⑤同棲初日
ノートパソコンにモバイル端末、制服と学用品の一式、それから小さな小さなトランクが一つ。叶香の荷物はこれだけだった。
「それだけ?」
「そうよ」
「え? 着替えとかは?」
「なあに? 私の下着に興味があるの?」
はい、あります。とは言えないので孝介は否定した。
「この中よ」
そういうと、その小さな小さなトランクを指差した。そんなんで足りるのか? と思いつつも聞くわけにはいかないしなぁ、とトランクを凝視していたら叶香に釘を刺される。
「盗まないでよね? お気に入りだけ持ってきたんだから」
「ばっ、おまっ、ぬ、盗むわけないだろ!」
思わずうろたえる。別に盗もうだなんてこれっぽっちも思っていなかったのだが、下心が皆無だったのかと聞かれると目が泳ぎかねない。というか今まさに泳いでいる。その狼狽ぶりに胡散臭そうな視線を浴びせられた。
大丈夫だ。心配ない。ノエルので見慣れているだろう。たかが布切れ。落ち着け。へーじょーしんだ、へーじょーしん。心を落ち着かせるために、孝介は素数を数えはじめる。
「お部屋の準備ができました♪」
おひさまのような笑顔で、エプロンをつけたノエルがリビングへ戻ってきた。その無邪気でかわいい笑顔に、さーっという音をたてて孝介の下心が消えていく。ノエルはかわいい。代わりに、そんな兄バカが顔をのぞかせていた。
「ありがと、ノエルちゃん」
「いえいえそんな。なにかありましたらお申し付け下さい。家のこと、家事全般は基本的に私のお仕事ですので、遠慮しないでくださいね」
「うん。それじゃ、お手洗いを借りたいんだけど、教えてくれる?」
「はい。こちらにあります」
そう言って二人はリビングを出ていく。
この家に住むと、まさか本気で言っているとは思っていなかった孝介は、いまだにおたおたとうろたえるばかりだった――
今から1時間前のこと。
「おもしろそうだからよ」
なんでここに住むとか言い出したんだ、という孝介の質問に叶香はそう答えた。
「おもしろいって、なにが?」
「君とノエルちゃん」
「どこがおもしろいんだよ」
「全部かな」
「答えになってない」
「いいじゃない、減るもんでもないし」
確実に光熱費は減るぞ、とどうでもいいことを孝介は心の中で答えた。
「プライベートな時間が減る」
「別に構わないわよ、いつも通りにしてて」
「俺がかまうんだよ」
「例えば、お風呂あがりに全裸で歩いてるわけじゃないんでしょ? ノエルちゃんに対する君の態度を見るに、彼女と同性の私が増えたところで行動パターンに変更はないんじゃない?」
的を射た推察だ。孝介はノエルを普通の女の子として扱っていた。年頃の男子としては異性には見せられない隠し事もあるので、ノエルに自室の掃除だけはやらせないでいるし、ノエルにそういうことは悟られないように努めている。反論の言葉が思いつかなかった。
「あーでも、ノエルちゃんにはどうか知らないけど、私がお風呂に入ってるときは覗かないでよね」
「馬鹿! 覗いてないし、覗くかよ!」
「ならいいんだけど」
本音で言えば覗きたいけど、さすがに行動には移さない。すごく、覗きたいけど。
「そういうことだから、よろしくね」
そんなこんなで、クラスメイトとの同居が始まったのであった。
「孝介さん。忘れ物はありませんか?」
「だいじょうぶだよ」
ノエルが孝介の制服のエリを直しながら聞いてくる。いつもの朝の風景。
「叶香さん。リボンが少し曲がっています」
「あ、うん、ありがとう……」
ノエルのなすがままにされている叶香。彼女はもの凄くけだるい感じだ。朝は弱いらしい。神童にも欠点はあるものだな、と妙に感心する孝介だった。
「お前って朝弱いんだな。手、冷たかったし、低体温なのか?」
昨日、部室で握りしめた叶香の手の冷たさを思い出しながら声をかける。
「よく覚えてたわね。私は冷血動物なの。日光を浴びると灰になっちゃうのよ」
「それは吸血鬼だろ」
頭も回っていないようだ。
「叶香さんにはこれも」
そう言いながらノエルはお弁当とは別に包を渡した。中身は小さなおにぎりが2つ入っている。寝起きは食欲がないと言って、コップ半分の牛乳を飲んだだけの叶香を気遣って早弁を持たせたのだ。授業中は教室にいないということが昨晩の食卓の話題に上がっていた。それをノエルは覚えていたのである。
