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3/6

③ガールフレンド

 第2校舎の裏手、三つある部活棟の中でも一番古いA棟の1階、しんと静まり返る廊下を抜けた一番奥にその部屋はあった。

 この春に二人いた三年生が卒業し、いまは部員が一人しかいない絶滅危惧種の部、『未来科学研究部』である。

 孝介は扉の前で息を呑んだ。

 いかにもなにか出てきそうな古い木造校舎。部室はその薄暗い板張りの廊下の突端にあり、西側に四角く切り抜いた小さな窓から差し込む陽の光だけが、孝介の足下から樹のように生えている。その根に足を絡めとられ、孝介は動けずにいた。

「まいったな。なんて話しかければいいんだ?」

 この扉の向こう側にいるであろう未来科学研究部の部員が、まったく知らない生徒ならば話は楽なのだが、そうもいかない。

 この部の唯一の部員であり現部長でもある二年生、それが神納院叶香(じんのういんかのか)なのである。

 そんな彼女は、朝と帰りのホームルームにしかクラスに顔を出さない。神童とも呼ばれる彼女は、学校に来たことを確認するためのホームルームと、中間・学期末テスト以外の授業への参加を免除されていた。給食の時間もクラスにはいない。

 思い返せば彼女との会話はただの一度きり。

「えっと、俺は田中孝介、よろしく」

 二年生の始業式の日に隣の席ということもあったし、色白な肌やきれいな髪に見惚れてしまっていたことを誤魔化すような、照れ隠しとかすかな下心からの自己紹介だった。

「うん」

 彼女から返ってきた返事はそれだけ。それが彼女との唯一の会話だった。

 授業中は基本的に教室にはいない。朝夕のホームルームで何度か話しかけようとしたが出来ず、一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が経ってゴールデンウィークも過ぎ……話しかけるハードルだけが日に日に高くなっていく。梅雨が開ける頃には、完全にあきらめてしまっていた。

「くそ……」

 孝介は過去の自分に対しての苛立ちを口にする。無視をしてきたわけではないのだが、結果論とはいえコミュニケーションを取らずにきたことを後悔した。

 目の前にある古い木製のドアが、砦の城壁を守る城門のように立ちはだかる。その門を頑丈に建て、横木を入れているのは誰でもない、孝介自身だ。

「よし!」

 拳を握りしめて、孝介は気合を入れた。誰のためでもない、ノエルのためだ。大切な家族、大切な妹のためだ。恐れることはない、目の前にあるのはただの木製のドアだ。中にいるのはクラスメイトの女の子だ。そう言い聞かせる。

 軽く咳払いをした孝介は、万が一にも間違えてはいけないとその名前を口にした。

「神納院叶香」

 その瞬間、目の前の扉がひとりでに開いた。アラビアンナイトの呪文が、アリババによって唱えられたかのように。

 薄暗い廊下へ、部屋の窓に映える空の青と木々の緑が洪水のように流れ込んできた。孝介の足下を縛りつけていた樹の根は、その流れに溶け込んで元の陽光へと戻っていく。

 天の岩戸から姿を表した人影は、キラキラと逆光にきらめく微かな埃の粒とアールグレイの甘い香りに、腰よりも長くいつもと変わらないきれいな髪を泳がせていた。

 華奢な身体にスラっと長い手足。学校指定のセーラー服の上に、理科の実験用の白衣をラフに羽織っている。ボタンを閉めずに開けたままの白衣越しに見え隠れする二つの膨らみが、少年の視線を誘う。

 その誘惑をかろうじて理性が押さえ込むも、何ひとつ言葉が出てこない。数秒が何分にも思えてくる。

 そんな沈黙を破り、濡れた秋桜のようなうす紅色の唇を、彼女は開いた。

「なあに? 田中孝介君」




 落ち着かず、部屋を見渡す。

 年季の入った木枠の縁に囲まれて、落ち着いたクリーム色の壁紙にはうす桃色の花が幾何学模様のように描かれている。全体的に落ち着いた茶色の空間に、紅茶の香りが微かに咲いていた。

 長机を二つ重ねて作ったテーブルの真ん中には花瓶が置いてあり、名前の知らない花が三つ、白くてかわいらしい花びらを広げている。中庭でよく見かける花だ。雑草のようにどにでも咲いている花だが、こうやって花瓶に生けてあると趣がある。

 ティーカップに紅茶を注ぎ孝介の前に置くと、向かいの席に叶香が座った。警戒しているのか、単に機嫌が悪いのか、生まれつきなのかは分からないが表情なく孝介を見つめる叶香。その瞳の深さに孝介の意識は吸い込まれていく。視界が狭くなり、周りの景色がぼやけて色を失っていき、ただ彼女の瞳だけがそれを濃くしていった。

