして失格になっちゃうかも知れないわ」

「そ、そうか」

「ほらほらっ」


 ためらうデブオタの手を引っ張ってエメルは受付へ歩き出した。デブオタは苦笑して、されるがまま連れてゆかれる。

 彼はふと感慨深い顔で、自分の手を引く目の前の牽引車を見やった。


(エメル。お前さ、歌手になれよ)

(そ、そんな……とても無理です)


 一年前、自分には何の可能性もないと諦めきっていた少女。いじめられてもただ泣いてばかりいたあのエメルが、何という変わりようだろう。

 あの頃、脅したりすかしたりして励ました自分が今では逆に引っ張られている。


「強くなりやがって……」


 思わず眼を細めたデブオタだったが、「デイブ、あれ何かしら?」エメルが向こうを指さしたので、彼は「ああん?」と顔を向けた。

 ごった返す人々の中で何やら受付のスタッフにヒステリックに叫んでいる少女がいる。

 周囲の人々は彼女の剣幕に押されるように遠巻きに輪を作っていて、その輪の端に二人も加わった。


「何でよ。何で私が入れないのよ!」


 地団駄を踏む彼女は、なだめようとする受付スタッフに対して自分がオーディションの事前審査に不合格だったのは何かの間違いだ、出場させろと喚きたてていた。


「間違いではありません。先ほど確認を取りました」

「それが間違ってるの! さっきから言ってるでしょうが!」

「いいえ。照会したところ、ローザリーデ・レイノックスへの審査は適正に行われ、出場は認められなかったと審査委員会から回答がありました」

「嘘よ! 私が不合格だなんて絶対にあり得ない! 出場を認めなさい!」


 冷徹な返答が返れば返るほど、彼女は意地を張って激昂した。口惜しさの余り、門前払いされたことをどうしても認められないのだ。


「何よ! どうせここの出場者は業界の関係者とかコネで認められた人たちばっかりなんでしょ? だから私みたいな何のコネもない奴はハネられるのよ! そうでなきゃおかしいわ!」


 プライドなどとうに捨てているのだろう。捨て鉢になった少女は、遠巻きに見ている出場者達一人ひとり指差し「幾ら金を積んだのさ!」「どこのプロダクションの口利きで受かったのよ!」と、罵り始めた。


 手が付けられないと言った顔でスタッフが向こう側に合図する。ゲートの前で厳めしい顔をして立っていた二人の警備員が近づいて来た。


「図星で後ろめたいから私をここから追い出すのね。そうなんでしょ!」

「それはおかしいわ」


 それは皮肉な口調ではなく、心底不思議そうな声色だった。

 ハッとして振り向くと、輝くような美しい金髪をした少女が首を傾げている。


「何がおかしいって言うのよ!」

「だって、私は去年の一二月に所属していたプロダクションをクビになったのよ」

「え?」

「あなたの言うことがもし本当なら、クビにした私の出場なんて認めるはずないもの。でも……」


 少女は細い首に掛けたプレートを掲げて見せた。


『オーディション出場登録番号B-〇二五三 リアンゼル・コールフィールド』


「それは……」


 思わず口籠もった少女へ向かってリアンゼルは静かに言った。


「私は無所属なの。あなたと一緒の立場だったのよ。じゃあ何故、私は合格したのかしら」


 言い返すことが出来ず、唇を震わせて俯いた少女にリアンゼルは諭すように語りかけた。


「あなたと私の立場に差はなかったはずよ。だから歌に差がついたとしか思えない。私、あなたに負けない自信ならあるわ。誰よりも練習した、努力したって、それだけは胸を張って言えるもの。あなたはどうなの?」

「……」

「でもあなたの気持ちはすごくわかる。だって……」

「何よ、自分は合格したからっていい気になって!」


 少女はいきなりリアンゼルの言葉を遮ると、涙目で睨み付けた。


「待って! あなたをバカにするつもりなんてこれっぽっちもないの! だってあなたは私に似……」

「うるさい! 黙れ、黙れええええ!」


 金切声にも似た絶叫をあげた少女の目から涙が溢れた。


「リアンゼルって言ったわね。私にそうやって上から目線で恥をかかせて……覚えてらっしゃい! 今に、今にあなたなんか……」


 今にどうしようというのか。

 涙声で捨て台詞を吐くと、少女はわっと泣き出してその場から逃げだした。

 その背中に向けてリアンゼルは懸命に呼びかけた。


「あなたは私よ! 私も去年そうだったのよ! 悔しくて泣いたの、逃げたの! そんな私が今年は出場出来たのよ。だから……頑張って! いっぱい練習して! 来年はきっと出場でき……」