「ホームルームが終わったら、ちゃんと食べてくださいね。残して返ってきたら、めっ! ですよ?」
いまだ背骨の入っていない叶香を諭すようにそう言うと、ぽんぽんと背中をかるく叩いた。
「いってらっしゃいませ!」
そういいながら、両手に拳をにぎってファイトポーズをすると上下に振った。彼女なりのがんばれという応援である。
「いってくるよ」
「……いってきます」
ひまわりのようなノエルの笑顔に見送られて、今日も容赦のない日差しの下に足を踏み出した。
今朝も快晴。暑い。
「ああ、孝介くんに恥ずかしいところを見られたわ」
初夏の日差しにいぶされて、やっと頭に血流が回ってきた叶香がぼそっと呟いた。日傘を深々と差している。すれ違いざまにそのセリフが聞こえてしまった女子大生と思われる二人組が、ちらちらと振り返りながらひそひそと噂話を始めた。きっとろくでもないことを想像しているのだろう。そう思うと、孝介はため息を付いた。風評被害である。
「その言い方、ものすごく誤解を生むんだけど」
「だって初めての朝だったんだもん。ずっと守ってきたのになぁ、私のイメージ」
今度は信号待ちをしている原付のサラリーマンに風評被害が広まった。もちろん、守ってきたのになぁ、までしか聞こえていない。叶香のそのセンセーショナルなセリフときれいな容姿に意識を取られたサラリーマンは青信号に気が付かず、後ろの車にクラクションを鳴らされた。あわてて発進したため右折レーンにもかかわらず直進してしまい、ネズミ捕りの白バイに止められてしまう。
ご愁傷様。孝介は心の中で手を合わせた。
「別に俺は泊まってくれとは言ってないし、むしろ叶香がウチに泊まるって言い出したんだろ?」
「それはそうだけど。そういうことはすっかり忘れてたの」
「好奇心に負けるタイプなんだな」
「うっ……」
天才少女の図星をついてやったぜ! 無意味に勝ち誇っていると、孝介は背後に気配を感じた。しかし、時すでに遅し。
「泊まりって……孝介お前。いつの間に神納院とそういう仲になってたんだよ!?」
いままさにUFOが大量の牛をキャトル・ミューティレーションしている現場に遭遇してしまったような顔つきで、井上が声を上げた。学校の生徒、しかも同じくクラスで顔なじみという最悪の相手だ。風評被害が実害に変わりかねない瞬間である。
「いや、ちがうんだ、そうじゃない! えっと、ノエルが、そうノエルを診てもらうのに来てもらって。お前のアイデアだろ? それで、あの、夜遅くなっちゃったからさ。夜道は危ないし、だから、さ」
あはははは、と空笑いをしつつどうにかごまかそうと四苦八苦する。
最初は裏切り者を見るような白い目で孝介を睨んでいた井上も、ノエル一筋のシスコンがこんな才色兼備の女子を射止めるわけがないと、妙に納得した。
「マジでビビった。おどろかせるなよ孝介」
「お前の勝手な早とちりだろ?」
「悪かったよ。それでノエルちゃんの具合はどうなんだ?」
昨晩、叶香に診てもらったことを伝えた。
「そっか。さすがだなぁ、神納院」
「そうでもないわ」
「井上もありがとな。お前の助言のおかげだよ。感謝してる」
「いや、別に、気にすんなよ」
孝介は先ほどの失言を誤魔化すためにも井上を持ち上げた。そんな井上もまんざらでもなく、先ほどのことはすっかり忘れているようだった。
道中は、叶香と井上のアンドロイドトークにはほぼ入れずにいたが、これで先ほどのことを忘れてくれたらと孝介は祈りながら坂道を踏みしめる。
坂を登り終わり、校門へとたどり着いた。
今日も一日の始まりである。
「起立。礼。着席」
号令が終わり担任が教室を出て行くと、教室がざわめく。いつもの喧騒だ。
そんな風にいつものホームルームが終わり、そろそろ叶香が教室を出て行くタイミングだったが、彼女は教科書とノートを取り出していた。
「叶香、お前、授業受けるのか?」
「そうよ?」
どういう風の吹き回しだろうか。叶香が授業を受けるというのだ。彼女が出席するのは入学式の翌日、最初の授業以来である。孝介を除けば、叶香の後ろの生徒がなにか違和感を感じている程度で、誰一人として叶香の出席に気がついていない。というか、いないことが当たり前すぎて視界に入っていはいるが認識できないのである。