『きれいだ』

 そんな言葉が思わず口から零れそうになるほど、見惚れてしまっていた。横顔は朝夕それとなく見てはいたが、正面から向かい合うのは初めてかもしれない。彼女のまとっている空気から知性と神秘が漂い出し、紅茶の香りに混ざり合って、鼻孔から脳の奥深くを麻痺させていく。この先きっと孝介は、紅茶の香りを嗅ぐたびに彼女の姿を思い出してしまうだろう。まるでパブロフの犬のように。

 それほどまでに、彼女はきれいだった。

「それで。わざわざこんなところまでなにしに来たの? 用事があるならホームルームの時にでも言ってくれればいいのに。隣の席なんだから」

 もっともな話ではあったが、思いついたのがホームルームの後なのだから仕方がない。明日の朝まで悠長に待ってはいられないほど、孝介にとってノエルは大切な存在であり、事は一大事だった。

「神納院さんって――」

「叶香でいいわ。苗字で呼ばれるの、あまり好きじゃないの」

 そう言うと、眉間にしわを寄せてあからさまな嫌悪感を示した。

 いつも見ている叶香は感情を表に出さず、まるで人形のように思えていたので、彼女のその態度に孝介は内心ほっとしていた。なんだ、普通の女の子じゃないか、と。

「あと、さん付けもなし。同級生なんだから呼び捨てでお願い。それからもし、ちゃん付けで呼んだら……」

「呼んだら?」

「そうね。女の子になってもらおうかな。性転換手術の刑。わかった?」

「それって、去勢って言わないか?」

「違うわ。ちゃんと人口子宮も入れるもの。一度やってみたいのよね、性転換手術」

「やるって、神……叶香がか?」

「そうよ。これでもサイボーグ技術関連でいくつか特許も持ってるんだから。医師免許はまだ取れてないから、やるなら海外でやることになるけど……渡航費も出すわ!」

 訂正する。普通の女の子ではなかった。

「いや……遠慮しておきます」

 思わず敬語になる。やる、が手偏のヤルになってるだろ、それ。そう孝介は心の中でツッコミを入れつつも、これからお願いをする立場なので口には出さないでおいた。

「ごめんなさい。それで?」

「ああ――」


 これまでの顛末を話した。孝介とノエルのこと、サポートが打ち切られたこと、ノエルの故障のこと。

「そうね。たぶん味蕾センサーの故障か、回路の断線か、ソフトのほうでバグっているか。最悪メイン回路のエラーということも考えられるけど、まぁ、普通はありえないわね」

「治せそうか?」

「見てみないとわからないけど、たぶん直せると思うわ」

「頼む! ノエルを治してくれ!」

 孝介は思わず叶香の手を取って、深く頭を下げた。藁にもすがる思いだ。妹を治して欲しいと担当医に懇願するように。いや……ようにではなく、まさにそうなのである。ノエルは、孝介にとって家族そのものなのだから。どんなことをしても治して欲しい。そう願うのは、ごく普通の感情であった。

「とにかく、見てみないことには判断がつかないわ。AIジャパン製のは何度もいじったことがあるけど、AIロボテックの方はないの。そこまで違わないとは思うけど」

「それでもかまわない。ノエルを診てやってくれ」

「わかったわ。それじゃあ、いまから伺うわね」




 ノエルの手は柔らかい。

 そういう風に作られていると言ってしまえば身も蓋もないが、小さくてかわいい手をしている。弾力はあるがマシュマロのように柔らかく、肌の表面はきめ細かく吸い付くような質感で、ほんのりと体温を感じる。

 見てくれは普通だが異性とはあまり縁のない孝介にとって、女の子の手と言えばノエルのそれがイコールであり、基準になっていた。

(少し大きかったけど、ノエルと同じくらい柔らかくて、細くて……でも、冷たい手だったなぁ)

 孝介は、先ほど思わず握ってしまった叶香の手の感触を思い出していた。異性の……少なくともそれなりに好意を持っている女の子の手を、故意ではないにせよあそこまでしっかりと握りしめたのだ、手と脳のシワに強く焼き付いてしまうのは当然の摂理である。

 繰り返しにはなるが孝介自身は否定している事実上の初恋の相手であるノエルを含めて、異性の手をあそこまでしっかりと握りしめたのは、人生で二人目だった。

 しかも、ロボットであり家族であり妹でもあるという心の壁、世間体や常識と言った無意識の複雑なハードルが存在しないクラスメートの女の子である。本能が、恋愛対象としてのOKサインを出していた。普通の女の子ではない、というファーストインプレッションはどこへかと消えて。