 少女は人ごみの中に紛れて見えなくなった。リアンゼルは暫くの間ぼう然となったが、肩を落として下を向いた。


「リアン、あなた……あなた……」

「悪いことしちゃった」


 驚愕した表情を向けている傍らのマネージャーに気が付くと、リアンゼルは寂しそうに笑った。


「あの娘、去年の私だったの。自信だけで努力なんか全然足りなくて。でも希望だけで胸がいっぱいだったあの頃の私だったの。黙っていられなかった。でも……」


 目元を袖で拭ったリアンゼルを慰めるように風がそよぎ、金色の髪を優しく揺らす。

 リアンゼルの肩をそっと抱いたヴィヴィアンはこの時、彼女を栄光の座に就かせることが出来るのなら自分の生命を差し出してもいいとさえ思った。


「いいのよ。今は惨めで悔しくて何も見えていないだけなのよ。あの娘はきっと分かってくれるわ」

「……そうだといいな」


 ヴィヴィアンはため息をついた。周囲に人がいなかったら思い切り抱き寄せて頬ずりしたかも知れない。

 だが、彼女はそんな気持ちを抑えると、そっと肩を押した。


「さあ。行きましょう、リアン」


 頷いて歩き出そうとしたリアンゼルはふと、視線を感じて立ち止まった。


「えっ?」


 逃げ去っていった少女を注視していたと思っていた周囲の人々はみんな自分を見ていたのだ。それも、誰もが好意と共感の温かな眼差しを向けている。

 困惑して周囲を見回したリアンゼルは、気まり悪そうな笑顔を浮かべたが、その視線のずっと向こう側に自分の見知った顔を見つけた。


「……」


 エメルは、かつてのいじめっ子の振る舞いを、驚きの目で見つめている。

 リアンゼルは、エメルに気付くと以前と同じような憎しみに歪んだ顔を向けようとした。

 だが、弱々しく睨み付けることしか出来なかった。

 そして、エメルの横にいるデブオタに気が付くと彼女はまるで怯えたように顔を逸らしてしまった。


「?」


 自分以上に憎んでいるはずのデブオタに何故怯えるのだろう、とエメルは訝しげに振り向いたが、当のデブオタは真剣な眼差しを彼女へ向けていた。


「デイブ……」

「エメル、アイツに油断するな」


 厳しく引き締まった顔で彼はささやく。


「野郎、中の人が入れ替わったな」

「中の人?」

「別人になりやがった。人を踏みつけて見下すかつてのクズなら楽勝だったんだがな。アイツ、手強いぞ」


 デブオタは肩をすくめた。

 だが、「そうか……だからここに来れたんだな」と言ったその顔は、どこか清々しかった。まるで好敵手として彼女をついに認めた、とでも言うように。

 見上げるエメルの胸にむらむらとリアンゼルへの敵意が沸き起こった。彼にそんな顔をさせたことが妬ましかったのだ。

 嫉妬の入り混じった闘志で、彼女はかつてのいじめっ子を睨みつけた。


「……負けないわよ。今までさんざん私を虐めて、デイブをバカにしておいて、何が“頑張って”よ。負けるもんですか」

「おお、負けないが二回もきたな! 一年前のお返しだ、泣きべそかくくらいコテンパンにしてやれ」


 毒気を抜かれたエメルが思わず吹き出すとデブオタは例によってガーハハハ! と豪快に笑った。

 そんな二人に気づいたヴィヴィアンがリアンゼルの傍を離れ、近づいて来た。丁重な物腰で会釈し、にこやかに話しかける。


「こんにちは、ミス・エメルのプロデューサー」

「あ、ど、どうも。あれ? アンタ……」


 彼は、その時になって彼女が自分にこのオーディションの応募用紙を渡した女性であることに気が付いたようだった。


「やっぱり出場出来たんですね、おめでとうございます。当然そうなると思ってましたが」

「アンタ、もしかして……」

「はい、お察しの通りですわ。申し遅れましたね。私、リアンゼル・コールフィールドのマネージャーでヴィヴィアン・ラーズリーと申します」

「……」


 あっけに取られたデブオタはヴィヴィアンからの飛び切りの微笑みに、今度はドギマギする羽目になった。


「立派な歌姫を育てられて……貴方には色々と学ばせていただきました。リアンもそうだったら……」


 その顔に暗い影が一瞬落ちたが、ヴィヴィアンは打ち消すように笑った。


「今日はお互い頑張りましょうね。負けませんわよ」

「え……あ……」


 何と答えて良いのか分からず口籠もったままモジモジしているデブオタの手を強引に取って、ヴィヴィアンは握手した。


「よ、よろしく……」


 デブオタはかろうじて答えた。その隣からエメルが、デブオタに気安く触るなと言わんばかりの顔でヴィヴィアンを睨み付けている。

 颯爽と戻ってきたヴィヴィアンに、リアンゼルが不思議そうな顔を向けた。


「ヴィヴィ、あの二人と面識あったの?」

「当然じゃない。あなたの倒すべき敵なんでしょう?」

「え、ええ……それでその、何を話してきたの?」


 唇に指を当てたヴィヴィアンは「宣戦布告よ」と笑顔でウィンクしたが、一転、厳しいマネージャーの顔でリアンゼルに告げた。


「頑張りましょうね。あの娘は間違いなく勝ち上がってくるわ。雷鳴のメイナードもピクシー・スコットも認めたあの男が手塩にかけた歌姫ですもの……強敵よ」



**  **  **  **  **  **



 その日、ロンドンの空は薄雲が少しばかりかかっている程度だった。イギリスではまずまずの上天気である。

 そんな空の下で歌姫達の小さな幕間劇があった頃、その通用ゲートから会場をぐるりと回った反対側、正面ゲートからは観客達が続々と入場してきた。

 家族連れ、若いカップル、歌手と同じ世代の少女達、スカウトマンらしいスーツの男性、老齢の夫婦、休暇中の軍人から付き添いに車椅子を押させた患者まで老若男女、様々な人がいる。オーディションの開始時間が近づくにつれ、人数はますます膨れ上がっていった。

 見たところ、すでに二万や三万を優に越えそうなほどの人々がひしめいている。

 それでも後から後から、観客はハイド・パークの広大な敷地すら埋め尽くしそうな勢いで更に増えていった。

 高さ二メートルほどのステージの上からその様子を眺めていたデブオタは、我知らず膝が震えだすのを抑えられなかった。

 目を逸らすように横を見れば、鉄骨のフレームで組み上げられた巨大な櫓が聳え立っていた。櫓の中段くらいの高さに巨大なスピーカーが置かれている。

 同じ櫓は反対側にもあり、互いの頂上から陽光を遙かに上回る強烈な照明をステージの上で交差させていた。

 観客席の最前列には大小のテレビカメラがずらりと並んでいる。中継するテレビ局は、ひとつやふたつではないのだ。スタジオ用のカメラが大砲の砲列よろしくこちらを向いていた。


「ご来場のお客様にご案内申し上げます。まもなく第四八回ブリティッシュ・アルティメット・オーディションを開始いたします……」


 巨大なスピーカーはステージ脇の他にも、会場のあちこちに設置されている。そこからアナウンスの声が流れると、人々の喧噪の声は一層高まった。

 たじろぐように後ずさったデブオタが踵を返すと、ステージから距離を取った審査員席にスーツを着た男性や品のあるドレスを纏った女性が着席する様子が視界に飛び込んできた。

 誰がどんな人かデブオタには皆目わからなかったが、全員が著名な歌手や音楽業界の重鎮らしかった。スタッフがお茶を配り、関係者らがひとりひとりに丁重に挨拶している。


「おい。これってひょっとして、とてつもない大イベントなのか……」


 つぶやいた自分の独り言が震えていることにデブオタは気がついた。

「ブリティッシュ・アルティメットシンガー・オーディション」を動画で見ただけとはいえ、デブオタは、今日が厳しい審査の戦いになるとそれなりに覚悟はしていたのである。

 だがオーディションのスケールそのものは、今まで受けてきたオーディションがせいぜい二、三倍くらいになった規模で、テレビカメラ一台で中継する程度だろうと、タカを括っていた。

 だが、目に入ってくるものは、今まで受けてきたオーディションとは明らかに格式もスケールも桁違いだった。

 日本で声優やアイドル歌手のステージに親しんでいたデブオタは、世界的ミュージシャンのライブステージと見まごう豪華な設備や膨大な観客数を目の当たりにして、ただただ圧倒されるばかり。