喩えるならば、幽霊が見えるのだが常識ではありえないから自らの幻覚である、と脳が結論づけてしまうような状態にあった。本人と孝介を除く、クラスの全員が。
にわかにざわつき始めた頃、数学の教師が教室に入ってきた。
「授業を始めるぞ。お前らなにをざわついて――」
いるんだ、と言いながら教師の目が見開いた。左から二番目、一番前の席。いつもは誰もいないその席に生徒が座っていた。神納院叶香だ。
「お、おい。神納院……なんだ、授業に出るのか?」
全員が幻覚だと自らの目を疑っていた存在に、教師がいの一番で触れた。当の叶香はさも当たり前のように、背筋を伸ばして座っている。教科書通りの座り方というものがあるとしたら、きっとこんな感じなのではないだろうか。低血圧で倦怠感たっぷりだった今朝の叶香とは別人である。
「はい。そのつもりですけど、ご迷惑でしたでしょうか?」
本人に嫌味はまったくない。久しぶりに授業に出るし、前もって伝えておくべきだったかな? と言った、間の抜けたようなの考えからの発言だった。
「いや、構わない。それじゃ、授業を始めるぞ。教科書54ページ」
板書をしながらも後ろを気にする教師。よっぽど叶香のことが気になって仕方ないようだった。
ガリッとチョークを折る。落ちたチョークを慌てて拾おうとして、黒板消しを肩に引っ掛けて粉まみれになった。これでチョークを折ったのは何度目だろうか、十数回を超えた時点で孝介はカウントをやめていた。
次に来たのは英語の教師。帰国子女なことが自慢で、いつもはやけに誇張した発音で生徒の笑いを誘い、我慢をすることで腹筋が鍛えられる授業だと揶揄される彼も、緊張からかむしろナチュラルな発音になっていた。ただし、もの凄く噛む。第六感、シックスセンスをセックスセンスと読んでしまった時には、耳まで真っ赤にしていた。
ここからは一日中、そんな教師たちによる珍プレーのオンパレードだった。
唯一、脳筋前田こと体育教師である前田先生だけは叶香に対してフレンドリーに、そして体育会系特有のノリで接し、むしろ叶香のほうが少しげんなりとしていたくらいだったが。ちなみに体育は見学である。
5勝1敗で叶香に軍配が上がった。体育に関しては引き分けなのではないか、という意見が一部から出てはいたが多数決で負けということに。もちろんこれは叶香本人や教師たちによる勝敗ではなく、一部のおもしろ男子によって明日のお昼のジュースを賭けたトトカルチョという形で秘密裏に開催された催し物だ。孝介は叶香全勝にベットしていたため、明日はジュースをおごるはめになっていた。脳筋前田、おそるべし。
帰りのホームルームも終わり、なにごともなく今日の全コマがしめくくられた。生徒と前田先生に関して言えば、ではあったが。
日直の号令とともに、クラスの一角に人だかりができる。その中心はもちろん叶香であった。まるで、今日引っ越してきた転校生かのごとく質問攻めにあう。それも当然で、二年に上がり、いまのクラスになってから初めて授業に出たのだから。少なくとも、このクラスで叶香の存在を知らない生徒はいない。気にはなっていたがなぜか触れるべからず的な空気があったため、誰もが近寄らずにいたのだ。
初参加にもかかわらず教師たちを存在感だけで手玉に取ったその姿に女子たちは黄色い声を上げ、よくよく見たらかなりの美人だと再確認した男子たちも変声期を終えたばかりの野太い声を上げていた。
そんな叶香を群衆から救い出したのは考介ではなく、校内放送だった。
『未来科学研究部部長、神納院叶香さん、至急職員室まで来て下さい』
クラスメイトのマシンガンのような質問に答えていた叶香がすっと立ち上がる。
「ごめんなさい。職員室に行かないと」
それを合図にクラスは静まり返り、人だかりがモーゼの十戒のように割れて廊下までの道が開く。その海道に腰まであるきれいな髪を泳がせると、静かに教室の外へと出ていった。
隣の席だったにも関わらずすっかり蚊帳の外に追いやられていた考介は、その叶香の後ろ姿を頬杖をついたまま見送る。ふと、モバイルのLEDが点滅をしているのに気が付き、画面を確認した。
『田中ノエル』
いつの間にかノエルからメールが届いていた。
しばらく時間がないので挿絵は後々入れます。
本分は8割り方書き終わっているのに、そっちに合わせるのも本末転倒なので。