「孝介君の家ってどこにあるの?」

「え? あ、ああ。この坂を降りて橋を渡ったら直ぐだよ」

「へぇ、近所なんだ。今日みたいに暑いと羨ましいな」

 叶香は日傘の縁から顔をのぞかせて、雲ひとつない空をうらめしそうに眺めながら呟いた。初夏の陽気でうっすらと汗に湿った頬を前髪が軽く撫でると、それを指ですくい上げて耳へとかき上げる。真っ白な肌が日差しを受けて、向こう側が見えてしまいそうなくらいに透き通っていた。

 叶香は日傘が似合う。少なくとも孝介はそう思った。外側は白をベースにして、縁から20センチほどに薄い水色のチェック模様が入っており、内側は黒に近い紺色に星座があしらってある。傘の縁と先端には小さなレースが涼しげにゆれていた。

「叶香の家はどこにあるんだ?」

「なぁに? 女の子の家まで押しかけるつもり?」

「いや別に、教えたくないなら構わないよ」

「教えたくない」

 即答だ。

「そっか。そうだよな。クラスメートって言っても、友達ってわけでも……ないしな」

 孝介は現実に打ちのめされた。そう、友達ではない。ただのクラスメートで、たまたま隣の席に座っているだけなんだ、と。考えてみればあたりまえのことだ。なんの根拠もなく、ただ舞い上がっていた自分が恥ずかしかった。そんな自分のために、わざわざ付き合ってくれるだけでもありがたいというものだ。

 すると、叶香が足を止めた。

「……ちがう」

 日傘をきゅっと両手で握る。日差しと影のコントラストが強すぎて、叶香の表情は見えない。

「友達に、なりたいから」

「え?」

「友達になりたいから、教えられないの」

 俺と友達になりたいから家は教えられない、と言っているのか? 想像もつかない言葉は、例え母国語でも理解ができないものである。孝介は、叶香がなにか知らない国の言葉を話しているような感覚に襲われた。

 友達になりたい。だから、教えられない。何度も、叶香の口にした言葉を頭の中で反芻した。友達になりたくないのではなく、友達になりたいという。やっとの思いでそこは理解した。理解したがまだわからない。だから、家は教えられないという。接続詞が繋がらないのだ。

「ええっと。友達にはなってくれる、ってことか?」

「うん。君がいやじゃないなら、私も別にかまわない」

「でも、家は教えられない」

「…………ごめんなさい」

「そっか。よろしく!」

 これ以上は詮索するべきことではない。ましてや相手は女の子だ。なにかきっとわけがあるのだろう。孝介はそう結論づけて、これ以上その話はしないと決めた。

 喜べ! 孝介! ガールフレンドだぞ! 恋人ではなく文字通りガールのフレンドではあったがそんなことはどうでもいい。踊りだしそうな気持ちを必死に抑えた。孝介は容姿も普通で人当たりもよく、その上でノエルというみんなに大人気な妹がいたので女友達風な娘は何人もいたが、正式に『友達』としての女の子は叶香が初めてだった。しかも、孝介は彼女に惹かれていたので、これほど嬉しいことはノエルが家にやってきたとき以来だった。

 と、浮かれている場合ではない。その妹、ノエルの一大事なのだから。

「着いたよ。ここが俺の家」

 そう言うとドアノブを回し、玄関へ叶香を招き入れた。

「お帰りなさいませ、孝介さん♪」

 元気な声が孝介を出迎える。いつも通り、太陽のようなノエルの笑顔がそこにあった。

「えっと……」

 孝介と一緒に玄関に入ってきた叶香を見つけて、まんまるの瞳をさらに丸くし、子犬のように小首をかしげて言い淀む。

「お客様ですか?」

「ああ、彼女は俺のクラスメートで、神納院叶香」

「叶香って呼んで」

 孝介の紹介に食い気味でそう続けた。よほど苗字で呼ばれるのがいやなんだな、と孝介は苦笑いをこらえる。

 家を知られたくないっていうのとつながっているのか? と、一瞬考えたが、それ以上は止めておいた。そのことは詮索しないと先ほど決めたばかりなのだから。

「叶香さんですか。いつも、孝介さんがお世話になっています」

 ノエルは深々と頭を下げた。それが実はお世話になっていないのである。むしろ、これからお世話になるわけで。野暮な訂正は心の中に留めておく。

「私は、田中ノエルです。えーっと。孝介さんの妹です。ノエルとお呼びください」

「よろしくね、ノエルちゃん」

「はい♪」

 我が妹ながらよくできた娘だ、と孝介は兄馬鹿全開で顔が緩んでいた。
















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