『イギリスでは「ブリテッシュ・アルティメットシンガー」は特別です。アルティメットって名前がつくくらい凄く権威のあるオーディションなんです』


 奇しくもちょうど一年前エメルが語った言葉の意味が、今頃になってようやくデブオタには実感出来たのだった。

 顔色を失ってゆくデブオタへ追い打ちをかけるように、彼の頭上で大音量のアナウンスが流れる。


「間もなく開始時間となります。ご静粛に願います。どうか、ご静粛に願います……」


 野外ステージにあるはずの解放感など微塵も感じられない。恐れをなしたデブオタは、思わずその場から逃げ出しそうになった。

 だが……


「デイブ」


 袖を引く声で、彼はようやく我に返った。

 エメルがステージ衣装に着替えて戻って来たのだ。デブオタはホッと息をついた。


「おお、着替えてきたか。オレ様の用意した衣装、どう……」


 振り向いた彼はそこで声を失った。


「デイブ、どうかな……」


 戦慄の次は、驚愕が彼を待っていた。

 オーディションの出場者には、特典として運営側が用意したメイクとスタイリストがついて出演前にコーディネートしてくれる。

 会場スタッフからそのことを聞いたデブオタは、巨大な包みをエメルに持たせて「行って来い!」と送り出していたのだった。

 泥棒が使うのと同じ怪しげな唐草模様の風呂敷には、彼が用意しておいた衣装とメイクキット一式が入っている。

 そしてその衣装を纏い、化粧を施されて彼の前に立っていたのは、


 ――今まで見たこともない、美しい歌姫だった。


 デブオタの喉元が思わずゴクリとなった。

 見慣れたターコイズグリーンの瞳と黒髪がなかったら、彼女がエメルだと気が付かなかったかも知れない。

 巧みなメイクによってハーフの顔立ちは可憐に引き立ち、黒髪も艶を見せて美しく梳かれている。三日月の形をした銀のアクセサリーがワンポイントになっていた。おそらくスタイリストはデブオタの用意した衣装を見て、彼の意図するイメージを汲み取ってコーディネートしたのだろう。

 青みがかった銀ラメを縫い込んだ黒のドレスを身にまとったエメルは、まるで月の光から生まれた精霊のようで、息を呑むほど美しかった。

 彼女はそんなことに気がつきもせず、衣装が似合っているだろうかと心配気な上目遣いで、おずおずとデブオタの顔色を窺っている。

 凍り付いたように見惚れていた数秒間が、彼には何分……いや、永遠のようにも長く感じられた。


「お、おお、綺麗になったな。似合ってるぞ……」


 普段なら「これで優勝はいただきだぜ、ヒャッハー!」とおどけただろうが、ぼう然となったデブオタは、かすれた声でそう褒めるのがやっとだった。


(オレ様はエメルをこんな綺麗な歌姫に育てたのか……)

(オレ様はこんな凄いオーディションにエメルを連れて来たのか……)


 エメルは嬉しそうに頬を染め、俯いている。自分のドレスアップした姿は、誰よりデブオタにこそ美しく見えて欲しかったのだ。

 思わず目を逸らしたデブオタだったが、逸らした視線の先の大観衆を見て、我に返った。見惚れてばかりいられないのだ。


「エメル、ここに来て見てみろよ、すげえ人数だぜ」

「そんなにいっぱいいるの?」


 傍に立ったエメルからは、フレグランスらしいスズランの香りがしてデブオタをうろたえさせたが、そのエメルはステージ端の袖幕の影から観客席を見るや、彼とは別の意味で息を呑んだ。怯えたような声で「ほ、本当だ。凄い数……」と、つぶやく。

 それを聞いたとき、デブオタはようやく本来の自分に立ち戻った。


(そうだ、この大人数を前に歌うのはオレ様じゃねえ、彼女じゃないか)

(怯えたりボケたりなんざ、してる場合じゃねえ。エメルを支えてやらないと)


 顔面蒼白になっていたエメルは、肩に置かれたデブオタの巨大な手が急にガタガタ震え出したので驚いた。


「デイブ、どうしたの」

「すすすす凄え人数だな。イッイイイギリス人みんなここに集まってるんじゃねえのか」

「落ち着いてよデイブ。大勢だけど、さすがにイギリスの全国民ってことはないでしょ。大袈裟よ」


 だが、デブオタは「いや、エメル。お前が落ち着け」と、あべこべなことを言い出して「イスは……イスはどこだ」と急にウロウロ始めた。

 舞台裏には、オーディションの出番を待つ少女たちが付き添いと共に集まり始め、不安と緊張をない交ぜにした顔でオープニングセレモニーのスタッフ達が準備する様を眺めていた。

 不安を紛らわせる為に発声練習をしたり、十字を切って祈りの言葉を唱えている者もいる。

 だが、そんな中でデブオタの奇行は際立っていた。


「いいかエメル。落ち着け、落ち着くんだ」


 どこからか小さな折りたたみイスを見つけてきたデブオタは、無理やりエメルを座らせると「まずは深呼吸だ、深呼吸」と自分のうろたえっぷりを棚に上げて世話を焼き始めた。


「ひ、冷えたお茶を飲むんだ。体温が下がれば頭も冷えて落ち着くんだぜ」

「デイブも飲んで。そのお茶は私が淹れたのよ。ミントティーだからスーッとするわ。デイブの方こそまずは落ち着こうよ」

「おお。あ、手袋してなかったな。ほら手を出すんだ。オレ様が付けてやるから……」

「デイブ」

「少し汗かいてるな。ほら、拭いてやる」


 小さなイスに座ったエメルを相手にあれこれする様は、まるで試合を前にボクシング選手の世話を焼くセコンドだった。


「おっおお落ち着くんだぞエメル、リラックスだリラックス」


 言っている本人が一番落ち着いていない。もはやコントである。

 大観衆を見て緊張していたエメルだったが、デブオタのうろたえっぷりにとうとう吹き出してしまった。

 それがまさか、エメル以上にうろたえることで落ち着かせようとしているデブオタの演技だとは、エメルには気が付くはずもなかった。


「落ち着いてデイブ、歌うのは私なんだからデイブが慌てても仕方ないでしょ?」

「お、おお。そうだな、そうだった、その通りだ。落ち着けオレ様」


 こちらは演技ではなく自分の足が震えているのに気が付いたデブオタは、更に「オレ様も今からここのオーディション受けようかなぁ」と妙なことを言い出したので、エメルは目を丸くした。


「突然どうしたの?」

「だって見ろよ、足がこんなにカクカクしてるんだぜ。このままタップダンスでデビュー出来そうだし」


 デブオタは、いい思いつきだとばかりに「よし、見てろよ!」と、踊り始めた。

 もちろん、足がガタガタ震えているからといってそんなものがタップダンスになるはずもない。ゾンビがギクシャクと踊っているようなイビツなダンスにしかならなかった。


「うーむ、やはり無理かぁ」


 デブオタは苦笑したが、彼が踊る様子を見ていたエメルはハッとなった。


『だ……誰だ貴様は!』

『彼女のバックダンサーだ』


 惨めな結果の初回に続いて受けた二度目のオーディションが脳裏に甦る。

 デブオタの捨て身の踊りが審査員の厳しい視線を逸らし、人目を気にして怯えがちだった自分を解き放ってくれた。痛快だったあの日の出来事が、自分にどれほど自信を与えてくれたことか。

