4. ~beginning~
昔から保育士を志していた私は、高校に入学してすぐ、鍵のかかった特別棟一階の空き教室で偶然グランドピアノを発見した。今年新しいピアノが入ったせいで空き教室に移されてしまったらしく、使っていないのならピアノの練習をしたいので使わせてほしい、と音楽の先生に頼んだ。だけど防音室じゃないし、傷付けられたら困るから、とかなり渋られた。それでも諦められなかった。家にはピアノを買うお金も、置くスペースもない。それに短大希望の私は、大学に入ってからピアノをゆっくり練習している暇もない。なので毎日お願いして、夏休みまで頭を下げて、二学期が始まってすぐ、週三日、放課後二時間だけ、使用許可を得ることが出来た。
借りた鍵を使って教室の扉を開ける。埃臭さに咳き込みながら、窓を開け放した。そして、埃を被ったグランドピアノに手を伸ばす。蓋を開けて鍵盤をなぞってみると、少し鈍いもののポン、と澄んだ音が出た。これなら十分練習出来そう、と笑い、もう一度蓋を閉める。
「……こんな埃臭いところで使ってたら、鍵盤が傷んじゃいそう」
苦笑し、ロッカーから塵取りと箒、モップを取りだす。今週いっぱいは掃除に専念した方が良さそうだ。そう思って、黙々と作業を進めた。
しばらくして、暑さに我慢できず椅子に座って一息吐く。だらだらと頬を流れる汗を拭い、ぼうっとしていたら。
「洒井ーっ、ボールそっち行ったぞー!」
「はいっ」
グラウンドから響く大声に顔を上げ、風に揺らめくカーテンを開ける。そこでは、何人ものユニフォーム姿の男の子達が走り回り、白黒のボールを蹴っていた。
その真ん中。パスを受けて、走り出す、洒井くんがいた。
――洒井 寛人。その名前を知らない人は、うちの高校にはいなかった。
芸能人顔負けの綺麗な顔立ちに、高い身長、筋肉質な身体つき。ただそこに立っているだけで、彼は周りの人を惹き付けるオーラを持っていた。
一年生で同じクラスになった私達は、二学期に入っても話したこともなく、むしろ無口で大きな彼に、私は少し苦手意識を持っていた。彼は彼で、私のことなんてクラスメイトの一人か、それ以下だとしか認識していなかったと思う。
だから、その放課後のことはよく覚えている。――私が、彼を意識した日だから。
サッカーのルールは、あまり詳しくない。お兄ちゃんがサッカー部だったけど、別に試合を見に行ったりはしなかったし、テレビで試合観戦していたら私はさっさと部屋に引っ込んだし。だから初めぼんやりと、それを見つめていた。九月、残暑でまだまだ暑さも残る中、よくあんなに走り回れるなぁ、としか思っていなかった。
だけど、洒井くんが三人のディフェンスに囲まれて目を見張る。どちらに行こうとしても、動けそうにない。ボールを取り合って激しく足をぶつけ合う四人に、それ反則じゃないの?と呟きそうになる。味方は手出しを出来ず、あわやボールを取られてしまうか、という時。
「、」
コロコロ、とボールを洒井くんが軽く蹴飛ばす。それを追いかけるディフェンスなんてものともせず、彼は一番に飛び出して、ボールを高く蹴り上げた。それは空に吸い込まれてしまうんじゃないか、と言うほど高く、高く上がり。そしてゆっくりと下降する。微妙に斜めに落ちていくボールは、やがて、ゴールの目の前に落ちて。
―バスッ
そこで構えていた洒井くんがジャンプして撃ったヘディングシュートは、見事にネットを揺らした。けれど気を抜くことはなく、すぐにセンターラインの後ろへと下がってディフェンスに構える。
その、瞳。
真っ直ぐで、何よりも鋭い、強い意思が揺らめいて見える瞳。
実際には何メートルも離れているから、そんなはっきりは見えない。それでも私の心臓はどくん、と大きく跳ねた。
教室では眠そうというか、ぼんやりしていることが多い。だけど今の洒井くんは、全然そんなことなかった。
心から、――格好いい、って思った。
それは顔立ちじゃなくて、真剣なその姿勢。分野に限らず、一生懸命な人は格好いいと思う。
サッカーが上手いとは、聞いていた。中学時代に全国制覇したとか、インターハイでも一年なのにスタメンに選ばれて活躍したとか。
だけど洒井くんのプレイは、上手いとか下手じゃなくて、なんだかすごい。テクニックだけで言えば、上級生にもっとすごい人はいると思う。だけど細かい技とがむしゃらなその動きは、人の目を奪う。息すら出来ず、ただただその動きを、追いかけていた。
何分経ったんだろう、ホイッスルの音が響き、ばらばらとグラウンドから出て行くだ男の子達。
ふ、と肩から力を抜いた洒井くんも、泥に汚れたユニフォームの裾で顔の汗を拭い、ドリンクを煽っている。その姿からも目が離せなくて、じっと見つめる。
「……!」
不意に。洒井くんが、私の方を見た、気がした。
慌ててカーテンの裏に隠れて、やり過ごす。十秒、二十秒、数えてもう一度彼を見た。すでにこちらに背を向けて、他の人と何か話している。興味をなくしたのか、元々視線を適当にやっただけだったのか。
分からないけれど、ほっとして、その横顔を見つめる。どうしても視線が、剥がせなかった。
――多分その時にはもう、落ちていた。洒井寛人という、存在に。