 そのときデブオタが言った言葉を、エメルは思い出したのだった。


「デイブ」

「お、おお。どうした」

「最初の予選、今からでも曲を変更出来るよね」

「ああ。確かエメルの出番はほとんど最後だったろ。たぶん大丈夫だろう」


 オーディションの出場者六十四人中、エメルの出番は六十二番目なので時間なら充分余裕がある。デブオタは頷いた。


「じゃあさ、アレやらない?」

「アレ?」


 エメルはデブオタの真似をしてニカッと笑った。歌姫というより、まるで悪戯を思いついた悪童の顔である。


「カム・トゥ・ライク・ミー(愛しておくれ)」


 デブオタは「何ぃ!?」と、今にも目玉が飛び出しそうな顔になった。


「お、お前、まさかこの大舞台で……」

「 “歌手が審査員や客を前にして怖じ気づいたら歌う前から負けだ。ビビるくらいならいっそ逆に奴らの度肝を抜いてやれ”」

「うっ……!」

「……そう言ってくれたのは、デイブだったわよね」

「お、おお」


 首をガクガクさせてうなづいたデブオタだったが、しばらくするとエメルと同じようにあの日のことを思い出したらしい。

 次第にその顔に落ち着きと、そして笑いが込み上げてきた。


「……面白ぇ、挨拶代わりにひと暴れしてやるか!」

「うん!」


 エメルの顔が、パアッと輝いた。

 観客がどれほどいようと、同じステージの上でデブオタが一緒に踊ってくれる! それだけで怖いものなんか何もないという気持ちになってしまう。嬉しさと安心感で、さっきまでの緊張や怯えなどエメルの心の中からどこかへ吹き飛んでしまった。

 ステージではオープニングセレモニーが始まったらしく、司会者の声と客席の歓声が聞こえてきた。

 だが、デブオタは例によって意にも介さず「ドゥフフフフ、もうすぐお前らの度肝を抜いてやる。待ってろよ!」と、いつもの不敵な笑顔で嘯いた。


「よし、オレ様はダンボール箱を探してくるぜ」

「じゃあ私、キャリーカートを借りてくるわ!」

「おう、見つかったらここに集合な!」


 悪だくみ顔のデブオタと笑顔でワクワクしているエメル、互いに頷き合った二人はそれぞれの探し物を求めて身を翻した。



**  **  **  **  **  **



「皆さま、たいへんお待たせいたしました。ここに栄えある第四八回ブリティッシュ・アルティメット・シンガー・オーディションを開催いたします」


 礼装姿の司会者はバラエティ番組でもお馴染みの男だった。軽やかな口調で開催を宣言すると、会場からは歓声が沸き、拍手が応えた。


「この偉大なイギリスにおいて、歌は単なる文化というだけではありません。人々の生活に欠かせぬ潤い、心の糧でもありました。振り返って歴史を紐解けば、かつて第二次世界大戦において人々の苦しい生活を慰め、希望を与えたのもまた歌だったのです……」


 歌の歴史を語る言葉に観客が耳を傾ける一方、舞台裏ではオーディションを受ける少女達が列を作り、期待と不安の入り混じった視線で、ステージの進行を見守っている。

中には緊張のあまり過呼吸を起こしかけている少女、泣き出しそうな顔で震えている少女もいた。付き添いの親やマネージャーが傍で必死になだめたり、励ましたりしている。

 彼女達の最初の難関、第一次選考のステージはもう間近に迫っているのだ。

 だが、そんなものに頓着した様子もなく、列の最後尾にいるハーフの美少女と脂ぎった日本人の大男は目を輝かせ、何やらバタバタと準備を始めている。

 その様子を、離れた場所からリアンゼルが複雑な思いで見つめていた。


(ウジ虫エメル……)

(日本人のブタ野郎……)


 かつてのように罵る言葉を心に思い浮かべても、それはもう言葉になってくれない。

 口にのぼる前に、躊躇と逡巡の中で霧のように消えてしまうのだ。一年前は、あれほど憎んでいたのに。

 殺してやるとまで言った自分の気持ちは、所詮中途半端なものだったのかとリアンゼルは情けなく惨めな思いにかられた。

 ただ、憎しみの力で燃やした情熱は消えてしまったのに、歌う時だけは凛とした別の何かが今の自分を貫いている。

 歌だけは何も衰えなかった。

むしろ、もっと深く、鋭くなった気がする。何故なのだろう。

 それが何なのかわからず、モヤモヤとした気持ちのままリアンゼルはとうとう今日を迎えてしまったのだった。

 罵声は出てこないのに、あの二人に何か無性に話し掛けたい衝動に彼女は駆られた。

 だが、話し掛ける切っ掛けすらない。第一、言葉を交わそうとしても冷ややかに無視されるだけだろう。リアンゼルはため息をついた。

 その二人は、舞台裏の一隅から何やらコソコソと動き出している。

 自分のオーディションの出場順が三番目であることを忘れ、彼女が思わず彼等を引き留めようとした時だった。


「あっ、いた! やっぱりいたわ!」

「リアンゼル・コールフィールドよ! ほ、本物だわ!」

「ベルデファ、ジニー、こんなところで騒いじゃ駄目でしょ。場をわきまえなさい」


 黄色い声と諫める声。リアンゼルが振り向くと、彼女の目の前にわらわらと三人の少女が現れた。

 三人ともオーディションの出場者らしくドレスアップした姿だったがリアンゼルには見覚えがなかった。クラスメートでもデファイアント・プロダクションに在籍していた頃の同輩でもない。その見知らぬ少女達の胸元にはリアンゼルと同じ、オーディションの参加資格を証明する小さなプレートが首から吊られている。

 興奮してはしゃいでいたが、リアンゼルは彼女達が軽薄な輩ではないとすぐに察した。

 騒いでいても、どこか気品のようなものが見え隠れしている。それは、自らを厳しく鍛えた者だけしか身に着けられないものだった。何より、この権威あるオーディションを受ける資格を与えられている。ただの少女達ではないのだ。

 ステージはいよいよ最初のオーディションが始まったらしく、トップバッターで出場する少女が名前を呼ばれた。決意を漲らせた顔で彼女は袖幕の向こうへ消えてゆく。

 それを横目でチラリと見やると、自分をぐるりと取り囲んだ三人へリアンゼルは尋ねかけた。


「見ての通りリアンゼル・コールフィールドは私だけど……あなたたち誰? 私に何か御用かしら」


 敵対するなら容赦しないと言外に凄んだが、三人はそんなつもりなど毛頭なかった。二人をたしなめた少女が代表して話しかける。


「出番が間近なのに、騒がせてごめんなさい」


 彼女は三人のまとめ役らしく、落ち着いた声で挨拶した。


「はじめまして、私はアンジェラ・スタンリット。この二人は友達でベルデファとジニーと云います」


 彼女が言い終わらないうちに、その二人が交互にリアンゼルへ話しかけた。


「私たち三人、今日このオーディションに参加するんです」

「あなたのおかげです。だからどうしても一言お礼とご挨拶を言いたくて来ました」

「うるさくてゴメンなさい。でも、あなたにここで会うのがずっと私たちの目標だったんです。もう嬉しくて嬉しくて」


 自分は名前も知らないこの少女達と、一体どこで出会っていたのだろう。

 首を傾げるリアンゼルへ、ベルデファと紹介された少女が目をキラキラさせながら「あ、憶えてなんかいませんよね」と笑いかけた。


「私たち、去年あなたがトゥラー先生のところでオーディションを受けた時、スタジオにいたんです」

「トゥラー先生?」


 今までたくさんのオーディションを受けて落ちてきた。たくさんの人と交差し、すれ違ってきたのだ。もう一人ひとりまで覚えていない。

 「忘れちゃった、ごめんなさいね」とリアンゼルが謝ると、ジニーが二人に目配せした。

 三人は頷き合う。そして、すぅ、と息を吸うと声を合わせて……


「Alice danced in the air. The red ruby broke like blood... Alice sang in the air. The blue sapphire broke like tears...」

(アリスは空に踊る、真っ赤なルビーを血のように散らし撒きながら……アリスは空に歌う、青いサファイアを涙のように散りばめながら……)


「あぁ! あのオーディションの時の!」


 三人のハーモニーを聴き、リアンゼルは眼を見開いて手を打ち合わせた。


「思い出したわ! クリスマス前の雨の日の……」


 思わず声が上ずったが、そこまで言ったとき、リアンゼルの笑顔が陰った。

 あの日オーディションを受けた後で何が待ち受けていたか、それも思い出したのだ。


「たかだか二ヶ月くらい前なのにね。懐かしいわ、あの時採用はしてもらえなかったけど……」


 あれから自分はどれほど落ちぶれたのだろう。リアンゼルの顔に自嘲じみたものが浮かんだ。

 だが、彼女を見つめる三人の眼に、今のリアンゼルはそんな風に映ってなどいなかった。


「でも凄かった。あなたにあそこで遇えなかったら私達、きっと今ここにいません」


 三人の瞳は明らかに憧れの人を見る色をしている。リアンゼルは困惑してしまった。

 第一、たまたまその場に居合わせただけの彼女達に自分が一体どんな影響を与えたというのだろう。


「あのときあなたの歌が上手で、迫力も凄すぎて、傍で聞いてた私達大ショックでした」

「もう、凄く落ち込んだんです。声もかけられなかった」

「そ、そう……」

「あなたが帰った後、私達とても敵わないってしょんぼりして……そしたらトゥラー先生に叱られました」

「叱られた?」

「 “あの娘は凄い情熱と努力でああなった。君たちだって努力すればあんな風になれるんだ”って」

「……」


 あっけにとられたリアンゼルに、少女たちはなおも熱っぽく話し掛ける。


「知らなかったでしょうけど、あなたは私たちの目標になったんです」

「このオーディションに、きっとあなたは出場すると思ってました。だから三人で誓い合ったんです。必ずここに出場しようって」

「ここで、憧れのリアンゼル・コールフィールドに三人揃って会おうって……」

「一生懸命練習しました。あなたみたいになりたいって、あなたならきっとこうするって今までの何倍もやりました」

「見て下さい。ベルデファの血豆の痕、私は二度も喉を傷めて医者から注意を受けました。アンジェラは足首の痣がまだ治っていないけど、みんなあなたを追いかけてきた私達の勲章です」


 黙って聞いていたリアンゼルの顔に驚きと、そして共感の微笑みが浮かぶ。

 それは、かつて自分がひとりで通った苦難の道だった。厳しい叱責に涙をこらえ、ギターの早弾きで爪を折り、激しい歌唱を重ねて喉を傷め、それでもあのデブオタの侮辱に負けるものかと歯を食いしばって……

 自分は憎悪をバネにここまでやり遂げたが、彼女たちは自分への憧れを力にしてやってのけたのだ。


「ええ、私も同じようにやってきたわ」


 頷いたリアンゼルに三人は「やっぱり!」と顔を輝かせた。


「三人とも頑張ったのね。だからここに揃って出られた。偉いわ、立派よ」

「……!」


 リアンゼルの言葉に三人は思わず互いの手を取り合い、瞳を潤ませた。

 憧れの人に自分たちの努力を認められ、褒められたのだ。その嬉しさは、彼女達にとって何よりも優る喜びだった。

 二番目にオーディションを受ける少女が名前を呼ばれ、彼女達の横をステージへと上がっていった。次はいよいよリアンゼルが歌う番となる。


(私、知らない間にこの娘達の目標になってた……)


 リアンゼルはようやく悟った。

 憎むという杖をなくしてもなお凛として自分を貫き、歌わせてくれたもの。憎悪から始めた努力、意地で続けた努力。

 それは、気づかぬ間に見知らぬ少女達が憧れるほど自分を磨き上げていたのだ。身も、そして心も。


 ――自分は、落ちぶれてなんかいなかった

 ――それどころか、憧れの眼で見られるほどになっていた……


 昔のように人を見下し蔑むような言葉など、瞳を輝かせているこの少女達の前でどうして言えよう。

 もう、そんな下劣なことの出来ない歌手に自分がなってしまったことを彼女は知った。

 快い胸の痛みにリアンゼルは目を伏せたが、その俯いた姿は少女たちが思わずため息をつくほど美しかった。


「私たち、あなたにはとてもかなわないだろうけど、精一杯戦います」

「今日はあなたの前で恥ずかしくないだけの歌を歌ってみせます」

「どうか、これからも私たちの目標になって下さい」


 リアンゼルは何も言わず、三人の手を取った。

 はっとなった三人の手を自分の手のひらの上に重ね、口を開く。


「私を目標にするとはね。いい度胸をしているわ」


 刺すような眼差しと凄んだ声。三人は思わず戦慄し、震え上がった。かつてのエメルのように。

 だが、そこでリアンゼルはぷっと吹き出し「目が高いわね、あなた達」と、いたずらっぽく笑うと、そのまま哄笑した。三人の少女達もホッとして一緒に笑いだした。

 ステージ裏に楽しい笑い声がこだまする。周囲の歌姫達はこんなに皆が緊張している中で何ごとかと驚いて四人を見た。

 リアンゼル達にとっては、もうそれだけで周囲に大きく差をつけたような気持ちだった。

 彼女達の後ろで、ヴィヴィアンが目元にハンカチをあてて微笑んでいる。

 こんなリアンゼルの姿を彼女は願い続けていたのだ。ずっと、言葉にしないまま。


「あなた達、私に引き離されないようについてらっしゃい」

「はい!」


 リアンゼルの呼びかけに、声を合わせて三人が明るく応える。


「かなわないけど、なんて最初から決めつけちゃ駄目よ。私を倒すつもりで、私を越えるつもりで今日は歌ってね」

「は、はい」

「ふふふ。でもそう簡単に勝たせないわよ。私、手強いんだから。今でも天才だって自惚れてるもの」


 そういうと、傍らに置いていた愛用のソリッドギターを手に取った。

 袖幕の向こう側から「では続いて三番、リアンゼル・コールフィールド」と、呼ぶ声が聞こえたのだ。

 緊張はしていたが、こんな爽やかな気持ちで歌うのはもしかしたら生まれて初めてかも知れない、と彼女は思った。

 去年は最初のこのステージで敗れ去った。

 だが、今なら胸を張って言える。

自分はもう、あの時の「自称天才歌手」なんかではないと……


「じゃあ、見ててね」


 見守るヴィヴィアンと三人の後輩に微笑むと、リアンゼルはステージへ顔を向けた。

 転瞬、怒りにも似た情熱を漲らせた表情でステージへと走り出す。疾走する彼女に合わせたように、序奏が流れ出した。


「You know it. This town is dead long ago. You see it, the guys who come and go on a street」

(お前は知っている。この町はとっくに死んでいることを。見ろよ、通りを行き交う奴等のあの姿)

「Their eyes are the same as a dead fish. You run away from this town now」

(奴等は死んだ魚と同じ眼をしてやがる。もうこんな町にいられるものか。新天地を目指してお前は走り出した)


 世界的な歌手の一人、ボビー・ジョーンズのデビュー曲として知られる「夜明けの逃亡者」。

 荒々しく掻き鳴らすギターと激しい怒りを迸らせたような猛々しい歌声に会場がどよめく。彼女の前にステージに立った二人とは、明らかに気迫も声量も桁違いだった。

 審査員達は感心したように頷き、、ボビー・ジョーンズと張り合おうとするかのようなこの少女へ視線を向けた。


「Everybody laughs. The thing which you believed was a lie. Everybody laughs. There is not your destination」

(誰もが言う。お前の思い通りになどなるものかと、誰もが笑う。お前の行く先に希望などありはしないと)

「But you lend the ears to nobody's appeal anymore. Because it is only a certain thing in one's chest to believe」

(だけどお前はもう誰の嘲笑にも耳など貸さない。信じるのは己の胸の中にあるものだけなのだから)


 焔立つような歌声は観客を圧倒し、ステージ裏の三人もぼう然となった。


「凄い、会場の空気があっという間に変わっちゃった……」


 つぶやいたアンジェラの声は震えている。


「私達の目指す人、あんな人なんだ……あんなに凄いんだ……」

「簡単に勝てないどころじゃ……とても敵わないわ」


 下を向きかけたベルデファを二人は懸命に励ました。


「さっき言われたことを忘れたの? 私達だって負けないくらい歌えるってところを見せなきゃ」

「アンジェラの言うとおりよ。あの気迫を私達も真似して歌おう。今までしてきたみたいに。きっと出来る」


 驚きと畏怖と憧れの眼で見守る三人の視線の先で、リアンゼルはスポットライトを浴び、金色の髪をなびかせ、ギラついた瞳で歌っていた。

 手にしたギターを掻き鳴らし、歓声の中で情熱を迸らせた歌声を一段と高める。

 まるで観客の興奮を更に煽るように……


「Ooh, the fugitive who runs in the town of the daybreak. You will not know your destination」

(夜明けの街を走る逃亡者。お前のたどり着く先はきっとお前自身も知らないだろう)

「Still please run. As far as the breath continues. Continue having the flame of the heart. It dawns soon」

(だけど走れ、その息の続く限り。立ち止まるな、心の炎を燃やし続けろ。夜明けは来る。お前の胸にきっと来る……)



**  **  **  **  **  **



 かくして、様々な悲喜劇を絡めながらイギリス最大のアマチュア歌手オーディションの幕は、遂に切って落とされた。

 厳正な選考で選ばれた六十四人の少女たちの顔ぶれは様々だった。エメルのように独学で研鑽を重ねたフリーランスもいればプロダクションで鍛え抜かれて送り込まれた秘蔵っ子もいる。中には声楽を学ぶために海外からやって来た留学生や医者から特別に許可をもらって応募した入院患者もいた。

 一見、無作為に選ばれた集団のようにも見えたが、実際は全く逆だった。オーディションの事前選考で送られたデモ曲やプロフィールから審査され、プロ歌手への可能性があると認められて選ばれた少女達。彼女達に共通しているのはただ一点。プロ歌手、それもアルティメットの名を冠する歌姫になることを心から熱望していることだった。

 このオーディションはイギリス中にテレビ中継されるだけではなくネットからも海外へ同時にライブ配信される。普通の少女ならステージの上に立つだけでも卒倒するしそうなプレッシャーになるだろう。

 だが、そこは厳しい選考で選ばれただけあって、歌姫達は誰一人尻込みすることなく最初の選考ステージへ一人、また一人と臨んでいった。

 中には独自の個性でライバルに差をつけようと、ヴァイオリンを弾きながら歌う少女や民族衣装を身に着けて異国の歌を歌う少女もいる。

 歌姫達がステージ上がり、司会者に紹介されるたびに拍手が沸く。懸命に歌う姿、自ら伴奏する姿やダンスなどのパフォーマンスにも称賛の拍手が起こった。

 あの三人の少女もやがてその名を呼ばれ、それぞれがステージの上に立った。リアンゼルを目標に歌唱力を磨いただけあって彼女達の歌も素晴らしく、観客から惜しみない拍手が贈られた。

 そして、登場する少女達も六〇人を越え、第一次選考もいよいよ終盤となった頃……焔のような激唱で感嘆させたリアンゼルとは全く異なるインパクトで、人々を驚かせる歌姫が現れた。


「続いて六二番です。エメル・カバシ」


 司会者のアナウンスと共にステージに走り込んできたのは、巨大な段ボールを載せたカートをガラガラと押した、小柄な少女だった。

 歴史あるこのオーディションの中で、今までこんな奇妙な登場の仕方で現れたのは誰もいない。


「なんだ? この娘」


 観客も審査員も意表を突かれ、司会者もさすがにポカンとなった。

 もしかしてオーディションの資材係が間違って飛び出したのか? と、誰もが思った。

 だが、漆黒のドレスで美しく装った少女の胸元には紛うことなきオーディションの参加資格を証明するプレートが光っている。

 元気いっぱいの笑顔を浮かべて現われた少女はステージ中央でカートを止めると、そこでようやく会場の観客に気がついたように、大袈裟に驚いて見せた。

 続いて始まった演奏に、まるで焦ってジタバタしたように踊りだす。

 地団太を踏むような愉快なステップに、あっけにとられていた観客の口元が次第に緩み始めた。

 気になってステージの袖幕からエメルの出番を伺っていたリアンゼルも、目を丸くした。かつてのいじめられっ子がステージで歌うのを見るのは、これが初めてだったのだ。

 人目に怯えて泣きべそばかりかいていたあのエメルが、臆するどころか大観衆をおちょくるように大胆なパフォーマンスを演じている!

 審査席では、一人が何かを思い出したらしく括目して「あっ」と立ち上がった。


「思い出したぞ、アイツらあの時の……!」


 その時だった。右手を突き出してエメルが「HEY!」と掛け声を上げる。

 すると、同時に傍らの段ボール箱を右拳でブチ破ったデブオタが「HEY!」と飛び出した。観客は突然現れた不審な男に思わずワッと叫び声を上げ、驚愕した彼等へ向かってしてやったりとばかりにエメルが歌いだす。


「A cool feeling! foot seem to leave the floor. The gone audience knocks on the door hard when sing more, and play it more」

(いかした気分、足が床から離れちゃいそう。イカれた観客がドアをガンガン叩いてる、もっと歌え、もっと弾けって)


 思わず立ち上がった審査員の男に傍らの審査員が尋ねかけた。


「ジョージ、彼等を知ってるのか?」

「知ってるも何も、九ヶ月前にオーディションで同じことをやりやがった二人組だ! あいつらのせいで俺はもう少しで笑い殺されるところだったんだぞ」


 本来なら怒るべきところなのだが「あいつら……」と、睨んだ男は、思い出して吹き出してしまった。

 しかし、華麗に踊りながらよく響く声で歌うエメルの姿をしばらく眺めていた彼は「あの娘、成長したな。歌もダンスも恐ろしく上手くなってやがる」と、感心してつぶやいた。

 ステージの上では、向かい合ったり背中合わせになったり、位置を変えながらデブオタとエメルが見事に動きを合わせて踊っている。

 あのお相撲さんモドキの扮装こそしていなかったが、肥え太ったお腹をたっぷんたっぷん揺らしながら軽妙に踊っているデブオタに、観客は笑いださずにはいられなかった。

 しかも、彼はエメルのようにワイヤレスマイクを付けていないので、やけくそみたいにドラ声を張り上げて「Love me every day!」(愛してよ、毎日ッ!)と生声でコーラスしている。

 オーディション会場はたちまち爆笑の渦に包まれ、謹厳であるべき審査員達も笑いださずにはいられなかった。

 だが、エメルはデブオタをそのまま笑い者にしておくつもりはなかった。

 一番が終わり、二番に差し掛かるとエメルはデブオタとは別の踊り方で歌い始めた。

 ムサ苦しいバックダンサーを演じる彼の周囲をクルクルと踊りまわり、しきりと彼に纏わりつくような仕草を見せる。

 そして「ねぇ、私のこと愛してよ」と、歌詞そのままのポーズでモーションをかけるのだ。

 だが、デブオタはエメルのようなアドリブなど出来ないので、困った顔で彼女の求愛をつれなく無視して踊り続けるしかない。

 可憐な歌姫が健気にデブオタの周りで自分のことを愛してよと歌うものだから、観客達は、さっきまで笑っていたデブオタが今度は羨ましく見えてくるのだった。


「Hey!, love me much, all the time, at any time」

(ねえ、私のこといっぱい愛してよ。いつまでもいつまでも)

「Love me every day!」

(愛してよ、毎日毎日)


 透き通るようなエメルの歌声は、激しいリアンゼルの歌声とは対照的だった。

 だが、よく響く力強さはどこか似通っていた。その歌唱力は、培った努力が明らかに尋常ではないことを感じさせる。

 最初はインパクトあるパフォーマンスに惹き込まれ、笑わされた観客達だったが、エメルの美しい歌声に気が付くと、今度はそれに魅了されていった。彼女が歌に込めた情熱は耳に心地良く伝わってくる。

 それは他の少女達とは異なる不思議な、エメルにしか出来ない歌い方だった。

 やがて曲が終わると……リアンゼルの時にも劣らぬ拍手と大歓声が沸いた。

 これほどの称賛を受けると思っていなかったエメルはキョトンとして立ち竦んだが、デブオタに促され、慌てて「ありがとうございます!」と、頭を下げた。

「うん、それでいい」と、彼もエメルに向かって拍手したが……


「すいません、あなたは一体……」


 司会者がマイクを持って近づいてきたので、デブオタは慌てて破けたダンボールを被り、ステージの影へ逃げ出した。

 その滑稽な仕草に観客はまた爆笑したが、その後を空のカートを押したエメルが「デイブ、待って!」と追いかけてゆく。

 笑いは更に膨れ上がった。


「ひー、危ねえ危ねえ! ステージで文句言われたら大恥かくとこだったぜ」

「デイブったら逃げることなかったのに……でも面白かったわね! ふふっ」

「フヒヒッ、審査員も採点にゃ困るだろうぜ」

「みんな笑って聴いてくれるから凄く歌いやすかったわ!」


 舞台袖から奥に引っ込んだデブオタは笑い転げ、エメルも楽しそうにステージを振り返る。

 ステージ奥には、既に歌い終えて審査を待っている少女達がいたが、彼女達はまるで恐ろしいものでも見るような眼で二人を迎えた。

 審査のふるいにかけられる六四人のうち、次の選考へ進めるのは半数の三二人なのだ。彼女達は、自分は選ばれるだろうかとそれぞれ気をもんでいた。

 そんなところへこの二人ときたら、リアンゼルの時のような大歓声と拍手、おまけに爆笑まで引っ提げて戻ってきたのだ。

 彼女達はようやく知ったのである。エメルが普通のライバルではないことを。

 だが、当のエメルとデブオタは彼女達の視線など気にも留めていなかった。

 自分たちの奇行が白眼視されたぐらいにしか思っておらず、デブオタに至ってはテーブルに用意されていたスティル・ウォーター(ミネラルウォーター)を見つけるや「お、気が利いてんな」と遠慮なしに一気飲み。ついでに豪快なゲップまでしてしまった。

 たまたまデブオタの近くにいた少女は、ガマガエルの鳴き声もかくやという不気味な咆哮に思わず悲鳴を上げて飛び退った。

「悪ぃ悪ぃ」と、言いながらデブオタは悪びれた様子もなくガーハハハ! と、笑い飛ばしたが、傍若無人なその様子はイギリス最大のオーディションの権威などどこ吹く風と言わんばかり。

 少女たちはデブオタの豪胆ぶりにますます戦慄し、二人の周囲から更に距離を取った。


「もしかしたら……」


 離れた場所から見ていた三人組の一人、アンジェラがつぶやいた。


「ジニー、私たちがリアンゼルに会った日にトゥラー先生が話してたのって……あの娘じゃない?」

「ええっ?」

「ほら、リアンゼルと同じくらい凄い娘が自分のオーディションを受けに来てたって」

「あ、そういえば……」


 ジニーは思い出し「まさか……」と顔色を変えた。


『激しいステップで踊りながらアンプ付きみたいな声量で最後まで息を切らさず歌ってのけた。それも透き通るような声で情熱的に歌うんだよ。あんな娘は今まで見たことないね』


 その実力はリアンゼルにも引けを取らないという恐るべき少女。

 三人は、デブオタと笑いあうエメルを見つめてゾッとなった。


「黒い髪をした日本人のハーフ……たぶん間違いない。トゥラー先生が言ってたのは、きっとあの娘だわ」

「……」


 ステージではようやく笑いの余韻が収まり、残り二人の少女がオーディションの舞台にそれぞれ上がった。

 どちらの少女もエメルに負けまいと懸命に歌ったが、彼女の並外れた歌唱力と度肝を抜くパフォーマンスの後ではいささか色褪せた印象しか残せなかった。


「思ってた通りだわ」


 歌い終えた彼女達が肩を落としてステージ裏へと戻り、他の少女達から半ば同情の眼で迎えられるのを見ながらヴィヴィアンはリアンゼルにささやいた。


「あの娘達もなかなかの歌い手だったけど、実力が違い過ぎる。しかもあのプロデューサー、バスター・キートン(チャップリンと並ぶ有名な喜劇俳優)みたいに身体を張った演出で仕掛けてくるなんて。これでエメル・カバシの存在を会場の誰もが覚えてしまった……」

「ふん、負けるもんですか」


 二人を遠目に見ながら答えると、リアンゼルは冷ややかに背を向けた。

 ……こうして六四人全てが最初のステージを歌い終えた。


「今年は、歌もパフォーマンスもバリエーション豊かですね。素晴らしいオーディションになりそうです」


 司会者はそう評して嬉しそうに締めくくり、観客席から少女たちの健闘を称える拍手が沸く中、審査員が各々メモを手に集まって話し合いを始めた。

 いよいよ選考が始まったのである。


「審査、受かってるかな」

「ふざけんなって減点でもされてなきゃ余裕さ、心配すんな」


 不安そうなエメルにデブオタは笑って請け合ったが、憂いている彼女の顔の美しさにふと気がついて、そのままぼんやりと眺めた。

 その笑顔が、次第に寂しげに陰る。

 感嘆するほど逞しくなり、見惚れるほど美しくなった。

 もうすぐ、この少女は自分の手を離れて飛び立ってゆくのだろう……きっと、光差す場所へ。そんな気がしたのである。

 そこは、日陰にしか立てない自分が決して立ち入ることの出来ない場所なのだ。

 言いようのない寂寥感が沸いたデブオタの中に、エメルとの別離の予感がきざした。


「デイブ……どうしたの?」

「あ、いや。何でもねえよ」


 エメルから声を掛けられたデブオタは慌てて、ちょっとボンヤリしていた、というように取り繕ってバンダナで汗を拭きだした。

 だが、いつもデブオタを気にかけているエメルは見逃さなかった。彼が遠い目をして自分を見ていたことを。


「……」


 彼女は、そっとデブオタの服の袖を摘まんだ。

 いま、目の前にいるこの男がもうすぐいなくなってしまうような、そんな気がして。


「第一次オーディションの選考結果を発表します」

「お、いよいよ発表始まったぞ」


 司会者のアナウンスに、デブオタは期待七割不安三割といった顔で向こうを見たが、エメルは振り向きもしない。

 彼女はステージに向けたデブオタの横顔をひたすら見つめている。


「第一次選考を通過する栄誉に輝いた方を発表いたします。二番、レイシス・ワークレイル。三番、リアンゼル・コールフィールド。六番、エミリー・ブラウニング……」

「お、アイツ受かりやがったか」


 デブオタはニヤリとしたが「お前も受かってるって、心配すんな」と言われてもエメルが黙って首を振ったので、怪訝そうな顔になった。


「どうした? エメル」

「デイブ。私、必ず歌手になってみせるから……」

「そんな気負うなよ。まだ戦いは始まったばかりだぜ」

「そうじゃない。そうじゃないの……」


 唇を震わせてエメルは言った。


「オーディションの結果なんか怖くない。だけどデイブがなんだか遠くに行っちゃいそうな気がしたの。それが怖いの」

「……」

「ね、私きっと歌手になってみせるから。だからオーディションが終わった後もどこにも行かないでね。デイブ、衣装とかで今までの生活とか、お金いっぱいかかったでしょう? これからは私が……」


 本当ならオーディションが終わった後で言おうと決めていた言葉。

 だが胸の中に湧き上がる不安に、彼女はもう言わないでいられなかった。

 ところが……


「あ、それはダメだ! 死亡フラグだから」


 突然デブオタはエメルには意味不明なことを叫んだので、彼女はキョトンとなった。


「死亡フラグ?」

「アニメやドラマでよくあるんだ。『オレ、この戦いが終わったら結婚するんだ』……結婚出来ない。絶対死ぬ。『これがトドメだ、死ねええええ!』……叫んだ奴が逆にやられる。『まさかこれは! ……は、早く皆に知らせなきゃ!』……知らせる前に殺される。こういうのが“死亡フラグ”って奴だ」


 エメルは呆気にとられてデブオタの言葉を聞いた。


「そ、それはアニメとかのお話で……」

「じゃあ身近な例を挙げよう。『ウジ虫エメル、潰してやる!』……言われた奴はどうなったかな? 潰されるどころかイギリス最大のオーディションにご登場してなかったかなぁ。あんな奴に負けるもんですか! って闘志満々、宣戦布告してなかったかなぁ」

「あっ……」


 それは、まさしく自分のことではないか。

 眼を白黒させたエメルに、デブオタは「だから、そういうのはナシな」と、笑った。


「こういうのは逆に言うといい。オーディションは落選。エメルは歌手になれなくて泣き虫に逆戻り。オレ様は負け犬になって日本に帰る。そんな風に言えば……」

「五九番、ルルージュ・リグビー……六二番、エメル・カバシ……合格者は以上です。おめでとうございます! 名前を呼ばれた方は二次選考の打ち合わせを行いますので受付までお越し下さい」


 司会者が告げる第一次選考通過者の最後に、エメルの名前は確かに呼ばれた。


「な? 言った通りだろ」

「……うん、デイブの言うとおりね」


 エメルは、まだどこか不安気だったがようやく笑顔を取り戻して立ち上がった。


「ごめんなさい。何だか悪い予感がしたの」

「合格だし、その予感は大ハズレだったな。ま、イギリス最大のオーディションで気が張り詰めてるんだ。もしかしたらって悪い妄想をしない方がどうかしてらぁ。気にすんな」

「ありがとう」


 笑顔で応えたが、彼女は固く心に誓っていた。

 このオーディションに優勝してもしなくても自分をこんなにも変えてくれた男に、自分の気持ちを伝えることを。

 だから、今は……

 エメルはデブオタの言うとおりそれとは逆のことを言った。


「私オーディション落ちてみせるわ! 歌手は諦めて、リアンの前でメソメソしてくる。デイブはさっさと日本に帰ってちょうだい」

「うへぇ、そりゃあないぜ!」


 デブオタが勘弁してくれ、と苦笑いして手を合わせるとエメルはふふっと笑った。


「冗談よ、合格の受付に行ってくるわね」

「おう、行って来い」


 元気よく駆け出したエメルに手を振ると、デブオタは小さな声でつぶやいた。


「そうだ、それでいい。お前はもう立派な歌姫だぜ、エメル……」


 ネットで漁った技能も、ゲームで覚えたテクニックも、アイドルを応援して知った知識も、何もかも授けた。教えられることはもう何もない。

 メイクキットと衣装に、帰国の為に残していた最後のお金も全て費やした。与えられるものはもう何もない。オーディションが終わったら領事館にでも駆け込んでお金を借りるしかなかった。

 だが、デブオタは満足だった。

 彼女が歌姫になれば自分の役割は終わる。

 自分は所詮、光差す場所には立てない人間なのだ。

 だから、その時がきたら静かに去ってゆこう、と彼は心の中で決めていたのである。


 寂しい想いは今まで何度も味わった。数え切れないほど。

 だから、きっとまた耐えることは出来るだろう……

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